雨の休日の過ごし方

朝から降り続く雨にどことなく眠気が覚めきらず、俺はだるさと息苦しさを覚えていた。
日が陰り昼でも薄暗い部屋と、籠って聞こえる雨の音や溢れる湿気に、閉じ込められている・・・そんな窮屈さを覚えるからだろうか。コンサートツアーが終って久しぶりの休みだからゆっくり休んでと、香穂子の言葉に甘えながらベッドで横になっていたが、いつまでもこうしている訳にもいかないのだ。
だるいと思う時こそ、あえて身体を動かさなければ。


それに・・・久しぶりにゆっくり二人で過ごせる休日を、心待ちにしていたのは香穂子だけでなく、俺も一緒なのだから。俺のせいで貴重な休みを潰して、君に寂しい想いをさせたくは無い。


起きる身支度を整え終ると、俺は重い身体に叱咤しながら寝室を後にしてゆっくりと階段を降り、気だるげに前髪をかき上げつつ香穂子の待つリビングへ足を踏み入れた。


・・・・・・!?


静かなリビングに雨の音が響いてくる。身体の表面からすっと染み込んでゆく潤いと、瑞々しい雨の香り。
そして窓の外に降り注ぐ雨が連れてくるひんやりした風が、俺を纏うように包みながら通り抜ければ、ここは家の中なのにまるで外にいるような感覚になる。大きく息を吸い込めば身体が満ち溢れる空気を求めて、止まる事無く中へと取り込んでいく・・・乾いた砂が水を吸い込むように。

あれ程苦しく締め付けられていた心と頭の中が解き放たれたように、すっきりと透明になっていくようだ。


誰かがリビングの窓を開けているのだと、すぐに分かった。
しかも窓から少し離れた廊下側の入り口に佇む俺にも伝わるのだから、大きく開け放っているに違いない。
俺は窓を開ける気にもなれなかったが、そう・・・例え雨でも、この家でこのような事をするのは、ただ一人。


君を探そうとリビングを見渡したが姿はどこにも無く、庭に面したテラスへ続く窓・・・白い木枠の大きなガラス扉だけが左右共に大きく開け放たれていた。雨の音や香り、そして吹き抜ける風たちは、どうやらここからやって来たらしい。ゆっくりと窓辺に歩み寄ると、風になびき緩やかな波を描いている真っ白いレースのカーテンが、一際大きく揺れて俺を導くようにその手が広がる。

緑が眩しい庭の景色と共に探していた香穂子の姿が現われ、彼女はその白いうねりのヴェールに守られるように包まれながら、床に膝を折ってポツンと座っていた。


ここにいたのか・・・と、心がホッと安堵する瞬間。
あまりの静けさに、どこかへ消えてしまったのでは・・・と不安を覚えたとは、君には秘密だけれども。
心の中で自分に苦笑しつつ、揺らめくカーテンの隙間から身体を滑り込ませる。


雨の水飛沫が吹き込みかかるのも、ひんやりした風が頬や髪をなぶるのも一向に気にせずに。香穂子は組んだ手を膝の上に乗せて、ただじっと外を眺めていた。だがぼんやりしている・・・というのではなく、遠くを見たと思えば近くを見たり、きょろきょろと辺りを見渡してみたり、時には耳を澄ませるように目を閉じてみたり。

じっとしているように見えても、表情がくるくる変わって留まるところが無いのが、いかにも好奇心旺盛な彼女らしい。側で見つめているとそんな君が楽しくて、つい頬が緩んでしまうんだ。


この窓から・・・君の目からは何が見えているんだろうか?
どんな音を聞いて、感じているんだろうか?


雨と一体になって心と身体を溶け合わせている香穂子の邪魔をしないように・・・気付かれないように背後に立つと、そっと静かに膝を折って腰を下ろした。前に伸ばした両腕を彼女の身体に絡めると、優しく腕の中に引寄せ白い首元に顔を寄せながら、背後から覆い包むように抱き締める。


「香穂子・・・何をしているんだ?」
「・・・蓮!? ふふっ・・・ビックリした〜。あのね、外を眺めていたんだよ」
「外? 雨を見ていたのか?」
「うん! 雨だからお出かけできないし、楽器を弾くにも良いコンディションじゃ無いでしょう? 何もする事が無いから、本を読んでいたんだけど飽きちゃって・・・。今ね、気分転換にちょっと休憩中」


びっくりしたと言いながらも全く驚いたように見えない香穂子は、目と口元に穏やかな微笑を湛えている。前に抱き締めている俺の腕を更に包むように上から腕を重ね、肩越しに振り仰ぎ見つめながら、背を預けるようにもたれかかってきた。きっと最初から気付いていたのかもしれない・・・俺がリビングへ足を踏み入れた時から。
あの時俺を包んだ風は、彼女が連れて来たのだろうと思った。


香穂子の傍らにはドイツ語の厚い辞書と、栞の挟まった本が置かれている。
なるほど・・・煮詰まった頭と、息苦しくなった心に風を送ろうとして窓を開けたのだろう。それがいつしか雨を眺めて、雨が見せる世界と音色に浸った・・・という訳か。君の微笑みと抱き締めた身体が、気分転換が充分に出来たのだと、楽しげに浮き立つ心を伝えてくれる。

だが君のお陰で俺の気分が軽くなったのだから、感謝を述べなければいけないな。


「ねぇ、窓を閉めたほうがいい? 私はもう少し雨を眺めて、音を聞いていたいな」
「このままでも構わないから、香穂子の気が済むまで好きにしたらいい。俺も一緒に・・・君の側にいてもいいだろうか?」
「もちろんだよ! 本当はね、一人でちょっぴり寂しかったの。だから蓮が来てくれて、すごく嬉しい」
「窓を一枚開けるのとでは、気持の重さまで違ってくるんだな。君のお陰で俺の気分も軽くなった、ありがとう」
「開けっ放しで怒られるかと心配だったけど、喜んでもらえて良かった。だって雨の日に閉め切った室内って、息苦しく感じない? 普段は気にならないのにどうしてだろうね、とっても不思議」


肩越しに俺を振り仰いで笑みを向ける香穂子の顔は、窓から吹き込む雨のシャワーを浴びて水飛沫にまみれており、赤く長い髪もしっとりと濡れそぼっていた。片手で頬を包むと手の平と指で、彼女が浴びた水滴を拭い取ってゆく。すると触れる手の感触に心地良さそうに目を細めながら・・・時折くすぐったそうに腕の中で身を捩りながら・・・もっととねだるように上を向いて擦り寄り、嬉しそうに綻ばせた顔を俺へと向けてくる。


もうすっかり雨の滴はなくなってしまったけれども、そんな彼女に溢れる愛しさと微笑に乗せながら、今度は優しく頬を撫でて愛撫をしてゆく・・・指の一本一本でなぞりながら、吸い付く肌の感触を確かめるように。


「香穂子、身体が冷えているじゃないか。部屋の中とはいえ、風向きのせいで外からかなり吹き込んでくる・・・長い間雨と風に当たっていたんだろう? 寒くは無いか?」
「平気だよ、だって蓮がこうして私を包んでくれるから・・・温かいの」
「ならば、ずっとこうしていよう。香穂子が寒くないように。いや、俺が君を抱き締めていたいんだと思う」
「いつも忙しい蓮が久しぶりのお休みだから、今日は一日ゆっくり休みなさいって、お天気も言ってくれているんだと思うよ。きっと、私の願いが通じたのかな」


前に抱き締めていた腕を深く絡めて押し付けるように引寄せながら、脚と一緒に小さく華奢な身体を挟んで俺の中に閉じ込める。俺の脚の間に座らせた香穂子を、背後から抱きこむ形で互いに寛ぐのだ。
香穂子は俺の胸を背もたれのようにして身を預けながら・・・俺は抱き締める彼女の髪に顔を埋め、覆い被さるように身体の重みを預けながら温もりと柔らかさと、鼓動を感じて。


「雨に濡れると色が変わって見える・・・うぅん、鮮やかに見えるの。庭にある樹や芝生とかお花が、綺麗に輝いているよね。生き生きしていて、嬉しそう。これって雨の魔法だって思わない?」
「これが彼らの持つ本来の輝きなのだろうな。いつも見慣れているはずなのに,実は見逃していて、世界はこんな色だったのかと改めて気付かされる」
「ねぇ、じゃぁ今度は耳を澄ませてみて。いろんな雨の音が聞こえて来るんだよ。樹の葉っぱに降る音、屋根に当たる音・・・伸ばした私の手に降り注ぐ雫の音! 皆が楽しそうに合奏しているの」
「本当だ、俺にも聞こえる・・・君と雨が奏でるハーモニーが。雨音もそうだが、水の音は心が落ち着くな・・・ホッとするというか、安心するんだ。そう、まるで君の鼓動と同じように」


両腕を前に差し伸べて、窓から吹き込む雨粒を手の平に受けながら、無邪気で楽しそうな笑い声が、触れ合う身体から振動となって伝わってくる。ならば俺も・・・そう思って絡め抱き締めていた腕を解くと、香穂子の隣へ並べるように手を掲げた。手の平に降り注ぐ雫の冷たさが心地良くて、君の言葉と同じようにゆっくりと潤いが心にも染み込んでいくようだ。


首を前に巡らせれば、視界いっぱいに映るのは頬を綻ばせて喜ぶ大きな瞳。絡み合う視線に微笑を向けて口元を緩めると、引寄せられるように唇を重ねた。唇を触れ合わせたまま、差し伸べていた俺の右手と左手を、香穂子の手にそれぞれ包むように重ねて外側から指を絡めると、ゆっくり引き戻してゆく。


互いの呼吸さえも吸い取られる静けさの中で、降り注ぐ雨の音と、視界の端で緩やかに波打つ白いカーテンに優しく守られ、温かく包まれながら・・・・・・。




僅かに身を捩り出した香穂子は、上半身を捻って横向きに座りなおすと、俺の背に腕をまわして温もりを求めるように身体を預けてきた。瞳を閉じ、ちょうど心臓の上辺りに胸へ頬を寄せてくる彼女の背を抱き締め返しながら、俺も鼻先をすり寄せるように髪へと顔を埋める。雨に濡れてハッとする程姿を変えるのは、腕の中にいる君も同じだと思う。しっとりと雨に濡れて赤みが艶を増す彼女の髪から花のような甘い香りが漂って、どこまでも俺を心地良く酔わせてくれるのだから。


「静かだよね・・・・・・。雨に包まれて、この世界は蓮と私だけって感じがするね」
「あぁ・・・雨の音しか聞こえない。きっと雨が他の音を全て吸い取っているのだろう。君の声も吸い込まれてゆくから、しっかり聞こえるようにと側に抱き締めずにはいられなくて。俺の声を確かに届けたいから、君の耳元に直接囁きたくなる」
「雨の音が聞こえる・・・でもね、私を抱き包んでくれる蓮の心臓の音が、一番近くに聞こえるの。温かくて、凄く落ち着く・・・・・・」
「今日は何もせず、ずっとこうしていよう・・・二人で一緒に。君と寄り添いながら、のんびり外を眺める休日というのも、楽しいと思うから」


腕の中で目を閉じて、笑みを湛えたまま頬を擦り合わせるように頷く君が、背に縋りつく手にキュッと力を込めてきた。指先から伝わる甘い刺激に、心をも掴まれた感じを覚えてしまい、愛しさに頬を緩めながらも理性で耐えるように目を細める。やがて縋りつく彼女の力が緩んで、手が俺の背からポトリと剥がれ落ちた。

抱き締める腕の中の身体に小さな重みが加わったかと思えば、雨の音に混じって聞こえてくるのは香穂子の安らかな寝息・・・。




雨の日にどこか眠さが抜けきらないのは、響く雨音がその奏でる音楽で、俺達を眠りへと誘うからなのだろう。
時には重いものであったり、彼女のように穏やかで優しいものだったり・・・ベットの中に残る温もりや、あるいは愛しい人の温もりに包まれながら。


しかし、このままでは風邪を引いてしまうだろうか・・・。
そう思って完全に眠ってしまった香穂子の身体を抱き直しながら、眉を寄せて開け放った窓を眺めていたが、風になびいて波を描いていたカーテンもいつしか静かに収まり、吹き込む雨を塞いでくれている。


君の温もりが外側から俺を温めてくれて、心に染みこみ降り注ぐ雨の雫は、君の想いと混ざって温かさに変わっていくから、内側からも俺を温めてくれるんだ。だから同じように、そう・・・俺が君をずっと守って、温めていればいいのだから。ならば君の希望通り、もう少し雨の音と水の香りを感じていよう。


俺は窓を閉めようと起こしかけた腰を再びその場へ降ろすと、瞳を緩めて寝顔を見つめ、そっと柔らかい頬を包み込んだ。心の中で語りかけると、君の微笑がまるで返事をするかのように、僅かに緩んだ気がした。


降り注ぐ雨音と静けさに包まれる・・・こんな休日も、たまには良いものだな。
心にもたらす恵みの雨。穏やかな時のまま、ずっとこうしていたいと・・・そう思う。