海を越えた想い・前編

「どうしよう・・・緊張してきた・・・」


香穂子は化粧前に座り、すっかり準備の終わった鏡の中の自分をじっと見つめていた。
赤い髪に栄えるからと選んだのは、この日の為に新調したグリーンのドレス。髪は邪魔にならないように片側にまとめて金のリボンで束ねた。耳には金色の小振りなイヤリング。ドレスに合わせて選んだ口紅もバッチリだ。
そういえば、蓮くんもこんな組み合わせ好きだったよね、と高校の時の学内コンクールを思い出して、自然と口元に笑みが浮かぶ。自分にとっての勝負時であることには変わりないから、今日の衣装は好きなもので・・・というよりちょっと験を担いてみたりしたのだ。


廊下や舞台袖の慌ただしさがどうにも落ち着かなくて、出番が来るまでは控え室に当てられた楽屋に引っ込むことにした。楽屋にあるモニターTVからは、ステージが客席からの視点でリアルタイムで映しだされており、ちょうど主催者の挨拶が行われている。状況が分かる点での緊張度は楽屋も同じだけど、静かで落ち着ける分だけ他よりまだいい。


手元のパンフレットと本日の出場者リストにチラリと目を向けると、香穂子は重い顔つきになって深い溜息を吐いた。余計に緊張するからやっぱり見なきゃ良かったと、自分の目の届かないように荷物の下に隠す。


自分の出番は最後から3番目・・・今始まったばかりだから時間はまだ大分ある。胃に穴が空きそうとはまさにこの事だ、最初に終わってしまった方がどれだけ後が楽だろうかと思う。この緊張感をあとどれだけ耐えなければならないのか。蓮くんがいたら「緊張をコントロールするのも技術のうちだ」と、怒られてしまうかもしれない。
腕を組みながら眉をしかめて言う姿が目に浮かんで、思わずクスッと笑ってしまった。


出場する顔ぶれは誰もが皆、蓮くんみたく小さい頃からヴァイオリンに携わってきた人達。
それに比べれば自分のスタートは遙かに遅く、背負っているものも、彼ら彼女らよりもずっと軽いものだ。
ポッと出の自分がどこまで張り合えるのか予想もつかないけれど、身軽な分、自分の好きなように音楽をさせてもらおう。そう、まずは何事も経験なのだと自分に言い聞かせた。


でも負けないよ・・・いっぱい練習したもんね。


傍らに準備した愛器を手に取り、愛おしむように本体を優しく撫でていく。
高校の時、魔法のヴァイオリンが壊れた後にリリから託された本物のヴァイオリン。楽しいことも嬉しいことも、辛いことも悲しいことも、今まで一緒に乗り越えてきた大切な相棒。
今の自分があるのはこのヴァイオリンのお陰といってもいい。何より蓮くんと出会えたのだから・・・。


「一緒に頑張ろうね。海を越えて蓮くんに音色を届けるんだから、いつもより気合い入れるよ〜」


香穂子は大切な相棒に笑顔で語りかけて、そっと元の場所に楽器を置いた。


それに・・・・・・。


蓮くんみたくプロのヴァイオリニストになるって決めたわけじゃないけれど、一人でいる間に“私はこんなに頑張ったんだよ”っていう形が欲しかったから。前とは違う一回り大きくなった自分を・・・自信を持って誇れる私になって彼に会いたいと思ったのだ。だから絶対今日は頑張ってみせる。


なのに・・・こんな時に側にいて欲しい人は、今ここにはいない。


心配をかけるかも、負担をかけるかも・・・そう思って連絡するのをずっと躊躇っていた。言ったら戻って来るとも言いかねないし。嬉しいけれども、もし結果が駄目だったら? 
そう考えるうちになかなか連絡するタイミングがつかず、気付けばあっという間にコンクール前日。迷って考えた末にようやく昨夜になって連絡する決心がついた。結果だけ連絡して驚かそうというのもありかなと思ったけれど、やはり一番聞いて欲しくて、誰よりも応援して欲しいのは蓮くんだから。


壁に掛かった時計を見て時差を計算し、この時間ならきっと家にいるはずだと電話の受話器を握りしめた。
順調にボタンを押し掛けた指が次第にゆっくりになり、途中でピタリと止まってしまい・・・・。結局、握った受話器を置いて電話を切る始末。今まで電話で何度も話しているのに、何を自分は緊張して躊躇っているのか・・・。
そんな事を数度も繰り返した後に、メールで送ろうと部屋に向かっのだった。


本当は声を聞きたかったけれども、怖くて・・・勇気が出なかった。
大切な演奏の前に、自分がどうなってしまうか分からなかったから・・・。
もしも心が揺れて無様な演奏をしたら、それこそ彼に合わせる顔がない。
だから、昨日声を聞かなくて良かったのかも知れないと思う。せっかく高まっているテンションと緊張感が無くなってしまいそうだったし、何よりもきっと彼に甘えてしまったかもしれない。


でも堪えきれなくて、ちょっと我が儘いいたくて、メールの最後にポツリと呟いてしまった。
蓮くん何て思っただろう?
思えばあんな事、言うのも書いたの初めてかも知れない。
大舞台を前にナーバスになっていたのかなと、心の底からの本当の気持ちとはいえ少しだけ自己嫌悪に陥ってしまう。心配してほしかったけれど、決して彼を困らせたい訳ではないのに。


朝出かける前にメールをチェックしたら、蓮くんから返事が届いてた・・・「がんばれ」って。
この胸に刻んだその言葉が、今日の私のお守り。
どんな有名な神社やお寺のものよりも、私限定で効果があるんだよ。
一字一句、胸に刻んできた蓮くんの言葉を想い返すと、緊張していた心がゆっくり解けて落ち着いてくるのがわかる。力を与えてくれるその温かさを感じ取るように、胸に手を当てた。


『・・・君ならきっと良い演奏ができる、自分を信じて。今からでは日本に戻ることも出来ないけれど、ここから君を応援しているよ・・・』


そういえば蓮くん、私の最後の一言については何も言ってこなかった。
胸に当てた手をぐっと握りしめて、問いかけるように鏡の中の自分をじっと見つめた。
・・・なぜそれを本番直前の今になって、気が付いてしまったのだろう。
つい先程まではデートの前のように嬉しそうな顔をしていたのに・・・なんて顔をしているのか。


自分が思っているほど蓮くんは寂しくないのかと、時々不安になってしまう。
言葉で言ってくれなきゃ分からないものもあるんだよ・・・会えないならなおさら。


やはり連絡しなきゃ良かったかもしれない。
香穂子は椅子の背もたれに寄りかかり、はぁ〜っと大きく溜息を吐いた。


「あれ・・・・?」


ふと顔を上げた。
音が聞こえる・・・ヴァイオリンの音が。
寄りかかっていた背もたれから身体を起こし、微かに聞こえてくる音に意識を集中して耳を澄ます。


この曲は・・・まさか・・・。
懐かしい、聞き覚えのある曲が聞こえる。
椅子から立ち上がり、慌てて楽屋のモニターに駆け寄って見るが、画面の中の演奏者の曲とは違うようだ。
楽屋を見渡してもこの部屋には自分しかいない。各楽屋は完全防音の設備が整っているから、他の部屋から聞こえてくるのはあり得ないはず。
では一体どこから・・・。


耳から聞こえると言うより、心の中へ直接響くように伝わってくる。心を震わせて熱く広がるようにじんわりと私の中を満たしてくる感覚は、音色に包まれると言うよりも、温かい腕の中に抱かれているような心地良さを感じる。


甘く優しく語りかけるような音色・・・この音色を奏でるのは世界でたった一人。
忘れるわけがない。大好きな音色・・・大好きで何よりも一番大切な人。
ここには・・・日本にはいないはずなのに!?


外から聞こえる?


いてもたってもいられず楽屋を飛び出すと、少しだけ届く音色が大きくなったように感じた。駆け出そうと足を踏み出したものの、ドレスの長い裾が邪魔して足裁きが上手くいかない。滅多に着慣れないドレスの為、危うく転びそうになるのを何とか堪えて舌打ちする。


「も〜走りにくいったら!」


え〜い構うもんかと裾を両手でたくし上げると、香穂子は響きの強い方へと引き寄せられるように駆け出した。







カツカツとヒールの高い足音が廊下に木霊する。
ドレスの姿のまま裾をたくし上げて舞台裏を駆け抜ける香穂子を、すれ違う出演者や関係者が驚いて振り向くのも気にせず、音色を求めてひたすら廊下を走った。


呼ばれている気がする・・・・。この音色が私を呼んでいる・・・。


複雑な舞台裏を、どこをどう走ってきたのか分からないけれど、音色が手を引くように導いてくれている。目の前に見える薄暗い階段を駆け上がると、突き当たりにダークグレーに鈍く光るスチール製の扉が待ちかまえていた。扉の頭上に非常口を表示する緑のランプがある所を見ると、この先にあるのは非常階段か、屋上か。随分高いところまで来たから恐らく屋上かもしれない。


この向こうだ・・・。


近づく連れて大きく共鳴する心が、聞こえる音色の中心はこの先だと伝えてくる。期待と不安で今にもはち切れそうな心と切れた息を整えてから、扉のノブに手をかけた。もう一度大きく深呼吸して、重い扉を力いっぱい押し開くと、間から溢れた光が暗闇に慣れた目を激しく眩ませ、思わず眼を瞑って顔を背ける。それでも少しずつ目を開きながら、踏み留まろうと迷う心を振り切るかのように、止まった手に再度力を込めた。


まるで自分の心の扉を開くように・・・。
重い金属音が鳴り響き、ゆっくり扉が開かれた。







「愛の挨拶だ・・・」


溢れる太陽の光と共に確かに聞こえるこの音色は、蓮くんのもの。
屋上の端、ちょうど視線の先の空と屋上の境目に佇むようにヴァイオリンを奏でている人がいた。
男の人・・・?まさか・・・。
逆光で良くわからないけれども、この音色の主を自分が間違えるはずがない。


香穂子はゆっくりと、一歩一歩確かめるように踏みしめながら人影に近づいていった。


「蓮くん・・・なの?」


あと数歩という所まで近づき、香穂子はピタリと歩みを止めた。
目の前にいるのは紛れもなく月森だった。
ただし本物ではなく、蜃気楼のように・・・ホログラム映像のように淡く浮かび上がった幻。
彼がいる部分の空間だけが透き通ったスクリーンのように切り取られ、香穂子の前に映しだされている。


大きな川の前に佇み、川に向かってヴァイオリンを奏でている・・・どこだろう見たことも無い川だ。
ガイドブックで見るような歴史あるヨーロッパの街並みや、赤く色づき始めた森に囲まれている。恐らく蓮くんのいる、ドイツの街なのだ。


夢を見ているのだろうか・・・。
それにしては顔や姿ががいつもより大人びているように思える。何よりも彼の背後で大空を飛び交う鳥達や、川を下るクルージング船が確かに動いている様子が、あまりにもリアル過ぎるではないか。
空間を飛び越えて自分の身がドイツへ飛んでったのかと、本当に彼が駆けつけてきてくれたのかと・・・今いる場所をそう錯覚してしまう程に。
何よりも“愛の挨拶”は、確かにこの幻影からはっきりと聞こえてくるのだから。


香穂子は、はっと気付いた。
高校の時の学内コンクール、最後のセレクションの後に起こした自分の奇跡が鮮やかに甦る。
もしや今まさに同じ時間、海を隔てた街で彼が実際に曲を奏でているのかも知れない。
強い想いがこもった音色が起こす奇跡・・・聞こえるはずの無い場所にいた彼に伝わった自分の音色。
その時の奇跡以上のものを月森が起こしているのだと。
彼が熱い想いと共に音色を届ける先が、紛れもなく自分なのだという事も・・・。


心の中に直接響くように聞こえる音色が彼の想いを伝え、熱さを生み出す。心の奥底から沸き上がった温かさが胸をいっぱいに満たし、体中全体に広がっていくのを感じる。
苦しいほどに嬉しさで胸が詰まってしまい、せっかくの光景が次第に涙で滲んでしまう。


久しぶりに見たよ・・・優しくて穏やかにヴァイオリンを奏でる蓮くん。
ちょっと痩せたかな?
精悍さが増して、大人っぽくなったみたい。前よりもずっと格好良くなったかも。
演奏中だから瞳を閉じていのが残念だけれど、できれば甘く揺らめく瞳で微笑む彼が見たいと思う。


甘く優しく語りかける音色の心地よさに酔いながら、香穂子はじっと月森を見つめていた。腕に抱かれるような温かさに包み込まれながら・・・このままずっと浸っていたい。


「えっ・・・・そんな!!」


甘い気分に浸っていた香穂子は、ハッと我に返った。
陽炎のように一瞬揺らめき、ゆっくりと景色と演奏している月森のが消え始めているではないか。キラキラと輝く光を放ちながら透き通るように、音色と一緒に空へ溶け込んでゆく。


いけない・・・曲が終わってしまう! きっと彼も消えてしまう!


ドイツの街並みが少しずつ、殺風景な元の屋上の景気に変わっていくのを、凍る思い出見つめていた。
川やクラシックな建物が消えてゆき、はっきりと見えていた月森の姿までが徐々に消え始めている。
このまま曲が終わらなければいいのにと、強く願う。
彼には私の姿が見えていないのだろうか、声が届かないのだろうか。
今目の前に起こっている奇跡を・・・私の気持ちを、あなたに今すぐ伝えたいのに!


緩やかにラストを歌い上げる高く透き通る音色が、青空高く吸い込まれていく。
弦と空気が甘く優しい余韻に震える中、弓が大きく弧を描いて降ろされた。


「あっ・・蓮くん、待って!・・・行かないで!」


目の前にいるのは幻。
分かっていても駆け寄らずにいられなかった。
蜃気楼の中に駆け込んだら海の向こうにいるあなたの元へ、たった今ヴァイオリンを奏でていたその場に行けるのではと本気で思った。あるいは引き留められるのかも・・・と。


もうすぐだ・・・!


なのに伸ばした手は虚しくすり抜け、掴むのは空気だけ。
冷たい水を浴びたように襲いかかる、虚しさと絶望。
頭の片隅では理解していた現実を改めて突きつけられ、行き場の無くなった手を呆然と見つめた。
目の前にいるのに、水に浮かんだ月を掴むように触れることさえ出来ないもどかしさに狂わされてしまいそうだ。どうして近づけば近づくほど、あなたは遠のいてしまうのだろう。


泣くことさえ暫く忘れていた瞳から止めどなく溢れる涙が、乾いた心に染み渡っていく。
願い叶わず無情にも輝きを放ちながら消えてゆく姿を、ただ見守る事しか出来なかった。
今手元にヴァイオリンがあったなら、あなたを引き留めることも、私の姿を飛ばすことも出来るのだろうか。


「蓮くん・・・!?」


楽器を降ろした蓮くんが、こちらを向いている気がする・・・私を見ている!?


「私が見えるの? 声が聞こえるの!?」


声を限りに叫ぶと、今にも消えようとしている月森が、困ったように香穂子を見つめてふわりと微笑んだ。
最後に消える瞬間、唇に温かく優しいものを残して・・・・・・。








遙か地上を行き交う車や街の雑踏を遠くに聞きながら、ただコンクリートが広がる殺風景な屋上に佇んでいた。
風が吹き抜ける度にドレスの裾が軽やかにはためき、なぶられる髪がさわさわと揺れる。
高い場所なのに吹き抜ける風が穏やかで優しいのは、先程までの名残だろうかとさえ思ってしまう。


蓮くんが私の唇に残した温かいもの・・・あれは、触れるだけの優しいキス。
見える姿は幻だったのに、触れたリアルな感触を思い出すようにそっと唇に手を這わせた。
もう片方の手の中に掴んだままの空気は、甘い音色と想いが宿っていて温かい。
想いを逃がさないように、灯った火を消さないようにと、両手を手を胸に当ててしっかりと閉じ込めた。
夢ではない・・・この温かさが確かな証。


「届いたよ・・・蓮くん」


『夢の中だけでなく、本物の蓮くんに会いたい・・・』
自分がメールの最後に漏らした言葉、本当の気持ち。
これがきっと、言葉に出来なかった彼の答えなのだ。不器用だけど、真摯で真っ直ぐで・・・だからこそ私の心をいつも熱く震わせてくれる。本物じゃ無かったけれど、夢の中以上のあなたに会えた・・・。



そろそろ本番だ、控え室に戻らなければ。
香穂子は残った気配を感じ取るように、月森が消えてしまった場所を見つめたまま、数歩後ろ向きに歩いた。
ピタリと止まり、閉じてしまった空間の向こうにまだいるであろう愛しい人に向かって、精一杯の笑顔を向けた。


「ありがとう・・・蓮くん。大好きだよ」


クルリと背を向けると、振り返ることなく屋上を後にした。
迷いの去った瞳と凛とした背筋から輝きを解き放ちながら・・・これから始まる舞台へ戻るために。