幻想小説 森の花嫁 冬木洋子作
(前編)
シルウェは、ただ一人、森の中をさまよっていた。 シルウェは森が好きだった。村の子供たちのほとんどは多かれ少なかれ森を恐れていたが、シルウェは違った。森の猟師小屋の娘として生まれ、それから母親が亡くなって村の親戚に預けられるまでの人生の最初の数年間を鳥や虫や小さな獣たちだけを友として森で暮らしたシルウェにとって、森はこれまで、気安い遊び場であり、母の面影の息づく幼い日の思い出の庭であり、どこよりも親しい、安心できる隠れ場所だった。村の子供たちとどこか馴染めなかったシルウェは、毎日のようにただひとり森を訪れて、己が身の内から沸き上がる、自分にも飼い馴らせない激しい生命の力に衝き動かされるままに、一日跳ね回り、走り回って過ごしてきた。 けれど、今日、森は、突然、今まで見せたことのない恐ろしい貌をシルウェに見せはじめていた。 シルウェは、道に迷っていたのだ。 日暮が近づくにつれて、森はどんどん暗くなる。 聞き慣れた葉ずれの音が今は悪霊の囁きのように不気味に感じられ、いつもなら楽しく感じるはずの鳥の声さえ自分を嘲っているように聞こえてきて、シルウェは、思わず両手で自分の耳を塞ぎ、帰り道を探そうとするそれまでの努力を忘れて、やみくもに駆け出した。 鋭い縁を持つ下生えや折れた小枝がシルウェの服を破き、肌を傷つけ、絡み合う蔓草や朽ちかけた倒木が行く手を阻もうとする。 幾度も木の根に足を取られ、すり傷だらけになって、すすり泣きながらあてもなく森を歩き回り、やがて疲れきったシルウェは、小石につまずいた拍子に足を痛め、ついに歩けなくなって、たまたま目の前に現れた平らな地面にへたりこんだ。 気がつくと、そこは、森の中にぽっかりと開けた小さな広場のような丸い空き地の縁だった。頭上のほとんどは張り出した木の枝に覆われているが、その中央に、レースの縁飾りのように木々の梢に縁どられて小さな丸い空がわずかに覗き、そこから差し込む夕映えのなごりの淡い光が、ぼんやりと空き地を満たしている。そのために、シルウェのいる草地のはずれのあたりはよけいに暗く、緑の木下闇に沈んで見える。 その、空き地の中央に、深い緑の長衣を纏い、長い杖を手にした見知らぬ長身の男が、いつのまにか、降ってわいたように立っていた。 シルウェは思わず目をこすり、頭を振った。 男の姿は、消えなかった。 不意に目の前に現れたその男が普通の人間などでは決してありえないことは、一目でわかった。人間の形をしてはいても、人間と見まごうにはあまりに神々しく、気高過ぎ、力に溢れ過ぎていたのだ。 その面差しは空恐ろしいまでに美しかったが、奇妙なことに、ある瞬間にはまだ少年といったほうがいいような瑞々しい若者に見え、また次の瞬間にはとうに壮年を過ぎた老賢人のようにも見えて、年の頃は、さっぱりわからない。肌は、黄昏の森の薄闇の中では緑がかって見えるような、輝かしい黄金色。伸び放題の豊かな巻き毛は暗褐色で、少しもつれながら、生きているかのように波打ち、うず巻き、絡み合い、緑の蔦を冠のように髪にまとわらせたその様は、髪から蔦を生やしているようにも見える。好き勝手に髪に絡まる蔦からは青い野葡萄の房がいくつか、宝石で出来た髪飾りのように重たげにぶら下がり、その同じ蔦のところどころには何か小さな赤い実もなっていて、重なり合う緑の葉と巻き毛の房の陰の小暗がりにひっそりと見え隠れしながら、つややかに輝いている。 男が持っているねじれた杖にも蔦は絡みつき、そのために杖は、まるで、葉をつけた一本の樹木のように見えた。 そして、男の背後には、大きな鹿や狼を初めとするさまざまな森の獣たちの一団がひっそりと控え、男がしているのと同じように、じっとシルウェを見ていたのだ。 男は、獣たちを従えて、臣下に祝福を与えるために王座を降りる王のように悠然と、シルウェに歩み寄ってくる。 滑るように男が歩くと、肩の後ろで、謎めいた闇を宿す暗褐色の巻き毛が、無数の生き物たちの生命の営みを潜めてひっそりとざわめく夜の森のようにさわさわと揺れ蠢き、それにつれて、豊かな髪の房に隠れていた赤い実が一足ごとにちらちらと顔を覗かせては、ほの暗い草地に、ひととき、燃えるような血の色の光を放つ。紅玉に似たその輝きは、下草の陰を素早く横切ってすぐに隠れる小さな夜の獣たちの、あるいは暗がりに棲んでひそやかに獲物を待つ美しい蛇の瞬かぬ瞳を思わせた。 男は、シルウェのすぐ前で、静かに立ち止まった。 怖いとは思わなかったが、きっと泥と埃だらけで涙の跡が汚い筋になっているだろう自分の汚れ放題の顔が急に恥ずかしくなって、シルウェは、ごしごしと手で頬をこすり、下を向いた。 男は、無言のまま、つと身を屈め、俯ているシルウェの顎に手をかけて仰向かせると、シルウェの顔をじっと覗き込んだ。 男の瞳は、シルウェが今日初めて垣間見た森の奥の底知れぬ暗がりのような、幾百年もの間幾千幾万の小さな生命を育みつつ呑み込み続けてきた森の朽ち葉の下の湿った土のような、深々とした黒。そのまなざしは、人ならぬ叡智と無限の力を宿して、強く、昏い。 男に見つめられた途端、シルウェはなんだか頭がぼんやりしてきて目をそらすことを考えつけなくなり、ついついぽかんと口を開け、惚けたようにその瞳に見入ってしまった。 男は、シルウェの顎から指を離すと、深くなめらかな美しい声で、淡々と言った。 「猟師小屋の娘だな。おまえの父には、私の民を数知れず殺された。今、ここにいるこの狼も、何年か前に、おまえの父に母親を殺されたのだ。その後、まだ乳飲み仔だったこれが巣穴で死にかけていたところを私が見つけてきて育てたのだが」 シルウェは急に怖くなって、優美な中にも何か暗く荒々しい得体の知れぬ力を秘めているのが感じられる丈高い緑衣の男と、その足下に静かに寄り添う巨大な狼を怯えた目で見比べたが、どちらも、別に怒っている風ではなかった。 「恐れるな、おまえに害を与えはしない。私は<森の王>。この森を統べるもの」 厳かにそう名乗った男は、そのすらりとした姿からは想像できないような力でシルウェの小さな身体を軽々と持ちあげると、かたわらの苔むした倒木に座らせ、痛めた足の具合や傷を調べて、どこから取り出したのか、見たこともない薬草をあてがってくれた。 手当てが済むと、男は、水をすくう形に合わせた両手を、シルウェの口もとに差し出した。 見ると、窪めた手の中には、透き通った水がいっぱいに湛えられているのだ。 その水が、なんだかものすごくおいしそうに見えて、シルウェが思わず男の掌から水を一口飲むと、たちまち疲れが取れ、空腹も、足の痛みも、跡形もなく収まった。 水は、甘く冷たく、これまで飲んだことのあるどんな飲み物よりもおいしくて、シルウェは、夢中で飲み続けた。 最後の一滴を飲み干そうとした時、唇が男の掌に触れ、シルウェは突然、これまで感じたことのない種類のきまり悪さを覚えて、上目使いに男を見上げた。男が、笑っているのではないかと思ったのだ。 男は笑っておらず、ただ、病人が薬を飲むのを見守る薬師のような注意深いまなざしでシルウェを見守っていただけだったが、そうやって自分を見下ろす男の頭上に、一瞬、王冠にも似た巨大な枝角のようなものが見えた気がして、シルウェは、目をしばたたいた。 すると、その幻影は消え、今度は、自分の回りに何か透き通った小さいものたちが動くのが見え始めた。 その小さなものたちは、羽虫のように素早く飛び回って、目で追う間もなくシルウェの視界を横切り、目の端に捉えたかと思うとまたついと動いて消え、はっきりと見ることができない。 けれど見ているうちにだんだんと姿が濃くなって、やがてそのうちのひとつが、思わず差しのべたシルウェの手の上に、ひょいと降り立った。 それは、小さな人間に似たかたちの、半ば透き通った薄緑色の生き物で、露を宿した蜘蛛の巣で木の葉を綴った不思議な衣を纏い、背中には蜉蝣のような薄い二対の翅を生やしていた。 (ああ、森の精霊だ……) 森で生まれたシルウェには、わかった。小さい頃、シルウェは幾度か、猟師小屋の前の大きな樫の木の枝に吊された揺りかごの中から、梢を縫って飛び回る彼らの姿を見かけ、笑いかけたことがあるはずだ。すると彼らは、それに気づいて揺りかごの近くまで降りてきて、捕まえようと伸ばしたシルウェの小さな手をひょいひょいとからかうようにかわしながら揺りかごのまわりを飛び交い、それを見たシルウェは、手足をバタバタと振り回しながら、生まれて初めて声を上げて笑ったのだ。 それはまだほんとうに幼い、生まれて幾月もたたない赤ん坊の頃のことだったから、シルウェは今まですっかり忘れていたのだが、今、再び彼らを目の前にして、埋もれていた記憶がいっせいに蘇る。 やっと思い出してくれたね、と言うように、小さな精霊が、笑った気がした。 いつのまにか他の精霊たちも、シルウェの目の前に浮かんだり、肩や手に止まったり、髪の毛にぶら下がったりして、シルウェに纏わり付き始めた。そして、遊ぼうよ、とでも言いたげに、小さな透き通った手でシルウェの髪や服を引っ張って、シルウェを空き地に誘い出そうとした。そうするとシルウェはもう、身体がむずむずしてきて、じっとしていられなくなり、不思議な男のことなどすっかり忘れて倒木から飛び降りると、精霊たちを追って空き地に走り込んだ。 赤ん坊の頃にしたように、飛び回る精霊たちに手を伸べて、ふざけて追い回し、空き地中を駆け巡りながら、シルウェは、自分の中で何かが解き放たれるのを感じた。これまでどんなに跳ねても走ってもなだめ切れずに自分でも持てあましていた、動くこと、生きることへの激しい衝動が、今、初めて、すべて手足の躍動に、燃える頬に、荒々しい笑い声に変わって、身体の中から、ひんやりとした森の空気の中へと流れ出していくような気がした。 気がつくと、空き地の周りのそこここに、木の幹や下草に隠れるようにして小さな兎や野ねずみ、栗鼠や仔鹿たちが、また木の枝には小鳥たちが並んで、こちらを窺っている。 知らんぷりして精霊たちと戯れていると、やがて動物たちは、一匹、また一匹と、我慢できなくなったふうにおずおずと隠れ場所から出てきて、すぐにシルウェと共に飛び跳ね、踊り回り始めた。 緑衣の男は、空き地のはずれの木の下で、かたわらにうずくまる狼の背にしどけなくもたれかかって座り、何か薄緑色に透き通る液体を満たした古風な銀の杯を手に、奇妙な、けぶるようなまなざしで、黙ってその様子を眺めていた。 やがて、さしものシルウェも息を切らし、立ち止まった。木の葉の間から覗く空は、黄昏のすみれ色から深い藍色に変わり、いつのまにか、あたりは闇に沈みつつあった。 動物たちは、あるいはシルウェの脚にそっと鼻面をこすりつけ、あるいはシルウェの肩に飛び乗って身を乗り出しながら小さな手でシルウェの頬に触れて別れの挨拶をすると、なごり惜しげに振り向きながら、三々五々と森に消えていった。小鳥たちも飛び去り、精霊たちの姿もしだいに薄れて、ひとつ、またひとつと消え、気がつくとシルウェは、すっかり暗くなった空き地の真ん中に、ひとり取り残されていた。 緑衣の男が立ち上がり、誇り高い牡鹿のような優雅で堂々たる足取りでシルウェのほうにやってくると、見たことのない美しい果実をひとつ、無言でシルウェに差し出した。 急に激しい空腹を覚えたシルウェは、ためらうことなくそれを受け取り、みずみずしい果肉にかぶりついた。 シルウェが夢中で果実を食べ終えるのを黙って見届けた男は、初めて、満足げに目を細め、口もとにうっすらと、霜夜の三日月のような不思議な笑みを浮かべた。そういえばこの人は、これまでずっと、親切にしてはくれたが一度も笑わなかったのだと、シルウェは初めて、そのことに思い至った。 それまで、ほとんど何も言わなかった男が、ふいに口を開いた。 「おまえは、私のものだ。いつか迎えに行く」 男はシルウェの肩に手をかけ、その身体を引き寄せると、何かの儀式のように厳かに身を屈め、額に軽く唇をつけた。 それは、くちづけというよりも、まるで頭上の丸い夜空に瞬き始めた星の光の一筋が静かに額に降りてきたかのような、少しも体温を感じさせない淡くひそやかな感触だった。 唇が触れた部分が、何だか熱いような冷たいような、ちりちりする変な感じがして、シルウェが額に触ると、その指先には、銀の粉をまぶしたような不思議な光が宿っていた。 驚いて眺めているうちに、銀の光はすぐに薄れて消え、同時に額の奇妙な疼きも消えたが、シルウェは、自分がどこか変わってしまったような気がした。もう二度と、もとには戻らないのだと感じた。 男は、シルウェの手を引いて歩き出した。どこへ向かっているのか尋こうとも思わなかったが、暗い森の中をほんの何歩か歩くと、そこはもう、見慣れた森の入口で、闇の中を左右に入り乱れて人魂のように飛び交ういくつもの角灯の明かりが、木立の向こうに見え隠れしているのだった。自分の名を呼ぶ、村の男たちの声も聞こえる。今の今まで緑衣の男の手を握っていると思っていたのに、ふと気がつくと、隣には誰もいない。指先には微かな温もりが残っているような気がしたが、そう思ったとたん、それが錯覚であることに気づいて、シルウェは茫然とした。 その時、角灯のひとつがシルウェの姿をまっすぐに照らした。 一瞬の静止の後、角灯は、危なっかしく上下しながらこちらにむかって突進してきた。 「おい! シルウェ、シルウェかっ!」 あの声なら、知っている。よく顔を合わせる、村の小父さんたちの一人の声だ。一度、お祭りの時に焼き菓子をもらったことがある──。 シルウェは黙って、近づいてくる角灯を待った。 「おーい、いたぞォー!」 叫びと共に押し寄せてくるいくつもの角灯が眩しくて、シルウェは少し顔をしかめた。 駆けてきた先頭の男が、シルウェのすぐ前まで来て、とまどったように立ち止まった。後ろから追いついてきた人々も、そのまわりで次々に足を止めた。 彼らが、光に照らし出されたシルウェの額を見つめて息を呑んでいるのが、シルウェには、わかった。額の一点が、また、ちりちりと、熱く冷たく燃えていたのだ。 角灯を持った村人たちは、シルウェを遠巻きにして、言葉もなく立ちつくした。 けれどそれは、一瞬のことだった。 「シルウェ、ああシルウェ、無事だったのね!」 悲鳴に近い声を上げてころがるように駆けつけた小太りの婦人が、人垣を押しのけ、掻き分け、獲物に飛びかかる太った猫のようにシルウェに飛びついたのだ。母が亡くなってからこっちシルウェを預かって面倒を見てくれていた、親戚の小母さんだった。 シルウェを掻き抱き、とめどなく涙に暮れる養い親を、シルウェは、黙って縋りつかれたまま、不思議なものを見るような思いで眺めていた。 (ああ、この人は、ほんとうにあたしをかわいがってくれている) それは前から知ってはいたけれど、今は、そのことが、いっそう手に取るようにわかった。 死んだ夫との間についに子供に恵まれなかった彼女は、天の配剤のような巡り合わせで引き取ったシルウェを、本当に自分の子供のように愛し、かわいがるつもりでいたのだ。それにもかかわらず、子供を育てたことのない彼女が、奔放なシルウェを現実には持て余し、シルウェについて、かわいげがなく子供らしくない、乱暴で女の子らしくない、無口で変わり者で何を考えているのかわからない、気性が荒く頑固で扱いにくいなどと、近所の人に常々こぼしていたのも知っていたが、それも、シルウェが、自分が思うほど自分に懐いてくれず、村にも馴染まずに母の思い出の残る森でばかり過ごすことへのさびしさからだった。 実際、彼女は、愚痴を言いながらも、シルウェを大切にしてくれた。シルウェを飢えさせたり叩いたりしたことは一度としてなかったし、決して豊かではない暮らしの中で、シルウェに寒い思いをさせないどころか、村のどの女の子が着ているよりも上等の布地を苦心して購っては、人形に着せるようなかわいらしい服をせっせと縫い上げ、ズボンばかり穿くシルウェがそんなものを別段喜びもしないのを知りながらも諦めきれないように、手のこんだ美しい刺繍を夜なべ仕事で施してくれたりもした。 彼女は、シルウェを愛しているのだ。 そのことが、今までにないほどはっきりと、眼に見えるようにわかりながら、それでも何の感情もわかない自分を、シルウェは、別に不思議とも思わなかった。 自分に縋りついて泣き続ける養母が、遠巻きにそれを見守りながらざわざわとささやき交わす村人たちが、何か、自分とはまったく違う、奇妙で不格好な、別の世界の見慣れぬ生き物のように見えた。 →後編へ |
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このページは、『素材屋・ぱふ』さんの素材(蔦のライン、葉っぱのイラスト)を使用しています