カノープス通信 
2001年10月号−2

目次

季節の便り
不思議な『クインコング』

夫は見た! 怪奇・栗拾い男?
お笑い身辺雑記『S家の人々・1』
おのろけ近況報告『小さな白い花

読書録
(今月は『ノービットの冒険』と、本じゃないけど『千と千尋の神隠し』です)





不思議な『クインコング』

 パート先で、バイトの高校生に聞いた話です。
 バイト仲間にケータイでメールを打っていて、同じ職場のパートの『A国さん』の名前を入力して変換したら、なぜか『Aくに』が『Aクインコング』と変換され、すごくビックリしたそうです。
 それはたしかに、びっくりです(@_@)
 そのケータイでは、なぜか、『くに』と入れると『クインコング』と変換される設定になっていたのですね。
 でも、なんでまた、よりによってそんな設定に?
 彼女には全く心当たりが無いそうです。
 後で夫に訊ねてみると、『クインコング』というのは『キングコング』のパロディ映画で、最近まで日本では未公開だったが最近公開されたらしい、ということですが、そんなに有名な映画じゃありませんよね?


夫は見た! 怪奇・栗拾い男?

 夫が、また、不思議なものを見たんです。
 この間の台風の日、よりによって一番風雨が強かった夕方に犬の散歩に行った時のこと。裏の栗林で、近所のおじいさんが、あの暴風雨の中、上半身裸で栗を拾っていたというのです。
 なぜ、大雨の中、しかも薄暗くなりかけた夕方に栗拾い? しかも、なぜ、裸?
 そりゃあ、風が強いから、栗はたくさん落ちてるでしょうが……。
 雨が止むまで待ってたら、栗が腐ってしまうのでしょうか?
 それとも、栗拾いは栗林の持ち主に無断でやっていることで、それで、わざと嵐の日に人目を避けて栗を拾っていたのでしょうか?
 上半身裸だったのは、どうせ傘を差しても濡れるから、それなら最初から裸の方が服が濡れなくて合理的だと思ってのことでしょうか?
 その後、そのおじいさんと顔を合わせる機会は、まだないのですが、もしあったとしても、まさか、
「なんで、このあいだ、台風の日に裸で栗を拾ってたんですか?」とは、ちょっと聞けません(^_^;)


S家の人々 
──(オフラインのサークル会誌『ティータイム』(’97.2号)に載せたものの再録です)──
 

 私の実家、S家は、子供が4人と、平均よりかなり多いことを除けば、とりあえずごく普通の家庭ですが、実は結構、妙なところのある家です。たとえば……
 
実家ネタその1 『S家の奇っ怪な日常会話――超変ってる末弟のこと――』

 正月に、実家に行っていた時のこと。元旦のお雑煮を食べていた末弟(一番上の私より8歳下。独身。変わり者)が、突然、不満げな大声を張り上げました。
「モチが圧縮されて融合しているっ!!」
 大ざっぱな性格の母がお雑煮の椀の中に大きすぎるおモチを無理やり二つも入れたために、おモチどうしがくっついてしまっていたので、そのことで母に文句を言いたかったらしいのです。
 それにしても、この大げさな表現……。普通、たかがお雑煮のモチのことで、こんな物理の教科書のような言葉を使いますか? 
 でも、これを聞いた私は、笑いつつも、「ああ、実家にいるんだなあ」と、しみじみしてしまったのでした。

 そうです。『意味もなく難しい言葉を使う』、それが、S家の『家風』なのです。
 みなさんは、私が、別に難しい内容でもなんでもない話をするときにやたら硬い用語や理屈っぽい言い回しを多用することに、とうに気づいていらっしゃることでしょう。
 でも多分、『それは文章の中だからで、しゃべる時はもっと普通なんだろう』と思っていたんじゃないでしょうか。
 あにはからんや、実は、しゃべる時もやっぱり理屈っぽいのです。別に、いいカッコしようと思ってわざと難しい言葉を使ってみせてるとかじゃなくて、私は普段からこういうふうで、これが地なのです(あ、でも、『あにはからんや』と書いたのは、いくらなんでも、わざとですよ!)。

 でも、私の言葉づかいなど、この末っ子の弟と比べたら、まったくマシなほうです。
 なにしろ、末っ子の彼には親の他に3人も見習う相手がいて、しかも彼は、わざと選んだかのように、理屈っぽい言葉遣いを初めとするみんなの妙な部分ばかりを見習ってしまったもので、いつしか藍より青く、誰よりも理屈っぽい変人に育ち、いわば、『S家の人々のヘンな特徴の濃縮エキス』のような存在になってしまったのでした。

 たとえばある日、ちょっとした見間違いをした私に彼が言った言葉は、「ただの見間違いだよ」でも「夢でも見たんじゃない?」でもなく、「それは幻影だよ」でした。
 また、彼は、『すなわち』『だがしかし』『すでに』などの普通は文章でしか使わないような接続詞、『……と思われる』などの翻訳調の言い回しを日常会話の中で常用し、ほとんど文語体でしゃべります。(『すでに』くらいなら、私もいつも使ってますが……)

 というわけで、さて、『モチが融合』した、その日の午後。
 またしても弟が、家中に鳴り響くような大声を張り上げていました。 
「ここにあったはずの説明書を知らないか。俺がだいぶ以前にここに置いて、それ以来、ほとんど顧みられることなく放置されていたんだが、いつのまにか紛失してしまった!」

 家庭内でこんなセリフを聞くこと自体、すでにかなり異常なことだと思いますが、あの家の、それ以上にヘンなところは、実家を離れてすでに十数年になる私以外には誰もこういうセリフに違和感を持たないという点でしょう。あそこでは、これがごく普通の日常会話なのです。恐ろしいことです。


近況報告『小さな白い花』

 ごめんなさい! 冬木、いきなりノロケます。
 8歳の息子に、花をもらったんです。近くの山道で摘んできた、小さな白い野の花です。
 その花、私も、犬の散歩の時に見つけて、きれいなので摘んでみようとしたことがあったのです。が、可憐な花に似合わずがっしりした茎に長くて鋭い針のようなトゲがびっしり生えていて、触るととても痛いので摘むのをあきらめました。
 それを、息子が摘んできて、差し出すのです。
「ありがとう。でも、これ、トゲがなかった?」と、用心しながら受け取って、よく見ると、なんと、あの鋭いトゲが、みんな取り除いてあったのでした。
「お母さんが痛くないように、取ってあげた」と。
 トゲを取ろうというのは、誰に教わったでもなく自分で考えついたそうですが、あのトゲを取るのは、簡単に折り取れるバラのトゲと違って、かなり大変だったはずです。
 見れば、小さな手には、たくさんの細かな切り傷が……。
 もう、うるうるです〜。
 今まで誰からもらったどんな立派な花束よりも(まあ、たいした花束をもらったことがあるわけじゃないですが)嬉しい花束でした。


読書録

 私が最近、行き当たりばったりにたまたま読んだ本の感想を、自分の備忘録を兼ねてだらだら綴る、いいかげんな『行き当たりばったり読書録』(?)第三弾、でも今月は半分は映画の話です。

パット・マーフィー作『ノービットの冒険』(早川書房)
 さっき『S家の人々』に登場した変わり者の弟が、お薦めだと言って貸してくれた本です。わざわざ薦めてくれただけあって、たしかに面白かったです。
 ひさびさに思いきりくつろいで文句なしに楽しめる、何とも愉快な冒険物語でした。
 タイトルからわかるとおり、ト−ルキンの『ホビットの冒険』のパロディSFです。
 パロディといっても、ちゃかしているわけではありません。お話の骨格をそのままSFの世界に移し替えた、そういう種類のパロディです。
 で、『ホビット〜』を読んでなくても、愉快なスペ−スオペラとして楽しめると思います。
 事実、私は、『ホビット〜』を読んだのは大昔で、ただ「すご〜くおもしろかった!」という記憶があるだけで細かい内容はほとんど覚えていませんでしたが、何の不自由もなく楽しめました(読んでいるうちに、「そういえばこういうシ−ンがあったっけ」と思い出すこともあって、もう一度『ホビット』が読みたくはなりましたが)。

 でも、思ったんですが、この作品、『ノ−ビット』という種族名をつけたり、主人公をちびで小太りのおじさんに設定したりと、わざと『ホビット〜』や『指輪物語』を連想させるようにしないで、基本のスト−リ−だけ換骨奪胎して普通のSFとして発表したら、ただの面白い冒険物語として成り立ってしまったのじゃないでしょうか。ディテ−ルを変えて、上手にアレンジして、そ知らぬ振りで発表すれば、話の大筋は同じでも、「スト−リ−の骨格が同じだから『ホビット〜』の盗作だ」とは言われなかったんじゃないかと。そして、この作者の腕にかかれば、やっぱりちゃんと面白かったんじゃないかと。
 そしてそれは、この作者の腕のよさだけでなく、元の素材の物語としての底力のおかげでもあり、つまり、『ホビット〜』という作品が、それだけ、物語としての骨格そのものが非常に整った普遍的な力のある名作であることの証明なんじゃないかと思いました(といっても、さっき書いたように、私、『ホビット』については、ただ「とにかく面白かった!」ということ以外は、あまりよく覚えてないので、断言はできないんですが)。
 肩の力を抜いてひたすら楽しみながら、物語の骨格の基本パターン、黄金律というものが持つ底力について、あらためて思いを馳せました。

『千と千尋の神隠し』〜夢の地続き〜
 話題の映画、遅ればせながら見てきました。面白かった〜!
 何と言っても、風景が良かったです。
 特に、油屋の従業員部屋(?)の、手すりごしに海が見えるあの光景。
 あれを見た時、私、「何で私が昔、夢の中で見た景色がここに出てくるの?」と、びっくりしたんです。
 あの海は、確かに、私がいつも夢で見る海なのです。
 最初は陸地にあった油屋が、一夜明けると海の上になっていますが、あの海は、私の夢の中にある海と、きっと同じ海です。一応魚影が見えたりしていますが、たぶん、あの海は、あまり塩辛くない。磯の匂いがきつくない。無数の命の苛烈な営みに満ちた猛々しく生々しい現実の海じゃなくて、ただ、透き通った水が静かに満ちているだけの、夢の中の海。 
 『海』というより、ただ、とにかく『水』です。夢の象徴としての『水』。

 そういえばあの映画は、全編が、そういう、夢や異界、死と再生に結びついた『水』のイメージに包まれていました。
 あの映画の世界を浸す海は、きっと、人々の夢の底に潜む夢の水がひたひたと満ちてきて一夜で作り上げた、夢の水溜まりなのです。
 その水の中にそびえ立つ油屋は、人々の夢にぽっかりと浮かんだ空中(海上?)楼閣です。
 海上にそびえ立つ派手派手のお城の、下の方の壁際に張りついているボロ小屋の光景なども、似た風景を見たことがあるわけじゃないはずなのに、妙に懐かしかったです。

 私に限らず、あの映画の中の、どの風景かを、「あ、これは自分の夢に出てきた景色だ」と思った人や、「見たこともないのに懐かしい」と思った人って、きっと、大勢いるんじゃないかと思うんです。あの海は、きっと、思いがけないほど大勢の人の心の深層の夢の水と繋がっていたのじゃないかと。
 それが、あの映画の、これだけのヒットの原因のひとつなのではないでしょうか。
 たぶん、あの映画は、思いがけないほど多くの人が共通して心に抱いてきた夢の風景を、眼前にありありと描き出してくれたのです。いつか夢に見た、怖くて不安で、けれどなつかしい、心の原風景を。
 トンネルの向こうの不思議な国は、きっと、日本中の大勢の人の夢と地続きなのです。

 ところで、この映画には家族で行ったのですが、8歳と6歳の子供たちの感想は、ふたりそろって、ずばりひとこと、『怖かった』でした。特に、カオナシさんが怖かったらしいです。それも、キレて凶暴化した状態の時ではなく、最初の、おとなしい時が怖かったんだそうです。あの、「あ……、あ……」という声が怖かったということです。

 大人にとって子供のころに見た怖い夢は懐かしいものだけれど、現役で日々不安な夢の真っ只中を生きている子供たちにとっては、ああいう不条理で混沌とした夢の世界は彼らの日常の現実そのものであり、あからさまに目の当たりにはしたくないナマの脅威なのだということでしょう。

 彼らにとって、きっと、現実の世界は、ああいう、混沌として得体の知れない危険に満ちたところに見えているのだと思うのです。
 だから、あの映画をハッピーエンドにしてくれてよかったと思います。
 私、子供向けのお話でも必ずしもアンハッピーエンドを否定はしませんが、ああいうお話の場合はハッピーエンドにするのが、幼い子供に対するやさしさと思います。
 親とはぐれた子供が一人で怖い目にあうお話が、両親との再会という、幼い子にとっては非常に満足のいく形で終わる。それでこそ、子供は、自分の目の前に広がる果ての見えない不安な夢の中を手探りで進みつづける勇気を持てるというものです。
 あの映画のラストは、千尋とハクのストーリーに気を取られる年齢の人にはちょっと納得できない面もあると思うのだけれど、千尋と両親の別離と再会にポイントをおいて見るだろう幼児にとっては、あれで完全な、何の不足も無いハッピーエンドと捉えられるはずです。

 でも、大人はやっぱり、気になりますね。だって、千尋ってば、ハクとそんなにあっさり別れて、お母さんと手なんかつないじゃって、ねえ、あんたたち、ホントにそれでいいの?  『愛じゃよ、愛』だったんじゃなかったの? 『愛』はどうなるわけ?
 まあ、いいか。千尋ちゃん、まだ十歳だもんね。なんだかんだいっても、まだまだ、『彼氏よりお母さん』なお年頃なのね。

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