嫉妬心

夕食を終えた静かなリビングにパタパタと軽やかな足音が鳴り、蓮〜と俺を呼ぶ元気な声が響き渡った。
正面からか、あるいは背後から飛びついてくるのか・・・。君の足音を聞いただけで嬉しそうに駆け寄る笑顔が目に浮かび、今度はどこから姿を現すのかと想いを馳せれば、俺も自然に頬と口元が緩んでしまう。
読んでいた本を閉じてソファーの傍らに置くと、座っている俺の後ろから飛んで抱きつくように腕を回され、香穂子が身を屈めるように顔を寄せてきた。ふわりと漂う優しい香りに、心が温かく穏やかな気持に包まれる。



「お湯の用意が出来たから、お風呂いつでも入れるよ」
「ありがとう、香穂子」


俺の前に回された腕に手を重ねながら振り仰ぐように肩越しに見上げれば、思い描いていた通りの眩しい笑顔を向ける香穂子がいた。

夕食の片付けを終えて慌しくリビングを出て行った事までは知っていたが、どうやら浴室の準備をしていたらしい。俺が心地良く過ごせる家を守るのが自分の仕事なのだと、日々張り切って朝早くから夜遅くまで家を切り盛りする香穂子に感謝をしつつ、胸に湧く愛しい想いの限りを乗せて深く微笑みを向けて腕を引き寄せる。
すると彼女の瞳も甘く揺らめき、回した腕にキュッと力が込められ、頬をすり寄せながらくすぐったそうに小さく笑った。



リビングを出る前より戻ってきた今の方が、数倍に嬉しさ弾けるように見えるのは、気のせいだろうか。
きっと彼女にとって、何か良い事があったに違いない。



「ねぇ蓮、今日は私が先にお風呂使ってもいいかな?」
「別に構わないが。どうしたんだ? やけに嬉しそうじゃないか」
「そうなの〜。あのね、お風呂用のフェイスタオルとバスタオルを新しいものにしたんだよ。蓮のはブルーで、私はピンクのやつ!」
「タオル!?」


そういえば数日前から、新しい物と交換しなければと香穂子が言っていたな・・・。
記憶の糸を探りだしていると、ソファーの後ろから回り込んできた彼女が、俺の隣へピョコンと腰を下ろす。
それだけじゃないんだよと興奮気味に大きな瞳を輝かせ、両手を付いて俺に迫るように身を乗り出しながら。


「シャンプーもトリートメントもボディーシャンプーも、ちょうど無くなってたからボトル満タンに補充したし。スポンジも消耗してたから、新しいものに換えたの。今日のお風呂はね、偶然なんだけど新しい物づくしなんだよ!」
「だから、そんなにも嬉しそうなのか」
「新しいものを使う時って、心がウキウキしない? 気分が新たになるっていうか、今日から新しい自分が始まるぞ〜みたいな感じなんだけど」
「いや、別に・・・。気分が良い事は確かだが、特にこれといって心境に変わりは無いが」


冷静に返事を返す俺をきょとんと見つめて、そう?と香穂子は不思議そうに首を捻り、人差し指を顎に当てながら、う〜んと唸って考え込んでいる。これからに期待を膨らませて胸躍らせる心境を、何とか俺に伝えようと、必死に言葉や例えを選んでいるようだ。やがて何か思いついたのか、閃いたとばかりにポンと手を叩いた。 


「じゃぁ例えば・・・蓮は手に入ったばかりの新しい楽譜を広げる時って、早く弾きたくてウズウズするでしょ?」
「そうだな・・・どんな曲にしようかと弾く前からいろいろ考えたり、楽しみではあるな・・・」
「でしょう? それが沢山あるんだよ。お風呂が凄〜く楽しみで、ワクワクしてるの。今日は私、いつもよりお風呂が長くなるかも知れないから・・・ごめんね。待たせちゃう蓮に、先に謝っておくよ」
「それは構わない。香穂子の気が済むまで、ゆっくり楽しむといい」
「ありがとう。それにね・・・見てみて!」 


いそいそとポケットから白い小さな小物を出して手の平に乗せると、俺の肩に身体を預けて持たれかかりながら目の前に差し出してくる。それは白い小さなバスタブ型の容器・・・恐らく、彼女が好きな入浴剤の一種なのだろう。大切そうに・・・まるで自慢の宝物のように俺へお披露目するところを見ると、どうやらまた新たなお気に入りを見つけてきたらしい。寄りかかる華奢な細い肩を抱き寄せつつ、見上げる瞳に柔らかく微笑みかけた。


「これは?」
「入れ物が可愛いでしょう?小さいバスタブ型の容器に入った入浴剤なんだよ。お庭にいるみたいなハーブの香りが素敵なんだけど、クリーミーで白い泡のお風呂になるんだって。今日、買い物の途中で見つけたの」
「さっそく使うのか?」


うん! と満面の笑顔で嬉しそうに頬を緩ませ、力いっぱい頷いて。
差し出していた手の平を自分の胸元へ引き戻し、乗せていた白い小さなバスタブを手に取って眺めながら、早くお風呂に入りたいな〜と、楽しそうにはしゃいでいる。




新しい物を使う時に心が浮き立つのは、自分自身の身も心も同じようにリセットされて、新たな出発点を迎えるからなのだと。彼女が言いたいのは・・・嬉しそうなのは、そういう事らしい。気持は、良く分かった。だから今日は一人でゆっくり入浴の時間を楽しみたいのだという事も。しかし、いつにも増して楽しそうな君を一人にしておくのは、何だかとてももったいない。



それと同時に腑に落ちないというか・・・。
心の片隅では落ち着かないもやもやした気持が湧き上がるのも確かで、この正体は一体何なのだろう。




「じゃぁ俺も一緒に・・・・・・」
「駄目っ!!」
「・・・香穂子」


俺が最後まで言い切らないうちに間髪入れず、彼女から否定の言葉が返ってきた。
あまりの反応の素早さに目を見開き呆気にとられていると、香穂子は火を噴出しそうな程顔を真っ赤に染めて、ご丁寧に腕で大きなバツ印を作っている。


そんなに思いっきり否定しなくても、いいではないか。打ちのめされるというか・・・何だか悲しくなってしまう。
いつも一緒に入っているのだから、今さらだろう? まぁ、彼女が言いたい事も分かる気がするが・・・。
大きく溜息を吐くと、一応念の為に聞いてみることにした。


「なぜ?」
「どうしても。今日だけは、駄目なものは駄目なの!」
「理由が分からない」
「えっ・・・だっだって・・・・・・。せっかく新しいものが揃っているから、卸したての気分をゆっくり味わいたいんだもの。蓮と一緒だと・・・その・・・いろいろあって、そうもいかないし・・・・・・」
「・・・・・・」


手に持ったままの白いバスタブ型の入れ物を、所在無さ気に弄んで手をいじりながら。更に赤みが増した顔を恥ずかしそうに俯いて、次第に語尾を濁らせごにょごにょと小さく口篭ってゆく。
そんな彼女の熱さが俺にまで移ったようで、顔だけでなく耳まで火照る感覚がじんわり広がっていくようだ。


だが駄目と強く否定されれば、余計に求めたくなるのが心情というものだろう?

ムキになっていると分かってはいるが、別に方法はある筈だ。思わず耐えられずにふと顔を逸らしたものの、ちらりと視線を戻しながら、君に悟られないように頭の中ではあらゆる可能性を探り出す。


「あっ! 私が先に一人で入っている時に、じゃぁ後からっていうのもナシだからね」
「・・・・・・」


一足早く先回りをした彼女がパッと顔を上げ、ピシャリと俺の前に戸を立ててきた。
なぜ分かったのだろうか・・・と言うより、俺の事などとうに見透かされているのかも知れない。
心の中で舌打ちしたく気持をぐっと堪えたら、再び大きな溜息が溢れてくる。




「使い始めの新しい気分を味わえるのは、今日だけなんだもん。蓮とは、お風呂の後も明日もず〜っと一緒でしょう?」
「せっかく二人分を揃えて新調してあるのに、その楽しい気分を俺と一緒に味わおうと言うのは、香穂子の中に無いんだな。一緒に感じれば嬉さは二倍だと、いつも君が言っているのに」
「え・・・あの・・・それもね、ちょっとだけ考えたの。でもやっぱり、上手くいかないような気がして・・・。結局は最初から最後まで全〜部、蓮に持って行かれそうっていうか・・・・・・・」
「俺なら浮き立つ楽しい気分も、君と共に分かち合いたいと思う。確かに新しいものは気分が良いが、正直一人では寂しい」


しかし随分と信用が無いんだな・・・俺は。
まぁ確かに・・・。
日頃の行いが招いた事とはいえ、彼女の予想通りになるだろうと自分でも思うから、反論の余地が無い。



そうか・・・ようやく分かった。この胸の中にある、もやもやした不快で落ち着かない気持の正体が。
照れる君は可愛いのだけれども、悲しいというより面白くないのだ。
俺を後にしてまで、彼女を夢中にさせる物があるという事が。
俺のいない、知らない所で君は一人楽しそうにはしゃぐのだろうなと思うから余計に。



「もう〜蓮ってば、お風呂くらいで拗ねないでよ。今日だけって言ってるじゃない」
「ぐらい、とは何だ。俺は別に拗ねていない」


拗ねていないと、自分で言い切っている辺りがすでに拗ねているのかも知れないが・・・この際関係ない。
独占欲だと・・・我侭だと言われようが、君への想いと意見を貫くまでだ。


まるで子供の喧嘩のように互いに膨れて、真っ直ぐ見つめ合うこと数秒。
今度は俺の瞳を受け止めた香穂子が、困ったように小さく溜息を吐いた。

座る距離を詰めてピタリと身体を寄せると、手に持っていた入浴剤を膝の上に置き、そっと俺を見上げて頬を手の平で柔らかく包んだ。触れ合う体と手の平から彼女の温かさがふわりと広がり、溶かされそうな甘さを湛えた熱く潤んだ瞳が真っ直ぐ見上げてくる。


「その代わりに、蓮とは後で・・・ね?」


だからお願いと、諭すように・・・ねだるように示す、彼女なりの譲歩で妥協案。
後で・・・つまり夜があるだろうと、そういう事なのだか・・・・・・。

熱く身を焦がす炎が心の底から湧き上がり、身体を駆け巡っていく。
俺の中で、プツリと何かが弾けた。






「・・・きゃっ!」


香穂子の膝の上に転がっていた小さなバスタブ型の入浴剤を手に取り、俺のシャツのポケットに入れると静かに立ち上がった。きょとんと見上げる香穂子を苦も無く抱き上げると、そのままリビングを大またで抜け、廊下を真っ直ぐ突き進む。


「ちょっと蓮、何するの! 降ろして〜!」
「やはり俺も一緒に入る。君の楽しい気分を、俺も一緒に味わいたいし」
「私の話、聞いてた?」
「もちろん、しっかりと。用意が出来ているから、すぐに入れるんだろう?」
「やっぱり、聞いてないじゃない〜」


話は聞いていたし、嬉しそうにしている君をずっと見ていた・・・だからこそなのだ。
いつだって俺に火を点けるのは、君なのだから。


腕の中でもがく香穂子に暴れると落ちるぞと耳元で囁き、落とすつもりはもちろん無いが、僅かに腕の力を緩めれば、両腕を俺の首に回してギュッとしがみついてくる。再び抱き上げなおして体勢を整え、俺の胸に押し付けていた顔をおずおずと上げた彼女の瞳を、射抜くように捕らえて真っ直ぐ見つめた。


「君を夢中にさせるのも興味を引くのも、独り占めするのも、俺だけであって欲しいんだ」
「・・・蓮ってば、私が新しいお風呂グッズに夢中になってるから、面白くなくて焼もち焼いているでしょう」
「何とでも言ってくれ、俺の気持は変わらない。君のお許しも出たし、後も先も同じだろう?」
「違うってば、同じじゃないよ〜! ねぇ、離して〜!」
「・・・・・・香穂子」


耳朶を甘く噛みつつ熱い吐息を吹き込み、胸に溢れる想いを込めて呼びかければ、途端に力が抜けたように動きを止めた。腕の中で大人しく納まる彼女は、ほんのり赤く染まる頬を膨らませてぽそぽそと呟き、熱く潤む瞳で拗ねたように俺を見上げて睨んでいる。


「反則だよ・・・私が動けなくなるの知ってて、いつもそれやるんだもん。蓮だけしか見えなくなって、他の事は何も考えられなくなっちゃうんだから・・・」
「俺は瞳も心も、常に君に奪われているよ」
「・・・・・・ちゃんと私にも楽しむ時間をくれるって約束してくれる? いきなりおイタしちゃ駄目だからね」
「分かった、君の為に出来る限り努力をしよう。俺も香穂子と一緒に、楽しい時間をゆっくり過ごしたい」


瞳を見つめてそう言うとぷうっと膨れた香穂子が手を伸ばし、約束だからねと念を押して俺の両頬を摘んで引っ張るように悪戯を仕掛けてきた。両手が塞がっている為、くすぐったさを堪えきれずに肩を小さく揺らしながらすまなかったと微笑と共に語りかければ、はにかんだ頬笑が返される。俺のシャツのポケットに手が伸ばされ、先程入れた白い小さなバスタブを取り出された。



「この入浴剤見つけた時ね、蓮と一緒に使ったら楽しいだろうなって思ったんだよ。だから今日一人で使おうとした分と、一緒に使う分と二個買ったの。照れくさいけど、私だって一人よりも二人の方がもっと楽しいもの」
「ありがとう、香穂子。俺たちも・・・・・・」
「え?」
「俺たちも気持を新たに向き合って、楽しく心踊り、希望に溢れた日々を送れたらいいな。これからも、ずっと」
「ふふっ、毎日が初恋だね。心配しないで、私はどの瞬間だって、いつでも一番大好きな蓮に夢中なんだから」


抱き上げた腕の中からようやく再び見せてくれた笑顔が満開に花開き、伸ばした腕が俺の首に絡められた。
綻んだ顔を首の根元へ埋めるようにしがみ付く彼女を深く抱き締め、溢れる愛しさを見つめる眼差から注ぎ込んでゆく。





俺が君だけを見ているように、君も俺だけを見ていて欲しいと思う。
君の興味を引き付け夢中にさせるのがヴァイオリンや音楽ならば、嬉しいけれども。
それ以外には・・・一番は、俺だけでありたいから。


身の回りのものが新しくなっただけでも、こんなに楽しく嬉しそうなのだ。きっとお互いの想いと気持も新しくなったら未来と希望に胸躍らせて、君の笑顔も俺の心も・・・今よりもっと弾けてしまうに違いない。


いや・・・気付かないうちに俺たちも、一見変わり無い毎日の生活の中で、絶えず新しく生まれ変わっているのかも知れないな。だから君と過ごす毎日がこんなにも新鮮で楽しくて、幸せなのだと思うから。






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