キスがその答え

君を想う事や恋というのは、心の水槽に溢れる水に似ていると思う。
透明で透き通っている水は心を映す君の瞳のようであり、きらきらと降り注ぐヴァイオリンの音色のようだ。

君に伝えたい大切な言葉や、俺の気持ちは目に見えなくて。言葉やヴァイオリンの音色だったり、抱きしめ合う温もりやキスだったり。一緒にいたい・・・分かち合いたいその想いを様々な形に入れて現せば、染み込んだ温かさが優しく広がって俺を包み込む。

香穂子と音色を重ねている時に、微笑みを浮かべている自分に気づいたのはいつだろうか。楽しいねと語りかける笑顔に俺も返事をすれば、彼女の頬がほんのり赤く染まって笑みが深まる。きゅっと締め詰められる甘い痛みに、また一つ膨らんだ想いが弦を震わせる。



息抜きをしようと練習室の窓を開ければ、ヴァイオリンをケースに置いた香穂子も窓辺に駆け寄ってきた。
肩を並べて風を受け止めると、大きく深呼吸をして太陽を受け止めている。

だが心の中は見えないからこそ気になって、好きになるほどもっと知りたくなる・・・確かめたくなるんだ。
何かが足りない、そう想った時に心の水は少し足りなくて。笑顔を重ねれば、満たされた想いのように心の水も溢れてくる。幸せそうに微笑む君の水槽はどうだろうか、乾いていないか? たっぷり溢れているだろうか?
君から俺の部分を大きく温め育て、そっと君に戻せたらいいのにと想う。

横顔を見つめたまま、心の中にある宝箱を取り出すように手を握りしめた。


「・・・蓮くん!?」
「・・・っ、突然すまない。その、嫌だったろうか?」
「うぅん、嫌じゃないよ。びっくりしただけ」


驚いて俺を振り仰いだ香穂子の声で、無意識に手を握りしめていた事に気づくが手は温もりを離せなくて。力を込めると、スイッチを押したかのように一気に彼女の顔が赤く染まり出す。頬に熱さを感じている俺の顔も、きっと赤く染まっている事だろう。暫くは手を握り合ったまま言葉なく、俺も君もそよぐ風に熱さを冷ましていた。
心地良い・・・こんな時間がずっと流れたらいい。


「私ね、蓮くんが大好き!」
「俺も香穂子が大好きだ。ヴァイオリンが奏でる音楽も、何より君自身が愛しいと想う」
「ありがとう、凄く嬉しい。今ね、私の中に温かいものが溢れて来た感じがするの」


他愛のない会話やふとした沈黙の間など、何の脈絡もなく突然だが、好きだと伝えたい時がある。
握り合う手の温もりがそうさせるのか、交わす微笑みの魔法なのか。

偽り無い心のまま真摯に答えると、肩先に擦り寄る花の笑みが綻んだ。
好きだという想いを育てたのは俺自身でも、気づかせてくれたのは愛をくれた君だから。
伝わる一言だけでなく、自分で聞く言葉も心に染み込み、温かな笑みを咲かせてくれるんだ。


「ねぇ蓮くん。私たちがお互いどれくらい好きかを、形に表せたら素敵だなって思わない?」
「君への想いは大きいから、形に納まるかどうか・・・だがどうやって?」
「だからね、キスしようよ」
「は!?」
「えっとね、チュウでもいいの。蓮くんのキスとチュウが欲しいな」


湯気がでそうな程真っ赤な顔で、腕をきゅっと掴む香穂子に目眩がしそうだ。いつもは恥ずかしがるのに、彼女からとは珍しい・・・いや、嬉しい事には変わりないが。恥ずかしさを堪えて、一生懸命想いを伝えようとしてくれるのが指先の力からも伝わってくる。一つでなく二つとは・・・もちろんそれ以上でも俺は構わないんだが。


「ほら、さっき合奏した時に、技術面は問題ないのに何かが足りないって言ってたでしょう? きっと足りないのは、心の中身だと思うの。見えない物だからこそ、確かめるのも大切でしょう?」
「それは、そうだが・・・」
「蓮くん、私からキスしたいっていうのは変かな。キスで現したいって思うのは、おかしいって呆れてる? この気持をどう表現したらいいだろうって、伝えたいのに上手く言葉や音色に出来ない想いがあるの」 


不安げに眉を寄せ、表情を曇らせながらじっと見つめる香穂子に微笑みを注ぐ。握りしめた手を胸の前に引き寄せると、優しく両手で包み込んだ。


「違うんだ、香穂子の気持はとても嬉しい」
「蓮くん・・・」
「俺も同じ事を思っていたから。溢れすぎる想いに言葉の器はどれも小さく、しっくりこないのがもどかしい。ただいくら練習室は言え、まず窓を閉めなくては・・・とりあえず窓辺から離れなくてはいけないな」
「あっ、 えっと・・・そうだよね、ごめんね」


握った手離して窓を閉めると、閉ざされた空間に香穂子の肩がぴくりと震える。高鳴る鼓動を押さえるように両手で胸を押さえる、ささやかな仕草一つ一つが愛しさを増し、熱く燃え上がる炎が止められない。無邪気ゆえの純粋なのか、どうして君は無防備な心に突然爆弾を投げ込んでくるのだろう。しかも俺が欲しいと思っていた場所へ確実に、とにかく落ち着かなければ。

深呼吸をして見つめた彼女の瞳は、真っ直ぐでひたむきで、遊びなどではなく本気なのだと教えてくれる。
どうしたらいいのだろうかと、少しだけ困って頬を緩めてみた。


「香穂子、その・・・キスとチュウは違うのか?」
「もちろんだよ。チュウは軽く触れたり、啄むからくすぐったくて楽しいものかな。キスはえっと・・・しっかりと触れ合うから温かくて蕩けちゃう感じ」
「香穂子のいうチュウは軽い物、キスはそれよりも大きくて重い物という訳か」
「1キスは10のチュウなの! ちっちゃいチュウが十回でキス一回分と同じになるんだよ」


きょろきょろ練習室の周囲を見渡し、目を輝かせると駆け出したのは練習室の隅。
ここならドアのガラスからも見えないと思うのと、壁際で自慢げに胸を張るのは俺たちだけの秘密の場所。
良く分からないが、彼女の中ではキスで恋愛度を測る単位があるらしい。
時折甘くねだる「ギュ〜ッてして?」が、抱きしめて欲しいという意味だと理解したのも最近の事だ。
俺には重い軽いの差はなく、どれにも深く気持を込めているんだが・・・あまり深く考えない方がいいのだろうか。


「じゃぁ、まずは私から。今の気持をキスにすると、チュウが八個分だよ」
「・・・キス一回分にはならないんだな」
「ん〜ちょこっと足りないの。きっと上手く音色が重ならなかったのは、足りない二個分のせいかな?」


そう言って背伸びをすると、頬に掠める柔らかさ。鼻先と反対の頬に額、そして唇に・・・これで四つ。全てを受け止めるまで待ちきれず、では俺からも・・・と優しく抱きしめて。心に沸く温もりのままを唇に乗せ同じように啄めば、君と俺とで八個になる。足りない二つ分は頬を包み、俺から君の唇を啄んで。

潤みが蕩け出す香穂子の瞳を熱く見つめながら、これで良いだろうかと囁けば甘い溜息が零れ落ちた。
微笑みを浮かべた君が背伸びして、俺も身を屈めれば今度はしっとり深く重なるキスが一つ注がれる。
君の中で、俺への気持がキス1個分になった証だな。育った想いが目に見えるのが、こんなにも嬉しい物だとは知らなかった。

自分の心を覗けば、ほら・・・。
足りなかった水槽の水が少しずつ増えて、苦しそうに泳いでいた魚も元気に泳ぎ始めたようだ。


「俺も君への想いが溢れて、心の中の水槽に水が零れてしまいそうだ」
「零しちゃったらもったいないよ! 一つで足りなかったら、もう一つ器を作れば良いと思うの。いろんなお部屋が沢山あった方が、お魚さんも楽しいでしょう? 大きなキスの器に、二人でたっぷりの愛を注ごうね」
「・・・・・・・・・・」
「蓮くん、どうしたの?」


嬉しそうに頬を綻ばしていた香穂子は、僅かな驚きで目を見開く俺を、不思議そうに見つめ小首を傾げていた。
互いにキスを交わして気持の大きさを確かめ、足りない分は共に育てようという訳か。
君の発想はどこまでも自由で俺の予想を超えていて驚かされる。だからこそ、惹かれずにはいられないんだ。
何でもない・・・そう言って瞳と頬を緩めると、彼女へ一歩近づき背を攫い、懐へと引き寄せる。

花の香りで俺を包む君が、抱きしめた腕の中で、期待を膨らませた笑みを浮かべちょこんと振り仰いだ。


「じゃぁ今度は蓮くんの番だよ。蓮くんの気持はキスいくつ分?」
「俺の答えはキスが十個分。それが一つに集まったものだ」
「へ? キスが十個? う〜ん何だろう、考えた事も無かったな・・・キスよりも深くて大きい物って何だろう」


眉を寄せて考え込む愛らしい顔を見ていたいが、今はそれよりも大切な事があるから。
顎を捕らえて上を向かせると、覆い被さるように唇を重ねた。
舌先で閉じられた唇をなぞり、開いた扉の隙間から進入すると歯列を掠め咥内をまさぐり、小さく逃げる舌を深く絡め取る。


「・・・んっ・・・・!」


君への想いを形にしたら、本当は1つでは足りないけれど。
恋愛方程式に当てはめるならキスの10倍は、呼吸をも奪う熱い口吻なんだ。


止めどなく溢れる煌めきの水に、水槽は器をなさずに溢れ出し、更に大きな海へと変化を遂げる。
足りないともどかしさに苦しむのも辛いが、満たされる過ぎるのも困りものだと気がついた。
穏やかな海へ心安らかに漂うのも良いけれど、もっと君の全てを求めたいから。
心の水槽を沢山の幸せで満たせるように、スペースを空けておくのも大事なのだと。



俺と君で水槽の中で泳ぐ魚になろう、ゆったりした水に揺られ二人きりで。
キスの後でもう一度奏でたら、違う音色が生まれるに違いない。