優しい温度の幸せ・前編



夏を色に例えるなら、鮮やかな赤だろうか? 太陽のように眩しい笑顔の君の色。
強い太陽の日差しが降り注ぎ暑さをもたらすように、沸き上がる想いが熱く心を焦がすんだ。アスファルトの地面の上には陽炎が昇り、遠く先を蜃気楼のように歪ませていた。色濃く小さな日陰を探して歩きながら、日差しよりも眩しい笑顔の香穂子は、このまま道の先を進んだら違う世界へ脚を踏み入れそうだと、好奇心をいっぱいに溢れさせている。

香穂子と出会ってから俺の世界は変わった、音楽も俺自身も。
君と一緒なら、このまま二人で新しい世界に旅立つのも悪くない・・・そう思う。



二学年の終業式を終えてウイーン旅立ってから約数ヶ月。難関と呼ばれた音大の入学試験を無事終え、9月から始まる新学期を控えた夏のバカンスに、久しぶりの帰国をしたのは数日前だった。星奏学院の三学年に進級した香穂子も夏休みだが、付属の音大への進学を控えてレッスンや勉強に忙しいらしい。

それでも互いに時間を作り共に過ごす毎日が密度が濃く深いものに感じるのは、留学を控え旅立つ前の、春淡い日に感じた想いと同じ。限りある短い時を大切にしたい気持が、自然と俺たちの仕草や行動に表れるからだろう。


夏の盛りに外出するなら暑さを避ける為に、涼しい午前中か夕方近くが良いだろう。そう言って休日の朝から香穂子と待ち合わせて、海の見える公園で一緒にヴァイオリンの練習をしたのは、単に暑さだけではなく俺が君に早く会いたかったからなんだ。朝一番に君に会える、それだけで一日が素晴らしく満ち足りたものになるから。


「花火大会?」
「うん! 蓮くんは人混みが苦手でしょう? だから静かなところで、二人っきりの花火大会をしようと思うの。大きな花火も綺麗だけど、手持ちの花火も楽しいんだよ。私ね、花火で絵が描きたいな〜」
「花火を振り回したら、危ないぞ。だが俺がウイーンにいるとき、港で行われる花火大会に行くのだと・・・その為に浴衣を買ったのだと言って無かったか?」


ヴァイオリンを弾いていた間は過ごしやすかったが、昼を過ぎた帰り道は太陽も高く、僅かな動作だけでも汗が浮かぶ。日本で過ごした時間の方が長いはずなのに、湿度が少なく快適なウイーンの夏に慣れた身には、余計に蒸し暑さが身に染みる。暑さを気にも止めずに笑顔を絶やさない香穂子は、 ね?と愛らしく小首を傾げると、数歩先へ駆け出しくるりと後ろを振り向いて。赤いヴァイオリンケースを背中に背負い、腕の中へ大切そうに家庭用花火のセットを抱き締めていた。


それはヴァイオリンを奏でた公園の帰り道に、飲み物を買おうとコンビニに立ち寄った時、香穂子が見つけた宝物。
懐かしいねと頬を綻ばせ、最初は手に取りながら眺めているているだけだったのに、気付けばすっかり手放せなくなってしまったらしい。ペットボトルの飲み物を会計している俺の後ろに駆け寄り、やっぱりこれも買うの・・・と。俺のシャツの裾を引っ張り頬を染めながら、恥ずかしそうに差し出したのがその花火だった。


袋はいらないと告げた香穂子は、会計済みのシールを貼ってもらうと、嬉しそうに抱えて手放すことは無い。俺の苦笑を微笑みに変えたのは、頬を染めてはにかむ君の笑顔と、懐かしい花火への好奇心と言ってもいいだろう。欲しかった玩具を手に入れた子供のような、香穂子の無邪気さに、見つめる眼差しが緩んでしまう。


「蓮くんが久しぶりに、ウイーンから帰ってきてくれたんだもん。またすぐに帰るのは寂しいけれど、その間はずっと一緒にいようって決めたの。また暫く会えなくても寂しくないように、刻んだ思い出を力に変えたいな。ほら、みんながいるところでぺったりくっつくのは、恥ずかしいでしょう? 私も早く会いたかったし、蓮くんに触れたいし、だから・・・その」
「・・・ありがとう、香穂子。香穂子と二人きりになれるのは嬉しい。誰に気兼ねすることもなく、君を独り占めできるから。花火をやるなら、場所はある程度広さがあった方が良さそうだな。公園や海辺でと言いたいが、夜は危ない。君さえ良ければ、俺の家はどうだろうか? 今夜は母や祖父母がいるから、そのまま朝を迎える事は出来ないのが残念だが」
「蓮くん・・・」


送り届けた家の前で真っ赤に頬を染め、ごにょこにょと語尾を濁らす香穂子は、腕の中に抱えた花火をきゅっと抱き締め顔を埋めてしまう。二人っきりになりたい、触れたいのだと・・・俺が求めているそのままを愛しい君に告げられ、心の中を読まれたのでは一瞬焦りを覚えた。胸を射貫いた想いの矢はすぐに喜びへと変わり、駆け巡る熱さが甘い疼きを運んでくれる。

夕方になったらまた迎えに来ると約束を交わし、別れ際に小さなキスを交わした。合図のように香穂子が瞳を閉じて上を向けば、差し出した唇に身を屈めてそっと重ねる・・・。挨拶よりも長くて想いを交わすには少し短いけれど、一瞬に触れる柔らかい温もりは、多く並べる言葉よりも強い想いを伝えあう。

付き合い初めの頃は手を握ることさえ緊張していたが、自然にキスが交わせるようになった今でも、触れる直前の緊張や胸の高まり、何度触れても初めてのような興奮と熱さは変わることはない。


暫く会わないうちにヴァイオリンも成長し、すっかり大人びた君に目を奪われ、新たに心惹かれたと同時に込み上げる不安もあった。この先会えなくなる時間がもっと長くなる・・・その間に君も俺も、これからもっと変わるだろう。だが例え離れ時を経ても変わらないものがあるのだと、真っ直ぐ届く君の想いが不安を消し去り教えてくれた。音色と想いを捧げ、信じる相手がいる・・・それがこんなに嬉しいことだったんだな。君も、感じただろうか?


夏至を過ぎると太陽は冬への道を歩み始めるのに、熱さはいよいよ本番を迎える。涼しさを求めて打ち水をしてもすぐに乾いてしまい、焼け石に水とはまさにこの事だ。香穂子に会いたい・・・君が欲しいと熱く乾きを覚える俺の心にも似ているな。振り仰いだ眩しさに目を細め、苦しさを覚えたのは君という甘さのせいかもしれない。






激しい乾きと熱さを癒すのは、ほんの少しの潤いでは足りない・・・それは俺だけでなく、緑や大地といった自然も同じ。
先ほどまでは青空が広がっていたのに、水に落とした一点の墨は瞬く間に広がり、どんよりと墨を流した鉛色へと変わった。開けた窓から吹き込む肌を引き締める冷たい風は、嵐の始まりを告げるオーバチュア。ぽつ、ぽつり・・・と大粒の雨が静かに数滴伝ったかと思えば、一気に曲調は情熱のアレグロへと変わった。


慌てて閉めた窓を叩きつける、大粒の激しい雨は躊躇いなく熱さを払い、あっという間に大きな水たまりを作ってゆく。夏の午後に突然やってくる夕立は容赦無く俺たちに襲いかかり、一瞬舞い上がった土埃のヴェールもすぐに飲み込まれ、窓から見る景色を白く包んでいる。すると研ぎ澄まされた光の刀が振り下ろされ、空を切り裂いた稲妻が刹那の輝きを放つ。稲妻が空を駆けた直後に、腹の底を揺らす大きな音が響き渡った。


近いな、香穂子は大丈夫だろうか?


手の中へ握り締めた携帯電話を見るが、香穂子からのメールや連絡は無かった。迎えに行くと言ったのに、浴衣を着付けてもらった嬉しさで待ちきれない彼女が、買った花火を持って俺の家に向かっている・・・そうメールをよこした直後にこの夕立だ。傘を持っていると良いのだが、まさか雨に濡れているのではと、込み上げた不安は止まることがない。しかも香穂子は暗闇やお化け屋敷だけでなく、雷も苦手だったな。

俺の胸を締め付けるこの苦しさは、香穂子が耐える痛みなのだろうか? もうそろそろ付いて良い頃だが遅すぎる。どこかで雨宿りをしているなら、きっと連絡をする筈なのに・・・君は今どこにいるんだ? 


このまま不安を抱えて胸の痛みに耐え続けるより、君を迎えに行った方が早いな。香穂子の声が直接俺の心へ響き、早く会いたい・・・助けてと呼んでいる気がするんだ。いてもたってもいられずに部屋を飛び出すと、傘を持って玄関の扉を開いた。だがバケツをひっくり返したように叩きつける風雨に押され、顔を背けた隙に押し戻されそうになる。


この雨の中をやってくる香穂子の身が心配だ。どうか無事でいてくれと祈り、勢い良く扉を押し開けた・・・そのとき、驚きのあまり心臓が一瞬止まったかと思った。白い雨煙の中へ鮮やかに浮かんだのは紛れもなく、傘も差さずに通り沿いの門に佇む香穂子本人だったから。瞳が彼女を捕らえると同時に考えるよりも飛び出ししていて、濡れるのも構わず駆けながら傘を開く。


「香穂子! こっちだ、早く傘の中へ!」
「・・・っ、蓮くん」


雨音で消されてしまった声が、心へ直接届いたのだろう。叩きつける大粒の雨を避け、自分を抱き締めるように屈めていた顔を上げると、行く手を阻む門へ駆け寄りもどかしげに柵を握り締めた。緊張した瞳がほっと緩んだのもつかの間で、開けた門から身を滑らせ傘の中へ入った香穂子の肩が、何かに気付きぴくりと跳ねる。一瞬光った稲妻の直後に轟く雷鳴に小さな悲鳴を上げると、堅く目を閉じ身をすくませてしまった。

薄桃色に赤い帯の浴衣を纏った艶姿は雨に濡れそぼり、透けた布からしなやかな身体のラインを浮かび上がらせている。結い上げた髪からしたたる雨滴を拭いもせず昼間に買った花火を腕の中へ抱き締め、決して濡らすまいと大切に抱え守っていた。花火に託した俺たちの想いごと、強さでしっかりと。


「香穂子、ずぶ濡れじゃないか・・・傘はどうしたんだ」
「家を出たときは、凄く良いお天気だったから、傘を持っていかなかったの。でも途中で急にぽつぽつ降ってきて・・・。地面を数滴濡らしたと思った直後には、どっといきなり降り出しちゃった。雨宿りをする場所もなくて・・・でももうちょっとで蓮くんの家だから頑張ろうって、自分に言い聞かせてたの。心配させてごめんね」
「とにかく、無事で良かった。話は後だ、すぐ早く家の中へ入ろう! 香穂子、玄関まで走るぞ」
「うん・・・!」

唇を噛みしめながら振り仰ぐ瞳は、涙を零さないように大きく見開かれている。頬を伝うのは雨の滴なのか、それとも押さえきれない涙なのか。俺を心配させないように弱音は吐かず、笑顔を浮かべようと必死に試みるが、寒さで凍った頬は上手く動かせず、もどかしさから余計に瞳を潤ませる・・・。君を温めたい、そう思って包んだ冷たい頬は、雷鳴が轟く度に小さく震えていた。いけない、すぐに温めなければ風邪を引いてしまう。


素肌に張り付く浴衣の袖から覗く腕を掴むと、すっかり雨に濡れて冷え切っている。身体が小刻みに震えているのは苦手な雷だけでなく、雨で体温を奪われた寒さからなのだろう。傘を持っていない方の手でしっかり腰を引き寄せ、傘の中へ収まるように・・・温もりを伝えるように抱き締めた。頷く視線を合図に二人息を合わせて、門から少し距離のある玄関扉まで一気に走り抜ける。

香穂子が胸に抱き締め守る花火が、唯一の温もりを与えてくれる大切な存在だったんだな。
俺に見せたいと願った浴衣を着ていなければ、君はもっと身軽に走れたし、雨宿りも出来たかも知れない。
この雨の中を走らせたのは俺だ、他でもなく俺のために・・・。


一つ傘の中へ収まっていても、激しく叩きつける豪雨は互いの声や気配も消してしまう。だからこそ、繋いだ手を離すまいと、強く握り締めずにはいられい。飛び込んだ玄関の扉が閉まるれば、切り取られたような静けさ溢れる空間に、ほっと気が緩み力が抜けてしまいそうだ。屋根のある場所へ来れば一安心だと安堵の溜息を吐くと、繋いだ腕を軽く揺さぶる香穂子の、困った声で我に返った。


「蓮くん、あの・・・腕ちょっと痛いかも・・・」
「・・・その、すまない。強く握りすぎてしまったな。痛くはなかったか?」
「うん、平気だよ。蓮くんの手に引かれながら、ずっと心臓がドキドキしてたの。私を離さないっていう強い気持ちが真っ直ぐ届いてきたから、心まで握り締められていたんだよ。もうそれだけで私の心が笑顔になってるの、ありがとう」
「俺が謝らなければいけないのに、礼を言われるとは思っていなかったが・・・。香穂子の笑顔が戻って、俺も嬉しい」


握った腕を慌てて放せば、細い手首に赤いリストバンドのような痕が付いていた。心配するあまり走りながら感情が押さえきれず、強く手を握りすぎてしまったようだ・・・ヴァイオリンを弾く大切な腕なのに。すまないと真摯に謝り、苦しさに耐えながら眉を寄せながら、そっと手に取った腕を優しく撫でさすると、君はなぜか嬉しそうな微笑みを浮かべた。


伝えたいのに感情を上手く言葉に出来ない時も、君は自己嫌悪になりそうな心を、柔らかい毛布で包んでくれる。優しさに救われているのは、いつも俺の方だ告げると、驚いたように目を見開きそして恥ずかしそうに頬を赤く染め出した。自分よりも相手を考える一途さと真っ直ぐな優しさは、一緒に過ごした高校時代も、留学して海を離れた今もそれは変わることはない。だから俺も君を守りたい・・・俺に何が出来るだろうかと、そう考える事が楽しいと思うんだ。


「約束通り俺が迎えに行っていれば、香穂子を雨に濡らすこともなかった・・・すまなかったな」
「蓮くんのせいじゃないの! お母さんに着せてもらった浴衣を早く蓮くんに見せたくて、待ちきれずに先に遊びに来たのは私なんだもの。それにね、迎えに着たら蓮くんがずぶ濡れになっていたんだよ。蓮くんが濡れなくて良かった。でもね、もうちょっと我慢できたらずぶ濡れた浴衣姿を見られなくて済んだって思うと、自分が情けないの・・・」
「香穂子の浴衣、君に良く似合っている。雨に濡れてしまったのが残念だが、今度は天気の良い時にもう一度俺に着てみせてくれないか? 雷の中を走ってくるのは、怖かっただろう? とにかく、無事で良かった」


強気に振る舞ってはいるが本当は寂しがり屋で、二人っきりになれば、子供のように甘えたがるのを俺は知っている。
轟く雷鳴に怯えながら何度も立ち止まり、心細い想いをしながらたった一人雨に打たれていたのだと思うと、一途な愛しさに甘く胸を締め付けられた。無事で良かったと、君がここにいることを温もりと存在で確かめたくて・・・俺の心に宿る愛しさを伝えたくて。抱き締めようと腰を捕らえ、腕に閉じ込めかけたその時、はっと我に返った香穂子が慌てて後ずさってしまった。

柔らかな温もりでなく空を掴んだ手は、行き場を無くして彷徨うだけ。なぜ逃げるのかと視線で答う俺に、切なげな瞳を揺らす香穂子は一歩を踏み出しかけるものの、迷いを振り切るように堅く目を瞑って首を振る。


「なぜ、俺を避けるんだ・・・理由を教えて欲しい。激しい雷雨の中をただひたすら駆けてきたのは、俺に会う為じゃなかったのか? 俺は君を抱き締めたい・・・駄目だろうか?」
「・・・駄目だよ、駄目なの。だって私全身雨に濡れてぴちょぴちょだから、抱き締めたら蓮くんまで濡れちゃうもの・・・」
「濡れるのは構わない。悲しみや辛さは二人で分かち合えば半分に減ると、教えてくれたのは君だ。ほらこんなに冷えているじゃないか、風邪を引いてしまうぞ。寒いときは人肌で温めるのが良いと聞いたことがある。それに凍えた心は心でないと、温めることは出来ないから・・・そうだろう? 君の寒さを俺が吸い取り、温もりに変えよう」


駄目だと首を振って後ずさる香穂子を腕の中へ攫い閉じこめると、温かい毛布で包むようにそっと優しく抱き締めた。すっぽり収まる腕と胸と・・・身体全体で覆うように。最初は身じろいでいたが、やがて諦めたのかすっかり大人しく腕の中へ収まり、身を任せてくれている。もう大丈夫だから、そう耳元に囁くとく堪えていた最後の堰が壊れ、瞳から降り出した大粒の雨が頬を濡らし始めた。


「寒かった・・・夏なのに、身体も心も真冬みたいに寒くて・・・凍えちゃうかと思った。雨が激しくなると、だんだん身体が重くなって前に進めなくなるし・・・蓮くんの家が凄く遠く感じた。本当はね、雷凄く怖かったの・・・でも、二人で買った花火はしっかり守ったよ」
「よく頑張ったな、香穂子。花火を守ってくれてありがとう。だが俺は、君が一番心配だった・・・無事で良かった」
「温かいね、蓮くんの優しさや想いが私の胸の奥まで届いてくるの。蓮くんの声を聞いていると安心する・・・温もりに甘えちゃうと一人になったときに辛くなるから、我慢しなくちゃって思ってた。だけど一人じゃないって素敵だね、力が沸いて来るみたい。寒い冬に手の平を、はぁって温めてもらった時みたいに、身体も心もポカポカだよ」


寒かった・・・雷が凄く怖かったと胸に顔を埋める背中をあやしながら、濡れた浴衣の薄い布一枚越しに感じる、肌の柔らかさと温もりが媚薬となって俺を酔わす。 ちょこんと振り仰ぐ額に張り付く前髪を撫で払い、雨滴にしたたる髪を手串で整えると、堅く張り詰めた心と瞳が緩み出す。零れそうな涙を手の甲でぐいと拭うと、雨の中でも守り抜いた花火を自慢げに掲げた。

交わる瞳がどちらともなく微笑みを浮かべると、互いの唇が引き寄せ合い・・優しい温度のキスが重なった。


「いつまでも玄関先にいたら、香穂子が風邪を引いてしまう。まだ夕暮れだが、あと数時間もすれば穏やかな宵闇に包まれるから、それまでに。まずは冷えた身体を温めるために、シャワーを浴びて着替えをして・・・二人きりの花火はそれからだな」
「ん〜でもね、濡れたこのままでは家にあがれないよ。どうしよう・・・」


困った顔で自分の浴衣姿を見下ろす香穂子をとりあえず玄関先で待たせ、近くのバスルームからタオルを持ち出し、再び玄関へ向かう。だがその時、驚きに目を見開き言葉を失ったのは、俺を諫める母と廊下ですれ違ったからだ。香穂子を玄関先で待たせたままでは風邪を引かせてしまう・・・何をしているのかと。入れ替わるように、母に腕を引かれる濡れた浴衣姿の香穂子が、真っ直ぐバスルームの扉の中へ消えてゆく。

この子をよろしくねと、すれ違いざまに香穂子から託されたのは、彼女が持っていた花火セット。バスルームの扉から視線を戻し見つめれば、君の笑顔のように色とりどりな花火たちが、早く遊んで欲しいと呼びかけてくるようだ。
彼女が支度できるまで、もう少し待っていてくれないか?


夕立の通り雨ならすぐに止むだろうから、熱さの去った涼しさの中で、ゆっくり手持ち花火を楽しもうか。雨上がりの街は、君の心のように透き通って煌めくに違いない。悲しいときだけでなく、嬉しいときや心が揺れたときに瞳から流れる君の雨も、きっともうすぐ止んで笑顔の晴れ間変わるだろう。