応援
花束
リンクサイド(席)






リンクサイドのコミュニケーション

フィギュアスケートの試合の会場,そこはドラマの舞台です。
演じるのは選手たち。
スケートという競技で演じます。

だが,その舞台の見えないところにはもうひとつの舞台があり,もうひとつの演技が演じられているのです。
そこでは,観客が演技者なのです。
ファンが演じる「応援」という演技です。

つまりスケートの試合会場は,リンクの中と外の両方に,演技の場があるのです。

パート3で,私は,「祈りとしての応援」について説明しました。
パート4では,コミュニケーションとしての応援について,言及します。









花束
スケートの競技会に行くと,選手が演技を終えたあと,観客が花束をリンクに投げ込むのを見ることができます。
会場では投げ込み用に花を売っているし,リンクに落とされた花を拾う役目の子供スケーターが準備されていますから,公式な行為と認められていると考えられます。

この花投げっていうのは,いったいいつごろから始まったのでしょうか?



私の印象では「物をリンクに投げ込むのは,危ないし,試合の邪魔になっている」と感じます。
これは,私が「実践系」スケートファンだから感じるものです。
氷の上に物が落ちていたら,危険なのです。
何か物があって,ターンのときにエッジが引っかかると,大転倒します。

試合のとき,1グループ終了するごとに,丁寧に氷を整氷するのを見たことがあると思います。


花投げって,何でしょう?
昔はそんなにリンクに花を投げ込んではいませんでした。
プレゼントを手渡ししている人はいましたが,あまり多くはなく,選手は自分で受け取っていました。
時々は選手が帰ってしまったために,仕方なく氷の中に落としてしまうようなことはありました。
しかしこれも例外的な感じで,今のように,みんなで大量にリンクに花を投げ込むような状態ではありませんでした。

友達同士で,プレゼントを贈ったり贈られたりするのはいいことです。
「物」に「気持ち」を込めるということは,有りだと思います。
知り合い同士のプレゼントは,確実にその品物が相手に手渡る,ということが大事です。

スターとファンという間柄は,お友達同士,知り合い同士の人間関係とは違っています。
片方は有名人,一方は庶民。 ファンのほうはスターをよく知っているけど,スターはファンの一人一人は知りません。

ファンのほうからの一方的な「愛」です。
それは,もしかしたら利己的な思いかもしれません。


スケート場の花投げはプレゼントか?
スケート試合会場の「花投げ」は,無形物を有形化するための儀式ではないでしょうか。

「好きだ!」という気持ちはファンの胸の奥にあり,形が無いので取り出して見せることができません。
でも花を買うことにより,「好きだ!」という気持ちが,リアリティのある物体となって,自分の両手の中に存在することになります。
これは楽しいことです。
形の無いものが,自分の手の中に具現化して存在しているのですから,自分自身の気持ちを高めるにも,最高です。

ファンたちが,スターに投げるために用意した花束には,確かにファンの気持ちがこもっていると言えましょう。

いざ選手の演技が終わって,花を投げる段になると,他のファンとの「花投げ合戦」になります。
そのとき,ファンの気持ちは,「花束」という「物」から,「花投げ」という「行為」に移っているように私には見えます。

「物」に気持ちを込めることができるように,「行為」に気持ちを込めることも可能です。
ファンのスターへの気持ちは,「投げるという行動」に移り,さっきまで気持ちの主体だった「花」は,「投げるという行動」を実現するための道具になってしまいます。
観客席の「花投げタイム」の中で,先を争って花投げをするファンたちの選手への気持ちは,渡されるはずだった花束から,「投げる」という行為に移動し,投げることに気持ちの中心が移っています。

しかし,これには,ある効用があります。
通路を駆け抜け,力いっぱい投げるという行動により,「好きだ」という気持ちは,体験という具体的な想い出となって,はっきりと記憶されることになります。
好きな気持ちを自己確認し,より確かに自分の記憶にとどめることができるのです。

ですが,その結果氷に落ちた花束は,まるで「使用済みの切符」のような存在になってしまっている,と私の目には見えます。
ファンたちは,投げ終わったあとの花束が,どう扱われるのかは,そんなに気にしていないように見えます。
事実,落ちた花束は子供が拾って集め,キス&クライで選手に手渡されるのですが,あまりに多すぎるときは,そのままゴミ袋に直行です。

先ほどまで「好きだ」の実体であった花束も,既にその時点では魂が抜けてゴミになっているのですから,それでいいのです。
実際,ファンたちも投げ終わったあとの花束の取り扱いに対して,特別文句を言うつもりはなさそうです。


試合会場の特別な雰囲気
別の視点から考えます。
ハレの場では,散財(お金を無駄づかいすること)に意義があります。
お祭りのときにケチな行為は禁止です。

取りあえず,花投げをする予定がなかったファンでも,「投げ込み用」に売っている花を見れば,つい買ってしまうという消費行動には合理性があります。
投げ込み用の花束は,どこかで飾られるための物ではないのですから,花屋にお金を払った時点で,そのお金は捨てているのです。
「選手に(リンクに?)投げる花を買う」という行為自体に,散財というカタルシスがあるのです。


周りの人々が花投げを見ている,ということの意義
花投げは,皆が見ている前で行われるので,どの選手に投げるかということが,「私がどの選手を好きだ!」ということを第三者に認証させています。
投げ込む人の数,投げられた花の量は,その選手の人気度を示すバロメーターです。
それが,周りの人々に見えるので,第2のジャッジともいえます。


物投げゲーム
さらに発展して考えれば,花投げをする人にとって,花をうまく投げられるかどうかに,ゲーム的なおもしろさもあります。
2階席からリンクに入るようにちゃんと投げられるかどうか,うまく届いて選手が手にしたら,ポイントが高い。
リンクサイド席に落ちて,観客,ジャッジの頭にあたったら,減点・・・・・
「物」を「的(まと)」に当てるスポーツはいくらでもあります。ダーツ,アーチェリー,ボーリング・・・etc 

ファンたちの花投げが,「花束投げ」というスポーツだったとしたら,そしてその投げる行為が表現の一種だったしたら・・・,やはり観客席は,第二の舞台と言わざるをえません。










リンクサイド席




リンクサイドから,プレゼントを渡すファン。
お返しは,キス。



試合の合間に



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