指輪の跡

広く明るいリビンクの天井まである大きな窓から差し込む太陽の光りと、目に喜びを与えてくれる窓の向こう側に広がる芝生や緑の木々、そして香穂子が丹精込めて育てている庭の花たち。

窓辺に置かれたグランドピアノは、狭さを感じさせる事が無く逆に小さく見えるようで。身も心も浄化されるような透明感が吹き渡るここに君と集えば、いつでも二人だけの心地良い時間と空間を作り出してくれるんだ。
共にヴァイオリンを奏でたり、互いの演奏を聞き合うミニコンサートになる事もあるけれど、今日は香穂子の希望で彼女がヴァイオリンを弾き、俺がピアノで彼女の伴奏を奏でる。


俺が座るピアノ椅子の隣でフローリングの床にペタリと座り、ヴァイオリンをケースから出して用意を始める香穂子。奏でるピアノの音色が甘く優しいメロディーを響かせて注ぐ俺の瞳と共に彼女を包み込んでゆくと、曲に合わせてメロディーを口ずさみながら楽しげに肩を揺らしている。ふと見上げた視線が見下ろす俺と絡めば頬を綻ばせて笑みを浮かべ、香穂子が向ける表情や仕草一つで俺の旋律が色や温かさを変えていく・・・まるでオーケストラを操る指揮者のように。



「ヴァイオリンを用意する筈だったのに、蓮の演奏が素敵だから夢中になって聞き入ちゃったよ。ちょと待っててね、指輪を反対側の手にはめかえるから」


床にペタリと座ったまま俺を満面の笑みで見上げて、ブラボーと嬉しそうにパチパチと拍手をくれた香穂子は、ちょっと待っててねとそう言うと、左手にはめた結婚指輪を指で摘んで緩めながら外してゆく。
彼女の左手薬指にはめられているのは、俺と揃いの結婚指輪。

俺はヴァイオリニストとして日々楽器を奏でる関係で常に右手の薬指にはめているけれども、彼女はヴァイオリンを弾く時にだけ、弦を押さえる左手運指の邪魔にならないようにと右手の薬指にはめ換えるのだ。


しかし香穂子は薬指から指輪を外したものの、リングを右手の親指と人差し指で摘み持ったまま、じっと外した指の甲を見つめている。左手に視線を注いでいるかと思えばリングを持っている右手を傾け、今度は右手側の薬指をしげしげと眺めだし・・・一体どうしたのだろうか?


俺は再び奏でようとピアノの鍵盤に置いていた手を離し、椅子に座ったままくるりと香穂子の方へ身体を向けると、膝に手をつき支えるようにしながら身を乗り出して、傍らで座り込む彼女の手元を真上から覗き込んだ。


「香穂子、指が・・・どうかしたのか?」
「指輪の跡が付いてるな・・・・って見てたんだよ」
「跡? 毎日外すことなく、ずっとつけているからだろうな」
「ふふっ・・・そうだよね。蓮はヴァイオリニストだから最初から・・・結婚式が終ってからはずっと左じゃなくて右手の薬指につけているけど、私はヴァイオリンを弾くときだけ右手にするじゃない。だからね、両方の指に指輪の跡が付いているんだよ」


ほら見て!とそう言ってすっと立ち上がるとピアノの前に座る俺に歩み寄り、隣へちょこんと腰を降ろして寄り添うように身体を寄せてくる。俺の目の前に差し出してきた白くしなやかな両手薬指には、確かに赤いリングの跡。
それはリングの下にもう一つ見えないリングをはめているような・・・想いが刻印となって赤く刻まれたような。


こっちの左手がいつも指輪をはめている方で、そしてこっちの右手がヴァイオリンを弾いている時のだよと。
彼女の言葉を聞きながら両手を眺めて、香穂子が自分の指を眺めていた訳がやっと分かった。
なるほど・・・そういう事だったのか、左右とも同じなようでいて良く見れば少し違うのだ。


「同じ指輪の跡でも、左と右の指では付き方が違うんだな。左の方が濃くはっきりついているように見える。先程香穂子が眺めていたのは、この事だったのか?」
「やっぱり蓮もそう思う? 私もさっきそれに気付いたんだけど、すごく嬉しくなっちゃったの」


肩を預けてもたれかかりながらすぐ間近で俺を見上げ、どうしてだか分かる?と俺を試すように・・・けれどもどこか甘えるような香穂子に、もちろん分かるさとそう言って大きな瞳を上から覆うように覗き込む。


「香穂子が左につける指輪は本来の結婚指輪の形・・・つまり俺の妻でいること。そして右手の指輪の跡はヴァイオリニストの証という事だろう? 今でも音楽の良きライバルであると同時に・・・いやそれ以上に君は俺の最も大切な人だから」 
「そうなの。右にもちゃんと跡があるのはヴァイオリンも頑張ってるって事なんだけど、でも今の私は、蓮の奥さんでいる時間の方が遥かに長いって事なんだよ。大好きで大切な人の側にずっと一緒にいられて、蓮の為にヴァイオリンが奏でられる・・・。ずっと夢見ていた日々の証なんだと思ったら、胸がキュンとしてきちゃったの」


指輪の跡は、夢を叶えた幸せの証なのだと。
言葉のそのまま表すように幸せそうな笑みを浮かべる香穂子に、俺も笑みを返して額にそっとキスを贈ると、左手を取って赤く残った薬指の甲にも同じよう唇を寄せる・・・・ゆっくりと優しく、君を愛しているよと想いを込めて。


触れる手に熱を感じ始めたと思って視線を上げれば、頬や耳まで顔を真っ赤に染めたまま息を詰めて固まっていて。俺は愛らしさから込み上げた小さな笑いをふわりと柔らかさにかえて微笑みかけると、指に持ったままだった香穂子の指輪を受け取った。


今度はヴァイオリンを弾くためにはめ変える筈だった右手を取り、こちらの薬指にも同じようにキスをして、結婚式でもやったような指輪の交換の儀式のように彼女の薬指に恭しくそっとリングをはめていく。
右手の薬指に指輪がはまると、手を重ね合わせて指輪ごとしっかり胸に抱き締めて。

ありがとう・・・・と、俺を見上げてはにかんだ笑みを浮かべた。
俺の右手にある指輪と、心の中にも温かな光りを灯しながら。



「ねぇ、蓮の指輪の下はどうなってるの?」
「俺か? ずっとはめたままだから、今まで見た事が無いんだ。どうなっているだろうか・・・では外してみよう」


自分のが分かると俺のも気になるようで、興味深そうに身を乗り出し俺の右手に視線を注いでくる。
そういえば今まで外す機会も必要も無かったから、俺もどうなっているか分からなんだ。
君のように、俺にも指輪の跡があるのだろうか・・・幸せの跡だという想いの証が。


逸る気持と期待と不安・・・様々な想いを胸に秘めて。
はめる時よりも緊張しながら右手の指輪を緩めると、ゆっくり第二関節あたりまでずらしてゆき、俺だけでなく香穂子にも見えるように披露した。


「うわ〜っ! 蓮の指にもくっきりだね」


嬉しそうな声が耳に届くと、やがて現われた俺の指輪の下には香穂子の左手と同じかそれ以上にくっきりと残る赤い指輪の跡。大きな瞳を更に輝かせながら俺の手を包んで自分の胸元へ引寄せると、大切な宝物を触る時のように愛しそうに、俺の指輪の跡を撫でさすりながら瞳を緩めていた。

ホッ安心すると気持にやや遅れて嬉しさがじんわり込み上げてくるのだが、俺よりもなぜか彼女の方がはしゃいでいるようだ。だが心の中に湧き上がるものよりも、自分の事のように喜んでくれる君の想いの方がとても嬉しくてくすぐったくて・・・目を細めずにはいられない程幸せだと思える。


「何も跡が無い左の薬指と、くっきりはっきりの右手薬指。蓮がプロのヴァイオリニストとして頑張ってくれてこのお家を支えているのと、私の大切な旦那様でいてくれる証だよ」
「夢を叶えるだけで終わらせずに、君と過ごす日々と想いを少しずつ積み重ねていく。大きく深くなった分だけ、指に付く跡もはっきりと濃くなっていくのだろう、香穂子との大切な繋がりの証として」
「私たち指輪だけじゃなくて、指輪が残す跡も同じだね。見えないとこでもちゃんと蓮と私が繋がっているみたいで、嬉しいな」
「俺と君の指に残るリングの跡・・・。もしも俺と君を互いに繋ぐ赤い糸があるのなら、きっとこのようなものかも知れないな。糸の先の結び目は俺の指と君の指に、赤いリングの跡として」



絡み合う視線も微笑も、指に残る跡のように赤く甘さと熱さが増してゆけば、指輪をはめた俺と君の手と手までもが両手共に絡み繋ぎあって。触れ合うほどの近さだった互いの唇が自然に近づき、一つに重なる。






奏でる優しい響きと旋律は、笑顔と共に語られる言葉のように。
君の想いが空気を震わせて、音色と共に俺の心へと真っ直ぐ届く・・・俺を心の内側らから温めて、大きな安らぎを与えてくれるんだ。


俺の想いも君へ届いてるだろうか?
そう思って心と身体を添わせるようにピアノの伴奏で君に寄り添いながら譜面から視線を上げれば、俺を見つめながらヴァイオリンを奏でる君の笑みが、羽ばたく音色のように甘く深まった。




リビングに差し込む清らかな陽射しを受けて、緩やかなボウイングが空を切るたびに香穂子の右手にはめられたプラチナの結婚指輪が一際眩しく光り輝き、その輝きを受けて鍵盤に指を滑らす俺の右手の指輪も受け止めるように光りを放つ。

想いの分だけ今日もまた君と俺のリングの下に、揃いの跡が付くのだろう。
少しずつすこしずつ、ゆっくりと・・・・。