記念日じゃなくても

「今日の夕飯はね、蓮と私の二人パーティーなの。さっ、乾杯しよう? 蓮もグラス持ってね」
「あ、あぁ・・・」


琥珀色のシャンパンが注がれたグラスを手に持つと、向かいの席で同じくグラスを掲げ持つ香穂子が、椅子から腰を浮かせて身を乗り出してくる。乾杯〜!と彼女の元気な掛け声で互いのグラスをキスをするように、瞳と微笑みも一緒に触れ合わせれば、テーブルの上でカチンと透明な音が響いた。

少量のアルコールでもご機嫌に酔ってしまう香穂子は、一口含む形だけの乾杯。二口目を飲もうとグラスに口を寄せ掛けたものの諌める俺の視線に気付き、名残惜しそうに唇をすぼめてテーブルへと戻した。後は雰囲気を呑もうと時折グラスを持ってくるくる揺らし、光に透かしながら琥珀の中で踊る気泡たちの踊りを楽しげに眺めている。香りだけでも酔ってしまうから本当は遠ざけたいが、楽しそうなのでこのまま見守るとしようか。

「もったいないから・・・」と飲まずに飾っていたグラスを差し出され、最後には結局俺が二人分を飲む事になるのだが。君が早々に酔いつぶれ、心地良さそうに眠ってしまうよりかはずっと良い。そう思いながら緩む口元が止められなかった。


テーブルに並んでいるのは温かい湯気を漂わせる、香穂子が腕を振るったいつもより豪勢な食事たち。綺麗に並べられた食器やカトラリーは、来客があった時や俺たちの大切な記念日に使う特別なもの。木目のテーブルも白いレースのテーブルクロスが優しく覆い、ミルク色の花瓶に生けられた花が彩りを添えていた。
食事の手を止めて花を眺めていた香穂子が、注いだ優しい微笑みのまま俺を振り仰ぎ包み込んでくれる。


しかし・・・乾杯というが、今日は一体何の記念日だっただろうか?


俺の誕生日はもう少し先だし、香穂子の誕生日は既に祝った。結婚記念日でもないし、付き合い始めた日・・・でもない筈。プロポーズをした日・・・いや、一緒に暮らし始めた日も違うな。ヴァイオリニストとしてデビューをした日でもない、どれも違う。他に何かあっただろうか、冷静に思い出すんだ。


シャンパンの入ったグラスを握り締めながら、眉を寄せて俺たち二人の記憶を辿り始めるものの、今日の日に思い当たるものは何も無く・・・。どうしたの?ときょとんと小首を傾げる笑顔に見守られる沈黙に、焦りが込み上げてくる。何も無い普通の日だと思っていたのは俺だけで、実は忘れていた大切な記念日があっただろうか。


二人の日常にとって記念日はとても大切なものだから、思い出せないと言ったら君は悲しみ傷ついてしまう。
なんとかして思い出さなくてはと自分を叱咤するが、焦るほどに考えは浮かばない。



優しいピンク色や白をメインにグリーンの葉が輝きを添える花瓶のミニブーケは、俺が彼女へ贈ったものだ。
何の記念日でも無いが香穂子に花を贈りたい・・・そう突然思い立って花屋を訪ねた自分が照れ臭い。
誰に渡すのか、どんな雰囲気やイメージかと花屋の主人に聞かれ、思い浮かべたのは大切な香穂子の笑顔。
いつしか熱心に語り始めた俺を、何も言わずニコニコ微笑みながら一つ一つ丁寧に選んでくれていた。


花の事を言われているのだと後で気付き熱さが込み上げたが、出来上がりは香穂子らしくイメージ通りのものだった。喜んでくれるだろうかと、渡した瞬間に弾ける笑顔に想いを馳せながら、胸に湧く想いも温かく・・・。帰宅した俺を出迎えたのは、突然の贈り物に想像以上に喜びを見せた君。俺が贈った花を嬉しそうに抱え、さっそく華やかな食卓へ飾る様子を眺めながら、背中に噴出した汗と動揺を隠すのに必死だったのは黙っておこう。


駄目だ、降参だ。ここは正直に答えるべきだろう。
大切なのはその後にどうやって、君に誠意を持って返すかなのだから。


覚悟を決めて気分を落ち着かせる為に一つ呼吸をすると、グラスをテーブルに置き、向かいに座る香穂子の瞳の奥を真摯に見つめた。俺の緊張が伝わるのか姿勢を正しつつ一緒に身構え、互いの間に沈黙が支配する一瞬に苦しさが重く圧し掛かる。僅かに俯き小さく震えだす肩に痛みを覚え、すまない・・・とそう謝罪を言いかけた俺を遮るように聞こえてきたのは小さな笑い声だった。


「・・・ぷっ!」
「・・・香穂子?」
「怒っているんじゃないの、必死な顔で慌てる蓮が珍しいから、つい楽しくなちゃった。心配しないで? 蓮が知らなくて当然だよ。だって今日は何の記念日でもないんだもの」
「やはりそうだったのか・・・安心した。君に関わる事はどんなに些細な事でも覚えているはずなのに、思い出しても記憶に引っかかるものがない。大切な日を俺が忘れてしまったのかと、申し訳ない気持でいっぱいだった。君からどんな咎めや怒りも受け止める覚悟だったんだ」
「最初に言っておけば良かったね、黙っててごめんなさい。ちょうどタイミング良く蓮からお花をもらえたのが嬉しくて、伝えそびれちゃった」


へへっと小さく舌を出して肩を竦ませる愛らしさに、諌める気持も焦りも何もかもが淡雪のように消えてゆく。温かさを残す優しさへと姿を変えながら。蓮がお花を買うところを想像すると、嬉しくて可愛くて頬が緩んじゃうのと・・・そう言って笑みを浮かべる香穂子は、愛しそうに花を眺め伸ばした指先で花びらに触れていた。指先がまるで俺の心に触れているように熱さをもたらして、食事も忘れてただ彼女に魅入っていた。ふと視線を向けて絡んだ拍子に鼓動が跳ねたのを、気付かれてしまっただろうか?


「蓮は私の事をとっても大切にしてくれる。約束を守ってくれたり、誕生日や記念日を全部覚えて一緒にお祝いしてくれるでしょう? 大切にされているんだなって感じるたびに大好きが高まって、幸せな気持になれるの。可愛いお花をありがとう、すごく嬉しい。ふふっ偶然ってあるんだね、やっぱりこの以心伝心は私と蓮だからかな?」
「気に入ってくれて嬉しい。花を贈ろうと思ったのは、日頃言いそびれていた想いを形にして、君の胸に伝えたかったんだ」
「私も同じだよ。言葉以外に音楽もあるけれど、今日は蓮は花束からで私はお料理でありがとうを伝えるの。記念日って出来事があった頃の私たちを今の二人でお祝いする日でしょう? もっと大切にしようねって。特別な日はもちろん大事にしたいけど、そうでない普通の日も大事にしたいって思ったの」
「俺たちには、毎日が特別という事なんだな。一緒に過ごせる未来を願っても、叶わなかった時もあった。願いが叶った今では当たり前のように思えてしまうが、俺たちにとっては忘れてはいけない大切な事だ。香穂子とこうしてと過ごせる平穏な日々こそ、感謝すべき素晴らしい事だと」 


君が俺の前にいてくれるから名前を呼べるし、声が届いて笑顔を浮かべ・・・その瞳に俺の姿を映してくれる。
手を伸ばせば触れて、鼓動を直接感じながら抱きしめる事も出来るのも、俺たちが同じ場所で生きているからなんだ。当たり前で平穏に見えるものほど、実は簡単ではないと身をもって知っているからこそ。


「男の人がお花を買うのって、照れ臭いでしょう? だから蓮の気持がすごく嬉しいの、ありがとう」
「どんなブーケにしたいかと花屋の主人に言われた時に、香穂子の事を思い浮かべながら伝えたんだ。だがやはり俺も自分の手や言葉で、想いを形にしたい・・・そして君に伝えたい」
「私の気持は今日のご馳走にたっぷり詰め込んだからね。あ・・・あとね、夜になったらとっておきのデザートもあるから楽しみにしててね」
「そうか、それは楽しみだな。ではまず香穂子が早くから支度をして頑張った料理を、冷めないうちに食べなくてはいけないな」


頬を赤く染めながら、もじもじと照れ臭そうに手を弄る香穂子がくれるデザートは、きっと甘くて蕩けてしまうのだろうな。微笑みを向けると嬉しそうにうん!と頷き、いそいそとナイフとフォークを握り締めた香穂子は、目の前の肉料理を輝く瞳で見つめている。味わう前にまずは目で楽しむらしく、嬉しさと興奮が押さえ切れずに、早く食べたい・・・美味しそうだと満面で語っていた。そんな君を俺が食べてしまいたいとさえ思いながらもう一口、心へ直接乾杯と囁きグラスを傾けた。



これから先、もっと素敵な二人になれますように。
二人が・・・俺たちを囲む全ての人が幸せでありますようにと、祈りを込めての二人パーティー。
どんなレストランにも負けないとっておきのご馳走と、想いを束ねた花束で彩るテーブルを囲みながら。

君に、そして何も無い普通の日常に「ありがとう」を伝えよう。