幻想小説 森の花嫁 冬木洋子作
(後編)
それから、幾年の月日が流れた。 あの夜の事件について、シルウェは、「森の奥に迷い込み、歩き回って、気がつくとあそこにいた」と語ったきり口を閉ざし、それ以上の詳しいことは、頑として話そうとしなかった。シルウェの額に輝いていた銀の星は、家に帰りつく頃にはいつのまにか薄れて消え、村人たちは、その後、誰もそのことを表立って口にすることはなかった。 子供だったシルウェは年頃の乙女に成長し、もう少年のようにズボンを穿いて野原を駆け回ったりすることはなくなり、他の娘たちと同じように慎ましくスカートを穿いて、そろそろ齢のために身体が辛くなりはじめた養母を助けて家の仕事もよく手伝い、機織りや糸紡ぎといった村の娘としての様々な勤めもきちんとこなすようになった。もっとも、変わり者なのは相変わらずで、女たちの笑い声が溢れる機織り小屋でも、話しかけられれば短く答えはするものの自分からおしゃべりの輪に加わることは決してなく、笑顔も滅多に見せず、親しい友人も作らなかったが、とにかくも昔のような放埒で奇矯な振る舞いは影をひそめ、そうなると生来の無口さだけが際立って、むしろ地味でおとなしい、もの静かな娘になった。 そうして見るとシルウェが実は美しい娘であったことに、やがてみな、気づき始めた。 いつも泥だらけ、すり傷だらけで真っ黒に日焼けして森や野原を駆け回っていたシルウェが、家や機織り小屋に閉じこもって仕事をすることが多くなってみると実は透き通るような白い肌の持ち主だったこともわかり、いつも藁くずや枯れ草が絡んで埃っぽくクシャクシャだった髪が実は夕焼けのように儚く微妙な色合いを持ち、雲のようにふんわりと顔の周りを縁どってほっそりした顔立ちをすばらしく引き立てるということも、どこか翳りを帯びた淡いハシバミ色の瞳が非常に神秘的であることも、すらりと背の高いその肢体がまるで若鹿のようにしなやかであることも明らかになった。 子供の頃、無口なりに喜怒哀楽や好悪ははっきりしすぎるほどはっきりしていたシルウェが、今は、年老いた養母やたまに森から出てくる父親に時折義理めいた微笑を見せるのがせいぜいで、声を上げて笑うことも、泣いたり怒ったりすることも一切なくなり、その風変わりで美しい小さな顔からは人形のような無関心以外に何の感情も窺えなかったが、それさえも今のシルウェに独特の謎めいた魅力を付け加える結果となって、誇り高いまなざしをひっそりと伏せて黙々と機を織るシルウェは、気がついてみれば、どこから見ても文句なしに、村一番の美しい乙女だった。 けれど、やがて同じ年ごろの娘たち、若者たちがぽつぽつと恋仲になったり所帯を持ったりし始めた時、シルウェの謎めいた美しさにひそかに心惹かれる若者は多かったにもかかわらず、実際にシルウェに近づこうとするものは、一人としていなかった。 それは、シルウェがほとんど誰とも口をきかない変わり者で、言葉の通じぬ野生の獣のような異質さを漂わせて近寄り難かったせいもあったが、もうひとつ、大きな理由があった。 みな、口には出さなくても、あの夜、シルウェの額に輝いていた銀の星のことを忘れたわけではなかったのだ。 シルウェは、一度、人外のものと交わり、彼らに選ばれてしまった──。 村人たちは、暗黙の裡に、そう考えていた。森に潜む古き力への漠然とした畏れが、若者たちをシルウェから遠ざけていた。シルウェのほうも若者たちのことなど全く眼中になく、まるで本当は一人だけ別の世界に住んでいるとでもいうように自分の中に閉じこもったまま、ただ、日々の仕事だけを、黙々と淡々とこなし続けた。 そんなシルウェを一途に見つめ続ける、一人の若者がいた。シルウェと同い年の、内気で目立たない気弱な若者で、名は、ソルといった。 子供の頃からおとなしく、聞き分けが良いのはいいがいくらなんでも覇気がなさすぎると親に心配されるような影の薄い少年だったソルは、一人でいつまでもしゃがみこんで小さな虫たちの営みを眺めて過ごすのが好きだった。一度、きれいな緑色の大きな芋虫を、その奇抜な紋様と美しい角に魅かれて家に持ち帰り、籠の中で飼ったことがある。色鮮やかな角を勇ましく振り立てて彼を魅了した芋虫は、やがて籠を這い出して、ソルの窓辺で宝石のような翡翠色の蛹になったが、ある朝、目覚めると、蛹は空っぽで、生まれたばかりの揚羽蝶が、今まさに、豪奢な黒びろうどのような翅を広げてふわりと舞い上がり、開けっぱなしだった窓から飛び出して行こうとするところだった。 他の子供だったら、きっと、たとえ届かなくてもとっさに手を伸ばして蝶を捕まえようとしたり、急いで窓を閉めようとしたのだろうが、ソルは、そうしなかった。不器用で、なぜだかいつも間が悪く、一人取り残されたり出遅れたりすることにあまりにも慣れ過ぎていたソルは、去ってゆくものを引き止めようなどとは思いつきもせず、ただ、ぼんやりと、朝日を浴びて翻る蝶の翅のあでやかさに見とれていた。遠ざかる蝶をなすすべもなく見送って、ソルは、いつまでも、窓辺に立ちつくしていた。 思えばソルは、いつもそんなふうに、ただ茫然と取り残されるばかりの、諦めることに慣れた無気力な子供だったのだ。 そんなソルは、自分にはない激しく荒々しい輝きを秘めた、風変わりでどこか近づきがたいシルウェに、ほんの幼い頃から、ひそかに憧れ続けてきた。 あの頃、幼なじみの仲間たちは、自分たちが誘っても滅多に一緒に遊ぼうとしないシルウェを、ただ、わがまま勝手で友達と仲良くできない、お高くとまった変わり者だと思っていたが、ソルだけは、彼女が何かもっと特別な存在であることを、昔からずっと、知っていた。彼女の中には、人間の少女がその身に宿すには危険なほどの、触れると火傷しそうにまぶしい命の炎が傍若無人に燃え盛っていたのだ。 人形のようにおとなしくなった今のシルウェは皆が言うように確かに美しかったが、ソルが愛してやまなかったのは、そんな外見の美しさではなく、かつて幼いソルを魅了し、今も確かに消えることなくシルウェの内に燠火のように埋もれている、あの力強い生命の輝きだった。 子供時代には無口ながらも抑え難い活気にあふれ自由奔放で輝かしかったシルウェが、今はどういうわけか何もかもどうでもよくなってしまったという風に、ただ地味な振る舞いの中に自分を押し隠し、過ぎて行く時を投げやりにやり過ごそうとしているように見える──。そのことに、ソルはひそかに心を痛めていたが、一方で、野放途に火花を散らして燃え上がる炎のようだった以前のシルウェには自分などとても近づけなかったが埋もれた燠火のような今のシルウェになら近づくことも許されそうな気もしたし、一人でシルウェのことを想っている時には、恋するものの一途さで、今のシルウェが本来の彼女でないことに誰も気付こうとしないのにただ一人それに気付いている自分こそシルウェの唯一の理解者なのではないか、何かしらシルウェの力になれるのではないかなどと、ちらりと思わないでもなかったが、それを本気にするほど思い上がることもできず、ときおり実際に村で行き合うシルウェはあまりにまばゆく美しく、人間というよりは光り輝く女神のように見えて、やはり自分などが声をかけられる相手とは思えずに、結局は、子供の頃からずっとそうしてきたように、遠くからシルウェを見つめ続けるだけだった。 けれど、やがて同年代の若者たちがほとんど身を固めてしまった頃になって、ある日、とうとう、ソルも、シルウェに求婚する決心をした。 ソルがそのひそかな決意を、子供の頃から良き助言者だった祖母に打ち明けると、年老いた祖母は、ソルが期待したような励ましを与えてくれる代わりに、そっとかぶりを振って、哀れむようにこう言った。 「ソル、それは無謀なことだ。シルウェは、森に選ばれた娘だよ。おまえのような普通の若者に触れることが許される娘ではない。おまえは、<森の王>と花嫁を張り合うつもりかい? 定命の人間のそのような思い上がりは、必ずや、<森の王>の怒りに触れるだろう。そうでなくてもあの娘は取り合わないだろうし、万一、受け入れられたとしても、おまえは、きっと、不幸になるよ」 けれど、ソルの決意は揺るがなかった。これまでずっと彼の心の導き手であった祖母の祝福が得られないことは悲しかったし、また、手の届かない孤高の星のような、誇り高い生命の女神その人のようなシルウェが自分などをまともに相手にしてくれるとはたしかに思えなかったが、それでも、今度ばかりは、何もしないうちに最初から諦めるのは嫌だった。何年もシルウェだけを思い詰めてきて、今、やっと、彼女に想いを告げる決心をしたのだから。 気弱でおとなしく、人と競ったり争ったりするのが何より苦手だったソルは、子供の頃から、いつもいろんなものを最初から諦めてきた。彼には、たぶん、本当に欲しいもの、どうしても譲れない望みなど、そもそも、なかったのだ。そんな彼が生まれて初めてただひとつだけ本当に望んだもの、それがシルウェだった。シルウェへの想いは、何につけてもどこか希薄で空ろだったような気がする彼の中で唯一確固として存在し続けてきた彼の一番大切な気持ち──彼が彼であることの拠り所そのものでさえあったかもしれない、一番確かな感情だった。だから、たとえシルウェが自分の名前さえ記憶にとどめてくれていなくても、自分に目もくれなくても、ただ、自分の気持ちを告げることだけでもしたかった。そうしなかったら、一生、後悔すると思った。そうしたためにどんな不幸が降りかかろうとも、しなかったために後悔し続けるより納得できると思った。日頃、臆病なはずのソルが、この時は、見たこともない<森の王>とやらの怒りなど、なぜか全然怖いとは思えなかった。 生まれて初めて祖母の助言に背いて、ソルはシルウェに求婚した。 シルウェは、贈り物を携えて家を訪れたソルを、初めて見るような目で見た。小さな村で何人もいなかった同い年の遊び仲間だったはずなのに、たぶん本当に、ソルの名前どころか、顔も覚えていなかったのだろう。ずっとシルウェだけを遠くから見つめていたソルに、目を止めたことさえなかったのだろう。 ソルの突然の求婚を、シルウェは、見たことのない生き物が現れて聞いたことのない言葉をしゃべったとでもいうように、どこか不思議そうに聞いた。シルウェの、野生の獣のような、表情の読めない色の薄い瞳に見つめられて、ソルは思わず目を伏せそうになったが、意外なことに、シルウェは、ソルの求婚をあっさりと受け入れた。 ソルは自分の僥幸が信じられずに茫然とした。とても本当のこととは思えなかった。村の人々もこの縁組に驚きを隠さなかった。けれどシルウェの養母と父は、やっと娘の花嫁姿が見られると大変喜び、ソル本人を含めて村の人々は誰もそれが本当になるとは思わなかったのに、まもなくふたりは本当に結婚した。 結婚式が終わる瞬間まで、ソルは、ずっと、これは実は夢で急に目が覚めるのではないかとひそかに恐れ続け、結婚してからもしばらくは、妻がある日突然消えてしまったりするのではないかとびくびくしていたが、何事もなく数か月がたち、やがてシルウェは身籠った。 いくら無口でも、一緒に暮らしていれば、それなりに口もきく。養母や父親に時折見せていたような作り物めいた笑顔をソルに見せてくれることも出てくる。殊に、身籠ってからは、それまでずっとシルウェにつきまとっていた、突然消えてしまいそうな危うい印象も薄らいだ。身重の妻を、ソルはますます慈しみ、ほとんど恭しくかしづかんばかりに大切にして、穏やかな暮らしが続くうち、月満ちて、元気な女の子が生まれた。ずっと無表情だったシルウェも、赤ん坊が生まれてからは、おざなりでない心からの笑顔と見えるものを我が子に向けるようになり、時にその笑顔を、ついでのようにソルにも向けてくれるようにさえなった。 ソルは幸せだった。シルウェも、幸せであるように見えた。そのうちにソルは、シルウェを得てから初めて、すっかり安心した。 そんなある日、ふたりは、やっと首がしっかりし始めた赤ん坊を抱いて、散歩に出かけた。 あてもなく歩くうち、いつのまにか森のすぐ近くまで来ていたことに気づいたソルが、なぜともなしにふと心臓が縮むような想いに捕らわれたその時、シルウェの腕の中で、赤ん坊が、突然、初めて笑いに似た声を上げた。 見ると赤ん坊は、たしかに、笑っていた。いつのまにかおくるみの布からはみ出していたか細い腕を、赤ん坊特有のゆっくりとした不思議な動作でぎこちなく振り上げながら、虚空に向かって、無心に笑いかけているのだった。 用事がある時以外には自分から口を開くことの滅多にないシルウェが、赤ん坊の目線を追って空を見上げ、珍しく、ぽつりと呟いた。 「そう、森の精霊が見えるのね」 その何気ない口調に潜む、何か、甘いような痛いような耳慣れぬ響きに、ソルは、はっと胸を衝かれた。 微かに水と朽ち葉の匂いを含んだ森からの風がふたりの間をざわりと吹き過ぎ、初夏だというのに、どこからともなく、数枚の木の葉が舞った。飛び去ってゆく木の葉を見送る妻の瞳の中に、これまで彼が見たことのない、憧れとも哀しみともつかない奇妙な色が浮かぶのを、ソルは確かに見たと思った。一年以上を共に暮らしてやっと心が通いあったように思えていた妻が、突然、見知らぬ人になってしまったような気がして、ソルは慄然とした。 けれど、それからも、何も変わることのない平穏な日々が続き、そのうちにソルは、あの時感じた不穏な慄きはすべて自分の思い過ごしだったのかもしれないと思い始めた。考えてみれば、良くないことなど何ひとつ起こっておらず、ただ、赤ん坊が初めて笑ったという、ありふれた、けれど幸せな小事件があっただけなのだから。 だが、一方で、一度芽生えた不安はどんなに打ち消そうとしてもソルの中から消えなかったから、しばらくしてどうしても山向こうの町に行かなければならない用事ができて、シルウェと所帯を持ってから初めて一晩家を空けることになった時、ソルは、ひどく心配になった。それでも行かなければならなかったから、ソルは、何がどう心配なのかもわからないまま、とにかく自分が帰るまで絶対に家の戸を開けるなと固く言い残し、後ろ髪を引かれる思いで出かけていった。 その夜更け。シルウェは、窓辺に置いた揺りかごの傍らに座り、赤ん坊の寝顔を見ていた。 生温かい夏の夜だった。夜に入って強くなってきた湿った風が、窓のよろい戸をがたがたいわせていた。 一年中で一番、緑の匂いが濃くなる季節。窓のすき間をすり抜けて、温い夜風が、湿った土と樹木の匂いを運んできた。 ああ、森の匂いだ、と、シルウェは思った。きっと、森では、嵐の予感を孕んだ風に木々が揺れ惑い、木の葉は生き物のようにざわめいて、草はますます匂いたち、嬉々として雨を待ち受けているだろう。 シルウェの心に、ふいに、不思議な想いが忍び込んだ。 ──なぜ私は、ここに、こんなところにいるのだろう── 赤ん坊は、何も知らずに、無邪気にすやすやと眠っている。 見慣れた部屋が、見知らぬ奇妙な牢獄のように見えた。 シルウェは立ち上がり、窓を開け放した。森の匂いのする湿った風が、押し寄せるようになだれ込み、小さな部屋を一杯に満たした。ぽっかりと開いた夜の窓は、今はもう忘れかけた遠い夢のようにも思え始めていた<森の王>の、底知れぬ力を秘めた昏いまなざしを思わせた。 窓の外では、暗い夜空の高みを早い風が流れ、雲の裳裾を荒々しく翻している。 雨の予兆を感じさせる黒雲がうず巻き、沸き上がり、次々と形を変えてゆく中、幾重にも重なり合った雲の狭間に、ふいに、奇蹟のように小さな星空が覗き、その中心に、白く細い三日月が、<森の王>の不思議な笑みのようにひととき冴え冴えと輝き渡って、窓辺に佇むシルウェに、一筋の光の矢を投げかけた。 シルウェの額の、忘れかけていた銀の星が、再び熱く冷たく燃えて輝きはじめた。 風に乗って一枚の木の葉が舞い込み、シルウェの足もとに落ちた。 窓から吹き込む風の中に、緑の匂いが強くなった。 湿った朽ち葉の絨緞と苔むした樹々が足下に眼前に現れて、見慣れた部屋が、森に変わった。木の葉の天蓋が頭上に広がり、羽目板のすき間から伸び出した蔓草が、みるみるうちに壁を、家具を覆い尽くして、揺りかごに絡みつく。 立ち並ぶ樹々の間を透かして、窓の外、<森の王>の緑の衣が中空に翻るのを見たような気がした。 ひときわ強い、嵐のような突風がシルウェを包み、風の中に、シルウェは、やさしく自分の名を呼ぶ<森の王>の声を聞いた。 ──シルウェ、シルウェ。遅くなってすまなかった。エレオドラ山での集会に行っていたので、すぐに来られなかったのだ。私たちと人間とでは時間の経ち方が違うのを忘れていたよ。私の花嫁よ、さあ、おいで── シルウェは、手を差し伸べて、風に抱かれた。
──『森の花嫁』・完── |
このページは、『素材屋・ぱふ』さんの素材(蔦のライン、葉っぱのイラスト)を使用しています。
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掲載サイト:カノープス通信
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