カノープス通信
2003年2月号−2

目次
・今月の面白探し
・近況報告『私は見た!』
・再録エッセイ『夢の話いろいろ その1』
・エッセイ『1999年はまだ来ない』
・読書録
(今月は『グインサーガ外伝・宝島』他です)
(オンライン小説感想録はお休みです)



今月の面白探し

★テレビで、子供たちが毎週見ているアニメが始まったので子供たちを呼んだ時の会話。
私:「健太郎ー、『あたしンち』、はじまったよ!」
夫:「え? 『だまし討ち』?」
……それは、いったい、どんな番組なんでしょう(^_^;)

★テレビを見ていた夫の聞き間違いです。
テレビ:「捨て猫の赤ちゃんが……」
夫:「えっ!? ステテコの赤ちゃん?」
……ステテコをはいた赤ちゃんなんかいるのかと思ったそうです。

★子供のおやつにドーナツを買ってきた日の会話。
夫:「(今日は食べるものがいっぱいあるから)ドーナツあしたにする?」
私:「えっ、アシカにする?」。

★新聞広告を見ていた夫が、
「また新しいセブンイレブンが出来るんだ。『茂原のB地点』だって」というので、茂原市には『A地点』『B地点』という地名があり、その『B地点』にセブンイレブンが出来るのかと思ってびっくりしたら、夫は『茂原のビーチ店』と言ったのを、私が勘違いしたのでした。

★私がパソコンをやっていると、夫が後ろに来て、
今日『ドラえもん』見せてね」と言いました。
なんでそんなことを私に頼むのかと思ったら、「ちょ〜っとメール見せてね」だったのでした。



近況報告『私は見た!』

<その1>

 このあいだ、パート先のクレープ屋のお向かいのラーメン屋のコーヒーバーで、お客様が、アイスコーヒーのグラス(一応耐熱ガラス製)にホットコーヒーを注いでいました。
 本当は、あの店のコーヒーバーは、ホットならホット、アイスならアイスしか飲めないシステムになっているのですが、まあ、一杯目はアイスコーヒーが良かったけど二杯目はホットが飲みたくなったのかもしれないし、アイスコーヒーと間違えてホットコーヒーのボタンを押してしまったのかもしれません。
 そのお客さんは、そのまま、慌てるでもなく、その湯気の立っているグラスをもって自分の席に帰ったので、そうか、ホットコーヒーが飲みたかったのかと思って見ていました。

 ところが、その後、そのお客さんは、いれたてのホットコーヒーを、アイスコーヒーの時に使っていたストローで飲みはじめました!
 別に、まだそれがホットコーヒーだと気がついてなかったわけではないと思います。見るからに湯気が出てるし、カップを持つ手も熱いだろうし。
 一口飲んで、わっと驚いたりした様子もありません。そのまま、平気で、談笑しながら、ちびちびと飲み続けています!
 ……びっくりしました。
 世の中には、いろんな人がいます……(@_@)


<その2>

 近所の道を車で走っていたら、電柱に『キョンシー 一時間1500円』という貼り紙が!
 いったいこれは何のこと? キョンシーのレンタル? まさか!
 不思議に思っていると、また別の電柱にその貼り紙があり、今度はちょうど赤信号で止まったので、よく見ることが出来ました。すると、それは、『チャイニーズパブ・キョンシー』のポスターだったのでした。
 すごいネーミングですよね(^_^;) いったい、どんな店なんでしょう……。その名前をつけた人の頭の中では、『中国といえばキョンシー、キョンシーといえば中国』だったのでしょうか……。

 ヘンな名前のパブといえば、さっき、また、電柱にパブの捨て看板が立てかけてあるのを見かけたんですが、その店の名は、『へヴィ級パブ・にく美人』! きっと、ぽっちゃり美人ばかりいるパブなのでしょう(^_^;)



再録エッセイ『夢の話いろいろ その1』


『色付きの夢』

 子供のころ、私の周囲では、どういう根拠があるのか『色付きの夢はキ○ガイが見る』という俗説が流布していましたが、私の夢はたいてい色付きでした。
 たぶん、いつもいつも色付きというわけではなくて、色のことが特に印象に残っていない夢は『白黒』だったということになるのでしょう。
 そのかわり、目が覚めた時に色のことが印象に残っているような場合は、その色がそれくらい印象的だったということなのです。

 ある時、夢の中で、とても美しい色の海と空を見たことがあります。
 その夢はなかなかおもしろい夢で、私が大冒険の末に仲間たちをどこからか救い出すといったような内容だったのですが、その冒険の詳細や、誰を何から救ったのかなどということは今ではすっかり記憶がぼやけ、ただ、戦い済んで夜が明けて、仲間たちと見た海と空との、その、淡く霞みながらもどこまでも澄み渡った穏やかで清らかな水色だけは、今でも鮮やかに思い描くことができます。

 また、時には色そのものがメインの夢を見ることもあって、ある時は夢の中で不思議な列車に乗って地下の洞窟を旅してゆくとなぜか地底に宇宙があって、そこでは、目も眩むような極彩色の光と闇が上にも下にもあたりいちめんにうず巻いていて、その鮮やかな色彩の乱舞こそがその夢の白眉だったということもあります。

 それにしても、なぜ私の夢にはよく色が付いていたのでしょうか。昔、私が、奇行癖のために一部の級友から『キ○ガイ』だと思われ、そう呼ばれていたのは事実ですが、だからといって本当に自分が『キチ○イ』だったとは思いません。

 そういえば、『色付きの夢はキチガ○が見る』という俗説の他に、こちらはずっともっともらしい、『例えば画家など、色彩に常に関心を持っている人は、よく色付きの夢を見る』という説も、どこかで読んだことがあります。

 たしかに、子供のころ、私は絵を描くのが好きでした。
 絵は、当時かなり問題児だった私の唯一の取りえで、いつも、いろんなものや風景を見てはその色彩に注目し、感動し、時には、その色をどうすれば紙の上に再現できるだろうかと考えたりしていました。今はもう、私は絵を描き(描け?)ませんが……。

 最近、色付きの夢をあまり見ません。あの頃の、『色彩』に対する、ひいては自分を取り巻く『世界』に対する素直で新鮮な驚きや感動を見失いかけているのかもしれないと思うと、ちょっと寂しい今日このごろです。


 『空を飛ぶ夢』

 『空を飛ぶ夢』というのはおそらく、『追いかけられる夢』などと同様に、たいがいの人が一度くらいは見たことのある、非常にポピュラ−で典型的な夢のひとつでしょう。

 ところが、この、『夢の中で空を飛ぶ』という行為、ひとくくりに『空を飛ぶ』と言っても、その具体的な方法は、実は、人によってまったく違うらしいのです。
 たとえば、両腕を鳥の翼ようにばたばたさせて飛ぶ人、何もしなくても思っただけで自由自在に飛び回れる人、あるいは幽体にでもなったかのようにただふわふわ浮かんでいるだけの人。
 中には、『飛ぶ』のではなく『跳ぶ』――つまり、跳躍の滞空時間や飛距離が長いだけ――という例や、『空を歩く』という話も聞いたことがあります。

 さて、私の場合はというと、情けないことに、必ず『平泳ぎ』なのです。

 夢の中で、私は、水の中を泳ぐ時と同じように、一生懸命手足を動かして空気を掻きます。これは水中でやるのと同じようになかなか力が要り、けっこう疲れます。ところが、一瞬でも手足を動かすのをさぼると、たちまちすとんと高度が落ちるのです。で、慌ててまた必死で漕いで、高度を上げなければなりません。わりと難儀な飛び方です。

 しかも、悪いことに、私が夢の中で空を飛ぶ場合、それは単なる呑気な空中散歩であることなどまずなくて、たいていは、地上の誰かから逃げたり隠れたりするためなのです。だから必死です。
 それなのに、現実の世界で水泳がそれほど得意でない私は、夢の中でも現実の自分が平泳ぎで出せるはずのスピ−ドしか出せず、また、腕力も現実と同じ位しかないらしく、すぐに疲れて、長く飛び続けるとますますスピ−ドが落ちます。
 平泳ぎよりクロ−ルのほうがスピ−ドが出るのでは、と思いついてためしてみたことも何度かありますが、これがまた全然だめで、すぐに『沈んで』しまって波状にしか飛べず、非常に不安定です。却って遅くなります。これも、現実の私がクロ−ルが苦手だからでしょう。

 それから、ス−ピ−ドが出ない以上に困るのは、高度が出ないことで、私の夢の中にはちゃんと重力があるらしく、上昇することは、水平方向に飛距離を伸ばすよりずっと体力的にキツイのです。上に行けば行くほど空気が重く、固くなる、という感じでしょうか。ちょうど、水に潜る時、深くなればなるほど、力まかせに水を掻いてもあまり下に進まなくなって、たとえ息が続いても体が浮かんでしまうという、あんな感じで、空が飛べても余り高いところへはいけないようにできているようです。

 どのくらい高くまで飛べるかはその時の疲れ具合と夢の内容次第(気楽な夢の時ほど高く飛べるらしい)ですが、普通はせいぜい二階建ての建物の屋根を越えるのがせいいっぱい、しかも、夢が悪夢に近くなるほど高度はさらに落ちて、時には、焦っても焦っても、地上の人間の頭上をかすめるほど低くしか飛べず、伸ばした腕に捕まりそうになることもあります。
 ただでさえ平泳ぎの動作は少々カッコ悪い上に、これではまるで『竹竿仙人』、情けないこと甚だしいです。

 夢の中なんだから、もっと高く、自由自在にスイスイ飛び回れたり、ス−パ−マンみたいに力持ちになっていたりしてもいいはずなんですが、なぜか、そうはいかないんですよね。夢の中で追手から楽に逃げ切るためには(←こいつには立ち向かうという発想は全くない……(^_^;))、私は、現実の世界で、ジムにでも通って体を鍛え、水泳を練習する必要があるらしいのです。
 これはもしかして、『おまえは運動不足だから少しは体を鍛えておけ、でないといつか窮地に陥った時に困るぞ』という、守護霊からの忠告でしょうか。だとしたら私は、その忠告を、かれこれ20年以上も無視し続けていることになりますが……。

 みなさんは、夢の中で、どうやって飛びますか? 「私も平泳ぎ派!」という人、いらっしゃいませんか?

オフラインのサークル誌『ティールーム』より再録




1999年はまだ来ない 〜'63年生まれの自画像〜

 夢といえば、先日、他サイトさんの小説感想掲示板で、小説の感想から発展して、夢の中では自分が子供であることが多いという話をしました。その後、そこからさらに勝手に脱線して延々と世代論をぶってしまったのですが、あまりに長い上に、その小説とは関係ない内容だったので、下書きの段階で途中から削除して、ここに引っ越してきました。

 自分の見る夢の中で、私は、たいてい、子供です。
 別に子供時代の思い出の夢じゃなくても、夢の中では、今現在の私が、子供の姿なんです。夢の中で、はっきり年齢がわかることは少ないですが、たいていは、なんとなく小学生くらいの子供であるように思います。あるいは、高校生から二十歳前後くらいの、特に大人でも子供でもない年頃のような気がする場合も多いです。
 たまに、夢に息子が出てきたときは、夢の中でも自分がちゃんと彼の親であるという自覚はあるのですが、親であると言う自覚はあっても、大人の姿をしているかどうかは、いまいち疑わしいところ。
 もし、夢の内容を自動的に映像化する装置があったら、高校生くらいの女の子が子供を連れて親らしく振舞っている映像が出てくるかもしれません(^_^;)
 たぶん、それが私の、『心の自画像』なんだろうと思います。

 ……という話を、よその掲示板でして、そこから、『大人になっても子供のままの気持ちで居る人は多いのでは』という話になり、さらにそこから世代論に突入しかけて、そこで自粛したんですが……。

 今、30代後半から40前後である私たちの世代というのは、特に、いつまでも大人になりきれずにいる世代なのかも知れません。

 私は、1963年生まれです。
 初代新人類であり、元祖オタク世代であり、モラトリアム人間であり(この言葉、今の若い人は知らないかも?)、母親になってもクマのぬいぐるみ抱いてフリフリドレスで歌ってた松田聖子の世代です。
 十代の頃には、『子供であることこそが至高の価値で、大人になるということは堕落であり人生の終わりだ』みたいな価値観が漠然と周囲にはびこっていたような気がしますし、そもそも、私は、自分が大人になるまで生きているとは想像していませんでした。
 別に自分から進んで死ぬ気はなかったけど、わざわざそんなことしなくても、どっちみち1999年で世界は滅んでしまうはずでしたから(^_^;)

 もちろん、ノストラダムスの大予言など、別に本気で信じてはいなかったのですが、それでも、やっぱり、心のどこかで、自分の人生はせいぜいそれくらいまでだろうと言う気がしていました。『そっから先のことなんて、考えたってしかたないや』、みたいな……。

 そもそも、1999年にまだ自分が生きていて大人になっているなんて想像も不可能だったので、そんな先に世界が滅びようがどうしようが知ったこっちゃないと思ってたのです。1999年以降の、30代も半ばを超えた自分などというものが、どうにも想像できなかったので、もし、自分が1999年にまだ生きてたとしたら、そんなのはもう余生も余生、人生の残りかすであり、そんな命はもういつ終わっても惜しくないはずと思っていました。

 だから、いまだに、『ふと気がつくと自分がもうとっくに大人になっていた』と言うことが、心の底では信じられずにいるんだと思います。

 今の女子高生って、刹那的なようでいて、あれはたぶん、自分がすぐに歳をとって大人になっちゃうって知ってるから、そうなるまえの人生の短い黄金時代を駆け足でめいっぱい味わおうとして、刹那的に見える行動をとっているのだと思います。
 たぶん、彼女たちの方が現実的なのです。
 彼女たちには、もう、自分が大人になる前に世界を終わらせてくれる『1999年』は、用意されてないのですから。

 その点、初めから未来に『1999年』を用意されていた私たちの世代は、『大人になった自分』像というビジョンを持たずに育ち、いまだに長い長いモラトリアムの夢を生きていて、心は永遠に’70-sの夢見る女子高生なのですね。
 私たちにとっては、1999年は、いまだに訪れていないのかもしれません。
 私たちは、たぶん、まだ、長い長いモラトリアムの夢の中で、まだ1999年が訪れていない世界を生き続けているのです。

 そういえば、昨年の9月の『月刊カノープス通信』で『リヴァイアサン 終末を過ぎた獣』 大塚英志(講談社)という本の感想を書きましたが、あれはまさに、そういうお話でした。
 あのお話の舞台は、『昭和74年』の東京。そして、これは超ネタバレなのですが、実は、その世界は、1999年の世界の終わりの日に死んでしまったけれど自分が死んだことにまだ気づかずにいる魂たちが見ている夢の世界なのです。
 この本の世界が、私には妙に居心地がよく懐かしかったのです。その、姿無き終末の予感だけが漂う『昭和74年の東京』が。
 それはきっと、私も同じ夢の中を生きているからです。

 私は、この夢から、いつか、覚めるときが来るのでしょうか。
 私も、もう20年も、大人として、社会人としてそれなりの人生経験をつみ、就職もし、結婚もし、子供も生み育て、人並に多少の試練も経て(な〜んて偉そうに言うほどたいした経験があるわけでもありませんが(^^ゞ)、それなりに変化し、成長してきました。そして、その中で、幾度かは、夢から覚めたような気がしてきました。世界は自分が思っていたものとは違ったのだと気づいたような気がしたり、自分が今までとは違う自分になれたような気がしたり、今まで地上5ミリに浮いていた足がはじめて地面についたような気がしたり。

 けれど、振り返ってみると、結局、それらはみな、夢の中で夢から覚める夢を見ていただけのような気もします。
 結局、私は、たぶんまだ、生ぬるいモラトリアムの夢の中にいるのです。

 これから私は、親の死や介護、自身の老いや病苦など、さまざまな現実の試練と向かい合うはずです。もうそろそろ、のほほんとモラトリアムしていられる歳ではなくなるはずです(……いや、今だって、実はのほほんとしていられる状態じゃないのですが(^^ゞ))。
 そのときも私は、それら人生後半に訪れる種々の試練を、夢の中の出来事のように体験していくのでしょうか。それとも、そのとき、私は、ついに長い夢から覚めるのでしょうか。
 案外、どんな苦労をしても、すべて夢の中の出来事であるかのように思いながら、アニメやティーンズ小説を楽しみ続け、永遠の十七歳の心を抱いたまま、なまぬるい夢の中で死んで行くのかもしれません。
 それも、悪くないのかもしれないなと思います。




読書録

『グインサーガ外伝・宝島(上・下)』 栗本薫・作 (早川文庫)
 上下二巻で完結したお話ではありますが、これは、『グインサーガ』と言う大巨編の『本体』無しには成り立たなかった作品ではないかと思います。
 内容的には、全く、完全に独立してるんだけど、でも、これは、『あのイシュトヴァーンの少年時代のお話』であってこそ説得力や感慨を持ちえた話で、これを全く単発でやったら、たぶん、ほとんどの読者にとって、ずいぶん納得しがたい内容でしょう。
 『少年時代の終わり』を描いたという意味で、紛れもなく成長小説なんだけど、普通なら、『成長小説で、これはないよなあ』という内容です。普通なら、受け入れられないと思います。これと同じストーリーが、他の人によって他のキャラで描かれて新人賞か何かに持ち込まれたとしたら、もし文章や構成が水準以上に巧かったとしても、内容面で、『こういうものは読者の一般的な共感を得られない』と言われてしまうんじゃないかという気がします。

 それが、栗本大先生の魔法の筆によって『あのイシュトヴァーンの』物語として提示された時には、ものすごい説得力を持つのです。「なるほど、イシュトヴァーンだから、こういうこともあるだろうな」と、すべて納得できちゃうのです。
 成長のものがたりといっても、読者が主人公に感情移入して主人公と一緒に成長を経験する物語ではないのです。あくまで、『ゴーラの狂王イシュトヴァーンの』青春のアルバムとして、悲しくも美しいのです。

 数多いグインサーガ・キャラの中でも、イシュトヴァーンというキャラクターの造形は、すごいと思います。個人的にイシュトヴァーンが特に好きということはないのですが、とにかく、その存在感とリアリティはすごいと思うのです。すごいというか、もう、何か人間の技を越えた、作為を超えた、すさまじいものを感じます。

 イシュトヴァーンは、作中で、もっとも変化の激しいキャラの1人で、その時々で全く違う人格に見えたりするのですが、そういう、『その時々で全く人格が変わってしまう人』として、確固たる存在感、統一された個性を、間違いなく持っています。
 『その時々でころころ変わるからキャラとして一貫性が感じられない』というのではなく、ちゃんと『ころころ変わる人』としての一貫性があるのです。
 そんな離れ業が出来るのは、やはりグインサーガだからこそ……、あの密度と量のある分厚い物語世界がそこにあるからこそでしょう。

 そういう、物語世界の厚み、キャラの厚み、物語の中を流れる時の重みが背景にあるからこそ、この陰惨な物語の底流をなすそこはかとない哀しみ・感慨が、ひしひしと胸に迫ってくるのです。

 この『宝島』の中ではただの夢多き不良少年であるイシュトヴァーンは、後に、とんでもない血塗られた狂王になって凄惨な虐殺の限りを尽くすわけですが、だからといって、何か突然気が狂って全く人が変わって悪いやつになりはててしまうのではないわけです。では、少年時代から実は冷酷無情な狂気の殺戮者だったかというと、そうでもない。
 だけど、少年らしい残酷さとみずみずしい柔らかさを併せ持つ、ある意味ではそれなりに普通の少年であった彼が、かなり人格障害に近いけれどそれでもそれなりに普通の人間らしい心も持ったままでとんでもない虐殺王になりはててしまうということに、不思議と説得力があるのです。

 実際、歴史の中でとんでもないことをしでかした人のほとんどが、実は、最初から血に飢えていて残虐なことをしたくてしたのだというわけじゃないわけです。もともと頭のおかしいサディストだった人がたまたま権力の座についたのをいいことに暴虐の限りを尽くした、なんてことのほうが、よほど珍しくて、たいていは、普通に自分の理想を追ったり、普通に現実の諸問題に対処しているうちに、いつのまにかとんでもないことになっていたわけで……。
 そういうことって、実際に多々あるわけだけど、物語の世界で、それを実感させ、納得させ、かつ、それをしちゃうキャラに魅力を感じさせ、共感させてしまうというのは、すごい力技だと思います。

 それと、もうひとつ、すごいと思ったのは、伝説の海賊王の財宝をめぐる、妙にリアルな事情の数々をちゃんと描いてしまったところ。例えば、その財宝を発見したら、過去に略奪された船の持ち主である国家がそれぞれに自国の財産の返還を要求してくるだろうとか、それを無視したら沿岸警備隊に追われることになるだろうとか、そういう、夢のない、世知辛い話が、ちゃんと出てくるんです。
 それって、普通、それを言っちゃあ冒険物語が成り立たないから、なるべく読者にそういうことを考えさせないように、しらんぷりしておくものでは? 中途半端にそういう見も蓋もない現実感覚を持ち込むと、下手するとパロディになっちゃうのでは?
 それが、ちゃんとそういうことをリアルに描いてしまった上で、それでも大冒険を違和感なく成り立たせてしまうって、意外と、すごい力技だと思うんですけど……。

 グインサーガは、やっと、本編の方も、読むのが発売に追いつき、最新刊『ヤーンの刻の刻』まで読了しました。
 本編については、ネタバレになるので、あまり書かないでおこうと思いますが……最新刊で○○○が「自分は感傷的な無駄話をしているわけじゃない」と言ってるアレは、やっぱり無駄話だと思います(^_^;)
「そんなに重病人で話すのも辛いんだったら、もっと時間と体力を有効に使って、必要なことが全部言い終わるように話せよ〜! これじゃ前置きしてる間に力尽きちゃうよ〜」と、ヤキモキしてしまいました(^_^;)

 本編でも、今回、特に、作品世界を流れる時間の重みというのを、ずっしりと感じました。
 作品の中でそんなに長い時間が流れているわけじゃないんだけど、すごく密度の濃い、重い時間が流れているんですよね。作品の中で過ぎている時間ではなく、作品の刊行にかかっている時間のほうこそが本当のあの世界の時間の重みに相当するんじゃないかと思えます。

 そうそう、いいな〜、○○○。グインの耳に触って……。私も触りたい! 鼻筋と口元も触りたい!

『パラケルススの魔剣(上・下)』 山本弘・作 (角川スニーカー文庫)
 とんでも学説のいろいろを巧みに組み合わせた伝奇SF冒険アクションホラー(?)で、面白かったのですが、なんだか、もともとはゲームのノヴェライズのさらに続編だかなんだか、いわくのある作品で、前作を読んでいないので、なじめない点もありました。
 この話自体は単独でそれなりに完結してるんだけど、そこここで、以前にあった事件とか、その時出会った人物などについて言及されるので、何か、それを知らないで読んでいるのが落ち着かない気がするのが難点(^_^;)
 飛行船が出てくるのが楽しかった!

『銀のくじゃく』 安房直子・作 (ちくま文庫)

 大昔に読んだ本の再読ですが、たまたま息子に寝る前に読んでやる本を切らしてしまったので、自分の本棚の奥から、たまたま目に付いた短編集を引っ張り出してきて何編か読んでやりました。
 ついでに、子供に読まなかった文も、自分で読み返して見ました。
 昔、一度は読んだはずの本ですが、内容はすっかり忘れていました(^_^;)

 今読み返してみると、やっぱりいいです〜、安房作品。
 特に、書き下ろし作品『火影の夢』は、良かったです。タイトルがちょっと地味だけど。
 『魔法のストーブ』とかなんとか、もっと子供の興味を引くタイトルのつけようがいくらでもあったはずの内容なんですが、あえてこの渋〜いタイトルにしたのは、文庫書下ろしということもあって、完全に大人向けのつもりだったんでしょうか。実際、大人向けの幻想作品です。

 私と安房直子作品の出会いは、小学生の頃、たまたま夏休みの課題図書としてめぐり合った『ハンカチの上の花畑』でした。あの物語は、当時はぴんと来なかったんだけど、それでも、たぶんその不気味な違和感ゆえに後々まですごく印象に残っていて、もっと大きくなってから、安房作品に再び手を出すきっかけとなりました。
 で、ちょっと大きくなってから読んだら、安房作品は、すごく良かったんです。それで、文庫本も、たまたま一冊持っていたらしいです。いつどこで買ったのか、持っていることさえ忘れてましたが。

 でも、今、たぶん私が『ハンカチの上の花畑』を読んだ年齢と同じくらいである息子は、『銀のくじゃく』も、『火影の夢』も、一生懸命聞いていたものの、ラストシーンで、「えーっ……。なんて終わり方なんだ〜!」と、が〜んとショックを受けて、不満を漏らしました(^_^;) 素朴に普通のハッピーエンドを期待していた彼にはl、よほど納得いかなかったようです。
 はい、あれは、童話だけど、子供にはわかりませんね(^_^;)


『月刊カノープス通信2月号』前ページ(今月の詩)
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