途中まで一緒に

深く腰を下ろしたリビングのソファーに背を預けながら本を読んでいると、テーブルを挟んで向かい側のソファーから、小さな唸り声が聞こえてくる。本を構えたまま視線だけを上げてそっと伺えば、香穂子が大きなクッションを抱きかかえながら、ソファーの上に膝を折って丸くなっていた。

どこかつまらなそうに頬を膨らませて、暇を潰そうと振り子のようにゆったりと身体を左右に揺らしてみたり、時にはそのままコロリと倒れこんでみたり・・・。

せっかくの休日なのに、朝から降り続く雨のせいで何処へも出かけられないから、拗ねているのだろうか。

君と一緒に過ごす幸せな日々の中で、俺たちの休日はとても大切な日だ。
慌しく過ぎ去る日常にほんの一息の休符を入れて、出会った頃の俺たちに・・・いや、永遠の恋人同士に戻る時間なのだから。

持っていた本を閉じて傍らに置くと、もたれかかっていた背を起こし、俺には気付いていない様子の香穂子の顔をじっと見つめる。さて、君はいつ俺に気付いてくれるだろうかと・・・期待を込めた瞳と頬を緩ませたままで。


「香穂子・・・」
「・・・えっ!? よ、呼んだ?」
「あぁ呼んだ。随分と楽しそうだなと、思ったんだ」


ピタリと動きを止めるとクッションに埋めていた顔をパッと上げた。込み上げる笑いを堪えて笑みを向ける俺を見て、恥ずかしそうに手元のクッションを強く抱き締めると、彼女の頬にさっと朱が昇っていく。


「楽しいって・・・もう! 楽しいのは蓮の方でしょう? ほらっ、また私を眺めてクスクス笑ってる〜!」
「すまないな、でもその通りなんだ」
「久しぶりに二人でゆっくり過ごせるのに、雨でお出かけできないからつまらないって思ってたの。次の休日には何をしようかって、いろいろ考えていたんだよ。それなのに蓮はず〜っと本を読んでいて、私とお話してくれないし・・・ちょっと寂しい・・・・・・」
「ならば、これから出かけようか。雨も弱まってきたようだし、君さえ良ければだが」


窓の外の様子を伺えば、厚い雲に覆われ暗かった空に薄明かりが差し、音が聞こえるくらいに強かった雨も優しい糸のように煌いている。唇をすぼめて拗ねる仕草を見せる香穂子に微笑むと、君は瞳を輝かせながら持っていたクッションをポンと脇へ放り投げ、勢い良く立ち上がった。


「本当にいいの? 私、蓮と一緒にお出かけしたい!」
「ずっと家の中に籠っているのは、香穂子の性格に合わないだろう。気分転換に、外の空気を吸いに行こうか」
「じゃぁ、ちょっと待っててね。今すぐに着替えてくるから!」


嬉しそうに満面の笑みを湛えた香穂子は、パタパタと元気な足音を引き連れてリビングを駆け出していった。
ドアの外へ消えていく背を見送り、階段を駆け上る足音を遠くに聞きながら、頬を緩めずにはいられない。

君のいろいろな表情や仕草が、とても愛しいと思う。
元気良く楽しそうだったり、照れくさがっていたり、はしゃいでいたと思ったら急に拗ねてみたり・・・。
小さな一つ一つの中に、君らしさがたくさん詰まっている。俺をいつも優しい温かな気持にさせてくれるんだ。


きっとすぐに支度を整え終わり、駆け足でやってくるだろう。
ならば俺は玄関で、君が来るのを待つとしようか。

ソファー方立ち上がるともう一度だけ窓を振り返り、リビングを抜けて一足先に玄関へと向かった。





玄関の傘立てに置かれた俺の傘と、香穂子の傘。
取り出した二本を眺めているうちにふと思いついて、香穂子の分の傘だけを傘立てに戻した。

傘が二本だと俺の君の距離が遠くなってしまうから、傘は一本で充分だ。俺の傘は君と二人で入っても互いが濡れないようにと、少し大きめの物を選んであるから、身を寄せ合いながらゆっくりと歩いていけばいい。

月明かりに照らされた夜空のような・・・深い青色の傘を眺めながら、これからのひと時に想いを馳せていると、賑やかな足音と共に元気な香穂子の声が聞こえてきた。


「蓮〜お待たせ〜!」
「香穂子、早かったじゃ・・・・・・・っ!」


早かったじゃないか・・・と。
後ろを振り返りざまにそう声を掛けようとしたが、俺は驚きのあまり最後まで言葉を出す事が出来なかった。


「じゃ〜ん。雨のお出かけスタイルに変身完了! どう? これなら濡れても気にならないし平気でしょう? あとね、足元にはサンダルを履いていくの」
「・・・・・・よく、似合っている・・・」
「ふふっ、ありがとう!」


目を見開き固まる俺の目の前で、嬉しそうにはしゃぎながらくるりと一回転をしてみせる。どうかな?と、腕を広げ愛らしく首を傾けて披露する香穂子に、何とか一言それだけをやっとの思いで呟いた。
つい先程までは長めのスカートに、七分袖の薄いアンサンブルを着ていたのに、今の彼女の装いは・・・・・。


デニムのミニスカートからすらりと伸びた白い素足が、太腿から爪先まで惜しげもなく晒されており、身体にフィットしたタンクトップから伸びたしなやかな腕。しかもデザインなのか、襟ぐりが随分と深いように思えるのは気のせいか? 雨で髪が広がらないようにと、背におろしていた赤く長い髪はポニーテールに束ねられてるから、余計に目立つのかも知れない。


この装いの、あまりの違いは何なのだろうかと・・・俺は汗が伝うのを感じながら、ただ戸惑う事しか出来ず。
どちらかといえば雨の日というよりも、常夏の太陽の下に出かける装いに近いのではないだろうか。
まさに彼女の言うように「変身」という言葉がぴったりに思えた。


「その・・・少々、肌の露出部分が多いように思うのだが・・・」
「そうかな? 長いスカートだと裾が濡れちゃうし、足に絡んじゃうでしょう? どうせ足元が濡れるなら、最初から素足の方がいいかなと思ったの」
「しかし・・・その・・・寒くはないのか? 上着を一枚羽織ったらどうだろうか」
「大丈夫。袖が湿るとごわごわして気分が悪いし、蓮にピッタリくっついているから、きっと温かくて平気だよ!」
「な・・・ならば、いいのだが・・・・・・」


本当は良くないのだが、そう言ってしまう自分自身に苦笑を覚えてしまう。
彼女の言う事も正論なだけに、押されて言い返すことが出来ない・・・結局は香穂子に甘いのだ。
眉を寄せて深く考え込みながら、お願いだから気付いてくれと・・・必死に言葉無く訴える俺に、君は相変わらず無邪気な笑みを向けてくる。


俺だって半袖なんだ・・・。
素肌を触れ合わせながら君と腕を組んで歩く事に、一体どこまで平気でいられるだろうか。
それよりも、君が多くの視線を集め浴びたならば、俺はその場で耐えられるのだろうか・・・。


「あのね、ちょっと手伝って欲しんだけど、いいかな?」
「ど、どうした?」
「ネックレスを着けたいんだけど、焦ってるからなのか上手く金具がはまらないの・・・お願いできる? 蓮からもらった私の大切なお気に入りだから、どうしても着けて行きたいの」
「あぁ、別に構わないが・・・・・・」


先端に小さな星が三つ連なった、細いシルバーチェーンのネックレスを受け取ると、香穂子はいそいそと背を向けて俺の懐へ擦り寄ってくる。お願いしますと笑顔でそう言って、肩越しに見上げてきた。

それぞれの星に埋め込まれた透明な石がきらりと輝くそれは、まだ俺たちが高校生だった頃、初めて君の誕生日にプレゼントしたもの・・・俺にとっても思い出の品。その頃の俺に手が届くものだから、今にして思えばささやかで玩具のようなものだけど、君はずっと大切にしてくれている。
それがとても嬉しく思えて、胸の中に言いようの無い熱さが込み上げてきた。


微笑を返して前から抱き締めるように腕をまわし、両手に持ったネックレスの金具を首元に引き上げた。
すると香穂子がはめ易いようにと、首にかかっていた髪の束を掴んで前に除けてくれて白い項が露になる。
そのまま吸い付いてしまいたいような衝動を、瞳を閉じて深呼吸しながら宥めるものの、しかし首の根元に泳いだ視線が、ある一点に惹き付けられた時、再び俺の中に衝撃が走った。


・・・・・・・・・っつ!!


それは首の付け根の少し下辺り・・・タンクトップの背に隠れ切れなかった部分に咲く、一際赤く鮮やかな花。

昨晩俺が君に咲かせたものが、まだ消えずに残っていたのだと気付き、カッと身体の中に感じた熱さが蘇ってきた。見える場所には跡を残さないようにと気をつけてはいるのだが・・・・しまった。つい君に夢中になるあまりに油断をしてしまったらしい。

香穂子は上着を羽織らないと言うし、せっかく纏めた髪を下ろすつもりも無いだろう。
さて、俺は一体どうしたら良いものか・・・早急に何か考えなければ。


鼓動が高鳴り早鐘を打ち、焦りの為に思考が働かず、呼吸さえも上手く出来ない。
このまま外へ出かければ人目に触れるのは確実・・・君の為にもそれだけは避けたいと思う。
ネックレスの金具をはめることも忘れて強く拳を握り締めていると、不思議そうな顔の香穂子が肩越しに俺を振り仰いで、様子を伺ってくる。


「ねぇ、出来た?」
「いっ・・・いや、まだだ・・・」


香穂子はどうやら、背中の赤い痣には気付いていないようだ。その事だけにホッと胸を撫で下ろしつつ、首元に掲げていた手を下ろすと、彼女の手に重ねるようにして持っていたネックレスを託した。


「すまない・・・・今日は、出かけるのを止めないか?」
「え〜っ、そんな・・・楽しみにしてたのに。出かけようって言ったのは蓮じゃない、急にどうしたの?」
「気が・・・変わったんだ。 やはり外出は・・・その、天気の方が良いだろうし・・・また今度にしないか」
「蓮がそう言うのなら・・・仕方ないよね。でもせっかく着替えたのにな、また着替えなおさなくちゃ」
「いや・・・別に、俺はそのままでも構わないが・・・」
「えっ?」


何て言ったの?と、君はきょとんと聞き返してくるけれど、俺だけの前で・・・というのならば話は別なんだ。

背を向けて振り仰いだままの香穂子を、優しく背後から抱き締めて腕の中に閉じ込めると、白い首筋にそっと唇を這わせていく。ゆっくりと辿り降り、赤く残る花の上に音を立てて強く吸い付き、既に咲いていた花を隠すように・・・更に咲かせるように赤い跡を残す。


「・・・んっ、やっ・・・ちょっと、何をするの!」
「これで香穂子も、今日は出かけられないだろう?」
「もう〜蓮ってば! ねぇ何処に跡付けたの? 後ろだから見えないじゃない〜」


腕の中で身を捩り慌てて飛ぶように身体を離した香穂子が、茹で上がったように顔だけでなく耳や首筋まで真っ赤になりながら、俺を睨んでいる。すまない・・・つい我慢が出来なくてと微笑みながらそう言えば、火を噴出しそうな程に赤さを増しながら、しきしりに背中を気にして首元を手で撫でている。


俺だって今さっきまでは本当に、君と一緒に出かける気持でいたんだ。
だが、楽しみにしていた君には申し訳ないが、そうもいかなくなってしまったのだから。
結局は諸々の心配事が全て解決したけれども、本当の理由は君には秘密。
魅力的な君を誰の目にも触れさせたく無かったのと、君が欲しくて我慢できなくなるだろうと思った事は・・・。


玄関にある大きな姿見を使って、頬を染めたまま後ろを振り向き、俺の咲かせた花を必死に探そうとする香穂子の唇にそっと顔を寄せると、ふいうちのようなキスを贈った。
すまない・・・と心の中で君に詫びながら。
触れ合う唇から感じる柔らかさと温もりを、瞳と口元を緩めて俺からも伝えるように。



だから今日は一日ゆっくりと、家の中で二人っきりの時間を過ごそう。
出かける予定は無くなってしまったけれど。
その代わりもう君を、一瞬たりとも退屈にさせたりはしないから。