カノープス通信
2002年11月号−2

目次
・季節の便り
・今月の面白探し
・ナスのレシピ
・おじいちゃんのお宝
・読書録
(今月は『日本怪奇幻想紀行』他です)
(オンライン小説感想録はお休みです)



季節の便り

 今朝、庭先に、アケビが落ちていました。
 栗も、毎朝、たくさん落ちています。隣の山から、いろいろ降ってくるのです。
 空から食べ物が降ってくる季節……(^^) 実りの秋っていいですね♪……(って、庭先に栗やアケビが勝手に落ちてくる家なんて、あんまり普通じゃないですよね、たぶん^_^;)

 実りの秋といえば、このところの我が家の楽しみのひとつは、隣家の柿。
 隣の庭に、とてもおいしい実のなる柿の木があるのですが、その枝が、うちの敷地のほうに張り出してきていて、お隣りさんが、そっちの方にはみ出している分は勝手に取って食べていいよと言ってくれているのです。しかも、その、はみ出している分というのは、たぶん、木全体の三分の一近いのです。

 お隣りさんが言うには、最初はこんなことになるとは思わず、たまたま庭の隅のほうに柿の苗を植えたら木が大きくなりすぎてこういう状態になってしまって申し訳ないということで、たしかに、うちの庭や家の前の路地に張り出している柿の木の枝は、ちょっと邪魔なのですが(庭が日陰になるし、鯉のぼりのポールが立てられなくなったし、車で出入りするときに、毎回、枝が車に当たる^_^;)、でも、そのおかげで、うちでは、隣のおじさんが大事に育てている柿を三分の一も取らせていただけるのですから、我慢してもおつりが来るというものです!
 しかも、今年はまた、当たり年らしく、毎日食べ放題で、超ラッキー\(^o^)/
 食後にちょっとフルーツが欲しいなと思えば、子供に鋏を渡して、『ちょっと、柿、取ってきて』。まさにもぎたて! (あ、隣家の敷地はうちより一段低くなっているので、柿の枝は、子供でも手の届く高さに張り出してきているのです。ますますラッキー!)

 ……こんなにもらっちゃって申し訳ないような気もするのですが、たぶん、お隣さんは老夫婦お二人なので、そんなにたくさん食べないのでしょう。ご近所におすそ分けしようにも、このへんじゃ、ちょっと古いうちならどこでも柿の木があるのがあたりまえだから、あげる相手も、あまりいないでしょう。
 というわけで、遠慮なくいただいております(^^)

 あっちにもこっちにも柿が実ってる光景って、のどかで良いものですよね。
 まさに日本の秋という感じです。



今月の面白探し

★私がパートしているクレープ屋に、ある日、外国人の方が来て、コーヒーを注文してくださいました。
 外国人といっても、片言の日本語を話せる方で、注文も、ちゃんと日本語でした。
 で、私が、『コーヒーは、お替わり自由です』というと、頷いて、コーヒーのお盆を持って客席に行きました。
 ところが、しばらくすると、その方がコーヒーバーのところに来て、コーヒーを注がずに、なにやら硬貨を一枚持って、何か言っているのです。
 (お替りは自分で勝手に注いでいいんだけど、分からなかったのかなあ)と思って、様子を見に行ってみると、その方は、
「オカワリ、ジュウ(10)?」と尋ねながら、十円玉を差し出そうとしていたのでした。

★夫が、何かしている子供に、何をしているのか尋ねました。
  息子:「片付けしてたの」
  夫:「え? 赤頭巾してた?」
 ……何か、赤頭巾ちゃんのごっこ遊びでもしていたのかと思ったらしいです。

★夫:「(今日はおかずがいっぱいあるから)ひややっこは明日にしよう」
  私:「え? ヒライ・アキコ? 誰、それ」

★夫:「タイ料理、食べたいなあ」
  私:「えっ? 茶色いのって何?」

★私:「チャットのIDの変更とか……」
  夫:「え? チャックが開いてる?」

★息子が、抜けかけた乳歯がぐらぐらして堅いものが食べられないというので、おじやを作ってやりました。で、野菜を細かく刻みながら、
「久しぶりに離乳食作っている気分」と夫にいうと、
「え? 久しぶりにイリュージョン作ってる気分?」と驚かれました。
 私はプリンセス・テンコー?

★休日に夫が昼寝をして、目を覚ましてもまだ眠いとこぼした時の会話。
私:「寝た後は眠いよね」
夫:「え? デザートは耳?」

★テレビで、ナポレオン(だったかな?)の伝記の番組をやっていました。
「いじめられ、焦げ付いていた少年時代……」というナレーションに、頭の中が「??」。
 『焦げ付いていた』って、『(面白くないことがあって)クサっていた』とか『(恋愛などが)煮詰まっていた』とか、何か、そのテの慣用句のひとつなのでしょうか……と、しばらく考えていたら、ふと、気がつきました。
 どうやら、『いじめられ、孤立していた』の効き間違いだったようです。



近況報告・ナスのレシピ

 夫が突然思い立って、長らく半放置中だった自分のHPを改装しはじめました。
 で、絵描きとしてのお仕事の部屋と趣味の部屋を別け、趣味の部屋に、なぜか、いきなり料理のレシピを載せ始めたのです。

 きっかけは、夫の弟からメールで『ナスはどうやって料理するんだ』と聞かれたこと。
 夫が即座に数種類のレシピをあげると、『兄ちゃんよく知ってるね、HPにレシピを公開すれば喜ばれるんじゃない?』などと褒められて、なるほど、と、本当に、そのメールに書いたレシピを、ほぼそのまま公開してしまったのです。
 第一弾はナスだけど、これからいろいろ増やしていく予定らしいです。

 が、このレシピ……。
 『ナスを斜め(か立て、横でもいいや)に切って……』とか、『火が通るまで焼く』とか、『時間は適当』とか……(^_^;)
 味付けだって、分量なんか書いてない。『砂糖と醤油(適量)』って感じ。
 これって、ほとんどレシピの意味がないんじゃ……(^_^;)

 でも、それは、私のせいなのです。
 なぜかというと、夫のナス料理のレパートリーは、すべて私の直伝だから。
 夫は、昔、調理師になろうかと思ったことがあるというほど、結婚前から料理は好きで得意だったらしいのですが、ただ、ナス料理はぜんぜん作ったことが無かったのです。なぜかというと、ナスを切るときの、あの、スカっとした手ごたえが嫌いだったんだそうです。
 それが、ナスが大好きな私と結婚して、一緒に料理をしているうちに、ナスの切り心地にも慣れ(でも、今でも出来れば自分ではあまり切りたくないらしい)、いつのまにかナス料理をたくさん覚えたのです。

 というわけで、弟へのメールにナスのレシピを書いた際にも、夫は私にレシピのいくつかを確認したのです。
 でも、そのとき私は、
「焼きナスって何分くらい焼くの?」等の夫の質問に、やっぱり、
「え〜? 焼けるまでー」とか「ん〜? テキトーにィ」などと答えたのです(^^ゞ

 私、自慢じゃないけど、料理を作るとき、調味料の量なんか量ったことがありません。
 そりゃ、今じゃ主婦暦も十年を超えて、ベテランとまではいえなくても中堅の域に入っていますが(しかも、大学入学で一人暮らしを始めた18の時以来、ほとんど毎日自炊し続けてきたから、料理暦は『ベテラン主婦』並み?)、でも、私が調味料の量を量らないのは、ベテランだからじゃありません。
 そもそもの最初から、調味料をちゃんと量ろうなんて思ったことも無いのです!

 よく、ベテラン主婦の方は、計量カップや計量スプーンの替わりに、お玉だの、その辺のお猪口だので調味料を量るものらしいですが、私は、自慢じゃないが、それすらも、まず、やりません。醤油でも何でも、ビンから直接、適当にどぼどぼっと鍋に入れてしまいます。
 私が調味料をおおざっぱにでも一応は量るのは、新聞や雑誌などで見かけて出来上がりがどんな味なのか見当のつかない、まったく未知の料理を作るときだけです。初めて作る料理でも、出来上がりの味がだいたい想像つくものなら、すべて『テキトー』!!

 でも、それで、別に、そんなに変な味になったことは無いような気がします。
 それは、私が料理がうまいからではなく、料理の味なんて、ちょっとくらい濃くても薄くても甘くても辛くても、ぜんぜん気にしないからです!

 というわけで、夫の書いたナスのレシピ。 こちらです。
 私はナスが大好物で、ナス料理のレパートリーは非常に多いので、これは、その、ごく一部です。
 夫は、これらの料理を、もともとは私から習い覚えたはずなのに、すでに私のレシピとは微妙に差異が生まれているのが面白いです。
 でも、どっちが作ったのも、ほんのちょっと味が違うけど、どっちでもおいしいのです。私が作ったのは微妙に私風の味、夫が作ったのは微妙に夫風の味というだけです。だいたい、私が作るとなんでも素材の持ち味を生かしたシンプルで淡白なあっさり味、夫が作るとなんでも妙に複雑でこってりした『謎の中華料理』風になることが多いです。

 そうそう、そろそろナスの季節も終わりですが、あそこに載っている、『揚げナス風焼きナス』は、お薦めですよ!
 普通、焼きナスは、皮ごと焼くのですが、これは、皮を剥いて、薄く油を塗って焼くのです。
 普通の焼きナスより旨みがあり、かつ、揚げナスほど油っぽくなく、しかも、ここがポイントなのですが、オーブントースターで作ってもちゃんとおいしくできるのです(普通の焼きナスはオーブントースターで作るよりガス台に網を置いて焼くいたほうがだんぜんおいしい)。
 しかも、焼けた後で、熱いうちに我慢して皮を剥くという手間がかかりません。
 また、焼きナスは、普通、ヘタの部分を残しますが、私は、これを作る場合は、焼く前に、ヘタの部分を切り落としてしまいます(『揚げナス風』じゃなく、最後に皮を剥く普通の焼きナスなら、ヘタを残しますが)。
 そのほうが、丸ごと食べられて、子供でも食べやすいです。
 皮は、縦に縞々に残して半分剥いてもいいし、全部剥いてしまっても構いません。
 油の塗り方は私と夫で差があって、私は、油を含ませたキッチンペーパーでナスを拭きます。本来は刷毛で油を塗るんだったのですが、刷毛を使うのは面倒なので工夫しました。油を入れたお皿の中で転がすという夫のやり方だと、あっさり派の私の好みから言うと、油がつきすぎます。

 ちなみに、この、揚げナス風焼きナスは、もともとは実家の母の直伝ですが、油の塗り方や皮の剥き方など、すでに私によって微妙にアレンジされています。
 私の料理のレパートリーは、ほとんどが自分で本や新聞の料理記事で覚えたり、それをテキトーにアレンジしたり、自分でテキトーに考案したりして身につけたものですが、中には、この料理のように、実家の母から習い覚えたものも小数ながらあります。
 でも、それらのレシピを母に確認しようとしても、たぶん、
「え〜〜、 そんなのテキトーだよ〜」という答えが返ってくるだろうと思われます……(^_^;)



近況報告・おじいちゃんの『お宝』

 このあいだ、夫の実家に日帰りで行って来ました。
 夫の実家は同じ千葉県内で、車で一時間ちょっとで行けるのです。
 夫の実家は、海のそば。おじいさんの代までは網本だったそうです。
 でも、今は亡き義父は、沿岸漁業の漁師ではなく、遠洋漁業の船員でした。
 マグロ船の機関長だったのです。
 はるばると世界の海を航海して珍しい土産物や土産話を持ち帰り、気が向くと外国で覚えてきた珍しい料理を作ってくれたり、時には外国人の友達から読めない手紙が届いたりもする(片言の数カ国で現地の友人と会話は出来たけど、外国語の読み書きは出来なかったらしい)、短気だけれど陽気でおしゃれで逞しい海の男のお父さん、子供心に、さぞや自慢だったことでしょう。

 そんなわけで、夫の実家には、今でも、いろいろと外国土産の珍しい飾り物があります。義父の遺品です。
 たとえば、義父が『アラフラ海の真珠貝』だと言っていた、額入りの美しい貝殻。
 先日、義母に、「そういえばアラフラ海ってどこなんですか」と聞いたら、義母も知りませんでしたが、『アラフラ海の真珠貝』って、なんかすごい、ロマンチックな響きじゃないですか? こういう響きに出会うと、何か、アラフラ海が本当はどこにあるのかなんて、知らなくてもいいという気がします。そんなことは知らないままに、アラフラ海というのはどこか物語のような夢の世界にあるロマンの海だと思っていたいという感じです。
 あとは、デフォルメされた人物や動物などのアフリカの木彫り像、南米の神様の像、ダチョウの卵で作った置物、巨大な水牛(?)の角の壁掛け、象牙製品等の珍しい民芸品の数々や、子供が背中に乗れそうな海ガメの剥製など。
 今なら間違いなく法律に引っかかりそうなものもありますが、もしかしたら、当時でも実はひっかかってたものもあるかもしれませんね(^_^;)

 で、先日は、夫が、正体不明の何かの殻(ひょうたんだか椰子の実だか……)で作られたどこかの国の民芸品の小箱を開けてみたら、中には外国のコインがじゃらじゃらと……。
 大きさも形もさまざまで、中には直径4、5センチもありそうな、いかにも『銀貨』という感じのものや、回りが歯車のようにぎざぎざになっているものなど、珍しげなものもあります。国もさまざまで、英語や、英語じゃなくても英語圏のアルファベット文字が使われているものはおよそ見当がつきますが、中には、まったく読めない文字しか書いてないものもあります。
 で、中には、カビかけたり、青く緑青を吹いてしまったものや茶色くさびてしまっているものも。
 普通、硬貨なんて、長年使っても、そうそう錆びたりカビたりしないものだと思うのですが、使わないで、風通しの悪い小箱の中に入れっぱなしだと、ああなるんですね。もしかすると、潮風の飛沫を浴びたり海水で濡れた手であつかわれたりして、塩分がついていたせいかもしれません。

 でも、その、錆びたりカビたりして古びて見えるところが、子供たちにとっては、かえって『お宝』感を醸し出す楽しい効果となったようです。
 長男は、それを見て、突然、オウムの口真似で『八銀貨、八銀貨、八銀貨!』と叫びだしました(最近、たまたま家にあったスティーブンソンの『宝島』を読み聞かせてやっているところだったのです)。

 このように、いろいろ面白いコレクションがある夫の実家ですが、おじいちゃんのお宝の極めつけは、やっぱり、巨大なアンモナイトの化石でしょう!
 これは、一時期、今は亡きおばあちゃん(子供たちにとっては曾おばあちゃん)によって漬物石として使われていたという情けない過去のある、不遇なお宝なのですが、つまり、漬物石にちょうどいいと思われてしまうほどに大きなものなのです。

 アンモナイトの化石って、よく博物館などで売っていますが、ほんの小さなものでも、けっこう何千円もしますよね。それから考えると、あの、漬物石にちょうどいいほどでっかいアンモナイトって、もしかして、ものすごいお宝なのでは?
 でも、そもそも、あれって、本当に本物のアンモナイトなのでしょうか……? 本物だとしたら、あまりにもすごすぎる! お義父さんは、あれを、いつ、どこで、いくらで買ったのでしょうか? お義父さんが存命のうちに、もっといろいろ話を聞いておけばよかった。

 お義父さんは、とにかく短気で超怒りっぽかったので、存命中は気安くおしゃべりなんてしなかったのですが、根は陽気で冗談好きで、たいへん個性的で面白い人でもあったので、今にして思えば、元気なうちに、機嫌のいいときを見計らって船乗り時代の思い出話をせがんでいれば、もしかすると喜んで、駄法螺や大言壮語を取り混ぜていろいろ話してくれたのかもしれないという気もします。もったいないことをしたかもしれません。

 というわけで、私は、ぜひ一度、あのアンモナイトを『何でも鑑定団』に出してみたいぞ!




読書録

『日本怪奇幻想紀行 一之巻 妖怪/百鬼巡り』 (同朋舎発行・角川書店発売)
 高校生の頃、私は、天狗の研究に凝っていました。
 今でこそ、世は妖怪ブーム、妖怪好きの高校生なんて珍しくもないでしょうけれど、当時は、妖怪研究なんて、若者の間ではぜんぜん流行っていなかったので、図書館で毎回一冊づつ柳田國男全集を借り出していく私は、かなり珍しい、変わった存在だったはずです。居住地の公共図書館だけでは飽き足らず、わざわざ電車で都立日比谷図書館などにまで足を運んで民俗学の本(それもことさら怪しげな傾向のもの中心)を片っ端から借り漁ったりしていたのです。

 これは大いに自慢なのですが、私、知切光歳著『圖聚 天狗列伝』という、二冊セットの、ものすごく立派な本を持っています。高校生のときに、何ヶ月もお小遣いを切り詰めて、清水の舞台から飛び降りる覚悟で、近所の本屋に取り寄せを頼んで、やっとのことで入手した、二冊セットで3万もする豪華本です。美麗ケース入り、付録として素敵な天狗様のお札付き!
 これは、今でも私の宝物です。昔、付録のお札を部屋に貼ってしまって、画鋲の跡でコレクション的価値を下げてしまったことが悔やまれます(アイドルのポスターならともかく、天狗のお札を部屋に貼っている女子高生って……^_^;)

 私の天狗好きの根っこは、子供の頃に買ってもらった絵本の『うしわかまる』。
 その絵本の挿絵の一枚、鞍馬山で牛若丸の剣術の稽古の相手をするカラス天狗たちの図が、子供心に非常に印象的で忘れがたく、高校生になって民俗学を知った私は、子供時代の憧れをよみがえらせて天狗研究に走ったのです。

 だから、天狗といっても、私が好きなのはカラス天狗限定!
 普通の、鼻高天狗には、それほど心惹かれません。
 あの、背中の翼と顔のくちばし、そして、鳥のように空を飛ぶところがよかったのです。(翼があって空を飛ぶものが好きなら、何も天狗じゃなくても、天使でもよさそうなものですが、あいにくと、天使には、私の心を惹きつける『何か』が欠けていました)
 鼻高天狗も、羽団扇を使って空を飛ぶし、背中に翼がある場合も多いですが、彼らは、どこか権威の匂いがして窮屈そうだし、また、人間臭すぎました。その点、絵本の中で牛若丸と戯れる(?)カラス天狗たちは、鼻高天狗よりも鳥に近く、何か非常に自由で生き生きとして見え、気まぐれでいたずら好きな小妖精というイメージで、なんとも楽しげな存在に思えたのです。

 でも、天狗の研究をするのに、カラス天狗限定というのは、難しいです。
 ただでさえ民俗学というのはあちこちいろいろと錯綜して一筋縄ではいかない上に、天狗とカラス天狗はもともと完全に別物というわけじゃないので、分けて研究できるものではなく、資料もだいたい一緒くたなのです。

 というわけで、私は、高校時代から天狗マニアだったのでした。
 天狗の伝説のある山に登ったり神社にもうでたりしては、土産物屋で天狗グッズを買ったり、神社で天狗の絵入りのお札をゲットしたり、天狗像や天狗面の写真を撮ったりするのも好きでした。
 だから、たしか大学生の時だったと思いますが、たまたま鞍馬山に行く機会に恵まれた時には、おおいにワクワクしました。
 なにしろ、鞍馬山といえば、小さいときに大好きだった絵本『うしわかまる』の舞台で、牛若丸が小天狗相手に剣術の稽古をしたという、天狗の名所です。天狗界の大スター・僧正坊様の本拠地です。きっと何か、天狗様ゆかりの由緒ある史跡が見物できるに違いありません。

 が。喜び勇んで憧れの鞍馬山にたどり着いた私は、ちょっと絶句しました。
 良くあるケースのように、天狗伝説にちなんだ名所がろくに見当たらないからではありません。
 むしろ、それなら、わかるのです。
 由緒正しい古寺・名刹ともあれば、たとえば『しょ、しょ、しょじょじ♪』ではじまる童謡『しょうじょうじのたぬきばやし』で知られる木更津の証誠寺が、かつて、『うちは狸なんかとは関係ない、勝手に狸と関係あると思われては迷惑だ』と言っていたらしいように(今は路線変更して、おおっぴらに狸の寺のイメージで売り出してますが)、門前の土産物屋は天狗グッズのオンパレードでも、お寺そのものは、公式には『うちは天狗なんか知らないよ』という顔をしていてもおかしくはありません。

 ところが、ところが、鞍馬寺は、その逆でした。
 もう、どこから見てもあからさまに天狗の寺!
 仏教のお寺なのに、こんなにおおっぴらに天狗を表に出していいのか!?

 もともと、仏教の方面では、天狗は『悪魔』です。はっきりと、そう呼ばれております。
 まあ、日本の仏教は、その辺、たいへんおおらかで、鬼だろうと悪魔だろうと異教の神様だろうと、実は仏様の化身のひとつなのである、とか、改心して仏様の家来になったのである、みたいなことで何でも取り込んでしまうので、特に修験道とのかかわりの深いお寺では、天狗をお祀りしていることも多いですが、あそこのは、それどころではありませんでした。
 てっきり仏教のお寺だと思っていた鞍馬山の鞍馬寺は、なんと、いつのまにか、天狗をご本尊とする新興宗教(?)のお寺になってしまっていたらしいのです!

 なんじゃ、こりゃ! まさか、由緒正しい名所が、こんなことになっていようとは!
 まさに、目がテンです(・o・)
 なにしろ、でかでかと書いてある、お寺の縁起が、すごかったんですよ。ぶっとんでるんです。
 『今から六百五十万年前、人類救済のために金星から飛来したサナート・クマラ、こと魔王尊が白熱する円盤に乗って炎と共にこの地に天降り……』というような意味のことが書いてあるのです。
 これはまさしく、奇想天外! 面白すぎ!

 魔王尊というのが、すなわち、天狗の僧正坊らしいです。
 たしかに、僧正坊は、とても地位の高い天狗であり、『魔王大僧正』とも呼ばれていたらしいです。厳密に言うと、『魔王大僧正』と『鞍馬山僧正坊』が同じ天狗なのかどうかは、はっきりしないようですが、いずれにしてもたいへん有名な、名のある大天狗であることは間違いありません。
 ……が、『サナート・クマラ』って、何? しかも、なぜ、金星? なぜ、六百五十万年前? 鞍馬山の天狗様って、UFOでやってきた金星人だったの???
 それに、いくら僧正という高い位に叙せられてはいても、そもそもは一介の山怪であり、木霊、流星、雷、狐、とんびの類であった(らしい)天狗が、お寺のご本尊にして人類の救世主とは、あまりにものすごい出世ぶりではありませんか?

 柳田國男なんか読んで真面目に(?)天狗を勉強していた私にとっては、あれは、ちょっと衝撃(笑撃?)でした。そういえば、確かに、例の『天狗列伝』にも、鞍馬山には不思議な縁起が書かれた看板が立っているという話がちらっと書かれていていましたが、まともに相手にされていなかったのでしたっけ。
 あまりの面白さに、私は思わず、看板に大書きされて張り出されていた、その気宇壮大にして奇想天外な縁起文を、しっかり記念撮影して帰ってきたのでした。

 それ以来、いつのまにか不思議な天狗教の寺になってしまったらしい鞍馬寺のことは、頭の片隅でずっと気にかかっていましたが、真面目な民俗学の本ではそのようなことに触れているはずもなく、わざわざ苦労して真相を調べる気にもならず、そのまま、長い時が流れました。
 そして、このあいだ、夫が借りてきた怪しい(^_^;)本の中で、 『異色の天狗、魔王尊を求めて鞍馬に旅す』と題して、鞍馬山紀行に一章が割かれていたのです。そして、そこで、長年ひそかに気になっていた鞍馬寺の謎が解けたのです!

 この本によると、鞍馬寺は、元は真言宗の、後には天台宗のお寺だったところ、昭和二十四年に宗門から独立して『鞍馬弘教』なる新宗教を立教したのだそうです。
 つまり、私が生まれる前から、天狗に興味を持つ前から、鞍馬寺は、ああいう宗教のお寺になっていたのです。でも、民俗学者には当然無視されていたから、私はそれを知らずに居たのですね。
 また、この本には、鞍馬寺が編んだ『鞍馬山小史』という本の内容も紹介されていて、これがまた、面白いのです。その本によれば、『魔王尊は地下空洞の支配者である。地下空洞には大都会があって、北欧とヒマラヤと南米と日本に地表に通じる出入り口があり、そのうち、日本の出口があるのが鞍馬山である』ということらしいのです! それはますます気宇壮大!!
 でも、なんでまた、『北欧とヒマラヤと南米と鞍馬山』なんでしょう……(^_^;)

 そして、この本ではさらに、その教義の成立に影響を与えたと思われる『シークレット・ドクトリン』という奇書(ロシアの有名な女性霊能者の著書とのこと)にも言及しています。で、『サナート・クマラ』というのは、その中に登場する名前で、ヒマラヤ山中の理想郷『シャンバラ』に住んで人類を導く不老不死の『世界の霊王』なのだそうです。鞍馬山は、その『シャンバラ』と、地下通路で繋がっていたわけです。
 また、なぜ『金星』なのかについても、天台密教や陰陽道の視点からちゃんと解説されていて、面白かったです。
 しかし、いくら天狗好きの私でも、まさか天狗が『世界の霊王』だとは思いも寄りませんでした……(^_^;)

 他に、この本には、河童のミイラとか、いろんな話題がありましたが、もうひとつ、これも私が前から興味を持っていた、人魚の肉を食べて不老不死になったという八百比丘尼の話もあって、文献を引用するだけじゃなく足で歩いていろいろ見てまわってるのが面白かったです。
 いや〜、この手の本は面白いですね!


『吹け、南の風 1・2』 秋山完・作 (朝日ソノラマ文庫)
 同じひとつの『懐かしい未来』世界を舞台に、ちょっとセンチメンタルでノスタルジックなSFを描き続けている作家のスペースオペラです。
 宇宙戦艦の構造とか航法とか戦闘技術とかが、非常にもっともらしくあれこれ解説されているので、ついうっかり、
「ほほう、そうか、宇宙戦艦って、一般的なイメージと違って、本当はこうやってミサイルを発射して、こうやって戦うのか! 方向転換はこういう仕組みなのか! 知らなかった!」などと感心してから、
「あ、宇宙戦艦って、本当には、無いんだったっけ」と思い出すほど、妙にリアリティのある描写・説明が楽しかったです。

 いやほんと、これを読むと、宇宙船が本当にあるような気がしてくるんですってば。
 亜空間航法が本当にあって、エンジニアたちは亜空間の中でスポンジをご神体に赤道祭を催しているように思えるんです。宇宙船も、かっこよく飛んでるばかりじゃなく、造船所で作られたり、耐用年数が過ぎたり、改造されたり、ちゃんとお金がかかって人手がかかるんだってことがよく描かれていて、宇宙だろうが未来だろうが、人類はちゃんと地に足の着いた(?)経済活動をしてるんだなあと、妙に納得させられてしまうんです。なにもかも、いかにもさもありなんということばかり。

 二巻目の巻末なんか、宇宙船間の見取り図や、宇宙船の航行技術や造船技法の解説までついていたりして、これがまた、いちいちもっともらしい!
 しかも、時々、細かいところでくすっと笑えるのです。たとえば、宇宙帆船に使われる『カシミール帆』の帆布を独占的に極秘の機場で生産しているのは職人工房『ツウ・クレイン帆布』であるとか。『鶴の恩返し』ですね(^_^;)

 あれが宇宙工学等の専門家から見てももっともらしいのかどうかは、私にはわかりませんが、そんなことはどうだっていいのです。
 普通一般の読者を、虚実おりまぜてうまく騙くらかしてくれれば、それで十分じゃないですか?
 少なくとも、私は、たいへん楽しく騙していただきました。

 といわけで、面白かったです。二巻まで読みましたが、どうやら、まだまだ続くらしいです。
 この人、作を重ねるごとに、だんだん巻数が多くなってるような気がするんですけど……(^_^;)


『月刊カノープス通信11月号』前ページ(今月の詩)
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