俺の部屋君の部屋、自分たちの家




春の訪れである復活祭が過ぎると、長く厳しいヨーロッパの冬の寒さが少しずつ緩み始め、鳥のさえずりも聞こえ始める。厚いにび色の雲に覆われ、早く沈んでしまった太陽も少しずつ長くなり、寒そうに震えていた木の枝に芽生える小さな若葉。待ち望んでいた春と復活祭休暇の訪れに、街は重いコートを脱ぎ捨てたような賑わいと軽やかな喜びに満ち溢れていた。

厳しい冬があればこその春を迎える喜びは、長い遠回りを経て、ようやく君と共に歩み始めた俺たちに似ていると思う。ドイツ語での復活祭はOsternといい、ゲルマン神話の春の女神Eostreから由来している。俺に春を運んでくれたのは女神ではなく、香穂子だ。手作りのイースターエッグと一緒に部屋の中へ隠れていた彼女を見つけ出し、真っ直ぐそう告げたら、君は真っ赤に染めた顔で卵を大切そうに胸に抱いていたな。

卵の中から俺たち二人の、新しい何かが生まれる・・・春の到来はそんな浮き立つ予感がするんだ。



日が早く沈んでしまう冬の間は、家の中で過ごす時間が多くなる。譜読みをしたり本を読んだり、語り合い、時には互いに温めあって過ごしてきた、長い冬の夜。これから少しずつ明るい時間が長くなるから、俺たちの生活も少しずつ夏へと向けて変わっていくのだろう。だがいつどんな時でも、二人で過ごすゆったりとした時間を大切にしたいと思う。

午後のお茶の時間には、香穂子が手作りの焼き菓子と共に、温かい紅茶やコーヒーを入れてくれる。だが寝る前のひとときには一日の感謝を込めて、俺が香穂子へお茶を振舞う時間だ。

例えばコンサートや長期に渡る演奏旅行から、疲労を抱えて帰宅したとき。大雨の中をやっと家に辿り着き、ほっと一息ついた時に心の底から思う。温かく迎えてくれる君がいるから・・・君と俺の暮らす家があるから、ゆったり寛いだり心地良く過ごす事が出来るのだと。いつも優しく迎えてくれる場所、俺が帰る家は香穂子なんだ。

俺にはオフというものがあるが、家を守る香穂子には休みというものがない。朝から夜まで家の仕事もヴァイオリンも頑張る君に、ほっと寛いでもらえるように俺も何かしたいんだ。料理は得意ではないからせめてその代りに、大切な想いを込めた一杯を捧げよう・・・心も身体も温もりで包まれるように。君が帰る家も、俺でありたいと思う。




キッチンの戸棚から俺と香穂子が使っている揃いのマグカップを取り出し、引き出しからティースプーンを用意する。必要なものを脳裏で思い浮かべながら木目のトレイに並べて行くと、コンロからはお湯が沸いたと知らせる汽笛が早く消してくれと騒ぎだす。香穂子が飛んでくる前に、まずコンロの火を消さなくては・・・今は効率よりも安全だ。

そう自分に言い聞かせながら、慎重にキッチンの中を動く今の俺を香穂子が見たら、危なっかしくて見ていられないと追い出されてしまうかもしれない。この空間で効率よく、踊るようにくるくると動き回る彼女に感心してしまう。だがいくらキッチンがアウェイな空間で料理が不器用でも、君の為のお茶には自信がある。


紅茶を入れる時に使う白い陶器に花の透かし彫りがあるティーポットに、ケトルから沸騰したお湯をいれ、冷めないようにティーコジーを被せてトレイに乗せる。そうだ、これを忘れてはいけなかったな・・・君と俺が好きな毎日の生活に欠かせないものを。ミネラルウォーターやワインの貯蔵扉を開けると、ラベルに白い花が描かれた、一見白ワインを思わせる、同じ大きさの琥珀色のボトルを取り出した。


眠りに就く前だからコーヒーや紅茶といったカフェインは避け、身体が温まる自然で優しいものがいい。取り出したボトルはヨーロッパの人々に古くから親しまれてきた、エルダーフラワーという香りの飲み物。夏の僅かな間に咲かせる、扇子のように広がる白く小さな花から採取されるシロップだ。お湯にこのシロップを注ぎホットドリンクをつくるのだが、マスカットのような爽やかな果実の香りが広がり、微かな甘さが心地良い。

留学中に現地の友人に薦められてから飲み始めたときは、優しい甘さと光りを集めた色に香穂子を思い浮かべたものだ。彼女へも送ったところ気に入ってくれて・・・留学中の俺を訪ねてくれたときにも二人で飲んだな。ホットドリンクのマグカップを包み込み交わす視線も甘さを増して、心だけでなく互いに身体を温めあったのも、共に暮らす今となっては懐かしい思い出だ。甘さも涙も、喜びも切なさも・・・二人の全てが詰まった蜜と言っても良いだろう。



カップの乗ったトレイとエルダーフラワーの瓶を持ち、香穂子の待つリビングへ戻ると、ソファーに座る君はテーブルに写真を広げて整理の真っ最中。バレンタインに二人で旅行したときの写真を一枚一枚眺めながら、新しく買ったフォトフレームに入れるベストショット選びに夢中だ。もちろんいつも手元に持っているための大切な一枚を選ぶことも忘れずに。数枚に絞り込んだ写真を両手に一枚ずつ持ち、交互に眺めながら嬉しそうに頬を綻ばせたり、訪ねたバレンタイン村に溢れていたハートたちのように顔も赤く染まってゆく。

くすりと漏れ聞こえる笑い声と甘い吐息に心が震え、俺の中も温かく色付いてゆくのを感じた。用意するエルダーフラワーのホットドリンクに、君が染めてくれた赤い恋の実を浮かべよう。


テーブルにトレイを置き、香穂子の隣へ静かに腰を下ろすと、手元に持っていた写真から視線を上げて笑みを浮かべた。ソファーに肩を寄せ合いながら、一枚ずつ手に取り眺める。心のアルバムに焼き付けた写真と共に、愛に包まれたバレンタイン村の想い出を語り合えば、感じた想いや熱さごと鮮やかに蘇ってくる。香穂子が旅立ちの荷造りや、想い出の詰まった写真の整理に時間がかかるのは、写真と俺と自分自身に語りかけを大切にしているから。長くかかってしまい、結局一晩では終わらないことが多い。


「香穂子、どちらの写真が良いか決まらないのなら、両方飾ったらどうだろうか? フォトフレームは二つあるし、寝室とリビングとそれぞれに飾るのも悪くないと思う」
「どっちも素敵で決められないから、そうしようかな」
「香穂子、少し休憩にしないか? 今、お茶を入れるから。エルダーフラワーのホットドリンクでいいだろうか? 毎晩同じですまないが・・・」
「ありがとう、でもどうして謝るの? 私ね、これを飲まないと眠れないくらい大好きなの。琥珀色の甘さと優しい香りは、シロップのお花だけじゃなくて、蓮が心を込めて入れてくれたからだって思うの。蓮とヴァイオリンと同じくらい、私の生活に欠かせないものだよ」


ふわりと浮かんだ春風の微笑が、眉を寄せてすまなそうに見つめる俺の雲を不安を薙ぎ払う。早く飲みたいな〜私の分のシロップは多めに入れてねと。待ちきれずに身を乗り出す大きな輝く瞳を、つられて一緒に緩んでしまう瞳と頬で受け止めた。


夜空に浮かぶ星座が描かれた揃いのマグカップへ、白ワインのようなボトルをしたエルダーフラワーのシロップを少し注ぐ。それをティーポットに入れた熱いお湯で割り、テースプーンで静かにかき混ぜればホットドリンクの出来上がりだ。カップの中でチリチリと涼しげに鳴る音楽にあわせ、澄んだ琥珀色が小さく渦を巻いてワルツを踊り出した。カップが奏でる音色も、俺たちにとっては二人で奏でる大切な音楽になる。

渦を巻くマグカップの煌く水面に魅入りながら、じっと音色に聞き入る香穂子へ、熱いから気をつけて・・・そう微笑みかけると小さく頷きカップを手に取った。瞳を閉じた香穂子が心地良さそうな微笑を浮かべ、マスカットのような爽やかな香りを胸いっぱいに吸い込んでいる。口に含めば、ほんのり甘く透明な果実の味わいが広がるだろう。コツンとカップを触れ合わせれば、今夜の俺たちに乾杯だ。


美味しいねと嬉しそうに綻ばせる微笑みが、ホットドリンクよりも優しい温もりをもたらしてくれる。マスカットのように爽やかな香りや甘さではなく、俺は君に酔わされそうだ。ほっと安らぎの吐息を吐き、マグカップをテーブルに置いた香穂子が、絞り込んだ写真の一枚を手に取った。何かとっておきの秘密を見つけた時のように、わくわくと瞳を輝かせながら俺を見つめている。


「どうしたんだ、随分と嬉しそうだな?」
「私ね、写真を整理していたら凄い事を発見しちゃったの。ねぇ蓮、私たちって似てるかな? 瓜二つ?」
「突然何を言い出すのかと思えば・・・俺は俺、香穂子は香穂子だろう?」
「ふふっ、そう思うでしょう? 蓮とバレンタインに旅行した時の写真を、ヴァイオリンのレッスンに行ったとき、先生や奥様にもお茶をしながら見せたの。そうしたらね、二人はやっぱり夫婦だから似てるわよね、顔がそっくりねってしみじみ言うんだよ。私ね、それがとっても不思議だったの」
「休日に君と森を散歩していても、近所の人に同じような事をたまに言われるな・・・」
「何が似ているんだろうって考えたんだけど、蓮と私の二人で映っている写真を眺めていたら、みんなの言っていた意味に気付いたの」


コツンと肩を預けて寄り掛かりながら、少し興奮気味に写真を差し出してきた。映っていたのは旅行した旅先でシャッターを押してもらったもので、表情が良く見えるように、顔を中心に胸より上を捉えてある。背景に映るのは、葉の落ちた木の枝に赤い紙で作られたハートと、ロマネスク様式の教会。小さなブーケを手に持つ愛を告げる日に再び互いの想いを確認しあった想い出の場所で、、俺と香穂子の二人が写真の中で寄り添っている。


改めて見返すと、緩みきった自分の表情が照れ臭い・・・。だが幸せだと思うのは、隣に並ぶ香穂子も同じ笑顔を浮かべているから。・・・もしや、同じというのはこういう事なんだろうか?
目を見開く俺に愛らしく小首を傾げた君が、気づいたみたいだねと悪戯な視線を投げかけけてくる。


「みんなが私たちの顔を見て似ているねって・・・やっぱり夫婦なのねって言うのは、顔の形じゃなく雰囲気とか表情が似ているんだなって思ったの。音色や空気が溶け合うみたいに、ほら。微笑みあっている頬も、緩んだ瞳も同じだよ。それに気づいたら私ね、胸がキュンと締め付けられて、泣きたいほど嬉しい気持になったの」
「なるほど、言われてから改めてみると確かに同じだな、俺も嬉しい。俺は君に、君は俺に似てきているんだな。お互いを目指し、近付き溶けてゆく・・・。高校生の時に学内コンクールやコンサートで撮った写真や、デートをした時に映した写真と比べると面白そうだな。別々だったお互いが、だんだん溶け合っていく過程が刻まれているだろうから」


好きなものや考え方が似るだけでなく、互いに持つ空気まで溶け合う・・・それが形になって表れるのはとても幸せなことだと思う。香穂子はヴァイオリンの練習に努力を重ね、海を越えて俺の元へやってきた。俺は香穂子のお陰で、自分の中にあるたくさんの優しさに気づく事が出来たんだ。

自分が幸せでいることが、大切な君を幸せに出来る事。
幸せを一緒に感じる事が出来る喜び・・・今を見失わないように。
香穂子に出会えてなかったら、俺はこんなにも生き生きとした心で日々を過ごす事は出来なかった。


「温かく自由な空気が俺の中に満ちて・・・心地良い。君の仕草や表情、言葉や音色で喜びや安らぎを感じたり、時には危なっかしい君にハラハラする事もあるけれど。留学中に遠く離れていたときには、切なさや寂しさも感じたな・・・。だが心を動かした分だけ幸せが入るスペースが大きくなり、感じた全てが音色になって深みを増したと思う」
「忙しくなって会えなくなると、つい自分だけが寂しくなってしまうんだけど。でも蓮が頑張る姿を見ていると、私も頑張らなくちゃって思うの。蓮の存在が、私にたくさんんの力をくれるの。それにお互いの好きなことや感じている気持、過ごす時間を共有するって嬉しいよね」


交わす視線が甘く溶け合い、近付く額を触れ合わせ、互いの髪を絡めるように優しく愛撫をする。掠める吐息がエルダーフラワーよりも甘い蜜となるから、花の味がする唇を触れ合わせて小さなキスを重ねよう。
俺たちはもっと近づけるだろうか? そうしたと君と俺の顔や雰囲気が、今よりも似てくるのだろうな。友人の顔、恋人の顔、いろいろな顔があったんだな。だが他の人が一目見て、夫婦だと分かる今の俺たちが一番好きだと、写真を眺めながら思う。

一緒に暮らす部屋に君の物と俺が使う物、二人で使うものがあって一つの家になる。俺の中に君が溶けてゆくのは、二人共通の空間を作り出すことに似ていると思う。家も俺たちも同じなんだな。だから君が好きだと感じる温かさと同じように、家が大好きで気持が良いのだろう。

マグカップを両手に包み持ち、ふぅっと息を吹きかけて覚ます香穂子が美味しそうに飲んでいる横顔を眺めながら、俺もカップを手に取り一緒に飲んだ。シロップをお湯に溶かすだけだから、いつでも味は変わらない筈なのに、やはり一人で飲むんでいた頃よりも、君と共に飲む一杯の方が数倍も美味しいと感じた。


「蓮の作ってくれたホットドリンクを飲みながら、こうして一緒に寄り添い会ってお話しする時間は、私の大切な宝物だよ。心も身体もポカポカになるの」
「このエルダーフラワーという花には、身体を温める効果があるらしい。俺も、君を抱き締めている時のような、心地良い温もりに包まれるんだ。清楚な白い花、甘く爽やかな花の香りと、太陽のような艶めく蜜色・・・まるで香穂子のようだな。だから何度でも飲みたいし、君を求めたくなってしまう・・・」
「も、も〜蓮ってば・・・恥ずかしいよ。私もね、琥珀の優しい色が蓮の瞳みたいだから大好きなの。飲んだ時の甘さが、おやすみなさいのキスの味がするんだもの」
「キスの味・・・か」


ベットの中で交わすおやすみなさいのキスは、エルダーフラワーのほの甘さと果実の香り。それはこうして毎晩寝る前に二人で飲んでいるからだろう。真っ赤になって俯き、膝の上でもじもじと手を弄る彼女の頬に、掠めるだけのキスを贈る。ピクリと肩を揺らして振り仰いだ君へ、もう一度唇を重ねた・・・花のシロップよりも甘い唇を求め、もう一度キスを。


一口の飲めば微笑が浮かび、もう一口のめば、君を腕の中に抱き締めているような陽だまりに包まれる。飲み干した時には、テーブルの真ん中に置かれた俺たちの写真のように、同じ表情を交し合っているのだろうな。


俺の全てを包み込み、いつでも温かく迎えてくれる家、帰る場所・・・。
俺だけのエルダーフラワーである愛しい君へ、琥珀の甘さに溶けた想いを今夜も届けよう。