長編連載ファンタジー
 イルファーラン物語

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 <第二章 シルドーリンの宝玉> 

*黒背景が苦手な方はDL版をご利用ください*











 月の下に黒々と静もる、深い夜の森の中を、里菜は彷徨っていた。
 行く手には白い靄がいざなうように流れ、木々のシルエットを墨絵のようにぼかしている。
 足元の枯れ草は、こそ、とも音を立てず、夜の鳥のはばたきも聞こえない。臆病な森の獣たちも、どこかでひっそりと気配を隠しているようだ。
 道なき森を歩いているのに、下草も小枝も里菜を傷つけることなく、藪も倒木も何一つ里菜の行く手をさえぎらない。それが不思議なことであるとも気づかぬまま、里菜は、雲を踏むような足取りで歩き続ける。
 何かに導かれるように歩き続けた里菜の目の前が、ふいに開けた。
 霧は、いつのまにかすっかり消えている。
 そこは、森の中にぽっかりと空いた、円形の草地だった。木立がとぎれているので、その上空にだけ、遮るもののない夜空がのぞいている。そこから降り注ぐ月光が、草に降りた霜を白く輝かせている。
 その草地の中央に、小さな丸い空から差し込む月光を一身に集めて、丈高くすらりとした黒衣の姿が、こちらを見つめて立っていた。
 見つめられているということはまちがいなく分かるのだが、その顔はフードに隠れて見えない。
 よく見ると、その足もとは、地面からわずかに浮き上がっていた。
「……魔王……」
 恋人の名を呼ぶように、里菜は呟いて、空き地の縁に立ち止まった。
 魔王が、里菜を抱こうとするように、おごそかに両腕を広げた。広げた腕の中にも、月の光が満ちていた。
 里菜は、その腕の中に吸い寄せられるように、たよりない足どりで魔王に歩み寄った。
 自分を待ち受ける黒い腕の中に身を投げかけ、すべてを委ねて、肉体のない闇の抱擁を受け入れたかった。黒い翼のようなその黒衣に包まれて空に浮かび、仄暗い時のはざまを漂って、どこか遠い、世界の果ての荒寥の地に攫われて行きたかった。
 けれど、半ばまで歩み出たところで、里菜は、はっとに立ち止まった。
 キャテルニーカの声が、遠くで自分を呼んだような気がしたのだ。
 その瞬間、里菜の理性がよみがえった。里菜は、毅然と顔を上げ、魔王を睨みつけた。
「何しに来たの? もう、あなたになんか騙されないわよ。このヘンタイじじい!」
 夜の森に満ちる神秘で神々しい気配にも、里菜の清楚で可憐な姿にもそぐわない、この下品な悪態に、魔王は、腕を降ろしてクツクツと笑い出した。笑い声が聞こえたわけではなかったが、不吉な笑いの気配が、清らかな森の空気を汚してあたりの空間を震わせたのだ。
 忍び笑いは、やがて哄笑に変わった。
 魔王の、声のない言葉が、里菜の頭の中に響いた。
『……なんと愛らしいことよ。そなたはまったく、いとおしい。だが、我が妻よ、そう、私を嫌うな』
 そう言って、相変わらず笑い続ける魔王に、里菜はかんしゃくをぶつけた。
「誰が妻よ! 勝手に決めないで! そんなふうだから嫌われるって、わからないの?」
『まあ、そう言うな。私はそなたに忠告をしにきたのだから』
「いらないわ、あなたの忠告なんて! どうせロクなことじゃないもの」
 魔王は里菜の言葉を無視して言った。
『今一度言う。そなたには、イルベッザへなど行く必要はない。イルベッザでそなたを待っているのは、無意味な苦しみだけだ。明日、市門を入ったらそのまま大通りに出て、その大通りを左に行け。そこが北の門だ。北へ向かうカザベル街道に続いている。北へ来い』
「いやよ」
 にべもなく言い放った里菜に、魔王はあっさりと、こう言った。
『ならば、それもよかろう。私はそなたが無用に傷つくのを見るにしのびなかったから、忠告を与えたまでだ。そなたが、忠告を無視してまで、どうしてもイルベッザで辛い思いをしたいというのなら、しかたあるまい。どのみちそなたは、私のもとへ来ることになるだろう。早いか遅いか、今のままで来るか、不必要な傷を負って来るか、それだけのことだ。たいした違いではない。いかなる傷も私が癒してやろうほどに』
「早くても遅くてもたいした違いじゃないんなら、あと七、八十年待ってよ。そうしたらあたし、あなたのところへ行くわよ。だってあなた、死神でしょ? その時は、妻にでもなんにでもなってあげる。しわしわのおばあちゃんでもいいんならね!」
 それを聞いて魔王はますます笑った。よく笑う死神である。
『おお、エレオドリーナよ、むろん私は、そなたがどんなに年老いていても構わぬとも。言ったであろう。そなたが赤子であっても老婆であっても、私はそなたを愛すると』
 そこで魔王は笑いを収めて続けた。
『だが私は、あまりにも長いこと、そなたを待ちすぎた。永遠のものである私にとって時は意味を持たぬとはいえ、あまりにも長く、私は、待ちすぎた。……今度の夏が過ぎるまで、待とう。秋になったら、私の城へ来い。そなたが望むなら、私はそなたを一瞬のうちにそこへ連れていくことが出来る。しかし、そなたは、それを望まない。ならば自分で旅をしてくるがいい。旅路は遠い。夏の最後の新月の前にイルベッザを発て。その頃にはそなたも、そこでの無意味な生に飽いていることだろう』
「おおきなお世話よ。何であなたにそんなこと決められなくちゃならないの。だいたい、何千年も生きていたっていうわりには、夏までだなんて、ずいぶん気が短いんじゃないの? あたしがいつどこへ行くかは、あたしが決めるわ。あなたの言いなりになんかならない。あたしは――あたしは、どこへでもアルファードが行くところへ行くの。アルファードが居るところに居るの。そうしようって、自分で決めたの。北へは、行かないわ」
 アルファードの名を聞いたとたん、魔王のまわりから、笑いの気配が消えた。声なき声が、かすかな怒りのようなものを孕んだ。
『あのような負け犬に関わりあっていてもしかたがないと、言ったはずだ。しかし、そなたがどうしてもそうしたいのなら、好きにするがいい。ただし夏までだ。夏が過ぎたら、そなたは、あの羊飼いのもとに留まるわけにはいかなくなる。そなたの大切なものたちを魔物の脅威にさらさせたくなかったらな』
「ちょっと、それ、どういう意味よ! それって、もしかして脅迫じゃない?」
 顔色を変えた里菜に、魔王は平然と答えた。
『まあ、そういうことになるかもしれん』
「なに、それ! 信じらんない! 最っ低よ!」
『何とでも言うがいい。私はもう、待つことに疲れたのだ』
「だからって、女の子口説くのに、口説き文句にことかいて脅しを使っちゃうなんて、最低の能無しがすることよ! 薔薇の花束でも持って来るほうが、まだ工夫があるわよ。脅すヒマがあるなら、口説き文句の研究でもしてくれば!」
 魔王に、笑いの気配が戻った。
『贈り物が、欲しいか。そういえばそなたは昔から花が好きだった。そなたが望むなら、持ち切れぬほどの花束を、今すぐにでも捧げよう。すぐに枯れてしまう、ありふれた薔薇などではなく、大地の奥深く人知れず咲く永遠の石の華たちを、地上の薔薇と見紛うほど精巧に細工して贈ってやろう。そなたは青が好きだったな。青いサファイアで花びらを、シルドライトで葉を、ダイアモンドでその上に宿る露を作れば、さぞ美しかろう……』
 とっさに、里菜の頭の中に、背中に大鎌をしょった黒衣の死神が薔薇の花束を抱えて立っているという、かなり不気味な図が浮かんでしまった。里菜は、あわてて、その光景を振り払うように頭を振って叫んだ。
「い、いらないわよ、そんなもの! 気持ち悪いこと言わないでよ。今のは例えばの話だってば。花束抱えた死神なんか見たくないわよ!」
『それは残念だ。受けとって貰えるなら、私はそなたにいくらでも美しく珍しい贈り物を捧げるのだが。それは、まあ、そなたが私の城に来てくれてからの楽しみとしておこう。そなたのために女王に相応しい居室を整えて、そなたが望むものは、何でもそこに用意しておくぞ。何が欲しい』
 里菜をかからかっているのか、それとも本気で言っているのか、魔王の言葉は、あいかわらず笑いを含んでいる。
「用意したって、無駄よ! あなたがくれるものなんか、何もいらないんだから」
 ふいに魔王の言葉から笑いの気配が消えて、これもまた里菜をからかってのことか、今度は、ややわざとらしいほど悲しげな調子になった。
『エレオドリーナ、私の花嫁よ。なぜ、そうまで、私を拒む? 私は、そなたに危害を加えるつもりはまったくないのだ。そなたが花を好むなら、城の庭園を、そなたの部屋を、寝台を、永遠に枯れることない花で一面に埋《うず》めてやろう。
 そうだ、そなたがいつも連れている、あの、ひょろひょろした赤っ毛の若者――そなたの気に入りの道化を、私の城に連れてきてもいいのだぞ。そうすれば、あれは永遠にそなたのものだ。あれがそなたから失われる前に、今すぐ、ここへ連れてこい。そなたが呼び出せば、あの若者は大喜びでしっぽを振ってついてくるはずだ。一足先に私の城に連れていって、そなたを待たしておいてやろう』
「冗談じゃないわ! なんであたしが、ローイを死神に引渡したりするわけ? ローイはあたしの友達なのよ」
『だが、むこうはそうは思っていなかったようだな? そなたの心は、今、それで非常に痛んでおろう。あれを幸せにしてやりたいとは思わぬか? そなたと共に、花に埋れた城で、すべての痛みを忘れて永遠に歌を歌って暮せば、そなたもあれも、幸福になれると思うのだが』
「おせっかいはよして! ローイには、婚約者がいるの。ヴィーレからローイを取りあげることなんか、出来ないわ。それにあたしは、ローイには悪いけど、ローイがいても、アルファードがいなければ、幸せじゃない……」
『あの羊飼いがいても、そなたは幸せではないと思うぞ。まあ、よい。夏が終るまで、気の済むように人の世の汚泥の中で苦しむのだな。できることなら、私はそなたを、今のまま、人の世の穢れを知らぬままで私のもとに迎えたかったが……。だが、私は、そなたからすべての苦しみの記憶を消し去り、すべての穢れを清めてやることができるのだから、何の心配もいらない。では、行くがよい、無益な苦しみの中へ。私が時々、そなたを慰めに行ってやろう……』
 そう言いながら、魔王の姿はゆっくりと薄れていった。
「なにが慰めによ! 脅しに来るんでしょ!」
 薄れていくその姿にむかって里菜が叫んだ時には、もう魔王の姿は消えていて、ただ、里菜の叫びに応えるように、遠くから魔王の笑い声だけが、かすかに響いてきた。
 やがてその笑い声も消えていき、森の草地に白い月の光が降り注ぐばかりとなった。
 気がつくと里菜は、ただひとり、魔王が消えた後のからっぽの草地を見つめていた。魔王は空中に浮かんでいたのに、霜枯れた草の上には、なぜか、丸く踏みつけたような跡が残っていた。


 次に、里菜がはっと気がついた時、そこはあの、夢の中の草地ではなかった。同じく森の中の空き地ではあったが、ゆうべ眠ったままの野営地だった。
 里菜は、何事もなかったように、マントにくるまって、小さくなった焚火の側に横になっているのだった。
 隣にはすこし離れてアルファードの大きな背中が、焚火の反対側にはローイの姿があって、ローイの横で寝ていたはずのキャテルニーカが、いつのまにか里菜のかたわらで寝ていた。上掛けの下から伸びたキャテルニーカの小さな手が、里菜のマントの端を掴んでいる。
「ニーカ。ありがとう。あなたが、さっき、あたしを呼んでくれたのね……」
 里菜が小声で呟いて、マントの中から手を伸ばし、キャテルニーカの金色の巻き毛をそっと撫でると、眠っていると思ったキャテルニーカが、ふっと目を開けて、うっすらと微笑み、頷いた。
 そして、いつかと同じように、ひっそりと、こう言った。
「魔王は、かわいそうね……」
 そう言ったあとは、また、いつかと同じように、すぐに目を閉じて眠ってしまった。

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掲載サイト:カノープス通信
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