この命ある限り

神聖な教会の祭壇両脇には大束の花が飾られ、中央のヴァージンロード沿いには、清らかさの象徴である真っ白いバラが花嫁を迎える道を作っていた。参列者で埋まった椅子の中央通路沿いにある花入れには、二輪のホワイトローズが、二人で育んだ愛を象徴するように寄り添い輝いている。

この教会の聖堂がローズチャペルという別名を持つのに相応しく、満ち溢れるのはバラの香りと、厳かに響き渡るパイプオルガンの音色。ステンドグラスから差し込む彩の影が、祭壇前に佇み柔らかい光りと花が奏でるシンフォニーに身を任せる新郎・・・月森を包み込んでいた。




身に纏うのは、昼の礼装である黒いフロックコートにシルバーのアスコットタイ。
胸に差した白いブートニアは、百合のように凛とした印象を放つ大輪のアマリリス。
清らかな花から優しい鼓動を感じるのは、この花と揃いのブーケを持つ香穂子が手ずから胸に飾ってくれたからだろうな。愛情や幸せを互いの花へ託し合うように、俺が直接手渡したブーケも彼女の手にある。


花嫁姿に支度が整った香穂子が、式の直前に突然こっそり控え室を抜け出して来た時には正直驚いた。
ここに来るまでドキドキしたよと無邪気な笑顔に、騒ぎを起こさないでくれと願う溜息と頭痛を覚えたが・・・。
足元の不自由なドレスや長いトレーンの裾をたくし上げながらも、周囲の目を盗んで隠れつつ、わざわざ俺の元へやってきたのだ。一番早く・・・そして少しでも長く君の晴れ姿を見れるのは、嬉しい事に変わりない。


昔プロポーズをする男性が、想う女性に似合う花を野から摘んで花束にした。受け取った女性が花束の中から取り出した一本を相手の胸ポケットにさし、承諾を示したのがブーケとブートニアの由来と言われている。
二人だけの秘密なのだと大きな瞳を輝かせる香穂子によると、それを俺たちで再現したかったらしい。
ゲストに内緒で秘密を持つ新郎新婦は、幸せになれるというジンクスがあるのだと。

という事は互いのブーケとブートニアを託し合っただけでなく、君が俺の元を訪ねてきたのも秘密なんだな。
口元に内緒の人差し指を当てながら顔を寄せる笑顔を思い出すと、心が温かくなり自然と頬が緩んでしまう。




「・・・・・・始まりだな、やっと君に会える」


脇に控える弦楽四重奏の旋律が聖堂内に響き渡るのを合図に、セレモニーが始まりを告げる。聖堂内の空気が一瞬ざわめき、居並ぶ参列者たちの視線が教会の扉へ注がれると、自然に背筋が伸びるのを感じた。
そう・・・閉ざされた入口の扉をじっと見つめ、俺や皆が待っているのはヴァージンロードを歩んでくる花嫁。


やがて重い扉がゆっくりと開き、光りの中から現われたのは純白のドレスを纏う香穂子の姿。
白いヴェールの下で大事に抱えている小ぶりなブーケは、ティアドロップと呼ばれる幸せの涙型をしたもの。
白いアマリリスをメインにバラやスイトピーなどを使い、サムシングブルーの小花もあしらわれていた。


感情のままに真っ直ぐな君は、もどかしい自分への悔しさだけでなく、どうにもならない寂しさから瞳を濡らす事もあったという。だが喜びや嬉しさ幸せな時にも、空から降る透明な雫となって流れた君の涙。
涙は種となり、いつしか日差しの中でたくさん花を咲かせる為の物だから、大切に抱いていきたいのだと・・・。
俺が渡したブーケを幸せそうに持つ香穂子は、涙型に煌くブーケを選んだ想いをそう語ってくれた。


俺の心の中には、君が咲かせてくれた想いの花が溢れている。
いろんな形をしていろんな色に輝いて、俺を幸せな気持にしてくれる心の欠片たち。
今度は二人で育て、また新たな喜びの種を作り出そう。



父親と腕を組みバージンロードを歩み出す一歩に、逸る想いが鼓動を熱く高鳴らせてゆく。
白い手袋を重ね持つ手も自然に力が込められ、近付く君からひと時も視線が反らせない。
肩を出したAラインのシンプルなドレスの背後では、スカートを覆う裳裾のようなトレーンが長く尾を引いている。
永遠のパートナーとなる俺の元へとやってくる、その凛とした佇まいは神々しささえ感じるようで、愛しさと眩しさに思わず目を細めた。


花嫁よりも緊張した面持ちの父親から香穂子を託されると 、見つめ合う君と俺の瞳が強く引寄せ合う。
息が・・・止まるかと思った。支度を整えた姿を、既にもう見ている筈なのに。
長かったが、ようやくこの時が来たんだ・・・ずっと追い求めた君の手を取る時が。

込み上げる厚さに胸を詰まらせていると、優しく包むのは、ブーケとヘッドドレスから漂う花の香り。
互いに交わる視線に、どちらとも無く緊張が解けて微笑みが浮かぶ。


「どうしよう・・・緊張するかと思ったけど私ね、すっごく嬉しくてワクワクしているの。ねぇ、蓮は緊張してる?」
「そうだな、大きなステージよりも緊張している。だが香穂子を見たら、緊張も解けてきた」
「蓮でも緊張する時があるんだね、ちょっと意外かも。私ね、ドアが開いた瞬間ビックリしちゃったの。後ろ見てみて満席だよ、皆いっぱい来てくれて嬉しいよね」
「香穂子、祭壇の前だぞ。式が始まる、頼むから静かにてくれ」
「あっ・・・ごめんね、続きはまた後でね」


香穂子は緊張の反動なのか、それとも興奮が押さえ切れないのか。
二人だけに聞こえるような小さい声音でひそひそ小声で囁きながら、ちらりと周囲を伺って落ち着きが無い。
穏やかに見守る老牧師が視線で促している事に気付き、やんわりと諌めれば肩を竦め、霞むヴェール越しに上目遣いで小さな舌を出した。手を取り二人で祭壇前に立つ老牧師に向き合えば、旋律がクライマックスを迎えて余韻となり、再び静けさに包まれた。



音楽活動と生活の拠点にしているヨーロッパで教会は、人生の重要な折々や自分を見つめる上で欠かす事の出来ない存在だ。音楽の原点というべき繋がりもあり、こうして君と新たな一歩を踏み出す場所でもある。
だが真摯な想いの中で正面の祭壇を見つめながらも、意識の半分以上は隣に佇む香穂子を強く意識して落ち着かない。俺だって君の事を諌められる立場ではないなと、今更のように思う。


賛美歌の斉唱、牧師による話や結婚にまつわる聖書の朗読と続き、誓いの言葉を交わせば指輪の交換。
俺は香穂子に、香穂子は俺の指にマリッジリングをはめ、心臓に最も誓い薬指に永遠の愛を誓うんだ。

銀のトレイに小さいバラが敷き詰められたリングピローに置かれた指輪をつまみ、左手を取って薬指にゆっくりとはめてゆく。演奏でステージに立つ時と違う緊張のせいか、指を支える手が微かに震えるのを感じた。そんな自分に驚きながらも、柔らかなヴェール越しに見守る君が、触れた指先から温かさを伝えてくる。繋がったこの手はもう二度と離さない・・・誓いを込めて、指輪が飾るしなやかな手にそっと重ね握り締めた。


厳粛な面持ちの香穂子も緊張していて、摘むリングを落とすのではと思うくらい指先が震えていた。
俺の右手を取った彼女に微笑みかけ、周囲に気づかれないようにそっと左手にすり替える。
どうか落ち着いて欲しいと、想いを込めて瞳を見つめ、指先を握り返しながら。

ヴァイオリン運指の邪魔にならないように、左手ではなく右手に指輪をする予定だが、教会では皆と同じように。
今この瞬間だけは、一人の男として君の前に向かい合いたいんだ。


見つめる視線から言葉を察してくれた彼女が小さく頷き、大切な宝物のように左手を包み込む。
時間をかけて薬指にはめれ終れば、最初の仕事を終えた安堵感に、俺も君も張り詰めた空気がほっと緩んだ。
さぁ、後は誓いの口付けだ・・・。


「では誓いのキスを・・・・・・・」


そう厳かに告げる牧師の声に、ヴェール越しの香穂子が緩みかけた表情を引きしめ、俺も背筋を正した。
花嫁がヴェールで顔を隠すのは貞操や清浄の象徴とも言われ、花嫁を守るとされているようだ。
結婚の誓いの後で花婿がヴェールを上げる儀式には、二人を隔てる最後の障壁を取り除くという意味がある。


出会った時には音楽科と普通科、魔法のヴァイオリンを使っていたとはいえ初心者だった君。留学の為に海を隔てた数年間・・・俺と君とにあった様々な壁。込み上げる想いの波に呑み込まれてしまいそうだ。
だが一つ一つ共に乗り越えてきたそれらを思い出しながら向かい合い、まずはヴェール越しに互いに見詰め合って・・・取り払うべく裾に手をかけた。


これが最後なんだなと思うと、薄い布が熱く重いものに思えてくるから不思議だ。いや、それ以上に早く君の顔が見たいと気持が逸る。ゆっくりヴェールを捲り上げると、周りの視線を気にして頬を染めた君が、瞳を閉じて僅かに上を向く。ブーケを握ったまま膝を折って屈みながら、はにかんだ微笑で唇でなく額を差し出して。


「・・・・・・・・・・・・・・・」


恥しがる君が『誓いのキスはおでこにチュウでね』と事前に言った通り、やはり唇ではないんだな。
こんな時にも・・・いや誓いの場所だからこそ君の唇が欲しいと、切実に願うのは許して欲しい。
ちらりと横目で参列者を見れば、最前列に並ぶ両家の家族をはじめ親類や仲間達が、俺たちへと一心に視線を注いでいる。この状態からだと香穂子だけでなく皆も、俺が彼女の額へ口付けるのだと思っているのだろう。


綺麗に化粧を施され見違えた君に捕らわれ、理性の狭間で揺れ動く俺は、どうしたら良いのだろうか。
やはり全てで愛を誓うには、額へ触れる一瞬の口付けでは足り無すぎる。
それに君が俺の大切な人なのだと、言葉の代わりに主張するには一番大事な時だと思うから。

いつまでも動かない俺を心配したのか、待ちきれずにそっと瞳を開けた香穂子が小声で囁いてきた。


「蓮、どうしたの?」
「いや、何でもないんだ。つい君に魅入ってしまった」
「やだもう〜こんな時に・・・でも嬉しい」
「・・・本当の事だから」
「えっとね、約束した通りにおでこにチュウだよ。恥ずかしいから素早くしてね」


おでこにチュウと囁く真っ赤に染まった顔で念を押す愛らしさに、堪えていた最後の砦が脆くも打ち砕かれた。
約束を守ろうと心に決めていたが、すまない・・・守れそうにない。
華奢な肩に手を添えると差し出された額ではなく、更に身を屈めて顔を傾け柔らかい唇に重ね合わせた。


「ん・・・・・・っ!」


一瞬驚いたざわめきが教会内に響き渡り、目を見開いた香穂子が身じろぎ始めが、もう俺には止められない。
ブーケを潰さないように残された理性の欠片で気を使いつつ、もう少しこのままで・・そう宥めながら腰を抱き寄せ腕の中に閉じ込めた。さすがに人前だから触れるだけに留め、時間をかけて触れる唇で感触を確かめながら。


やがて苦しさに喘ぎ始める香穂子の腕が縋るように背に回され、指先に力が籠ると同時に唇が強く押し付けられる。もうどれくらい唇を重ねていたのか、時間の感覚も式の最中だという事も忘れた頃に、コホンと数度聞こえた咳払い。目の前で俺たちを見守る老牧師が止めてくれるまで、俺たちだけの愛の誓いは続いていた。








「二人とも、おめでとう」
「お幸せにね!」
「おめでとう・・・ございます・・・」
「香穂先輩、とても綺麗です」
「・・・ったく。誓いのキスが長すぎるんだよ、お前ら」


感動に包まれた挙式の後は、温かい木漏れ日の差し込む教会の前庭に、たくさんの笑顔が溢れていた。
晴れ渡った青空の下に広がる永遠を現すグリーンと、始まりの色であるホワイトの花が作り出すガーデンでは、家族や大切な仲間達がアーチ作って迎えてくれる。


香穂子と腕を組んで歩いてゆけば、歓声や祝福と一緒に時折混じる冷やかしの声も。今更のように熱さを募らせながらも、色鮮やかなフラワーシャワーとライスシャワーが優しく俺たちの頭上へ振り注ぐ。
光りと花びらを浴びる隣の君の笑顔は、今までの中で一番眩しく輝いていると思う。きっと俺も同じなのだろう。


しかしどうにも苦笑が込み上げるのは、組んだ腕の下で君の指が、ずっと俺の腕を強くつねっているからだ。
挙式が終わり、腕をくんでバージンロードを二人で退場する時瞬間から・・・。
それだけの事したから当然なのだが、縋るような眼差しを向けても、更につねられにっこり満面の笑顔で返されるだけ。摘まれても本当は痛くは無いけれど、笑顔の下で思いっきり拗ねているのが分かるから、頬を寄せて耳元に囁いた。


「香穂子、すまなかった。そろそろ離してもらえないだろうか、さすがに俺も腕が痛いんだが・・・」
「駄目っ! 蓮が嘘吐いたから許さない」
「香穂子だって俺に返してくれたし、求めてくれたじゃないか」
「あっ、あれは・・・その・・・つい我を忘れたというか、蓮に夢中になっちゃったの。みんなが見ている前で、蓮とあんな熱いキスするなんて・・・私もう恥ずかくて火を噴いちゃいそう。だからおでこにチュウって言ったのに!」
「君は俺のものだと主張できた。それに自分を偽りたくなかったんだ。君を愛している気持や、この命ある限り君を守ると・・・全てをかけて心に誓いを届けたかったから」
「蓮・・・・・」


ヴェールの頭に降り積もった花びらを、瞳と頬をゆるませながら丁寧に払いのけると、膨らませて拗ねた頬が穏やかに緩んでゆく。一変してすまなそうに大きな瞳を潤ませながら、つねっていた指をそっと外してくれた。


「ずっとつねっててごめんね、ヴァイオリンを弾く大切な腕なのに・・・。痛かった? 跡になったらどうしよう・・・」
「痛みは全く無いから、心配ない。逆にくすぐったさを堪えるのに、必死だったんだ」
「じゃぁ今度おいたしたら、蓮が弱いところをくすぐってあげるね」
「それは勘弁して欲しいな」


真っ赤に拗ねる君も可愛らしいから、この瞬間も口付けていたいのだと言ったら、怒ってしまうかも知れないな。
ならば今は、心の中だけで留めておこう。






「ねぇ蓮、これ持ってて」
「あぁ・・・構わないが。ところで、香穂子は何をするんだ?」
「準備運動! ブーケトスのウエディングブーケを、遠くまで投げたいの」
「は!? 準備運動?」
「見ててね〜。場外ホームランを狙うから!」


ホームランは投げるのではなく、打つ方だと思うんだが・・・どこまで投げるつもりなんだろう。
いやそれよりも、他の誰かに託さなくてはいけないのに、前に集う女性陣を超えて場外を狙うとはどういう事なのだろう。

香穂子からウエディンブーケを託されると、動き易いようにヨイショとスカートの裾をたくし上げ、足首のストレッチを始めてしまう。白い脚がちらりと見える無防備さに、俺の方がはらはらしてしまうじゃないか。
手首を回し腕を伸ばして気持良さそうな君は、砲丸投げの選手のように、肩をもぐるぐる回して準備万端だ。


「みんな〜用意はいい〜? じゃぁ投げるから受け取ってね!」


集まった女性陣の前に後ろ向きで立ち、肩越しに振り返って大きく呼びかけると、ガーデンに集う仲間達から歓声が沸き起こった。これは本当に、花嫁が投げるウエディングブーケのトスなのか?
きっと何か考えがあるに違いないと遠くを見れば、人垣の外で騒ぎを避けるように見守る、大切な仲間達の姿があった。高校時代の仲間達や、俺が留学中にお世話になった面々など。

なる程・・・香穂子は彼らに向かって届けたかったのだな。


準備運動完了だよ!と満面の笑顔で両手を差し出す香穂子に、預かっていたブーケを託すと、俺も同じように隣に肩を並べた。胸に差した一輪のブートニアを抜き取って・・・。


「蓮、ブートニアを取っちゃってどうするの?」
「俺も一緒に投げさせてくれ。ブーケとブートニアは二つで一つだろう? 香穂子が投げたブーケを受け取った女性が次の花嫁なら、俺が投げたブートニアを受け取った者が次の花婿と言う訳だ」
「あ、それって素敵だね! ひょっとしたら、これが縁で二人が結びくかもしれないし。でも花婿は、私が着けてるガーターのトスなんじゃないの?」
「君の脚からガーターを外す時に脚を晒したくなかったし、肌に直接身に着けていたのを他の男に与えるのは、正直耐えられそうもない」
「も、もう〜蓮ったら、焼もちさんなんだから・・・」


赤く染めた顔を隠すように小さく俯き、ブーケをきゅっと握り締めながら、ごにょごにょと語尾を濁らせてしまう。
遠くへ飛ばそうと微笑みかければ、嬉しそうに振り仰ぐ君も笑顔で頷く。
二人肩を並べてカウントしながら合図を揃えると、一斉に空へと投げ放った。


「うわ〜飛んだね〜どこまで行ったかな?」
「彼らの元まで、届くだろうか」
「もちろんだよ。誰が受け取ってくれるか、楽しみだね!」


真っ白いウエディングブーケとブートニアが、青い空へと高く舞い上がり、羽根を羽ばたかせて飛んでゆく。
集う人垣を超えて、遠くへと・・・届けたい人たちの元へ。
額に手を翳して見守る香穂子に歩み寄り、そっと腰を抱き寄せた腕の中で、悪戯をしかけた子供のように無邪気な笑顔が煌いた。






色褪せる事の無い胸の高鳴りや想いを、君と奏でるコンチェルト。
重なり合った愛に、教会の天使やファータの祝福も聞こえてくる。

御伽噺のページを捲るように、流れてゆく愛しい時間を守り紡ぎ続けよう。
俺と君の、この命ある限りずっと共に----------。