旧布施村の林業の歴史

1770年
松江大橋用材を調達する
1904年5月1日
島根県隠岐国に於ける町村制度に関する件の施行に伴い周吉郡布施村が発足
1928年
出雲大社大鳥居材調達
1969年4月1日
所属郡が隠岐郡に変更
2004年10月1日
西郷町・五箇村・都万村と合併し 隠岐の島町が発足。同日布施村廃止

 

林業立村の基礎

  • ***始祖の業績*** 
  • 造林始祖四氏  藤野 孫一  (1701~1784年)     船田 兵右衛門(1711~1763年)                  佐原 長兵衛(生年不詳~1802年)   長田 新六  (1702~1784年)  
  •  布施村の造林業は1719年に藤野孫一の主唱に応じて、船田兵衛門・長田新六・佐原長兵衛の協力を得て私有林として創始されたと言われている。藤野孫一が青年となる頃、周吉郡湊村(元隠岐の島町湊)の西明寺の僧について学問修行をしたが、通学の途にある元屋村の老医師・原玄琢とは交情が厚かった。玄琢はすでに杉の植栽については好結果を確信していたが、老齢の為、自らは実施が出来なかった。たまたま孫一がを訊ね、玄琢は確信を以って杉や檜の植栽を奨めた (1716年)。勿論これは緊急即効の対策ではないが百年の大計として、貧困の除去を示唆したものである。当時孫一は 弱冠(男性の20歳)にも達しない夢多い青年であった。
  •  そしてこの事業を推進するために同志を求めこれに応じた、船田・佐原・長田の協賛を得ることが出来た。   (1719年)ついで孫一は37歳ころの事、伊勢参拝を兼ねて吉野林業地を視察し、吉野の林業を観て驚愕し、品種改良の要を感じた。よって吉野の杉種子を買って帰り、これを育苗し吉野系の杉を植栽した。
  •  四氏の辛苦も村民の貧苦もしばらくは続いたがその後樹齢も五〇年に達しようとしていたので、これを伐採し 、販売して巨利を博する成果を挙げた。これを見聞した村民は競って植林札賛に転向し、これに従事する者が続出し林業立村の基礎を強固にした。                                        <布施村の林業 竹谷素信氏著から抜粋しました>
  •                    
  • 藤野 孫一の末裔の藤野庄衛門の遺言状(各箇所省略有)
  • 隠岐植杉の原因を聞くに布施村は田地なし、稲作不成にて、村民貧窮に成り行き米を求めるにも 元屋中村辺りへ行きて実に困難な事である。先祖孫一と云う者ありて、元屋村三水医師・原玄琢と云う人にある時、曰く布施村には田地無し稲作なき所故、元来貧村に成り行き、村民其渡世に難渋なることを見に忍びず・・・如何にして貧民を富貴に成行・・・医師玄琢は曰く、杉を野山に多数植え広めたならば三,四〇年を経たならば大木となり其の時伐伐りとって売り場へ持ち出したならば金銭となり村民渡世の助になると・・・更に玄琢は隠岐国は実に狭き島国なれども他国は広く 高大なる故売り場に困る事は無きだと・・・孫一は大いに感心して直ちに布施村に帰り親族なる ものと熟一申し合わせ、杉苗を育てた。その後時は経ち 杉の木は金銭となり渡世の助け不少大 に祝び其功徳村内は勿論、他村迄に及ぼす様になり、後世の人益々尽かす・・・        後世の子孫、原玄琢・藤野孫一の厚恩を忘失する事なかれ。
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  • スーパーバイザー 原 玄琢 
  • 玄琢は寛永8年に元屋村下元屋に生まれた。屋号を三水(さみず)と言い、庄屋職の家柄で所有の土地は田畑・林野・海岸にいたる付近一帯を占め、地名に三水というのがあり、村内での名家であった。医師を志して京都に遊学したと伝えられているが、詳細は分からない。京都方面に滞在中に、吉野・大峯・伊勢・熊野方面を巡ったという。彼の家筋は元来山伏であり、医療については自負していたし、山伏の本場に関しては慣れをもっていたのであろう。吉野巡遊の際に植林の知識を見聞した。帰国後に藤野孫一の望みを託し、造林を実現させている。明治29年布施村の南谷林道入口に建てられた石碑にも「元屋村医師原玄琢・・・」と冒頭に刻まれている。また元屋村入口に玄琢の碑が建っており、「隠岐造林の・・・」功績を称えている。                                  <布施の山伏から   竹谷素信氏著から抜粋しました>