3 熱情

3.1 追っかけ

「追っかけ」という人々をご存知ですか?

好きな選手に会うために,世界中に出かけます。
世界のどの国で行われる試合でも,観客席に座っているので,知らない人は不思議に思います。
関係者だと見られているかもしれません。
日本国内の試合でも,「追っかけ」の姿を見ることはできます。
試合が終わったあと,普通の観客は,用意された観客用の出口から会場を出て,近くの駅へと向かいます。
「追っかけ」は違います。
普通の観客用の出口ではなく,関係者用の出口へと向かいます。
そして,そこで選手が出てくるのを,いつまでもいつまでも,根気強く待ちつづけるのです。
これを「出待ち」といいます。
もちろん「入り待ち」もあります。
さらに「つわもの」の追っかけは,選手の宿泊するホテルにまで「追っかけ」ます。
いやいや,最初から選手の泊まるオフィシャルホテルに,自分も宿をとっているのです。

何らかの方法で。

3.2 追っかけ(ないファン)

「追っかけ」をしないファンは,どうなのでしょう?

ファンは,みんながみんな,あきれるほど熱狂的というわけではありません。
「追っかけ」はしないけれど,秘めた思いを抱きつづけて選手を愛するファンもいます。
それが「追っかけないファン」,あるいは「普通のファン」です。
でも,「追っかけ」と「追っかけない」ファンは対極的な存在ではなく,実際はこの二つのタイプの間は,連続的につながっていて,個々のファンは,そのどこかに位置しているのではないでしょうか?
それは,個々人の性格や年齢,ファン歴,周囲の環境で変化していくのでしょう。
選手とファン,その間に発生する恋愛感情は,ファンが勝手に選手を好きになる,という一方的な,また,抽象的な感情でした。
しばらくファンを続けていると,そのうちまた違った気持ちで,選手と接するようになるといいます。
親しみ,一定の個人的な,具体的な思い,それは恋愛を超えた感情「シンパシー」であると聞きます。


3.3 競技者

ファンにとって重要なことは,選手とは競技者であるということです。
競技者とは,戦うことを使命としている人なのです。
そして戦いには,必ず結果がついてきます。
勝ち負けというものがあるので,ほとんどの選手は実は「負け」てしまうのです。
なぜなら,チャンピオンは,ただ一人ですから・・・。
残念ながら,多くのファンは「選手の負け」を体験しないといけません。
常に,チャンピオンになる選手だけを応援するファンがいたとしたら,その人は「アイドルの敗北」を経験することはないでしょう。でも,そんな移り気な人間を,「熱狂的なファン」とは言いません。

波はある

特定の選手を好きになり,ファンを続けていれば,やがてあなたはその選手の浮き沈みに,つきあわされることになります。
人間であれば,調子の変化はどうしても起こりうるものです。
スポーツマンである以上,好調のとき,不調のときが来ます。
ファンは,好きな選手の調子のいいときの姿だけではなく,調子が悪くて落ち込んでいる姿,成績が伸びずに人気が落ちた姿を,必ず見ることになるのです。
そのとき,あなたはその選手のファンであることをやめるのでしょうか?
それとも,そのままファンを続けて,その選手を助けてあげたい気持ちになるでしょうか。でも,どうやって助ければいいのでしょう・・・・?


選手が不調のとき,選手にできることは,自分自身の努力で切り開くことです。
練習を重ね,調子を上げ,試合に全力で臨む,それだけです。
コーチやトレーナーに支えられながらも,最終的にはその結果は,自己責任です。
「神だのみ」もするでしょうが,結局は自分の実力で結果を出します。
選手は自分で自分を救う「自力本願」なのです。


一方,ファンは自分の努力で,選手の不調を改善することができません。
なぜなら,ファンは自分では競技をしないし,演技をしないからです。
自分がいくら,努力・練習したって,選手にはまったく無関係なことなのです。何もできない・・・。
選手が舞台に上がっても,ファンはただ見ているだけです。
つまり選手の成績という,ファンにとってもっとも大事な結果に対し,ファン自体は完全な「他力本願」なのです。
「他力本願」しかないとき,私たちは手を合わせて祈ります。できるのはそれだけですから。

ファンには,祈ることだけしかできません。それ以外にいったい何ができるというのでしょうか?
それは「応援」です。
つまり「応援」とは祈りであり,「応援」はファンの行動の最重要テーマなのです。

「祈り」とは,本来,直接的な関係がない二つの出来事に,何らかの「因果関係(原因と結果)」があると信じ,望む結果を求めて行う,原因に相当する行為である,といえましょう。
ファンの「応援」とは,その応援が,選手の成績に何らかの結果を及ぼすはずがないにもかかわらず,何かの効果をもたらすと信じて行なわれる行為であります。

しかし,こんな面倒くさいことをいう私でも,スケートの試合会場における,ファンたちの応援と選手の最終成績との間に,因果関係がまるでゼロである,とはとうてい思えません。
私にも「祈り」を信じる資格があるのでしょうか。


選手とファンの関係は神と人間の関係

選手は自力本願で,自分で自分の運命を切り開く,しかし,ファンは完全に他力本願で,選手の運命を祈るだけ・・・。
この,二者の関係に似た関係を,私たちは,ほかに知っています。

それは,神と人間の関係です。
人間は,神に祈りをささげるだけです。祈りの結果,良いことがおきても,悪い結果になっても,たとえどんなことが起きても,それは「神のなさること」と,受け入れるだけしかありません。

ファンにとって選手は,神も同じ。何が起きても,受け入れるしかないのです。
勝っても負けても。


3.4 復活劇

小説にはいろいろなスタイルがありますが,単純化してみると基本的構造は,はじめに平常があり,次に出来事がおきて解決があり,最後はまた平常にもどる,という「起承転結」の形式でしょう。
出来事とは,「病」,「トラブル」,「事件」などで,それをくぐりぬけて,最後にはより新たな「主人公」,より新たな「人間関係」になります。
最初と最後は,同じ平常なんですが,まったく同じではありません。環境的には元の状態に戻っていますが,人間はただ元に戻るのではなく,体験を通じてより新たな状態に変化しています。
読者は,この主人公の変化の経過を,小説を読むことで「疑似体験」して何かを感じ,また作者はこのメカニズムを通じて,自分の世界を読者に伝える,というのが小説でしょう。
この世に存在する「ドラマ」の中で,もっとも感動するのが,復活劇です。途中で一度「落ちて」またそのあと「起き上がる」という復活劇こそ,ドラマの王道,ストーリーの王様です。それは,この小説の基本スタイルの,もっとも明快な実行形式だからです。
復活劇のシナリオは,いろいろなストーリーの中で,もっとも感動的です。読み手が,感情移入しやすいからです。
そのような,ストーリーの王,復活劇ですから,スケーターについても,復活してくる選手,落ちてあがる人は,大きな感動を与えてくれます。それが,大好きな選手だったら,その復活を心の底から祝福するのではないでしょうか?
我がことのように喜び,そして愛が深まる・・・。

心配な選手にのめり込んで

「いつも調子がいい」選手なんてものは,存在するのでしょうか?選手には,好調不調があるでしょう。
実力はあるのに恵まれない選手,そういう選手もいるものです。
そういう選手を好きになったファンは,いつも心配させられることになります。

「心配にな選手を,目を離せない・・・・・・」
「母性本能をを,刺激される感じがする。」

そんな言い方をする人に,合ったことがあります。
そうです,保護者的感情によるスケートファン,心配する親的視線・・・,これもありでしょう。

ただ,「母性本能をくすぐられる」という言い方には,やや微妙なニュアンスを感じますが。
---------------------------------------------------
PS: もちろん,「父性本能」も,くすぐられます。



3.5 キーワードはドラマ

 観戦のキーワードは「ドラマ」です。

スポーツ観戦はドラマの鑑賞

 「ドラマがあるからスポーツを見て楽しい」という理由は,フィギュアに限らず,どんなスポーツにも共通するものです。 

作られたドラマを見て涙するのはクヤシイ

 「ドラマ」という言葉は普通「芝居」の意味で使われます。
「ドラマ」=「感動」ですから,それを作品として人に見せる産業は,「芝居」です。うまく作られた芝居・映画には,上手に感動させられてしまいます。
でも,作られた「ドラマ」だと知っているから,感動しつつも,なんとなく「やられた」という感じがして悔しいものです。
スポーツのドラマは,作られたものではない,本当のドラマですから,素直に感動できます。

 

機械の競争もスポーツ(人間のドラマ) 

車や,バイクのレース観戦というものがあります。機械が動いているのを眺めています。おもしろいのでしょうか?
たとえばマラソンなら,ランナーの表情や感情が伝わってきますから,ドラマを感じます。
マラソンを見ることは,楽しい興奮する「スポーツ観戦」だといえましょう。

マシンのレースはどうでしょう?

バイクならライダーの姿が見えますから,「人間が乗っている」という感じがします。ドラマを感じやすいでしょう。
自動車のレースでは,ドライバーの姿は見えません(見えるのもある)。機械が追いかけっこをしているだけです。でも,私たちは人間ですから,その機械の中で,生身の人間がハンドルを握りマシンを操っていることを知っています。
機械の中に人間がおり,抜きつつ抜かれつの「ドラマ」演じていることを,見えていなくても見えていますから,やはりレース観戦は,立派なスポーツ観戦なのです。

同じ様に車が走っていても,家の前の国道を走る車を眺めているのは,これをスポーツ観戦とは言いません。
そこにドラマがないからです。

中に人間がいても・・・。


3.6 親近感

日本選手
ここで,「日本人選手だから応援する」という行為についても考えておきたいです。
同朋だから応援するという選択もありでしょう。
夏の甲子園の高校野球で,地元の(出身地の)学校だからというだけの理由で,母校でなくとも応援してしまうことはよくあることです。地元であるという連帯感は,強いものです。
スケート選手のファンになるというきっかけに,地元連帯感があるかもしれません。
親しみ,近しさからファンになるということはあるでしょう。

親近感から始まる恋
パート1で,私は,人がスケートファンになるきっかけに,直接的に感情に訴えてくるものから原因する「恋愛感情」というものを,強調しました。
しかし,「親しみ」「親近感」から始まるファンについて,もう少し考察するべきかもしれません。

go