長編連載ファンタジー
 イルファーラン物語

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 <第二章 シルドーリンの宝玉> 


五(前)



 それから三日間、四人の旅は、何事もなく続いた。
 天候は大きく崩れることなく、キャテルニーカのおかげで里菜の体力もなんとか持っているし、狼も追い剥ぎも出なければ、他の旅人に出会うこともない。
 あの夜のことは、誰も口にしない。
 キャテルニーカは例によって一連の出来事をすっかり忘れてしまっているし、アルファードもどうやら、ただ、頭痛がして里菜やローイに無愛想な態度を取ってしまったというふうにしか覚えていないらしい。
 里菜は、それを、キャテルニーカのしわざではないかと思っている。キャテルニーカが、アルファードの記憶に何らかの操作をしたのではないかと。彼女には何か催眠術のような不思議な力があるのではないかと、山賊の一件以来、里菜はずっと思っていたのだ。
 けれど、今のキャテルニーカに、そのことを確かめようとしても無駄だろう。どうせ忘れているにきまっている。
 どっちみち里菜は、キャテルニーカが悪い目的でそんなことをしたとは思っていない。キャテルニーカがそれをしたなら、たぶんアルファードの過去が彼を取り返しがつかないほど傷つけるのを防ぐためにしたのだろうと思っているのだ。
 キャテルニーカは謎の多い子供だが、タナティエル教団の巫女であることから考えても、タナート神――ひいては、あの『魔王』――と何か縁のあるものなのはまちがいないし、実際、『魔王はかわいそう』などと言いもした。が、それでも里菜は彼女を全く疑うことができない。
 里菜も幾度か、考えてはみたのだ。自分が、キャテルニーカのかわいい顔や白痴的な無邪気さを装った態度に惑わされて、騙されているのではないかと。けれど、どうしても、そうは思えなかった。彼女からは全く、悪意や、歪んだものは感じられないのだ。そして里菜は、その自分の勘を信じることに決めていた。
 そうして四人はひたすら歩き続けた。
 里菜とローイが、あいかわらずたあいのないおしゃべりをしながら歩くまわりを、キャテルニーカが跳ね回ってはしゃいでいる。その先頭を、アルファードは黙々と歩く。
 夕方にはローイが狩りをし、アルファードがたきぎを拾うあいだに、キャテルニーカと里菜は、香草やきのこを集める。いくら暖かい地方とはいえ、キャテルニーカがいなければ、こんな冬のさなかに、こう簡単に食べ物やら薬草やらをみつけることはできなかっただろう。これもキャテルニーカの不思議な力のひとつらしい。
 夜には焚火を囲んで狩りの獲物と堅パンを食べ、食事の後はローイが歌をうたい、それから地面にマントを敷いて眠る。ローイは毎晩里菜に「一緒に寝ようぜ!」と声をかけ、里菜に悪態のつきかたを指導してはアルファードにたしなめられる。
 四日前までと、何も変わらない旅路である。ただ、まわりの景色だけが変わっていく。イルシエル山脈は背後に遠ざかり始め、ときどき街道の左手に現われるシエロ川は見るたびに川幅を増し、流れは緩やかになり、流れの左右に切り立っていた崖は狭い川原に変わる。森の木の種類が変わり、だんだん常緑の広葉樹が増え、緑が濃くなる。
 けれど、目に見えないところで、もうひとつゆっくりと変わりつつあるものがあった。
 それは里菜とアルファードとローイ、三人の関係だった。
 それまでどうにか彼らの間に保たれていた、ひとつの危ういバランスが、狂い始めていたのだ。
 それはたぶん、村から遠く離れるにつれて、里菜やローイの心の中から、ヴィーレの姿が薄れていったせいだ。今まで、彼ら四人のバランスをとり、なんとか仲良し四人組にまとめあげていたのは、実は、最年長でリーダー気質のアルファードでも、口達者で要領のよいローイでもなく、地味でおとなしい、はにかみやのヴィーレだったのだ。
 やさしいヴィーレを、誰もが好きだった。誰もがヴィーレを悲しませたくなかった。だから彼らは、ヴィーレ自身を含めて、誰も、誰かに向かって一歩を踏み出すことができずにいた。彼らは、それぞれの想いを秘めながらも、やさしい四角形を保つことを選んでいたのだ。
 だが、今、要《かなめ》のヴィーレが抜けたことで、そのバランスが崩れた。
 ローイは里菜に、里菜はアルファードに向かって、一歩づつ、足を踏み出そうとしていた。
 けれどこの時までは、里菜もローイも、まだ自分の気持ちの変化を自覚してはいなかった。ローイが自分の気持ちにはっきりと気づいたのは、その夜のことだ。
 旅に出てから六日目の夜。
 最初の夜はプルメールで宿屋に泊まったから、野営は五度目だ。準備もだんだん手慣れてくる。里菜も、キャテルニーカに教わって、食べられる野草をだいぶ覚えた。ローイは、いったいどうやって獲ってくるのか、今回も、ちゃんと山鳥を獲って来た。
 いつもどおりの楽しい夕べである。
 夕食のあと、いつものようにローイがキャテルニーカに歌をうたってやっていた時、焚き火をはさんだ向い側の倒木にアルファードと並んで――もちろん、例によって少し離れて――腰かけていた里菜が、急に身体をずらしてアルファードのすぐ隣に行くと、ぎこちなく硬い動作でアルファードに寄り添った。
 それが非常に唐突で、いかにも思いきって勇気を出して決行してみたという感じがありありで、しかも、アルファードの逞しい腕にそっと小さな手を掛けて恐る恐る凭れかかってみながら彼の横顔を盗み見る里菜の、そのおどおどした上目使いが、まるで、ここまでならやっても叱られないかなと飼い主の顔色を伺いつつ少しだけ行儀の悪い振る舞いをしてみる飼い犬そっくりだったので、はたで見ていたローイは、吹き出しそうになりながら呆れかえった。
(あーあァ、リーナちゃん、だめだよ、そんなんじゃ。何かの拍子にって感じで、もっと自然に接近しなきゃあ。自分たちは仲がいいんだからこれくらいあたりまえってつもりで、ごく普通に、堂々とさ。自分がおどおどしてると相手も気まずくなって退いちゃうんだぞ。俺もケツの青いうちは、それで女の子、何人も逃した……って、それはまあ置いといて……。
 でも、リーナちゃんって、ほんと不器用だよなあ。いかにも不慣れで、似合わなくて、無理して頑張ってるって感じがありありで、何か笑えるというか、見ている方が恥ずかくなるというか……。でも、そこが、かわいいんだよな……。健気で、いじらしくて……。
 ああっ、もう! かわいすぎるよ! なんでアルファードのやつは、あれ見て平然としてられるんだ? 鈍感とか堅物とか、そういう問題じゃないよな。あいつ、かわいいものをかわいいと感じる人並みの感性ってものを持ってないのか? それとも、もしかして、ほんとにホモか? どうせまた、逃げるんだぜ)
 歌いながらローイが横目で見ていると、案の定、アルファードは突然立ち上がり、必要もないのに焚火にたきぎを押し込んで、里菜から少し離れて座り直した。
(ほうら、やっぱり逃げたよ。なんてやつだ。つれないよなあ。リーナはなんとかあんたに近づきたくて一生懸命で、今のだって、あの子にしてみりゃずいぶん思い切ってしてみたことだろうに、あんただってそれはちゃんとわかってるんだろうに、それをあんなふうにわざとらしく無視するなんて、あんまりじゃねえか! かわいそうに!)
 焚き火越しにアルファードを睨みつけながら、ローイは、みぞおちのあたりに何か黒い霧のようなものがもやもやと沸き上がって来るのを感じた。それを、怒りだと思った。アルファードにかわされて叱られた犬のようにしょんぼりしながら、それでもまだアルファードの姿を目で追っている里菜が、ローイの目には、迷子のおさな子のように頼りなくいたいけなものに映り、その分だけ、その里菜をこんなふうにいじめている――ように見える――アルファードが、とんでもない冷血漢の人非人に見えてきて、ローイは、むらむらと腹が立ってきたのだ。
 ここ数日、ローイは何度も、このふたりのこんな様子を見続けてきた。もちろん、ここ数日に限らず、村にいたころから二人はずっとこんなことを繰り返していたのだが、このところ里菜が少しづつアルファードに歩み寄ろうとしはじめたのはローイの目にも明らかで、その分よけいに、ローイの目には、アルファードが里菜にひどく冷たくあたっているように見えていた。
 そしてそれは、あながちローイの思い過しともいえなかった。
 里菜は、アルファードの背中が遠く見えたあの夜から、その距離を少しでも早く埋めようと、どこかで焦っていたのだ。
 あのやさしい村を出てきてしまった今、里菜は本当によるべない身の上だ。見知らぬ異世界で天涯孤独の境遇で、この世界のことを何も知らず、魔法の力も無く、生活していく術も、何一つ持たない。そんな里菜にとって、この世界で頼るものはただひとり、アルファードしかいない。今ここで――あるいはイルベッザについてからでも――アルファードに見捨てられてしまっては、里菜はたぶん、生きてさえいけない。今の里菜にとって、アルファードにつれなくされるということは幼児が親に見捨てられるようなものであり、まさに死活問題なのだ。
 だからといって里菜は別に、アルファードに養って貰おう、守って貰おうなどという打算で彼に取り入ろうとしているわけではないが、それでも、アルファードにもっと近く寄り添いたいという願いが、里菜にとって、村にいた時よりももっと切実な、せっぱつまったものになってしまうのはしかたがない。
 そして、里菜をそんな心細い状況の中に連れ出したのは他ならぬアルファードなのだから、本来なら彼は里菜にこれまで以上に気を配って不安にさせぬように振る舞ってくれる責任があるのではないか――こうして自分を信じてついてきた里菜にその見返りとしてこれまで以上に親密に接してくれるべきではないかと、里菜は、心のどこかで思っている。
 そのひそかな期待と、ここへきてかえって彼を遠く感じるようになってしまった現実との落差が里菜をますます不安にさせ、その焦りが里菜をいつになく積極的に振る舞わせるのだが、里菜が押せば押した分だけ、今までと同じ距離を保とうとしてアルファードは退く。里菜もそれはわかっていているのだが、それでも、心細さのあまり、何度でもアルファードに縋りつかずにいられなくて、そのつど身をかわされて、ますますよるべない気持ちになる。
 そんな里菜の、彼女なりのせいいっぱいの積極果敢な行動が、あまりにも不器用で、一生懸命になればなるほど不似合いなので、ローイは、おかしくなるのと同時に、その板につかなさ具合がやけに愛しくて、なんだか胸が苦しくなるのだ。
(アルファードのやつ、あんな子にあんなに一途に慕われて、なんでああやって知らんぷりできるかなあ。俺だったら、あの子にあの縋りつくような目でじっと見上げられたら、もう、どうしていいかわからないくらい可愛くて愛しくて、ただもう、いきなり、力一杯抱きすくめずにはいられないだろうに……。あんまり愛しすぎて何が何だかわからなくなって、あの子がびっくりして逃げようとしてじたばたもがいたってもう絶対放してやる事ができないくらい夢中になって力まかせに抱きしめちまうかもしれないのに……! なのになんでアルファードは、あの子をあんなふうに、ひとり寂しくぽつねんと座らせとくんだ。ひどいじゃないか、もっとやさしくしてやれよ!)と、そこまで考えて、ローイは、
(でも……)と、思い至る。
(じゃあ、ここでアルファードがリーナをやさしく抱き寄せて、何か甘い言葉のひとつもささやいてやったとしたら? そのほうがいいと思うか?)
 その場面をうっかり想像してしまったローイは、さっきからずっとみぞおちのあたりでもやもやしていた黒いものが、急に石のように固まって重くなって胃の中にどしんと落ちてきたような気がして、思わずぎりっと奥歯をかみしめた。
(それは、やっぱり腹が立つじゃないか! もっと腹が立つじゃないか! だいたい、なんでリーナは、俺にじゃなくてアルファードなんかに懐くんだ? そもそもそれが間違ってるんだよ。俺だったら、絶対、もっとやさしくして、大事にしてやるのに。ひとときだって、あんなふうに心細そうになんかさせておかないのに。そうさ、俺だったら、さ。
 なのに、なんで、アルファード、アルファードなんだ。アルファードに冷たくされたら世界の終わりだ、みたいな顔してさ。こんないい男がそばにいて、しかも自分に惚れてるってのに目もくれず、まるで世界には自分とアルファードしかいないみたいに、あんな朴念仁の唐変木にばかり執着して、必死で縋りつこうとして。
 リーナちゃん、俺の存在、忘れてない? 世界に男はアルファードひとりってわけじゃねえんだぞ? あんないたいけな、いじらしい子が、世間知らずの余り、たまたま目の前にいるってだけのやつを世界でただ一人の相手みたいに思い込んで、そんなつまらん勘違いのせいであんな悲しい思いをしてるなんて、これは絶対、間違ってるよな)
 ローイの中に決意が生まれた。
(よおし、決めた。俺はリーナに告白するぞ。リーナがアルファードに惚れてるのはわかっているが、だからってあの子がやつにあんなふうに冷たくあしらわれ続けるのを黙って見ているのは、もう我慢の限界だ。リーナも、そろそろ目を覚ますべきだ。俺が目を覚まさしてやるよ。アルファードなんかより、もっとやさしい、いい男が、こんな目の前にいるんだ。それに気がつかずに、いつまでもアルファードなんかを追いかけてるなんて、リーナにとって、世紀の大損だ!)
 決心してしまうと、胃の中の石が少し軽くなったような気がした。
(だいたい、前から思ってるんだけど、リーナは、自分じゃ、やつに恋してるつもりでいるらしいが、あれはどう見ても、恋なんてもんじゃないよ。今のあの子がやつを見てるあの目は、恋する女の目じゃなくて、揺りかごの中にひとりで置かれた赤ん坊が母親の姿を片時も休まず目で追い続けている、そういう目だよ。それを、あの子は、あんまり世間知らずで、まだ恋ってのがどんなもんか知らないもんだから、恋だと思いこんでるんだ。
 アルファードは、一見モテてるようで、ありゃあ、実は、リーナから全然男だと思われてないんだよ。ご愁傷さまってなもんだ。惚れられてると勘違いして、いい気になって余裕こいてんじゃねえぞ。俺がこれからリーナに本当の恋ってもんを教えてやれば、あんたのことなんか、あれはほんとは恋なんかじゃなかったんだなって気づいて、すぐに昔話に――ただのほほえましい思い出になっちまうんだからな。
 うん、それじゃまず、アルファードの野郎に宣戦布告といくか。あいつはリーナにあんな態度をとってるんだから、リーナを口説くのにあいつに断わる義理もないんだが、あとで文句いわれると、つまらねえからな。さて、いつ話そうか。やつとふたりになる機会って、あるかなあ)
 考え込んでしまったローイを、キャテルニーカがつっつき、口を尖らせて文句を言った。
「お兄ちゃん、今、歌、間違えた! よそ見しないで、ちゃんと歌って」
「おっ。おお、悪い悪い。じゃ、次の歌な」
 そういってローイが歌い始めたのは、熱烈な恋の歌だった。
 ローイはそれを、心ひそかに、里菜に捧げるつもりで歌っていたのだが、それを知っているのはローイだけだから、はたから見ると、キャテルニーカにラブソングを捧げているようにしか見えない。ローイはまた、歌っているうちに目の前にいるのが里菜のようなつもりになって、思い入れたっぷりに甘く歌いあげながらキャテルニーカを熱いまなざしで見つめたものだから、里菜はアルファードにひそひそと囁いた。
「ねえ、こないだから思ってたんだけど、ローイって、やっぱりちょっとアブなくない? ほら、あれ見てよ」
「いや、別に、おかしなつもりはないと思うんだが……」というアルファードの答えも、ちょっと自信がなさそうだった。
 そんなことを言われているとは露しらず、ローイは里菜への熱い思いを込めて愛の歌を歌い、キャテルニーカは、がぜん熱が入ったローイの歌に満足げに聞き惚れて、野営の夜は更けていった。

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掲載サイト:カノープス通信
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