夢かうつつか軽いキス

授業が終われば、待ちに待った彼との時間。
普通科校舎を抜けて渡り廊下を足早に急ぎながら、音楽科棟の裏にある練習室を目指す。本当は走りたいんだけど、ヴァイオリンを傷めちゃうからじっと我慢して、できる限りの早足、早足・・・・・。
普通科校舎とは正反対だから、練習室に近い蓮くんの方が、たいてい先に来ていることが多い。

君の方が遠いいのだから、急がなくていい・・・ゆっくりで。君を待つ時間も楽しいのだから・・・。

彼はそう言ってくれるけど、早く会いたいから、やっぱり急ぎたいじゃない。

でもこの少し遠い距離って嫌いじゃないの。それは、あなたに会うまでの心の準備の時間だから。
何をしているんだろう・・・もう来ているのかな。どんな顔で会おうか、会ったらまず何を言おうか・・・。
ウキウキして、わくわくして。溢れそうになる想いが胸いっぱいに高鳴ってくるんだもの。

そう・・・だからきっと、会えた途端に、ポンとはちきれてしまうのかも知れないね。




あれ、蓮くんが眠ってる・・・・。


予約していた練習室のドアをノックするけれど、中からは返事が返ってこなくて、ドアにはめ込まれた窓ガラスから見える範囲にも彼の姿は無かった。まだ来ていないのかな? 
そう思って練習室の中に入れば、窓辺に持ってきた椅子に座り、出窓に頬杖を付きながら、壁にもたれかかるように眠っていた。譜読みの途中だったのか、膝の上に楽譜を乗せたまま、瞳は閉じられて。


蓮くんが眠っているなんて珍しい。もしかして待ちくたびれちゃったのかな? 
う〜ん、でもそれは無いよね。いつもは先に練習している筈だし、きっと疲れているのかもしれない。
冬の寒さを束の間忘れさせてくれる暖かい日差しに、つい負けてうたたね・・・そんな感じがした。


目線を合わすように屈めば、あどけない穏やかな寝顔。伏せられた双眸に長い睫毛が影を落とし、さらさらの髪の毛が額や頬に、少しだけ乱れるように掛かっている。形の良い柔らかそうな唇からは、甘く静かな寝息がこぼれていた。


どうしよう・・・眺めているだけで、ドキドキしてきちゃうよ。


ハッと我に返り、無意識に頬へと伸ばしかけていた自分の手を、弾かれたように慌てて戻した。
どうやら眠っている顔には、自然と手を伸ばしたくなるみたい。何だか蓮くんの気持が、ちょっとだけ分かった気がした。私が眠っている時に、いつも彼の手が頬を包んでいるような気がしていたのは、夢じゃなかったんだ。そう思ったら、急に顔に熱さが込み上げてきてしまった。



でも良く見ると、蓮くんの唇が少しかさついているように見える。冬だから乾燥しているんだろうけれど、せっかく綺麗なのにもったいないよ。そう思って制服のポケットから取り出したのは、小さなグリーン容器に入った指で塗るタイプのリップクリーム。ミントの香りと、すっと染み込むメントールの爽やかさがお気に入りのリップクリームなの。指先で蓋を開けそれを持ったまま、小指の先にちょこんとクリームをつけた。


甘くないから、蓮くんにも平気かな。
それに眠っているから・・・いいよね?


パパッツと目の前で2〜3度手を振って、起きる気配の無い事を確認しつつ。顔を近づけてクリームを付けた小指の先を、そっと彼の唇に置いた。下唇から上唇へと・・・・。かさつきを癒すように、そして指先に吸い付く柔らかさを感じながら、ゆっくりとなぞってゆく。


「これで良し・・・っと」


リップクリームをポケットに仕舞ながら、潤いが戻ってほんのり艶光る月森の唇を眺めて、香穂子は実に満足そうな笑顔を浮かべた。そして、瞳を閉じたままの月森を暫く見詰めていたものの、何かを思いついたように一瞬瞳を輝かせ、再び顔を近づけていった。


ふわりと重なる、互いの唇。
ほんの一瞬だけ、触れるだけのキスを。


「うん! 潤ったぞ!」


最後の仕上げまでしっかりとね、ちゃんと潤ったかどうかの確認も。
蓮くんの唇だけじゃなくて、ついでに私の唇と心まで一緒に潤っちゃったよ。
さて、寝ている彼を起こさないように、私も譜読みでもしようかな。
唇に視線を注いだまま、後ろに手を組みつつ身体を起こす。浮き立つ心のまま鼻歌を口ずさみながら、くるりと向きを変えたところでハタと立ち止まった。あれ、そういえば・・・・・。


「いっけな〜い、教室に楽譜置いてきちゃった。ちょっと取りに戻るね〜!」


香穂子は眠っている月森に語りかけると、バタバタっと慌しく賑やかな足音を引き連れて、練習室を駆け出していった。








パタンと扉が閉まる音を聞くと、静けさの戻った練習室で月森が目を覚ました。数度瞼を震わせて、ゆっくりと瞳を開いてゆく。部屋をそっと見渡して、中に香穂子の気配が無い事を確認すると・・・。


「・・・・・・っ!!」


口元を手で覆うと、顔が瞬く間に真っ赤に染まっていった。まるで、今にも火を噴きそうな程に。


「俺に、どうしろと言うんだ・・・・・・・」


激しく高鳴る鼓動を抑えようとして大きく溜息を吐くと、そんな呟きまでもが一緒に溢れてしまう。
本当は香穂子がこの練習室に入ってきた時から目が覚めて、気が付いていた。
でも、起き出すタイミングが掴めなくて・・・それがまさか、こんな事になるとは思ってもみなかった。

もし俺が起きていたなら、恥ずかしがり屋の君はやっていたかどうか。いや・・・無かっただろうな。
でもこんな可愛らしい悪戯なら眠っている時だけでなく、いつでもして欲しいと俺は思うのに。
ゆっくりと這われる指先、そして触れるだけの優しいキス・・・・。

よくぞあのまま耐えた自分を、褒めてやりたいとも思う。


指先で唇に触れれば、先程香穂子が俺に塗ってくれたリップクリームが付いている。かさついた嫌な感じが無くなって、しっとりと心地良さを取り戻した感じだ。これは彼女がいつも使っている、お気に入りだどいう物だろう。君の唇に触れるたびに同じ涼やかな香りがするから、すぐ分かった。


瞳を閉じて唇に残る香りと感触に浸れば、まるで香穂子の唇が、ずっと俺に触れているようだ。まるで寒さを忘れさせてくれる小春日和のように、この窓から降り注ぐ日差しのような温かさが、いつでも俺を癒し包んでくれるような感覚。唇からゆっくりと身体全体に染み渡る地良さに身を委ねると、唇に触れたまま、柔らかく頬を和ませて微笑んだ。


やがて息を切らせながら、元気良く戻って来るだろう君を思う。
どうしようか・・・このまま寝たふりをしたままでいようか。
それとも、気が付かなかった事にしてしまおうか。ヴァイオリンを奏でて、君を待ちながら。