2.奇跡の日々
(3)
男の人は、物語を語ったり笛を吹いたりしている時は別として、ほとんどいつも笑っていました。
けれど、その表情は、一刻一刻、くるくると変わるのでした。
楽しそうな笑顔、やんちゃな笑顔、澄ました笑顔に気さくな笑顔、温かい笑顔にからかうような笑顔、いじわるな笑顔に、勇気づけるような笑顔――。
笑顔に、こんなにいろんな種類があるなんて、チェナは思っても見ませんでした。
そんなふうに、男の人は、いつでもにこにこ笑っていたのだけれど、チェナは、彼がときどき、チェナだけに、とっておきの、特別な笑顔を向けてくれるような気がしていました。
子供たちみんなと話したり遊んだりしている最中に、少し離れて黙って見ているチェナとふと目が合ったりすると、男の人は必ず、チェナに向かって、とびきり親しげな、とびきり甘い、うっとりするような極上の笑みを、すばやく投げかけてくれるのです。
もしかすると、本当は男の人は、子供たちのうちのだれとでも、たまたま目が合えばその都度その一人一人にいちいちにっこりして見せてやっているのかもしれず、だから、他の子もみんな、チェナのように、彼が時々自分だけに笑いかけてくれると思っているのかもしれません。
けれど、いったんはそう思い直してみても、男の人にもう一度笑いかけられると、チェナは、また、やっぱりこの人は自分だけに特別に笑いかけてくれるんだと思わずにいられませんでした。
男の人がチェナに微笑んでくれるのは、たまたま目が合った時に限らず、他の子より大人に近いチェナが男の人の物語の中で他の子が理解しなかったことを一人だけ理解した時や、また、時々他の子に見えないものが見えるチェナが何か特別なものを見てしまった時のこともあったのです。
そういう時、彼は、チェナが黙っていても、なぜかそのことを見てとって、『そう、君にはわかったんだね』、『今のが見えたんだね』という、仲間同士の秘密の合図のような、親しげで意味ありげな微笑みを送ってくれ、チェナは、彼が自分を他の子より少しよけいに仲間扱いしてくれているのを間違いなく感じて、身体が内側からぽっと温かくなるような気がするのでした。
不思議な男の人は、子供たちにいろんな奇術を見せてくれましたが、本当にそれが全部奇術だったのかは、わかりません。むしろ、そうでないと思うのが自然な気がしました。
ある寒い日には、こんなこともありました。
暖炉に火を入れようとした男の人が、ほんとうに何気なく、あたりまえのことをするような調子で掌を上に向けたかと思うと、その手の上に、ぽっと、小さな炎の玉が生まれたのです。
ちょうど、ろうそくの炎がろうそくを離れて、炎だけになってそこに浮いているみたいでした。
それは一瞬のできごとで、子供たちが、びっくりして、ただもうぽかんと口を開けているあいだに、男の人は、ごく普通に暖炉の前に膝をつき、掌の炎を焚き付けの枯れ葉に向けてふいっと放つと、後はまた普通に火箸で火をかき立てて立ち上がりました。
そして、子供たちが驚きのあまり口もきけずにまじまじと自分を見ているのに気づいて、一瞬、あれっ、という顔をしました。
それから、ああそうか、という顔になって、言い訳するように言いました。
「おっと、ここの人たちは、こういうことはしないんだったね。うっかりしてたよ」
その一言で子供たちは我に返り、口々に騒ぎ出しました。
「おじさん、今の、奇術?」
「魔法だよね! おじさん、ほんとは魔法使いだったんだ!」
「ばか、魔法なんてあるもんか! 何か仕掛けがあるんだよ」
「違うよ! 絶対、魔法だよ! そうだよね?」
子供たちに詰め寄られた男の人は、しまったなあというような苦笑を浮かべて、宥めるように答えました。
「魔法といえば魔法だが、と言っても、君たちが思ってるような特別なものじゃないんだよ。こことは違うあるところでは、別に魔法使いでなくても、誰もが、このくらいのちょっとした魔法を使うんだ」
「うそだい、そんなばかな話、あるもんか!」と、生意気屋のヤーシェが叫ぶと、男の人は、しかたなさそうに肩をすくめて答えました。
「本当だよ。私は、前に、そこにもいたことがあるんだ。そこがこことあんまりよく似た世界だから、ここではみんな魔法を使わないのを、うっかり忘れてしまったのさ」
それまで黙って聞いていたシーリンが、考え深いまなざしをひたと男の人に据えて、
「その、『あるところ』って、どこ?」と、鋭く追求しました。
「別の世界だよ。ここと、とってもよく似た。……よく似てるというか、ほとんどここと変わらないな。でも、別の世界なんだ。そう、そことこことは、ちょうど、同じ一枚の地図の上にそれぞれちょっとだけ違う色や模様のついた薄紙を重ねたようなものだ。同じ地図だから、地形も地名も同じだけれど、その上で営まれる人々の暮らしや歴史という薄紙のほうがほんのちょっとだけ違っていて、重ねて見るとやっぱり別のものなんだ」
「『別の世界』って何?」
「こないだ、見せてやったろう? ここでない、いろんな世界を、いくつも。ああいうのが別の世界さ。別の世界の中には、ここととってもよく似ていてほとんど区別がつかないようなところも、全然違うところもある。世界は、ひとつではないんだ」
男の人とシーリンのやりとりがさっぱり理解できないので、しびれをきらしたやんちゃ坊主のトゥッタが、ふたりの間に割ってはいって叫びました。
「おじさん、今の魔法、もう一度、見せてよ!」
男の人は、首を横に振りました。
「だめだよ。もうおしまい」
子供たちがいっせいに不満の声をあげると、男の人は、肩をすくめて言いました。
「魔法だのなんだの、今のはみんな嘘だよ。あたりまえだろ? あれは、ちょっとした奇術さ。仕掛けがいるから、一度しかできないんだ。もう材料がないんだよ」
子供たちが、
「なあんだ……」と口を尖らせると、男の人は笑って言いました。
「まあ、まあ、そんなにがっかりするなよ。今日は奇術はもうおしまいだけど、かわりに、とってもすごい魔法使いが出てくる、魔法がいっぱいのお話をしてあげよう」
子供たちは、たちまち歓声をあげて、暖炉の前に腰を下ろした男の人の回りに思い思いに座り込みました。
そんな時、子供たちはよく、男の人の膝に上がり込んだり、足もとに寄りかかったりして纏わり付きます。
気紛れで残酷で、チェナが時には怖いとさえ思い、心ならずもへつらってみせたことさえある子供たちも、そうしてみれば、みな幼く無邪気で、ようするに、まだ、ちびすけなのでした。
なまいきでいじわるなリドでさえ、こうしてぽかんと口を開け、目を輝かせてお話に聞き入る様は、バラ色のまるいほっぺたなんぞ、ぽちゃぽちゃふわふわとして甘いお菓子のようで、いかにも幼い子供なのです。
あたりまえだ、なんといってもまだたったの七歳なんだから……と、チェナは思わず微笑みました。
男の人のお話はいつものようにおもしろく、その声は音楽のように美しく、暖炉の燃える部屋は暖かく心地よく、チェナは、この時がいつまでも続けばいいと思いました。
お話が終わると、子供たちは、それぞれ好きなところに散って行き、気の向くままに、子供同士でおしゃべりをしたり、男の人が器用に作ってくれたおもちゃや遊戯盤で遊んだりしはじめましたが、そういう時、たいてい、何人かは、そのまま男の人に纏わり付いて、おしゃべりしたり、背中にもたれかかったり腕につかまってみたりとべたべたして甘え続けるのが常でした。
チェナは、実を言うと、それがちょっと羨ましかったのですが、もう小さな子供ではない自分がそんなことをするわけにはいかないと思っていたので、お話を聞く時も、いつも男の人から少し離れて行儀よく座っていたし、その後の遊びや語らいの時も、たいてい、ひとりで壁際に座って、子供たちと戯れる男の人を、ひっそりと眺めているのでした。
けれど、この日、暖炉の前の椅子に座って子供たちの相手をしてやっていた男の人が、そんなチェナに目を留めて、いつものように笑いかけてくれた後、何の気紛れか、
「そんなところにいないで、君もこっちへおいで」と、楽しげに手招きしてくれました。
チェナが、嬉しさと戸惑いに頬を染めておずおずと壁際を離れ、男の人の椅子の足もとに座ると、男の人はチェナの頭を膝の上に引き寄せ、大きな手で髪をなでてくれました。
男の人は、チェナの髪をきれいだとほめてくれました。
うすのろのチェナの髪なんか、本当にきれいなのであろうとなかろうと、これまで誰もほめてなどくれなかったし、チェナは、自分に少しでもきれいなところがあるなんて、これまで思ってみたこともありませんでした。
それなのに、男の人は、チェナの、やたらと量が多くて、艶はあるけれど針金のように硬くて扱いにくい頑固な髪を、美しいあかがね色だ、と言ってくれたのです。
『あかがね色の髪』!
なんてきれいな、なんて特別な感じのする言い方でしょう。まるで詩の一節のようです。
彼にそんなふうに言ってもらうと、まるで、自分が物語の中の美姫にでもなったような気がしました。
そう、彼の口を通して語られたことは、すべて物語になるのです。彼の声でその名を呼んでもらったものは、みな、物語の登場人物になれるのです。
なぜなら、彼は、物語そのものだから。彼自身が、そのまま、光り輝く七色の物語だから――。
とりとめもなくそんなことを思ってうっとりしているチェナの髪を、男の人は、その、きれいな長い指にすくい取って、
「ほら、こんなふうに暖炉の火に照り映えていると、まるで本当のあかがねでできているようだよ」などと言いながら、指の間から、さらさらとこぼしてみせました。
すると、子供たちもおもしろがってまねをして、チェナの髪をひっぱって遊び始めました。
「やめてよ」と振り払うと、なおさらおもしろがって騒ぎ出し、そのまま、今度は自分たちどうしで髪の毛をひっぱりあって、じゃれあいはじめました。
はしゃぎまわる子供たちの真ん中に、チェナと男の人だけが、台風の目のように静かに取り残されました。
チェナはそれまで、毎日この小屋に来て、この人と子供たちと一緒に過ごして、この人が子供たちとおしゃべりしているのを一言も漏らさないように聞いていたけれど、自分では、この人と直接口をきいたことが、ほとんどありませんでした。
しゃべるのはいつも他の子供で、チェナは黙って聞いていたり、少し離れて立っているだけでした。
けれど、今、チェナと男の人は、まるでふたりきりでいるみたいでした。そして男の人は、『何か話があったら、言ってごらん。何でも聞いてあげるよ』と言わんばかりの、励ますような微笑みを浮かべて、チェナをやさしく見下ろしていました。
その暖かい微笑みに勇気を得たチェナは、思いきって、話し出しました。
「あの……、あたし、さっきのは魔法だと思う。魔法は、本当にあるって」
「どうしてそう思うんだい?」
「だって……。あなたはきっと魔法使いだと思うから。あなたがここにいることが、魔法みたいだと思うから。……初めて見た時、あなたは物語の中の人かと思った。物語に出てくる人が目の前に現れたのかと思った」
チェナが憧れを込めて男の人を見上げると、男の人は小さく笑いました。
「私にとっては、君たちのほうこそ、物語に出てくる人々だ。私はただの、通りすがりの観客。物語の世界を、ただ通り過ぎるだけの旅人。例えば本棚の本の一冊を抜き取ってその一ページを開いて見るように、君たちの人生の長く豊かな物語のほんの一片を垣間見る――私に出来るのはそれだけで、君たちが織りなす物語の中に入り込み、その中に住むことは許されない。
私は、どの本でも開けてみることができるが、そこに留まり、その世界を織りなす無数の糸の一本となって、他のあまたの人生の糸と絡み合って模様を織りなしていくことは、決して許されないんだ。
私は、どこにも留まることはできない。どの物語の中にも属せない。語り部は、常に物語の外にいるものだ。私にできるのは、ただ、永遠に旅をしながら、垣間見た物語を語り続けることだけ。だから、私にとっては、君たちこそ物語そのものなんだよ」
男の人の言うことは、いつもながらまるでわけがわかりませんでしたが、ただ、チェナは、この人はとても孤独なんだということだけを、なんとなく理解しました。
でも、それについて何を言っていいか、わかりませんでした。
それは自分が子供だからだと思い、そんな自分を、もどかしく思いました。
言葉を終えた男の人は珍しく笑顔を消して静かに口を結びました。
そうすると、この人は、まるで突然何百歳も歳を取って、少し疲れたように見えました。
けれどそれは一瞬で、男の人はすぐに、まるで遠いところから戻ってきたような様子でチェナを見て、ふっと笑いました。
そんなふうに間近に微笑みかけられると、チェナは、なぜだか、ずきんと胸が痛みました。
男の人は、チェナのそばかすを、「自分とおそろいだ」と笑ってくれました。
大嫌いだったそばかすも、この美しい人と同じだと思うと、誇らしく、嬉しく思えました。
チェナは幸せでした。
暖炉は暖かく燃え、子供たちの笑い声は翳りなく、男の人は胸が苦しくなるほど美しくて、話しかけてくれるその声は、ただ普通にしゃべっているだけでも音楽のように快く、髪を撫でる大きな手の感触は、自分がまだ小さな女の子で大好きな父が生きていたころを思い出させました。
あのころチェナは、ここにいるマイカやリュリュたちのように、ただ幼い子供であるというだけで何もできなくても許され、愛され、認められ、それが特権であることに気づいてもいませんでした。何もできなくても、何の取りえもなくても、ただそのままのチェナであるというだけで、あたりまえのように両親の愛情を独占していました。
あの頃は、自分に何ができるかなんて考えもせず、ただ可愛いがられていればよかったのに、どうやら自分にはいろんなことが他の子よりうまくできないらしいということに気づいてしまったのは――、そして、それではもう愛してもらえないらしいと分かってしまったのは、いつの頃だったでしょうか。
けれど、こうして、大好きな人にやさしく髪を撫でてもらっていると、外の世界の悲しいことは全部消え失せてしまったような気がしました。
世界はただ、暖かな幸せだけでいっぱいなような気がしました。
いつまでも、いつまでも、このまま楽しく過ごせるような気がしました。
けれど、ある日。子供たちは、小屋に着くなり、迎えに出てきた男の人を取り囲み、口々に訴えました。
「森へ来てるって、ばれた」
「うちもだ。ゆうべ、ティートとトゥッタの母ちゃんが来て、うちの母ちゃんと、そのこと、話してった」
「もちろん、ただ森の入口のへんで遊んでると思ってるだけで、ここに来てるとは思ってないはずだけど。おじさんのことは、話してないから。みんなも、話してないよね?」
「ちゃんと内緒にしてるよ!」
「でも、森には人さらいが出るからだめって言われた。おじさん、人さらい?」
気弱なカチヤが、すこし不安そうに聞くと、男の人は、にやりと笑って言いました。
「そうかもしれないよ」
「嘘だよ、僕たち、誰も、さらわれてないもん」とヤーシェが叫ぶと、男の人は、
「これから、さらうのさ。さて、誰にしようかな」と、子供たちを見回して、いきなり、脅かすように高々と両手を広げ、奇声を発して子供たちを追いかけ始めました。
そうなれば、子供たちは、歓声をあげて逃げ散らずにはいられません。
たちまち、小屋のまわりの狭い空き地で、きゃあきゃあと、追いかけっこが始まりました。
最初は加わる気がなかったチェナまで、ごちゃごちゃと一団になって右往左往する子供たちの群れにいつのまにか巻き込まれて、気がつくと、一緒に逃げ回っていました。
子供たちはもう、興奮のあまり、何が何だかわけがわからなくなって、すぐに、自分たちが何で追いかけっこを始めたのかも忘れ、ただ、わけもなく駆け回って、ぶつかりあったり押し合ったり、もつれ合って転んだりしながら、どうにもとまらないほど大笑いしているのでした。
そうやって、みんなで笑うと、自分の身体の中のどこからこんなに湧いてくるのだろうというほど次から次へ笑いが込み上げてきて、チェナは、まるで、自分の身体が、笑いを生み出す機械か、笑いの湧き出てくる泉になったような気がしました。
あんまり笑って、笑い過ぎて、自分の中のものが全部笑いになって出ていってしまうような気がするほど笑い続けて、そのうちに、笑い過ぎてふらふらになった子供たちは、みんなそろって空き地の草の上にひっくり返り、仰向けの大の字になって空を仰いで、それでもまだ、笑い続けました。
男の人も、チェナの隣で寝転がり、広げた腕やおなかの上に何人もの子供の頭や手足を乗っけられて、一緒に空を見て笑っていました。
首を曲げて、その笑顔を見ると、何もかも笑いになって出ていった後で心も身体もすっかり空っぽになったチェナの、その空っぽを、暖かな幸せが静かに満たしました。
胸に乗っかったリュリュの足や、おなかに乗ったティートの腕が重いけど、まるで身体が風船になって、ふんわりと空が飛べそうな気がしました。
けれど、その時、チェナの隣で、男の人がふと笑いを消し、空を見上げて小声で呟いたのです。
「そうか……。ここも、もう、長くは居られないな」
その、しん、とした声を、チェナだけが聞きつけました。
小春日和の日差しがすっと陰って急に空気が冷えたような、心の奥に冷たい小石が投げこまれたような気がしました。
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