4.めぐる季節
不思議な旅人が去っていった後、すぐに<金の光月>は終わり、<闇の月>が来て、それから数日後、村に、初雪が降りました。
まるであの人が秋の最後の光を全部一緒に連れ去ってしまったかのように、梢の先に僅かに残っていた金色の木の葉も散り尽くし、世界は一面、灰色に黙り込んで、長く暗い冬が訪れました。
やがて、冬至の火祭りに先立って旅芸人の一座が村にやって来ましたが、チェナには彼らが、去年ほど、めくるめくものには見えませんでした。
どんな色彩も、去ってしまったあの人ほど華やかでなく、どんな奇術もあの人ほど不思議でなく、どんな二枚目役者もあの人ほど魅力的ではありませんでした。歌も楽器もあの人の方がずっと上手だったし、大好きだった砂糖菓子も、木の実や蜂蜜や干し果実のたっぷり入ったお祭りの日だけの特別な焼き菓子も、あの人の笑顔ほど甘くはないのでした。
ただしゃべっているだけの声でさえ天上の音楽のようだったあの人のことを思い出すと、去年まで、あんなに素晴らしい、目を見張るようなものだったはずの旅芸人一座が、急に色あせて見えました。
冬至の火祭りの宵には、例年どおり、初級学校の子供たちによって、<おさな子のドラゴン退治>の聖劇が演じられました。
もう何百年も毎年同じ筋書きの、他愛のない無言劇だけれど、古くから村に伝わる由緒ある伝統行事であり、ちらほらと小雪の舞う中、村の広場に仮設された野外舞台で巨大な張りぼてのドラゴンが篝火に銀の鱗を光らせてうねりながら舞い、<おさな子>役の少年の持つ模擬刀が炎に照り映えながら右に左に閃く様はなかなか幻想的で、近頃では、着飾った都会の人たちが、雪道も厭わず、わざわざ見物に来ることもあるほどなのです。
ドラゴンは、自然の猛威や疫病、戦争など、あらゆる凶事を象徴し、次の世代を担う少年英雄の勝利によって、次に来る新しい年の、実りと平和が約束されるのでした。
ドラゴン退治の少年英雄の登場に先立って、まずはドラゴンが、音楽に乗って舞台で暴れ回り、それから舞台を下りて、小さい子供たちを脅しながら客席を一巡します。
ドラゴンに牙を鳴らして脅されたリュリュは、チェナにしがみついて、火がついたように泣き出しました。
チェナは、そんなリュリュを笑って抱きしめ、宥めてやりながら、ふと思い出しました。
そういえば、チェナも、小さいころは、この、古びた金属板を縫いつけた張りぼてのドラゴンが、怖かったのです。
これがお芝居であることも、ドラゴンが張りぼてであることも知ってはいたけれど、篝火の炎に赫々と照らされ、金属板の鱗をしゃらしゃら鳴らせて長い首をくねらせるドラゴンは、それでもやっぱり怖かったのでした。
それを思い出した時、チェナは、旅芸人が昔ほど胸踊るものではなくなった理由に、ふいに思い当たりました。
それは、あの人のせいだけではなかったのです。
あまりに鮮やかな素晴らしい人を見てしまった後だから他のものが何もかも色あせて見えたというだけでなく、チェナは、もう、いつのまにか、そういう子供だましの演し物に本気で夢中になれるほど子供ではなくなっていたのでした。
あらためてそう気づくと、少し寂いような、不思議な気持ちでした。
ひとしきりドラゴンが暴れた後は、額に銀の星のついた飾り輪を嵌め聖剣を振りかざした小さな勇者がさっそうと舞台に現れ、巨大なドラゴンを、あっけなく斃します。
勝利を宣して高く掲げられた聖剣と額の星が、揺れる篝火を映して金に輝きます。
今年、この、生命の女神エレオドリ−ナの御子である<ドラゴン退治のおさな子>を演じたのは、リドでした。
<おさな子>の役は、いつもは初級学校一年生の男の子の中から選ばれるのですが、今年は一年生が女の子ばかりで、来年はリドとヤ−シェがふたりして一年生だというので、先に生まれたリドが、今回、特別に選ばれたのです。
生まれが数日遅かったばかりに今年学校に上がれなかったのをずっとくやしがっていたリドは、大きい子の仲間入りが出来て大喜びの大得意で、<闇の月>に入ってこのかた、幼稚なお遊びなどすっかり卒業したと言わんばかりに劇の練習や衣装合わせに掛かり切りになっていたから、最近はもう、チェナや小さい仲間たちとは、あまり一緒に遊んでいませんでした。
なかなか堂々と<おさな子>を演じ切って満場の喝采を浴びるリドの、金色巻き毛は炎に照らされて純金のように輝き、ぽちゃぽちゃした頬はバラ色に上気して、聖剣を振り上げて勝利を告げる姿は、それは誇らしそうでした。
チェナもリュリュも、他の子供たちと一緒に、声も枯れよとばかり、リドに声援を送りました。
聖劇が終わると、仮設の舞台は男たちの手であっというまに解体されて、空っぽになった広場で、今度は巨大な焚き火が始まります。舞台に使われていた材木は広場の中央に高く組み上げられ、さらに粗朶や麦わらを加えられて、焚き火の燃料になるのです。
焚き火に集まる人の群れの中で、チェナは、町に働きにいっていた仲良しのエルミンカ――チェナはミンカと呼んでいましたが――と再会しました。
軽やかでやさしい白い小鳥のようなエルミンカは、チェナを見つけると、嬉しそうに名を呼びながら駆け寄ってきて、いきなりチェナの手を取り、その場でぴょんぴょん飛び跳ねました。
そんな身軽な仕草は昔のままだったけれど、ひさしぶりに会うエルミンカは、いつも三つ編みにして背中で弾ませていた髪を大人っぽく頭の上にまとめ上げ、村の女の子たちのお祭りの晴れ着とは全然違う都会風の洒落た服を着ていて、まるで都会から来た知らない女の人のようで、チェナはびっくりして、黙って手を取られたまま、再会を喜ぶのも忘れてまじまじと彼女を眺めていました。
その様子に気がついたエルミンカは、急に飛び跳ねるのを止め、小鳥のように小首をかしげてチェナの顔をのぞき込み、照れくさそうに尋ねました。
「あたし、変わった?」
そう、エルミンカは、いつもこういうふうに、チェナが何も言わなくても、チェナの考えていることがわかるのです。
チェナはいつも、誰かに話しかけられても相槌ひとつまともに打てず、どうしていいかわからずにぼうっと黙ってばかりいるので、それでいつも、相手に、頭が足りなくてこちらの言うことをろくに理解できないんだろうとか、ぼんやりしていて何も考えてないんだろうとか、まともに言葉も話せないほど馬鹿なんだろうと思われてしまうのですが、本当は、相手の話が分かっていないわけじゃないし、何も考えてないというわけでもないのです。ただ、相手の言うことはわかっても、それについて何を言っていいかがわからなかったり、人の話を聞いて何か考えても、考えるのが遅いので、チェナが何か言おうと思った時には、たいてい相手はもう何か別の話をしているだけなのです。チェナがとりとめなくゆっくりと考えを巡らせ、ぼんやりとあいまいな自分の考えになんとか形を与えられるような言葉を探しあぐねているうちに、みんなの話題はすぐに移り変ってしまうから、チェナはいつも、話に取り残されてしまうのです。
そんなチェナが、自分の気持ちを表す言葉をなかなか見つけられなかったり、それ以前に、自分が何をどう考えているのか自分でもよくわからずにいると、彼女はいつもこうして、静かで聡いまなざしでじっとチェナの心をのぞき込み、チェナの考えていることを、チェナ自身がわかっていないことまで、必ず正しく言い当ててくれるのでした。
チェナは、相変わらずうまい返事も思いつかずに、ただ、こくりと頷きました。
「うん」
「でも、いつもこんなの着てるわけじゃないのよ。今日は、お祭りだから」
「そう」
「そうなの。いつもは、やっぱり、お下げに前掛けよ。前とたいして変わりゃしないの」
「そう」
久しぶりの再会だというのに、ろくにしゃべらないチェナを、エルミンカは別に気にしませんでした。チェナは昔からいつもそういうふうで、彼女はそれをよく知っているのです。そういうチェナを、昔から、なぜだか好いていてくれるのです。
あたりはもうすっかり冬で、秋にいくつか返り咲いた名残の薔薇の最後の一輪もとうに散ってしまったはずなのに、すっかりきれいになったエルミンカからは、薔薇の花のような良い匂いがしていました。
チェナがそれを言うと、彼女は嬉しそうにぱっと顔を輝かせ、内緒の話をしてあげるから、と、チェナをリュリュごと広場の隅にひっぱって行きました。
一緒に学校に行っていたころによくそうしたように、二人で物陰に隠れて、チェナは、エルミンカの打ち明け話を聞きました。
エルミンカのつけていた薔薇の香水は、同じ店で働く年上の恋人からの、十五歳の誕生日の贈り物だったのでした。
焚き火の熱に頬を火照らせ、目をきらきら輝かせながら、彼女は、愛しい人のことを、熱に浮かされたようにチェナに話してくれました。
その髪の色を、瞳の色を、自分の名を呼ぶやさしい声を。
そして、ひそかに憧れていた彼から思いがけず愛を告げられた時のおののくような幸福や、彼がその決して多くはないはずの給金の中から高価な香水を買って贈ってくれた日の感激を、それから、初めてのくちづけのことを。
お店の奥の背の高い戸棚の陰でふいに抱きすくめられた時の、息も止まりそうな胸の高鳴りを。
チェナは、エルミンカの小鳥のようなおしゃべりが大好きでした。
チェナがただ黙っていても、彼女は、チェナがちゃんと聞いていること、自分の話を理解しているということを、ちゃんとわかってくれていて、少しも気にせず、どんどん話してくれるから、チェナは、ただ安心して、耳に快い彼女のおしゃべりを聞いていられるのです。
かといって、彼女は、ただ一方的に話すだけではなく、チェナに言いたいことがある時や、何か言おうとしてうまく言えずにいる時には、それを必ず見てとってくれて、チェナがちゃんと言えるまで、いつまででも辛抱強く待っていてもくれます。
だからチェナは、エルミンカとなら、安心して、ちゃんと話ができるのです。
エルミンカは、こんなふうに本当はちゃんと話ができて本当は不思議に賢いチェナをみんなが知れば誰ももうチェナのことを馬鹿だと言わなくなるのにと、いつも言ってくれていたものです。
でも、今日の彼女の話は、チェナにとっては、何かすごく遠い別の世界の話のようで、チェナはまた、ただぼんやりと、エルミンカを眺めていました。
うっとりと頬を染めて恋人の胸のぬくもりを語り続ける彼女は、チェナがよく知っていた白い小鳥のような女の子ではなく、遠い世界に住んでいる知らない大人の女の人のような気がして、それなのに、やっぱりたしかに、チェナの大好きなやさしいミンカなのでした。
たぶん、チェナは、不思議そうな顔をしていたでしょう。
エルミンカは、それに気づいて、照れくさそうに、ふふっと笑って言いました。
「チェナ。あんたはちっとも変わらないのね。あたし、あんたの顔見ると、いつもほっとするわ」
それから、急に真面目な顔で尋ねてきました。
「ねえ、チェナ、あんたは、まだ、恋をしたことがないの?」
チェナは、びっくりして考え込み、しばらく考えて答えました。
「わからない」
そう答えながら、チェナの心の中に、去ってしまった美しい人の笑顔が鮮やかに甦り、すると、チェナの胸の奥深くが、ふいに、鈍く痛みました。
それはまるで、どこか遠い遠いところで、ここにいる自分とは別の見知らぬ自分が何か理由のわからないことで悲しんでいるのをうっかり知ってしまったとでもいうような、そんな、おぼろげな、遠い痛みでした。
そんなチェナの顔を、エルミンカは、じっとのぞき込んで、言いました。
「チェナ、やっぱり、あんたも、どこか変わったわ」
そう、たしかに、変わったといえば変わったことがありました。
チェナは、この一月ほどで、以前のように人に見えないものを見てしまうことが急に減ってきて、最近では、もう、ほとんどなくなっていたのです。
チェナは今まで、どうやら特別なものであるらしい自分のその能力で、損をしたことはあっても得をしたことは一度もないので、別に、惜しいとか残念だとかいう気にはなりませんでしたが、これまで身近に感じていたものを急に感じなくなるのは、古い仲間がいなくなったような、背中がすうすうするような感覚で、なんとなく寂しいような気は、していました。
でも、そんなことは、こうやって外から見てわかるようなことでしょうか。
そう思ったチェナは、きっと、また、不思議そうな、腑に落ちないような顔をしたのでしょう。
それが、少し不満そうな顔に見えたのかもしれません。
エルミンカは、チェナの目をまっすぐに見て、静かに問いました。
「チェナは、変わるのが嫌なの? 変わるのが、怖いの?」
そんなことは、考えてみたことがありませんでした。
だから、答えました。
「わからない」
答えてから、また少し考え込んで、小さく首をかしげました。
エルミンカは、そんなチェナを見て笑いました。
そして、言いました。
「でもね、いろんなことが変わっても、ずっと変わらないこともあるわ。たとえば、あたしがあんたを大好きだってこと。ね? 離れて住んでいても、あたしたち、ずっと親友よね!」
そう言いながら、エルミンカはチェナの手を取りました。
チェナは、今度は考え込まずに、すぐににっこり笑って、しっかりと頷きました。
「うん!」
親友どうしは、手を取り合って笑みを交わしました。
「あたし、休暇が終わったら町へ戻るけど、来年も、冬至のお祭りには、きっと、ここへ帰ってくるわ。その時は、あんたに、今日の話の続きを聞かせてあげる。楽しみにしててね。あんたも、もしもどこかへ働きに出ても、お祭りには村へ帰ってくるでしょう? だからあんたも、誰かを好きになったら、その人のこと、きっと、あたしに話してね」
そんなふうに言われると、チェナは、また、胸の奥が鈍く痛みました。
その時、焚き火の方で歓声が上がりました。
さっき聖劇で使われた張りぼてのドラゴンが、金属板の鱗を取り払われた残骸のような姿で、再び広場に担ぎ込まれてきたのです。
小鳥のようなエルミンカは、焚き火のむこうに他の友達を見つけて、チェナに手を振って駆けて行き、チェナは、ずっと隣で大人しくしていたリュリュの手を引いて、焚き火のそばに戻りました。
<おさな子>に斃されたドラゴンは、毎年使われる金属板の鱗を取りはずした後、火祭りの大焚き火に投げこまれます。
これは、ドラゴンの脱皮と、炎による再生を象徴すると言われています。
災厄の象徴であるはずのドラゴンを、なぜわざわざ『再生』させる必要があるのか、よくわからないのですが、とにかく大昔からそういうことになっていて、だから、<火祭りの大焚き火>と通称される焚き火の正式の名は、<再生の火>というのです。
この火にドラゴンを投げこんだ時の火の粉の舞い上がり具合で翌年の作柄が占われ、また、ドラゴンが燃える炎に願をかけると願いが叶うとも言われて、大人も子供も、しばし無言で首を垂れ、火の粉を上げて燃え盛る巨大な焚き火を前に、それぞれの願いを胸中で唱えます。
チェナは、あの人にもう一度会いたいと願いました。
会えたらどうすると考えていたわけでもなかったけれど、ただ、せめて、もう一目だけでも、会いたかったのです。
その夜、チェナは、あの人の夢を見ました。
夢の中で、美しいあの人は、あの時と同じようにチェナの頭をなでて、
「幸せにおなり」と微笑むと、くるりと背を向けて去ろうとしました。
その後ろ姿に、チェナは、やっとのことで、あの時言えなかったひと言を投げました。
「待って! 行かないで」
エルドロ−イは振り向いてくれたけれど、チェナは、何も言えませんでした。
ただ、どうしていいかわからなくて、おずおずと手を差し延べました。
エルドロ−イは、やさしい目をして、けれどきっぱりと首を横に振り、
「君はいい子だ。世界のどこかに、君の居場所がきっとあるよ」と、言い聞かせるように言いました。
チェナが、唇を噛み、涙を堪えながら、黙ってエルドロ−イを見上げていると、エルドロ−イは、しょうがないなという風に、ふっと笑いました。
「それじゃあ、約束しよう。君がこれからこの世界のどこかで長い幸せな一生を送り、やがて年老いて、あるいは暖かな部屋で何人もの子供や孫たちの涙に囲まれて、あるいは凍てつく荒野でただ独り、その生涯を終える時、きっと私を呼んでおくれ。その時、私は、もう一度、君に会いに行くよ。
そうしたら、君は、いくつもの愛と悲しみと生きる歓びに彩られた君の人生の長い長い物語を、私に聞かせておくれ。もしも、その時、君がもう、口がきけなくなっていても大丈夫。私は、君の人生の物語を、死の床に横たわる君の乾いた頬に刻まれた皺の一本一本から、胸の上に組まれた皺深い手の儚い温もりから、読みとることができる。だから、必ず、人生の最後の瞬間には、心の中で、私を呼んでおくれ。どの世界の、どこの国にいても、すぐに会いに行くよ」
そうして、もう一度、祝福するように手を伸ばしてチェナの頬にそっと触れ、チェナにやさしく頷きかけました。
「チェナ。君は、物語を失うんじゃない。君は、本当の物語の中に足を踏み出すんだ。君はこれから、君だけの、長い長い物語を生きる。君は物語に――世界でたったひとつの物語になるんだよ。君が織りなす物語を、楽しみにしているよ」
そう言うと、エルドロ−イの姿は、空に吸い込まれるように、すっと薄れて消えて行きました。
目覚めた時、チェナの頬は、あの時は流せなかった涙で濡れていました。
古い年でも新しい年でもない特別な冬至の一夜が明けると、翌日は、着飾った村人たちが贈り物を携えて互いの家を訪問しあう新年の第一日でした。
町に働きに出たり、よその村にお嫁に行った人たちも大勢帰ってきていて、あちこちで楽しい団欒が盛り上がり、子供たちは、訪ねたり訪ねられたりした親類や近所の大人たちから小さなおもちゃやお菓子を両手に持ちきれないほどもらっては、後でそれを自分の寝台の上に全部広げて目を輝かせて検分し、兄弟姉妹で見せびらかし合ったり取りかえっこをしたり、時には奪い合って喧嘩したりして、大騒ぎして楽しむのです。
チェナもリュリュも、まだお乳しかのめない下の赤ん坊でさえ、両手一杯、お菓子をもらいました。
けれど、チェナには、もうひとつ、妹たちとは違う特別の贈り物がもたらされました。
それをもたらしたのは、去年、近くの町の大きな薬問屋にお嫁に行った親戚のお姉さんでした。
チェナを小さいころからかわいがってくれていたこの人が、新年で里帰りしていて、チェナの家を祝賀の客として訪れ、新年の挨拶と贈り物の交換の後で、こう言ったのです。
店で手伝いの子供を探している、町で探せばいくらでも見つかるだろうが、小さい時からよく知っているチェナに来てほしい、と。
条件も良く、親戚のところだから安心だと、親たちも喜びました。
チェナがためらっていると、すっかり垢抜けて堂々たる商家の若奥様になったお姉さんは、
「すぐじゃなくていいのよ」と、やさしく微笑みました。
「でも、あたし、のろまだし……」と、チェナが下をむくと、彼女は、
「わかってるわ。あなたはたしかに、他の子より仕事を覚えるのに時間がかかるかもしれないけど、でもね、ひとつの仕事をまじめにこつこつ続ければ、そのうち必ず覚えられるわ。ちょっとくらい要領が悪くても、何かをするのに人より時間がかかっても、根気があって辛抱強くて、心根が素直でやさしいのが一番よ。あなたみたいにね」と言って、夢の中であの人がしたように、そっと手を伸ばしてチェナの頬に触れ、温かく微笑みました。
その微笑みが、チェナを勇気づけてくれました。
それに、チェナは、こんな自分でも、これまでのように何かしている最中にうっかり人に見えないものを見て気を取られてしまうことがなくなった分だけ、これからは、今までほどしょっちゅうぼんやりしてしまわずに済むのではないかという気がしていたところでした。
チェナは、心を決めました。
チェナには、自分がどこへ行きたいのか、何をしたいのか、そもそも、何かしたいことがあるのかさえ、あいかわらず全然わかりませんでした。
けれど、それを探すために、とりあえずどこかへ行って何かをしてみてもいいかという気には、なれました。
人生の終わりの時に、あの美しい人に誇れるような自分の物語を、チェナは、これから一生かけて探しに行こうと思いました。
あの人のことを考えると、チェナの胸は、やっぱりまた鈍く痛んだけれど、その痛みにはどこか不思議な甘さもあって、チェナは、自分がこの淡い痛みをこれからずっと宝物のように大切に胸の奥深くに抱いて生きて行くのだということを、もう知っているような気がしました。
その後、<雪の月>、<氷の月>と続く長い冬の間に、母の体調も戻り、下の赤ん坊の夜泣きの回数も減り、やがて、凍て付く空に薄青い光ばかりが溢れる<青の光月>が過ぎるころには、あれほど幼かったリュリュも急にしっかりして手がかからなくなり、雪解け水が野を走る<水の月>の初めに、チェナは、迎えの馬車に揺られて村を出ました。
こうして、チェナの子供時代は終わりました。
……完……
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