1.始まり
2.恋愛
3.かなわぬ恋
4.外見
ライン

始まり

観戦系スケートファンの始まり方には,一定の決まりというものはありません。

人間がさまざまなのと同じく,その始まり方もいろいろでしょう。

特定のスケーターを好きになってファンを始める人もいれば,そうでない人もいます。

でも,「熱狂的なファン」の場合「特定のスケーターのファンではないけど,熱情的にスケートファンである」ということはほとんどありえないでしょう。

きっと,「誰かのファン」から始まったものと思います。

なぜならば,人が「熱狂的に」何かに夢中になれる,その最高のエネルギー源は,それは「恋」だからです。

ライン



ライン

恋愛

恋愛で,それは始まります。
ある特定のスケーターを好きになること,それが恋愛。
スケートファンは,運命により,その選手と出会いそのスケーターを好きになるのです。

人がどのように恋愛を始めるのか,このことを考えるのは,ばかげています。
もともと「タイプ」な人がいてその人に出会ったから恋に落ちるのかもしれませんし,出会ってから恋に落ちて,あとで考えて「タイプだった」ということに理由づけられるのかもしれません。
そんなことはケースバイケースでしょうが,とにかく,ここから始まるのです。

特定のスケーターを好きになる

ある日,ある特定のスケーターを好きになります。
「恋」におちます。
具体的に,人は,なぜフィギュアスケーターのファンになるのでしょう。
いや,もっとはっきりいうと,私たちはどうしてフィギュアスケーターに,恋をしてしまうのでしょう?
ある人が,フィギュアスケーターと出会うきっかけは,いろいろです。
ふと見たテレビのスケート中継だったり,なんとなく関心があって出かけた試合の会場で見かけたのだったり・・・。
でも,スケートの試合には,男子シングル,女子シングル,ペア,アイスダンスとカテゴリーがあり,ひとつのカテゴリーにも,複数の選手が出場しています。
その中で,特定の選手が特に良かった理由は,いったい何だったのでしょうか?
ライン

かなわぬ恋


「我々は,フィギュアスケーターのことを,どのように好きになるのか」

人は,なぜフィギュアスケーターのファンになるのでしょう。

いや,もっとはっきりいうと,私たちはどうしてフィギュアスケーターに,恋をしてしまうのでしょう?

ある人が,フィギュアスケーターと出会うのは様々です。

ふと見たテレビの中継だったり,なんとなく出かけた試合の会場で見かけたり・・・。


「スケーターとはどんな相手か」

スケートの選手と私たちの間柄はどうでしょう?

遠くの外国の人であったり,また同じ国の人であっても,毎日同じ電車に乗ったりするような,そんな身近な存在ではないことがほとんどです。

そういう人物に対して恋をしても,一生に一度だってデートが実現できるわけがないです。

恋する思いを受け止めてもらって深い関係になることなんて,決してありえません。

そんなにもかけ離れた存在である人物に恋したって,まったく無意味なことのように思えます。

でも,好きになる・・・・いったいどうして?

身近な存在でない人を好きになるってどういうことなのでしょう。


「スケーターの表現するものは二つある」

ここで話は変わり,フィギュアスケートの試合の形式について考えます。

フィギュアというスポーツの特徴についてです。

フィギュアには,勝ち負けを決める単一の尺度,例えば速さとか,長さとか,重さとかがありません。

スケートという競技は演技の競いあいであり,スケーティング技術が優れているのみならず,美しさも競わなければなりません。

表現力というものを求められるのです。

この「表現力」って,いったい何でしょう?

単なる運動能力だけではない,情に伝達する力を求められるのです。

選手には,審判に芸術的な何かを伝えなければならないというノルマがあります。

メンタルな表現を要求されているといえましょう。

選手は,どうやって伝えているのでしょう。

選手は,自分の内なるものを,演技というボディランゲージで伝えます。

では選手は,何を伝えているのでしょうか。


「我々の現在のコミュニケーションは」

ここでまた話は変わります。

私たち現代の人間は,他人とコミュニケーションするとき,主に言葉を使います。

言葉による意思の伝達は,実は,私たちが霊長類=人類となって使いはじめたコミュニケーションの方法です。

が,それより以前,私たちがサルだったころ,彼らは,まだ言葉を使うことができなかったわけですが,では,コミュニケーションがなかったかというと,そんなことはありません。

私たちの先祖は,言葉を使わずにコミュニケーションを行っていたわけです。

それは,身振り,手振り,表情など,身体に表わされるもので,伝えられていたはずです。


「私たちの先祖が言葉を使わず伝えあった,重要な情報とは」

おサルさんたちが伝達したのは,「天敵が来た,危険だ!」などの生命にかかわる内容の情報だったでしょう。

そのほかに重要なコミュニケーションは,繁殖行動にかかわるものではないでしょうか。

つまり,おサルさんたちは,言葉ではなく体で表されるコミュニケーションで,愛を伝えていたのです。

そして,体で表される表現から愛を感じとっていたというわけです。


「従って我々はスケーターの動きから,何かを感じとってしまう。」

フィギュアスケートの競技において,選手はルールにより,フィジカルな表現とメンタルな表現を,自分の最高レベルの力で表わします。

この二つをちゃんと示さないと,チャンピオンにはなれないからです。

フィギュアスケートを観戦する私たちは,選手の運動能力だけを見ているのではありません。

私たちは,選手の動きから,表現しようと強く求めて外に表しているものを受け取ります。

私たちが,人類になるずっと以前から使ってきた,体で表されるコミュニケーションです。

だから,我々が,フィギュアスケーターの演技の芸術的面を,恋愛を表現しているのだと受け止めて,何の不思議がありましょう。

その動きが,「好きだ!」と言っているのだ,と思ってしまうのではないでしょうか?

そう感じるのが,当然です。


選手が演技の中で,突然立ち止まったり,ふと顔を上げたり,手を差し上げたり・・・・・・・。

その行為に何の意味があるのでしょうか?

「君が好きだよ」

といっているのでしょうか。

「ここで手を上げると,6.0だ」

と思っているだけなのでしょうか?

演技を終わったあと,ニコッと選手が微笑みました。

何を意味しているのでしょう?

うれしいのか,気分がいいのか,恥ずかしいのか,顔が引きつったのか?

それとも,「あなたが好きだ」と言っているのか・・・・・・。


そのようにして,私たちはフィギュアスケーターの動きから愛の告白を感じとるのです。

からだで表現されたものを,恋の告白と認識してしまいます。

そういう生物的な歴史があるからです。

ですから,私たちはテレビを見ているだけでも,フィギュアスケーターに恋愛してしまうことができるのです。

それはきっと,言葉で伝えられるものよりも,ずっと,根源的に魂をゆすぶられるものでしょう。

「ずれが生じる」

選手の意図とは無関係に(選手は定められた競技規定にそくしてメンタルな表現を行っているのに),こっちは勝手に選手を好きになってしまうわけです。

はっきり言ってしまえば,単なる勘違い。

向こうは愛を求めたわけではないのに,こっちは深い愛を感じているという,選手とファンの「アンバランスな人間関係」が,始まりました。


「開き直って行こう」

勝手な思い込みで,おきてしまう恋。

それは,ある意味で不幸な関係ではありますが,実はこれは「ファンとアイドル」という関係の,すべてを表しています。

ライン

ライン

外見

恋愛の基本として,外見の良さ,すなわち,美男,美女かどうかというのは,影響があると思います。
スケートというスポーツのファンであるという点から考えると,外見のことをいうのは邪道であるかも知れませんが・・・・・・。
人が人を認識するとき外見が重要になる理由については,「2.理由」で詳しく。

ライン

ライン

二つの恋

私たちは,実際に身近な人間と恋愛関係(片思い)にあるとき,なぜか恥ずかしくてそのことを隠したりします。周りの人間に隠したり,二人だけの秘密にしたり・・・。

ところが,アイドルに対する恋愛感情,誰かスターを好きになったとき,私たちは,逆にそのことを周りの人に,知らせようとします。

「私,**のファンなんです(*^^*)」

「**,大すき〜」

二人だけでする本当の恋愛と,スター(アイドル)とそのファンという一方的な恋愛,この二つの恋愛には,大きな違いがあるのです。

アイドルは,何かを表現する,表現者であることが多いです。
歌手,役者,作家,スポーツ選手・・・・・。
何も表現しないアイドルは,いるのでしょうか?

何かを表現する発信者と,それを一方的に受けとめる受信者・・・。
身近な存在ではない,アイドルとファンの関係の恋愛とは,一方通行な流れというものが決定してしまっており,身近な人間とする恋(相互に表現し流れがある恋)とは,異なる恋愛であることは,間違いありません。

「恋に変わりはない」という言い伝えが本当なら,私たちはこの状態に我慢できるのでしょうか?
ライン

ライン

見たい会いたい

やがて,気持ちが盛り上がってくると,どうしてもテレビだけでは満足できなくなって,実際に滑っている姿を見に行きたくなります。
「私の価値観としては(試合場の観客席で)TV観戦の方がましな席は存在しません。一方,TVよりアップで観られる席も存在しません。」
これは私の友人の言葉です。
ある日,ニフティのスケート会議室に,スケートの生観戦に行きたいけれど,テレビ観戦とどれくらい異なるかを問う発言があったとき,こう答えたのです。
至言です。
テレビで見るスケートと,実際にリンクサイドで観戦するスケートは,まったく異なっています。
選手を見るのか,スケートを見るのか,試合を見たいのか,解説の有り無し,・・・。

でも,熱狂的観戦系ファンにとって,生観戦の意義は,愛する選手を生で見ること,同じ時間を共有することにあるのです。そして,生観戦でしか実現できない重要テーマ,それは選手とのコミュニケーションなのです。

さあ,あなたも好きな選手ができたら,スケートの試合が行われる会場へ行くしかない・・・。 Let' Go !

ライン

次へ