生い立ちから弘前中隊長まで
泰蔵は慶應二(1866)年五月二三日廻船運送業を営む福島泰七あさの長男として、群馬県新田郡世良田村(現伊勢崎市平塚)に生まれが長じるに従い家業が衰退し、家業を手伝うか学問で身を立てるかに悩み、3度の挫折の後、明治一九年一一月末日陸軍教導団に入団(工兵)し、入団8ヶ月で推薦を受け翌年一一月一日陸軍士官学校を受験し合格。教導団を卒業し軍曹任官後の明治二一年一二月に同校に入学(歩兵へ転科)した。明治二四年七月士官学校を卒業し、見習士官として高崎歩兵一五連隊へ復帰し、明治二五年三月二一日少尉に任官した。任官に当たり、為すべきと信じることの断行例えば野外要務令綱領の体現第1人者になる、の断行を誓った。日清戦争(明治二七年八月動員~二八年五月二九日凱旋)の深刻・悲惨な経験で泰蔵は冬季戦備や兵を護る施策を本気で行わなければならない。下士官及び兵の教育を本気で行わなければならない、と痛感し泰蔵の使命感、為すべきは具体的で地に足の着いたものへと深化した。台湾守備隊(明治二九年三月~九月)では蛮族統治の意見具申等で立見軍務局長から一目置かれた。地理学素養を買われ陸地測量部に転属全国の地図作成に従事するが、新編第八師団長に着任した立見中将の指名で明治三一年一〇月 新編の弘前歩兵第31連隊中隊長となる。立見師団長は自分の企図を真摯に具現してくれる問題意識が旺盛で意欲的な若手に思いきり活躍させ、それを師団全体に波及させよう、と考えていた。福島大尉は最も信頼するキ―マン、先駆けの一人であった。

福島大尉の心 - 福島大尉から武人の心探求記念館