四つ、 黒溝台会戦における棄命
山形第三二連隊に動員が下令されたのは六月七日、九月二日に山形を出発した。一〇月一四日正午大連湾の柳樹屯に上陸した。第八師団は一〇月六日から大連に上陸を開始したが第三軍の旅順攻撃が失敗し、沙河の会戦も膠着したまま年を越し、総軍予備のままであった。一月二五日未明、突如露国第二軍団一〇万五千百が日本軍の左翼、騎兵旅団主体の秋山支隊に襲いかかった。同日正午第八師団は黒溝台方面の敵攻撃を命ぜられ、同師団は急行し、二六日朝から二個旅団並列で攻撃したが降りしきる雪と酷寒下、甚大な損害を出しながら死闘を続けたが、次々に増派される露第二軍に圧倒され、至る所で戦線崩壊の危機に瀕した。ことの重大さに気づいた総司令部は他の正面から二個師団を引き抜き、ようやく二八日午前一一時頃に両翼を固め、総攻撃で黒溝台を奪回する態勢が整った。第八師団は二七日払暁、三個旅団並列攻撃に改めた。予備は第一六旅団三二連隊三大隊(長湯浅少佐、九、一〇中隊、即ち在福島中隊)を含む二個大隊となった。翌二八日午後二時三五分、最後の予備第三二連隊三大隊(湯浅大隊)は右翼隊岡見旅団に配属され、老橋正面の小丘阜に湯浅大隊(福島中隊)は投入された。福島大尉は二八日午後一時頃、部下に訓示した後古城子を出発している。午後三時二〇分到着と共に、直ちに同地に展開した。同大隊も熾烈な銃砲火を浴び、湯浅大隊長を始めとして多くの死傷者をだした。この中、軍刀国安を振りかざし先頭に立ち、俺に続け、と進んでいた福島大尉は胸を撃ち抜かれ壮絶な戦死をした。午後四時頃であった、という。二八日夜、福島大尉亡き後、黒溝台一番乗りの遺志を継いだ一〇中隊は左第一線として夜襲を行い、敵前三〇〇㍍に損害を受けることなく近迫し突撃を敢行した。黒溝台東北による敵を駆逐し午後一〇時五〇分同地を略取し、敵の反復攻撃を跳ね除け固守した。全軍で始めて黒溝台に取りつき、終に黒溝台の一角をこじあけた。これが呼び水となって二九日朝敵影をみず、全正面で前進開始、一〇中隊は土台子に進出し最前線で敵の黒溝台奪回に備えた。大使命を果たすため先頭に立って突っこみ自らは死ぬが勢いを作り、黒溝台を奪還し、春における奉天会戦の態勢確立の基盤を確立した功は大きい。

福島大尉の心 - 福島大尉から武人の心探求記念館