一つ、八甲田山雪中行軍
八甲田山への道のり
中隊長として己のなすべき処を得た福島大尉は行動標準提言を目指して冬季作戦研究とその一環としての一連の演習・実験行軍を行う。福島大尉は現行野外要務令には不備があり、これでは戦えない、兵を守れない、という危機感を持っていた。一連の演習・実験行軍等を雪中行軍に行き詰まった場合を想定して雪中露営演習(明治三三年二月六日一五時~七日朝)から始めた。同演習で、猛吹雪下でも現地の雪だけで作る露営施設構築法や掩蔽よりも側屏が有効である等を実証した。次いで岩木山雪中強行軍(明治三四年二月八日~九日)を行い、教育中の下士候補生で二個部隊を編成し、大吹雪下の積雪路上強行軍(一〇〇?)と大吹雪・深雪下の岩木山越え(山地五〇?)を行った。いずれも極限状況、未知の困難であった。嚮導は必要との深刻な体験に加え、九名の昏倒者が発生したが翌日は回復した事実を分析し、原因は空腹・疲労であり、間食や休憩・休止を工夫すべし。睡眠と休養と労働のバランスに留意した行程とすべし等長途行軍の目処をつけ、現地の雪になれた下士の知恵を吸収すればより厳しい強行軍に耐えられるという確信を得た。夏季強行軍(明治三四年七月二六日~三〇日)を行い、下士候補生に夏季において要求し得る最大限の行軍力を試み、同時に弘前から五戸の間に横たわる十和田山脈の偵察と道路図を作成した。秘かに構想中の長途連続山岳通過雪中行軍の準備であった。実施報告書の立見師団長の批評が八甲田山雪中行軍への扉を開いた。八甲田山での寒風吹きすさび吹雪常態の厳しさは想像外。そこに敢えて挑む。それには来るべき対露戦は冬季大陸での酷寒の戦いというビジョンを見据えここに慣れる、予想外に挑み戦場の未知を減らす、露土戦争に於ける露軍のバルカン山越えに並び越えるという三つの動機があった。それらを満たすのが厳冬期の八甲田山や中央山脈であった。
構想の具体化と周到な準備
福島大尉は以下を構想し、その通り実施を命ぜられた。目的は研究調査と下士の教育、時期は厳冬の一月中下旬、全行程は二三〇?余、九泊一〇日(弘前~十和田山脈越え~三本木~田代台~八甲田山麓越え~田茂木野~青森~梵珠山脈~弘前)、やむを得ず露営の場合も予期する。大問題は二つ。一に行軍に行き詰まり露営せざるを得ない場合がある。二に長丁場すぎ補給や休養が困難。一について難所を的確に見積もる。田代台での露営に本気で備え、雪中露営演習の成果を目処とする。二について村落に休養宿泊を依頼し、隊員を身軽にすると同時に睡眠と休養と労働のバランスを取った行程とする。その他、埋雪下の道筋を外さないため全経路部内・外の嚮導を使用する。雪国(現地)出身で能力の高い者を選抜し少数精鋭編成とする。計画準備の重点は危害予防【難所対策・落伍者防止】と研究調査計画である。計画の要は、任務上、十和田山脈と八甲田山を夫々横断できるか否か、その難易を探討すべし。研究調査一三項目を見習士官及び医官全員に分担させ、他は班員を命じる。危険見積もり上、難所は十和田山(岩嶽森)、十和田湖岸道、犬吠峠、田代台、八甲田山の五個所。難所での安全対策、難所への馴致・準備・休養を重視した行程とし、衛生・危害上の注意を岩木山に比し格段に充実徹底する。以上の先行的で周到な準備が不可能と思われた構想の実現と実行を可能にした。
雪中行軍の実施
明治35年一月二〇日、福島大尉以下弘前歩兵第三一連隊行軍隊三八名(途中で一名原隊復帰)は弘前屯営を出発し、小国・切明・十和田・宇樽部に舎営しつつ十和田山脈を越え、戸来・三本木・増沢に泊まり、二七日夜嵐の中行き着けず止むを得ず田代台で最悪の露営をして、八甲田山を越え、二九日朝青森に到着(泊)、増沢出発以来四八時間五〇分の不眠行軍であった。浪岡に泊まって一月三一日帰営した。二三日以降大寒波が襲来居座って、田代台行軍と同地での露営及び八甲田山越は、いつ死んでもおかしくない難渋行軍であった。特に八甲田山越えは埋雪路の道筋を最も困難な天候下に探し続け、崖からの転落や彷徨の恐れと戦う極限の危険の連鎖であった。福島大尉以下全員が共動し、全員無事に帰還し、研究調査と言いながら、冬季十和田山脈と八甲田山の探討という任務に対し、通過可能であるが非常に困難という報告をして福島大尉が掲げた三つの動機を達成し、来るべき日露戦への大きな自信を得ると共に、隊員が体を張って実測し、体験した寒地で如何に行動すべきか、隊員を如何に護るべきかという貴重な前人未到の成果を得た。不可能と思われた八甲田山雪中行軍を実現させ、実行を可能に到らせたものは福島大尉の旺盛な使命意識とやり抜く気概、先行的で周到な準備、指揮・統率力に集約される。)