俺を待つ灯火

コンサートを終えると俺はスタッフや関係者に、無事に終えられたお礼と、一足先に帰る挨拶を述べる為にステージ裏を駆けまわった。急いで楽屋に戻り手早く着替えを済ませ荷物を持つと、早足で楽屋口を飛び出し、予め手配してあったタクシーに飛び乗り家へと向かう。


愛しい君が俺を待つ、大切な家に帰るために。
一刻も早く君の顔が見たくて、この腕の中に抱き締めたいから・・・。


タクシーで走り抜ける住宅街は宵闇と静寂に包まれ、外灯が少ない代わりに空を覆う一面の星達と、通り沿いに並ぶ家の窓から明かりが漏れて、ほの明るく照らしていた。
まるでオレンジ色の明りが、灯されたキャンドルの炎のように柔らかく揺らめき、お帰りなさい・・・と囁いている。


俺が目指すものは、その中でも一際大きく温かい灯火。
近づくごとに俺に呼びかける声も響きを増し、心の灯火も明るさと炎を強めてゆくのだ。




「蓮、お帰りなさ〜い
お仕事お疲れ様」
「ただいま香穂子」


宵闇の中で俺を導く灯火・・・広い玄関ホールの明りを背負って姿を現した香穂子が、笑顔で俺を出迎えてくれた。灯火のように柔らかい温かさを、自然に溢れる俺の笑みと心にももたらしながら。

明かりの灯った家がある・・・俺を待って迎えてくれる人がいる・・・。
君がくれる光りが暗闇の中で俺を照らし守り、導いてくれる。それだけで、ホッと心が緩んでしまうんだ。


俺は身を屈めて、香穂子は上を向いて少し背伸びをしながら互いに顔を寄せ合い、笑みを湛えた唇を重ねる。
軽く触れ合うだけのそれは、ただいまのキス。ほんの一瞬だけだけど、いってきますのキスより僅かに長くて触れる感触も強く感じるのは、会えなかった時間の寂しさを埋めるのと、帰宅してまた会えた喜びを伝え合う為。


「今日のコンサートはどうだった?」
「あぁ、今までに無く良い演奏が出来た。客席のゲストたちとも一体感が持てて・・・何と言うか、温かかったな。俺だけでなく、皆にも楽しんでもらえたと思う」
「無事に成功して良かったね。でも私、上手くいったって・・・皆に楽しんでもらえたって、ちゃんと知ってたんだ」

「どうして分かったんだ?」
「始まる時間になるとね、家で待っている私まで一緒に緊張しちゃうの。それがだんだん熱くなって来るんだよ。蓮の奏でる音色と想いが、ちゃんと届いたから私にも分かる・・・温かくて楽しい気持も一緒に。だから今ね、心の中がポカポカして凄く幸せなの」


嬉しそうに満面の笑みを浮かべながら両手を差し出す香穂子に、瞳を緩めてステージ用のタキシードが入った衣装鞄を香穂子に託す。俺は肩に掛けたヴァイオリンケースを背負い直し、奥へ続く廊下へと歩きだそうとしたところでピタリと足を止めた。


いつもならここで香穂子の方が先にくるりと後ろを振り向き、蝶のように軽やかな足取りで飛び跳ねながら俺を誘うのだが。今日に限ってはまだ玄関ホールに・・・俺の前を塞ぐようにじっと佇んだままだ。
頬をほんのり赤く染めて恥ずかしそうに俯きながら、鞄を持った両手をもじもじといじっている。
恥ずかしがり屋の彼女が何かを言い出そうとしているのは、すぐに分かった。


照れる香穂子を見ているだけで鼓動が熱く高まってくる・・・何を言おうとしているのか期待に胸が膨らみ、焦れて早くと急かしてしまいたいけれども。ここは呼吸を深く整え冷静に勤めて、穏やかに微笑を向けた。


「香穂子。その・・・どうかしたのか?」
「あのっ・・・あのね・・・お腹減ったでしょう、先にご飯にする? あっ・・・でもステージ終ってすぐに帰ってきてくれたんでしょう? さっぱりシャワー浴びてからにする? えっと・・・どっちも用意できてるけど・・・」
「あぁ、それなら・・・・・・」


これでは、いつもと同じではないか。
安心したような、それでいてどこか寂しいような・・・いや別に、何を期待したと言う訳ではないが・・・・。
複雑な気持が交じり合う中、首元のネクタイを緩めつつ眉を寄せて思考を巡らす。


しかし何故、香穂子はいつになく恥ずかしがっているのだろう。
理由は分からないけれども、今も真っ赤に顔を染めながら、そわそわと落ち着きの無い様子を見せる彼女に、俺まで一緒に照れてしまうではないか。


夕飯かシャワーかと二択を迫られているのに、すっかり忘れ思考の海へと漂い出していて。
そんな俺の目を覚ますかのように、どこか甘える雰囲気を漂わす上目遣いで見上げた香穂子が、愛らしく小首を傾げると、吐息に乗せてポツリと呟いた。


「それとも・・・わ・た・し?」
「・・・・・はっ!?」


止まった思考を再び動かし、耳に残った彼女の言葉を何度もリーピート再生させる。
香穂子は何と言ったんだ? 
俺の耳に聞き違えが無ければ、ご飯か風呂か、それとも彼女か・・・と。


三つ揃ったこのキーワードと俺たちの状況が、パズルのピースのようにぴたりとはまった瞬間、俺は鼓動が張り裂けるのではと思うくらいの衝撃に息が止まり、身体の中を激しく駆け回る熱さに眩暈を覚えた。


これは・・・その・・・・。
いわゆる結婚したばかりの夫婦に交わされるらしいという、甘いお決まりの台詞だろうか。
いつもの言葉の後にたった一言続いただけなのに・・・まさかこの言葉が続くとは・・・。


この台詞を香穂子の口から直接聞こうとは、全く予想もしていなくて。
普段は恥ずかしがるのにいつになく積極的で、どうしたのだろうかと戸惑い思うけれど。
男として愛しい人にそう言われれば・・・その、嬉しいと思う。


俺の答えは言われるまでも無くもう決まっている・・・迷うことは無い筈なのだが、滅多に無い機会にあれもこれもと欲が出てしまう。選択肢の中にもあるように、彼女もそう言ってくれているではないかと。
両手の拳を強く握り締め、熱く潤んだ香穂子の瞳を真っ直ぐ見つめた・・・まさにその時だった。


「・・・な〜んてね!」
「香穂子・・・・?」
「蓮、ビックリした? これ一度言ってみたかったの〜!」
「・・・・・・・・・」


驚きと衝撃と嬉しさが渦のように混ざり合い、俺はきっと君の目の前で、真っ赤な顔をしているに違いないのに。
つい先程まで見せていた、はにかんだ様子はどこへいってしまったのか。
目を見開き呆気に取られている俺の反応が、予想通りと言わんばかりに目を輝かせた香穂子は、手に持っていた鞄を嬉しそうにブンブンと振り回しながら、飛び跳ねんばかりの勢いではしゃぎ出した。


「だってだって〜! 結婚したら一度はいつか蓮に言ってみたいって、ずっと思ってたんだもの。でもいざ言うとなると恥ずかしくて自然にいかないもんだね。蓮が帰ってくる前に、一人でこっそり何度か練習してたんだけど、凄く恥ずかしかったよ。私にはやっぱり無理かな・・・充分に楽しんで満足したし、もういいや」
「ひょっとして今の質問は、無しなのか?」
「うん! 言ってみただけだから。さっ、ご飯出来ているから早く着替えて一緒に食べようね・・・・って。蓮? 難しい顔してどうしたの?」


腕を組みながら眉を潜めて深く考え込む俺を、きょとんと不思議そうな香穂子が大きな瞳で覗き込んでくる。


「とても嬉かったんだが・・・難しい質問だなと思ったんだ。難しい・・・というか、俺にはどれも捨て難くて直ぐには答えらそうにない・・・究極の選択だな。特に三番目が・・・・」
「ねぇ、もしかして本気にしたの? ごめんね。ご飯とお風呂の用意が出来ているのは本当だけど、三番目は無しなの。さっきも言ったでしょう?」

「君と先に夕飯を済ませてゆっくりと時間を作る・・・という選択肢もあるが。そうか・・・一つにしようとするから迷うんだ。香穂子、答えが二つというのは、駄目だろうか?」
「もう〜蓮ってば、私の話聞いてないフリして、都合良く進めようとしているでしょう! 分かってるんだからね」

「俺がいない間に、せっかく練習してくれたんだろう? そんな君を想うだけで、気持ちが止められないんだ。それに・・・その、俺も香穂子に言われてみたかったから・・・・」


僅かに言い淀む俺の言葉を聞いて、香穂子も火を噴出しそうな程真っ赤に頬を染めてゆく。小さく俯く顔だけでなく、耳や首筋までも。拗ねたように頬を膨らましながらも敵わないと諦めたのか、おずおずと見上げてくる。


「ちなみに・・・蓮の希望は、どれとどれなの?」
「二番目と三番目」
「二番目って確かシャワーが先だったよね。それで三番目はえっと・・・・あ〜っ!」
「俺が欲しいものは、いつでもたった一つだけ。俺は後にも先にも、香穂子が欲しい」
「きっ・・・却下、一つでも二つでも駄目っ! わ、私の用意がまだなの。用意したご飯が冷めちゃうでしょう?」
「そうだな、俺と君の熱が冷めないうちに・・・だから、駄目だろうか?」


一度は言ってみたかったんだろうとそう言って、腰にまわした腕をそっと引寄せると、腕の中の彼女は小さく睨んでくるが甘さを煽るものでしかなくて。やがて小さく溜息を吐くと、瞳を閉じ背伸びをして俺の唇にキスをした。


「香穂子は楽しんで満足したようだが、俺はまだ何もしていない。今度は俺の番だ。君も途中までにせず最後まで、このまま雰囲気を味わってみないか? 問いと答えは、いつでも一緒なのだから」
「答えが二個だなんて・・・蓮の欲張り・・・」
「俺は君に関しては、何時どんな時でも欲張りなんだ。求めても求めても、求め足り無いから」


そう言って笑みを向け香穂子の唇を舐めつつ軽く啄ばむと、一度は彼女に託した鞄を自分で持ち直す。
赤みの残る頬で前に組んだ腕をきゅっと強く握り締めながら、何か言いたそうに俺を見つめていたけれども。
香穂子・・・と愛しさを込めて優しく語りかけ瞳と頬を緩めれば、やっと微笑を帰してくれた君が鞄を持っていない方の腕に飛びつき、しがみ付いてくる。

家の奥へ続く廊下をゆっくりと共に歩む道すがら、絡めた腕に擦り寄る香穂子が俺を振り仰いだ。


「今日は特別だからね・・・コンサートが無事に成功したお祝いに、蓮の我侭聞いてあげる。お疲れ様・・・いつもありがとうって気持は、本当だから」
「俺からも、ありがとう。俺も・・・香穂子がこうして迎えてくれるから、頑張ろうと思えるんだ」





君は俺の灯火・・・それは君がくれた愛の力。

心に灯った明かりは始めは小さなものだけど、君を大切に想うごとに大きくなり、心地良い温かさは身をも焦がす熱い炎となる。俺が俺らしく、胸を張って生きていけるんだ。

だから、灯火をしっかりと抱きしめたい・・・俺にくれた灯で君にも温かさが伝わるように。





(Title by 恋したくなるお題)