第5連隊遭難に関わる福島大尉の沈黙
1 雪中行軍手記の公表と沈黙、
福島大尉が田茂木野に到着した29日、第五連隊210名は23日田代への一泊行軍に出発したが史上最高の寒波が襲来し、全員遭難・彷徨に陥る。27日になり、捜索隊が後藤伍長を発見・救出し、その報告により、第5連隊長は捜索・救出に全力を挙げるが折からの悪天候で動けない状況にあった。田茂木野で状況を把握して福島大尉は好むと好まざるとにかかわらず第五連隊遭難の陰に隠される運命にあり、自隊が遭難を際立たせる皮肉な立場にある、と悟る。帰営後、収束のため陸軍挙げて取り組んでいる時に軽はずみな言動を避けなければ、と理解しつつも、軍の真摯かつ前人未踏の試みとその成功を書きたい強い思いを消すことは出来なかった。児玉陸軍大臣は下士制度・徴兵制度全般に深刻な影響を与える陸軍の問題、下士のなり手がない、にも関わらず、下士の多くを失った。三一連隊は地元青森の若者が入営するが、五連隊は岩手、宮城の若者が入営していた。岩手、宮城の徴兵隊区変更の希望を激化させる恐れがあるという二つを深刻に認識していた。興味本位な報道の弊もあり、こういう時だからこそ国難日露戦に備え非常の困難を究めた精鋭の真姿を書かねばならないと福島大尉は帰営後、己の為すべきと信じる公表を模索した。決め手は遭難事故取り調べ間の途中情報であった。それは一つに予測不可能な天災である。二つに第五連隊の時は非常の悪天候で第三一連隊はそうでも無かった。三つに大隊長の指導で兵に小倉服(夏服のこと)を着せ、嚮導を使わなかった等であった。従って一からは収束の大まかな方向が見えてきた。二からは条件が違うので公表は構わないはずと判断出来た。三からは福島大尉が不可欠と考えた嚮導及び全員冬服(ラシャ服)が五連隊には嚮導なし及び兵士は小倉服(夏服)と欠落している。福島隊の成功の原因が五連隊の失敗の原因と両極端であることに気づき、小倉服や嚮導について触れなければ構わないはず、と判断した。かくして公表への堀は埋まったが、嚮導の表現を絞る。服装は書かない。非常の困難に備えた準備をその場面に応じて簡潔に記述する、と三つの配慮をして、手記を公表した。
2 論文「影響」・論文「一慮」における下敷きという形での沈黙
後に論文「影響」でも論文「一慮」でも八甲田山の体験について語らない"沈黙"する"下敷き"は一貫した。八甲田山雪中行軍はすべての仕上げであり、そこに至る事前の成功体験は切り離せない一体のもの、即ちすべてが八甲田山雪中行軍を語ることになる、と福島大尉は考えていた。遭難直後にあった新たな危機に波及する恐れはなくなったが遭難を悼み、関係者や第五連隊をそっとしておくべきと考えていた。靖国神社合祀はされなかった。ならば自分流の弔意を貫こう。それは成功体験に触れないことであった。自分の得意を封じ、沈黙をする。論文の説得力を翳らせてでも思いやりを掛けるべき、として"下敷き"とした。福島大尉ならではのもののふの情(なさけ)であった。 トップへ