優しい温度の幸せ・後編



激しい夕立を降らせた雨雲が過ぎ去れば、茹だる蒸し暑さも消え去り、漆黒の夜闇は澄んだ空気と静けさに包まれていた。昼間は蝉の鳴き声に眉を寄せたものだが、月明かりに照らされた庭は夜露が光り、微かに鈴虫の鳴き声も聞こえてくる。今夜は満月だな、雨上がりの美しい月夜に誘われて、虫たちも夜の演奏会をしているのだろう。

俺も君に、ヴァイオリンを奏でたい・・・向かう音色の先はただ、君のために。


日本へ久しぶりな帰国となるその数日前、ウイーンへ国際電話をかけてくれた香穂子は、港で行われる大きな花火大会へ行こうと俺を誘ってくれた・・・それがちょうど今夜。浴衣を着て大好きな人と花火大会へ行くのが憧れだったと、嬉しそうに語っていた笑顔が、電話を通してでも瞼の裏に浮かんできたのに。人混みの苦手な俺を気遣いながらも、限りある時間を二人きりで過ごしたい・・・その想いから結局は、混雑を避けて二人きりの花火大会をすることになった。


午前中に香穂子とヴァイオリンを練習した帰り道に、一緒に買った小さな手持ち花火のセット。桃色の浴衣に着替た嬉しさから、迎えを待てずに俺の家にやってくる途中で、雷雨に巻き込んでしまったのが悔やまれる・・・。無事に辿り着いたから良かったものの、彼女の身に何かったら、俺は自分を許せなかっただろう。


刹那の輝きで轟く雷鳴を聞きながら、心に響いた香穂子の呼ぶ声。雨に打たれ雷に怯えながらも、必死に花火を守って駆けてきたあの声は、本当に俺を呼んでいたのだと知った時、驚きと同時に言葉に出来ない熱さが込み上げた。
留学の為に香穂子と離れウイーンに暮らすようになってからも、君の呼びかける声が聞こえる事がある。

会いたいと願うあまりに、自分の心が作り出した幻なのかと切なさに悩んだりもしたが、そうでは無かったんだな。
見えない心の糸電話で、俺たちは広い空の下で繋がっている・・・それが嬉しいと思わずにいられない。
では俺が香穂子に呼びかけていた声も、きっと届いていただろうか。



バケツに水も用意したし、キャンドルに火も灯して用意は万端だ。香穂子が雨の中を大事に守ってくれた花火も、湿気る事無く火が灯せそうだ。だが一歩を踏み出して違和感を覚えたのは、彼女が雨に濡れてしまった身体をシャワーで温めている間に、なぜか俺まで、父の浴衣を祖母に着付けられてしまったから。香穂子が浴衣を着るのなら、俺もと言うことらしいが・・・似合っているだろうかと、君の反応を思うほどに鼓動が高鳴り、落ち着かない。もしかしたら君も、同じような気持でいたのかも知れないな。

心のドアを軽やかに叩く声に振り向くと、庭へ繋がるリビングの大きなガラス扉を開け、ちょこんと顔を出す香穂子がいた。握り締めたカーテンに身体は隠し顔だけを覗かせているが、髪は綺麗に再び結い上げられているのが見えた。


「蓮くん、お待たせ。遅くなってごめんね、花火の用意をしてくれてありがとう」
「香穂子・・・。いや、気にしなくて良い。俺も楽しみで待ちきれなかったんだ」」
「あ! 蓮くんも浴衣に着替えたんだね。ふふっ、お揃いだね。紺色が夜に溶けそうで、凄く似合うよ」
「ありがとう。君が浴衣を着るからと、俺も着替えさせられてしまった。似合うかどうか心配だったから、君にそう言ってもらえて嬉しい。どうだ、少しは落ち着いたか?」
「うん! 温かいシャワーも浴びられたし、お母様が浴衣を貸して下さったの。着付けてもらっただけじゃなくて、髪も纏めてくれたんだよ。二人で揃って浴衣で花火が出来るなんて、嬉しいな。今年の夏は良い思い出が出来そうだよ」


着てきた浴衣を乾かしている間に、母が彼女のために新しい浴衣を見繕っているらしい。俺が貸したTシャツとスゥエットでシャワーから出てきた香穂子を待ち構え、嬉しそうに捕まえて寝室へと連れ去った母は、娘が出来たみたいだと御機嫌だったな。ずいぶんと時間が掛かっているようだから、きっとあれこれ着せ替えられていたのだろう。
だが二人きりでひっそりな予定だったのに、家族に見守られるのはどうも照れ臭い。

だが湯上がりのようにほんのり頬を染めながら、恥ずかしがってなかなか俺も元へ来てくれない。一体どうしたのだろうか?


「香穂子、どうしたんだ? 玄関から君の下駄を持ってきておいた。そのリビングから直接、庭へ降りることが出来る。今夜は満月だから、月がとても綺麗なんだ。昼間の暑さが嘘のように涼しくて心地が良い・・・こちらへ来ないか?」
「う、うん・・・あのね蓮くん。似合わなくても、笑わないでね」
「俺が君を笑うなどあり得ない。母も祖母も会心のコーディネイトだと自慢していたから、きっと似合っていると楽しみにしていたんだ。俺だけまだ見ていないのは、寂しい。隠れていないで、浴衣姿を見せてくれないか?」


夜露に濡れる芝生を踏みしめ窓辺に近付くと、一瞬姿を隠してしまうが、香穂子・・・と優しく名前を呼び、微笑みで誘う。隠れる雲間から輝く満月を導き出すように。すると緊張が解けたのか、隠れたカーテンからひょっこり顔を現し、まずは頭だけを覗かせてじっと俺を見つめ、引き寄せていたカーテンを握る手がそっと下ろされて・・・。雪解けのように和らぐ緊張を見守っていると、ようやくようやく一歩を踏み出してくれた。

流れる雲がほんのひととき月を隠していたのは、この瞬間の為だったのか。そう思えるタイミングで雲が晴れ、月明かりのスポットライトがはにかむ香穂子を照らしてくれる。艶やかに装いを変えた君の浴衣姿に、鼓動も息も時間も何もかもが止まるかと思った。


濃紺の地に白い大輪の花が咲いており、帯は花模様の差し色に合わせた紅色。清楚さの中にも彼女の甘い可愛らしさを引き出しているようだ。着る人をほっそり見せ、肌に艶を増したように思うのは、浴衣が持つ藍色の力なのだろうか。先ほど香穂子が着てきた桃色の浴衣も似合っていたが、色や装い一つで生まれる、大人の色香をも漂わせているしとやかな雰囲気に、胸の高鳴りが押さえきれない。

濃紺の夜空に咲く大輪の花は、月明かりの中で凛と佇む君のようだ。白い花の中心に色づく赤は、芯に燃える情熱や触れたいと今も願う潤んだ唇・・・そう思える。玄関からテラスへ運んだ下駄を履くと、小走りに駆け寄る足音がコツコツ響き、夜空に吸い込まれ星に変わった。


「・・・その浴衣、香穂子にとても良く似合う。思い描いていた通り、いやそれ以上だ。胸の中に高まるこの想いを伝えたいのに、上手く言葉にならないのがもどかしい・・・」
「ありがとう、嬉しくて早く蓮くんに見せたくて、でも似合っているか心配だったの。花火大会は特別な日だから、恋する女の子はみんな、大好きな人の為に可愛くなりたいって思うんだよ。だからね、蓮くんの気持が凄くうれしい・・・ほっとしたら涙が出ちゃいそう」
「香穂子・・・」
「蓮くんがウイーンに行っちゃったから、高校生最後の今年の夏は、もう一緒に過ごせないかと思ってた。でもたった数日だけでも、帰ってきてくれて嬉しい・・・ありがとう」

いつも元気に駆け回る香穂子も浴衣を着ている為、はだけないようにと気を遣う仕草が、おしとやかな振る舞いを見せている。いつもと違う知らない君を見るようで、新たな魅力に鼓動が高鳴るばかりだ。袖を広げて似合うかなと・・・不安そうに上目遣いで俺を伺う瞳に、良く似合うと心からの言葉を伝えれば、ふわりと花の笑みが綻んだ。浴衣に咲く大輪の花よりも可憐で愛らしく、蝶のようにくるりとその場で回ってくれる。


柔らかな白い布を使って帯の上に結わえられた、牡丹を思わせる花の飾り帯がふわりと揺れて、彼女の可憐さを更に引き立ててくれるようだ。彼女も気に入ったらしく、肩越しに背中を振り返っては、微かに見える柔らかな飾り帯をご機嫌に揺らしている。ふわふわで可愛い物が大好きな、香穂子の好みを俺よりも母の方が熟知しているなと、嬉しさと同時に思わず苦笑が零れてしまう。俺も負けてはいられないな。


「ねぇ蓮くん、背中を見て? 帯の上にね、柔らかい帯でもう一つリボンを結わえてくれたの。こんな結び方もあったんだね、ふわふわ揺れる花がとても可愛いくて素敵! この浴衣、蓮のお母様が若い頃に来たお気に入りなんですって。きっとこれを着て、蓮のお父様とデートとかしたのかな・・・そう思うと胸の奥が温かくなってくるの」
「そうだったのか、母のその浴衣は俺も初めて見た。香穂子の清楚さと可憐さにとても良く似合っている、俺は好きだ。浴衣は着慣れないから大変だろう? 苦しくはないか?」
「うん、平気だよ。着付けてくれた蓮のお母様がとっても上手なんだもの。私の身体へ自然に沿わせくれる優しさのお陰で、まるで浴衣が身体の一部みたい。私が買ったものより高くて良い素材なんだろうなって、すぐに分かったよ。素肌の上に直接着ているのに、とっても着心地が良いんだもの」


蓮くんの浴衣も素敵だねと振り仰ぐ笑みにつられ頬を緩めると、襟の合わせ目にしなやかな手がそっと伸ばされ、浴衣越しに熱さが灯る。素肌のような心地良さ・・・か。湯上がりの上気した肌には、ひんやりと冷たい木綿の感触が心地良いに違いない。素肌の上に纏うから、裸であるような不安感が生まれ、それが手を動かしたり脚を運ぶときに美しい仕草になって現れるのだろう。解き放った心や身体ごと纏うからこそ、気心の知れた大切な人の前だからこそ着たいと思うし、見せたいと思うのかも知れない。


「そうだ、香穂子に渡したい物があったんだが、受け取ってもらえるだろうか?」
「なぁに? 何をくれるの?」


大きな瞳を瞬かせ見つめる香穂子に微笑むと、浴衣の袂の中に隠しておいた髪飾りを取り出した。月明かりに照らされ青く透き通った光を放つのは、輝く手の平へすっぽり収まる小振りなデザインで、青いガラスの花びらを幾重にも重ねたバラの髪飾り。うわぁと感嘆の声を上げて魅入る香穂子に手渡すと、両手の平で大切に受け取り、指先で触ったり月明かりにかざしたりと、嬉しさを押さえきれない笑顔が夜闇を優しく照らす。この笑顔が見たかったんだ・・・離れている間ずっと願っていた、贈り物を渡す俺の方が逆にもらっているな。


「君へ贈る絵葉書を買った帰りに、ウイーン市内の店で見つけた髪飾りなんだ。ウイーンや隣国のプラハでは音楽と同じくガラス細工の伝統があるんだ。君を想いながら一人街を歩いていると、いろいろな物が目に付いてしまう。だがそのひとときがとても楽しくて、これは君に似合いそうだ・・・気に入るだろうかと、ふと気づけなそんな事ばかりを考えていた」
「凄く綺麗! 幸せを運んでくれる青いバラだね、薄いガラスを重ねた花びらがとっても素敵。凛と透き通っていて、蓮くんみたい。この花びら一枚一枚に蓮くんの気持がたくさん詰まっているんだね、ありがとう」
「もし良ければ今、君の髪に着けさせてもらえないだろうか? 浴衣も紺色だし、ちょうど似合うと思うんだ・・・和風な素材で合わせられず申し訳ないが・・・」
「そんなこと無いよ、とっても素敵だと思うの。音楽も心も違う二つだからこそ、溶け合って新しいハーモニーが生まれるでしょう? ほら見て、浴衣が私のいる日本なら、もらった髪飾りが蓮くんのいるウイーンだよ。身に着けた私の中で二つの国と想いが一つになるのって、とても凄いことだと思うの」


目を輝かせて振り仰ぐ香穂子が、手平に乗せた髪飾りをに月明かりを受け止めながら、俺の目の前に差し出してくる。清らかな水のようにすっと染みこむ言葉が温もりに変わり、また新しい微笑みを生み出してくれるんだ。青いガラスの花がついた髪飾りを手に取り、抱き締められる近さまで歩み寄ると、結い上げられた髪に手を添えそっと飾った。
君の髪に咲いた花は・・・決して散らない俺の想い。


じっとしてと、耳元で囁く吐息に小さく身動ぎくすぐったそうな香穂子が、じっと大人しく待ちながら耳まで赤く染めているのが分かった。髪から香る洗い立てのシャンプーの香りと、白く覗く首筋の色香が熱を灯し、息を潜める緊張が微かに指先を震えさせる。鼻先の触れ合う近さで出来たと囁けば、ほうっと甘い吐息を零す瞳が潤み、狂おしいほど俺を誘う。


遠く離れた海の向こうで、会いたいと願っていた君が今、手を伸ばせば抱き締められる近くにいる。
語れば声が返ってきて・・・触れれば柔らかく温かい。触れたい・・・触れても、抱き締めても良いだろうか?
真っ直ぐ告げる言葉に顔を赤く染めた香穂子は、恥ずかしそうにきゅっと両手を握り合わせ、コクンと小さく頷く。

吸い込まれる瞳に理性も溶け、じわりと溢れ出す想いに動かされながら・・・ゆっくりと身を屈め腕の中に抱き締めて。
濃紺の夜空に咲く白い花の花芯・・・君といういう花を抱き締め、覆い被さるようにキスを重ねた。







静けさを打ち破る花火の打ち上がる音が響き渡り、名残惜しげに唇が離れてゆく。どちらとも無くはにかんだ微笑みを浮かべ、抱き締めていた腕の戒めを解くと肩を寄り添わせながら、音のありかを見つけるように夜空を振り仰いだ。

港から少し離れているから庭先から見ることは敵わないが、夕立の影響も受けることなく、今夜行われる花火大会が無事に始まったのだろう。昼間に練習で訪れた海沿いの公園などは、夜空に咲く花を愛でに来た多くの人で溢れているに違いない。


「では始めようか、俺たちも。二人だけの花火大会を」
「うん! まずは大きな物から順番にやろうね。でね、最後は線香花火だよ」
「花火にも味わう順番があるんだな、まるでコース料理のようだ」
「今日は手持ち花火のフルコースだよ。ねぇ蓮くん、ウイーンにも花火はあるの?」
「年末のジルヴェスターには、新年に変わると同時に花火が打ち上がるが、日本のように手持ちでは遊ばないな」
「そっか・・・楽しいのにね。お金を貯めたら蓮くんのところへ遊びに行くね、そしたらウイーンでも花火がしたいな。火はすぐに消えちゃうけど、心の中に刻まれた絵はそのとき感じた想いは消えずに残るの。また新しいものが積み重なって、大きな花火を咲かすんだよ」


手持ち花火への好奇心を湛える笑顔が、まずはこれだよと一本を取りだし俺に手渡してくれた。オレンジ色に灯るキャンドルの炎を手持ち花火に移せば、立ちこめる白い煙と共に吹き出す色とりどりの光。青から緑、黄色、オレンジ、赤へと次々に変わる炎に歓声を上げる香穂子が、はしゃぎながら持ち手の棒を振り回す。


「こら香穂子、あまり振り回すと飛び散る火の粉でやけどをしてしまうぞ。ヴァイオリンを弾く大切な手なのだぁら、大切にしてくれ」
「は〜い、気をつけます! あ、もう一本が終わっちゃった・・・。もっと食べたいって思ったのに、大好きなケーキを食べ終わってしまった時に似ているよね。ドキドキする興奮とか食べた後の満足感とか、でもまだ食べたり無いって想うの」
「そうだな、俺は君の唇に触れる時のようだと思う。心の中に咲く色鮮やかな花、溶ける甘さをもっ食べたいと次を望んでしまう・・・」
「も、もう〜蓮くんってば。ウイーンに行ってから、真っ直ぐ届く想いのストレートさに、ますます磨きが掛かったように思うの・・・照れちゃうよ」


しゅんと肩を落としてうなだれていたが、今にも花火が吹き出しそうなくらい真っ赤に顔を染め、潤む瞳でじっと見つめている。香穂子が見上げると身長差から自然と上目遣いになるのだが、その視線に俺は弱いと、君は知っているだろうか。俺の理性の導火線にも火を付けた君が、もっと欲しいと続きをねだっているように思えてしまう、自分の欲を押さえるのに必死だ。香穂子が最初に提案したように、二人っきりで良かったと・・・心の底からそう思う。

顔に集まる熱さを逸らそうと、袋の中から先ほどとは違う種類の花火を取り出し、一本を香穂子に手渡した。先に俺が火を付けると、棒の先にある火薬から青い炎の玉が静かに灯り、やがて後を追うように生まれた赤い火花が音を立てて弾け出す。追い掛け合いながら次第に近づく二つに驚き、目を見開く俺にぴったり寄り添う香穂子が、楽しげに手元を覗き込んできた。

この花火を二人でやりたかったから買ったのだと、嬉しそうに語る笑顔の中で、どこか切なげな光を灯すのを俺は見逃さなかった。香穂子はこの花火に、どんなメッセージを込めたかったのだろう。


「あ、これ知ってる! 星火花っていう花火なんだよ。最初に青い静かな花火が出るんだけど、それを赤くてパチパチした元気の良い火の玉が追いかけるの。最後には二つが一緒にくっついて大きく燃えるんだよ、凄く楽しいの」
「何だか俺たちみたいだな。青が俺で元気な赤い火が香穂子で、一つになったらどんな花が咲くのか楽しみだ」
「・・・私も、蓮くんを追いかけるね。ヴァイオリン頑張って練習して、この花火みたく先に進む青い花火を追いかける、赤い火花に私もなるの。追いついて一つになったら私たちも、大きく咲く花火になれるかな? 蓮くんやみんなの心にいつまでも咲いて、消えない温かい花になるの」


音もなく静かに進む青い炎に、後からやってきた赤い火花が追いつけば、二つが一つに溶け合い華やかな光の滝となって夜空を明るく照らし出す。一つ一つの力は小さいけれど、二つ合わさればその力と音楽は無限の広がりを見せるのは、俺たちも花火も同じなんだな。七色に炎の色を変えて四方に花を広げる花火は、いつか俺たちが咲かさせる未来なのだろう。

静かに寄り添い、最後の一瞬まで見届けていた香穂子が、くすんと鼻をすすり目尻に浮かんだ涙を慌てて手の甲で拭き取った。もしかして泣いていたのだろうかと、心配に寄せた眉間を、君は背伸びをした指先で悪戯に触れてくる。

何かの始まりを告げるような、心を奮わす笑顔に捕らわれ立ちすくむ。その一瞬で香穂子は、俺が渡した花火を一度袋に戻し、取り出した別の一本に火を付けると、雨上がりの空のような笑顔で振り仰ぎ少し先へと駆けだしていった。



「香穂子・・・っ!」
「蓮く〜ん、ほら見て! 私から蓮くんにラブレターだよ、花火のハートマークなの」


危ないからと声をかけるまもなく、火の付いた花火を持ったまま、香穂子は軽やかに庭へ駆けだした。我に返った時には数メートル離れた向かい側にいて、赤い炎が吹き出る花火を俺に向けながら、絵筆のように大きく夜空のキャンバスに描き始める。赤い花火の光が暗闇へ残す軌跡が描いたものは、彼女の想い・・・赤く大きなハートのマークだった。



大人になるにつれて、純粋に心をときめかす事が少なくなったと思う。だが君といると、無邪気な子供のような純粋な心を取り戻したり、喜びを表すことができるんだ。どこか懐かしいような・・・それでいて自分の知らない新たな一面を見るように、浮き立つ気持が溢れてくる。

楽しそうに頬を綻ばせながら、手持ち花火に夢中になる香穂子を見つめていると、柔らかな毛布で包まれているように心が温かく緩んでくるのはなぜだろう。きっと俺も、君と同じ顔をしているのだろうな。


ふと足下に視線を向ければ、袋に収まった花火たちが微笑み俺を呼んでいる。その中で強く呼びかける一本を手に取り、キャンドルの火を移せば青い光を放つ火花が真っ直ぐ吹き出した・・・君へ向かって。


香穂子、君が好きだ。君を好きになって良かったと、そう思う。
いつも俺はもらってばかりだが、俺も君に何か届けられるだろうか?
俺も想いの形を描こう、そして捧げよう。この花火で描く夜空のハートマークを、君に。