兵を護る危機管理を先駆けた武人福島大尉

4つのならではとその今日的意味

                                 

始めに

「拓く 福島泰蔵大尉正伝」(「拓く」)出版(2017.10.15)後武人として生きようとした福島大尉に惹かれ武人福島大尉を探す旅「福島大尉に学ぶ武人の心」(偕行2019.112020.2)を始めた。この間、「拓く」の最後で立見師団長に語らせた第5連隊遭難に覆われた福島大尉の覆いが取れる時が本当の手向け、と言う思いが頭を離れなかった。その後も武人の心を訪ね続けた。今年早々に武人旅の総仕上をしたい、と思い立ち、町内出身で防大出身の幹部候補生にヒントを得て某誌の懸賞に応募のため作稿した。その中で図らずも兵を護る4つのならではに行き着いた。これは探してきた覆われた福島大尉を照らす燈明と直観したが応募の趣旨と枚数制限からそこでは意を尽くせず、深堀したのが本稿である。

1 福島大尉の兵を護るならでは

1-1 弘前中隊長以降実戦(日露戦争)へ向かう歩み

明治3111月弘前歩兵第31連隊1大隊2中隊長に着任し、連隊教育委員(連隊の下士を纏めて教育する担任)も兼ね念願の冬季戦・行動研究に着手した。露営演習(1中隊、明治332月)・岩木山雪中強行軍(下士候対象、明治342月)・夏季強行軍(下士候対象、明治347月)と一連の実験行軍・演習を行い「実施報告」を提出して仕上げの八甲田山雪中行軍を行った。

 

〇明治3512031日、福島大尉以下弘前歩兵第31連隊行軍隊38名(途中1名原隊復帰)は総延長230km余、弘前から反時計回りに二つの山岳難所(十和田山脈と八甲田山)を越えて、青森県を一周する八甲田山雪中行軍を行った。20日弘前屯営を出発し、小国・切明・十和田・宇樽部に舎営して十和田山脈を越え、戸来・三本木・増沢に舎営後27日朝田代へ向け出発、同日夜止むを得ず田代台で最悪の露営をして、八甲田山を越え、29日朝青森に到着(泊)した。23日襲来した空前絶後の大寒波が以降も居座って猛吹雪・深雪下に休みなく続けた田代台行軍と同地での露営及び八甲田山越はいつ死んでもおかしくない難渋行軍であった。30日浪岡泊、31日帰営した。23日田代への一泊行軍を行った第5連隊210名は運悪く大寒波襲来に見舞われ、露営・彷徨を繰り返しついに全員遭難した。

 

福島大尉は行軍終了後第4旅団副官に就任し遭難の後始末に追われた。明治36年に偕行社の懸賞論文「積雪降雪の戦術上の影響」(以下論文「影響」)に応募し優等賞に選ばれた。この後旅団長を極諫したが、罪なしとされ、明治3611月第8師団隷下(立見師団長配下)山形歩兵第32連隊9中隊長に転じた。翌年2月日本は対露戦宣戦布告し、第8師団は出動準備に入った。この時、参謀本部からの要請で論文「冬期露国に対する作戦上の一慮」(以下論文「一慮」)を書き6月頃提出した。10月第8師団は満州に進出、沙河で対陣中の日本軍の総予備として後方待機。12月論文「一慮」は偕行社臨時増刊第1号(明治3711月)に登載され全軍将校に配布された。

 

1-2 福島大尉が訴えたかったものは何か

福島大尉は八甲田山雪中行軍終了後、日記風の「雪中行軍手記」を書き公表した。1月31日の帰営後2月10日印刷の第5連隊遭難始末(近松書店発行、北辰日報編集部編纂)の附第三十一連隊雪中行軍記を投稿した。八甲田山雪中行軍実施報告(明治35225日付け提出)を自ら書いているが、前2者とその中の第10行軍の状態項はすべて同文である。     第31連隊は5連隊遭難の陰に隠れ且つ5連隊の足を引っ張る立場にあった、余計なことを書かない沈黙と同時によほど書きたいという強い思いがあったに違いない。又翌年懸賞課題論文「影響」に応募し自己の経験を下敷きに戦史・格言・典令等のみで論文を書き、優等賞を受賞した。それに目をとめた参謀本部の要請により論文「一慮」を書き全軍に配布されたがここでも自己の経験を下敷きとして書き沈黙しつつ書くというよほど強く訴えたいものがあったに違いない。またぶれない思いがあったに違いない。それは何か。

 

1-3 溢れる本気の兵を護る意識

1-3-1 兵を護る上長としての義務意識

彼は一連の実験行軍や演習の皮きりの雪中露営演習実施報告で上長の義務(兵の上に立つもの)という認識を鮮明にしている。彼の兵を護る上長としての義務意識は日清戦争・太平台の戦闘時に兵が傷ついても収容が追いつかず雪中に長時間放置し休養所を設けてしのいだが多くの凍傷患者を出した、なり手が無い下士官を補うため力の劣る伍長・上等兵に無理をさせ、若い兵の損害が多かった。これ等を小隊長として目の当たりにした福島中尉は兵が護られていないと痛感した。福島中尉の実感を裏付けるようにこの時の第1師団の凍傷患者数は4188名で戦闘人員11890人の35%であった。また日清戦役全体で出征兵士の約12%が凍傷を含む病気入院をしている。平民出身の福島中尉には明治建軍が薩長の士族主体の官軍という流れでは兵の保護という観念が乏しくまた背伸びした富国強兵の下では装備や糧食等兵の保護を十分に行う余裕はない、と映っていた。兵の痛みを我が痛みとして、誰かがやらねばと事後地に足をつけ与えられたポストでこの解消に取り組んだ。

1-3-2 兵を護る3つのレベル

弘前中隊長という働き場を得た福島大尉の兵を護るには武人の統べる者として責務に専心すると共に死地に投じる責めの重さと投じられる兵の命の重さを自覚し、自分の命に従い死地に赴く兵を護る最善を尽くすべきとする心があり、それには3つのレベルがあった。敵火・災害・寒気等の直接的危害から命を守る(直接-レベル)。次いで装備・行動基準の不備等危害に繋がる事態を防ぎ命を守る(間接-レベル)。そして八甲田山の経験を拡充発展させ、レベルⅠ・Ⅱでとどまらず危機にしないことが兵を護ることという認識で、練度を高め、装備改善・適切な作戦・戦法等で余力を保持し対応力を高めるレベル(高次-レベル)である。

1-4 福島大尉の危機意識

福島大尉は上記訓練等の実施報告や論文などに随所に危険困難とその対処に本気をしめした危機意識を書き表している。例えば八甲田山雪中行軍実施報告や雪中行軍手記で行軍に行き詰まっての露営を最悪と当初から予測しその万一に本気で備えた、(予想外に備えるための)標準尺度という用語使用、48時間50分の不眠行軍(その意は吹雪寒風下に難所上の埋雪路を探し続け不眠・疲労・空腹で、河岸への転落・彷徨の危険が幾重にも重なる行軍であり、非常の困難・非常の危険であった、これは後の論文では倍加する危険困難と表現)などである。危険困難という危機意識は収集した膨大な戦例・格言等と体験の中で「危険・困難」の深い洞察・考究の成果である。福島大尉は雪中行軍で危害予防や衛生上の注意を守るだけでなく部隊を危機にしないことが兵を護ることという意識(平時)を持っていた。

1-5 兵を護る4つのならでは

福島大尉は仕上げの八甲田山において行動・衛生上の危害予防及び難所等について当時なかったであろう概念である今の危険見積を行い防寒装具・方法・行動標準等の対処(レベルⅠ・Ⅱ)を基調としつつ上記の「困難事態」を予測し危機にしない兵を護るレベルⅢの準備を周到にした。この平時のことある場合の危機にしない兵を護るという危機意識ならではの1番目(①)。次にその「極意」を得たことであり、これが2番目(②)である。極意の内容を述べると。その1、最悪困難事態、雪中行軍に行き詰まっての露営に不安を持った福島大尉は明治332月の露営演習で覆いより側屏方式・現地の雪だけで露営施設構築という成案を得て、岩木山の目標識別に困窮した経験(後述、この予想外を標準尺度として)を活かし田代台で目標識別に困る難渋行軍と行きつけずの露営を予測した。この露営を最悪と予測し、先行成案を元に、増澤~田代間に民間人の嚮導7人の確保、食料の増加携行等起きないかもしれない万一に本気で備えた。露営間次を見据えて、猛烈な寒気の下12℃より下がるか否かを冷静に実測し、民間人嚮導に宿営予定の長内文次郎宅を捜索させ空き家を見つけ、ここで2時間の休養を取った。その2、予想外困難事態、実戦で予想外を無くすとの信念で悪天候を喜び厳しい場を求めた。露営演習での吹雪・零下12(採暖許可)、明治342月の岩木山雪中強行軍での吹雪・零下8℃・積雪数mの山岳通過という経験を標準尺度とし、余裕をもって処した。その3、倍加する危険・困難事態、5つの難所のうちの最後の八甲田山(危険・困難が倍加する)を大山場として、休養できる村落の位置を起点に行程を決め、舎営で休養し既難所(での倍加危険・困難)に馴致しつつ、余力を保持し、予想外やさらなる危険・困難に備えた。纏め、三つの困難が連続し、最後に大山場を迎える状況の特性で指揮官は当面を全うしつつ次への手を打つ必要があった。決め手を最悪の先行成案、予想外の標準尺度、最後の倍加危険・困難の余力の保持とし、これで生じる余裕を次へ活かすのが「極意」である。3番目のならではは八甲田山の経験を拡充してこれに敵が加わる実戦では危険困難が倍加するとしてその克捷に焦点を当てレベル1を深堀し、危機にしないことが兵を護ることとの認識の上に立って、論文「影響」では平素から最良案よりも損害の少ない方法を自得すべしこのため冬季寒国では作戦計画よりも休養方略を重視すべき、論文「一慮」では将官の指揮不適切等の弱点に乗ずべきと余力を保持するレベルを提起した。究極は予想外、何が起きるかわからない事態で部隊を危機に陥れない兵を護る方略である。付言すると八甲田山の48時間50分の不眠行軍の経験を拡充し、例えばこのふらふらの時に敵に攻められたらひとたまりもない、と敵を乗せたのが実戦での倍加する危険困難認識である。さらに言い添えると八甲田山での危機にしないという目線で論文「影響」の結論並びに順序を欠けりと断って補遺項が設けられていることに注目すると、結論では冬季の実戦は山地戦や夜戦という難しさが(地形・気象の難しさや軍隊保育上の考慮に)さらに加わる倍加する危険困難であり予想外対処がその肝と述べ、順序を欠くという表現を一番言いたかったことを補遺項で書くという意味に理解して、補遺項では倍加する危険困難の中で兵を護る方略の肝を述べるというならでは③の新解釈に至った。実戦での倍加する危険・困難という認識に基づく危機にしないという兵を護る危機意識、これが3番目(③)最後4番目は以上を含め不易流行(必要なものと不必要なもの、取り入れるものと捨て去るもの、続けるものと止めるもの等の峻別)への思い(④)、である。雪中露営演習実施報告で野外要務令に寒地・寒冷の定めがないことを指摘しその改正及び下部教範の改正を提言するがその1ケ月後野外要務令は改正される。中央と同時に問題意識を共有或いは先行していた。また各実施報告では冬季訓練・研究の必要性を口酸っぱく説いていた。さらに後に論文「影響」に結実する課題「梵珠山防御計画」(明治32121日提出)では山地防御の研究が低調であり研究すべきと意欲を示し、防御の考え方や後退について歩兵操典の不備を指摘し改正を提起した。また兵器の進歩に合わせ戦法も進歩させねばと考えて露営演習後陸軍戸山学校に入学し、新導入の38式歩兵銃の射撃を学び、その連発性能に注目して後に梵珠山防計画の側防火器(敵の突撃を側方から薙ぎ払う)として運用した。

以上のならではが福島大尉が露営演習を始めとして八甲田山そして論文二つを通してぶれずに訴えたかったものである。またならでは①②③はそれぞれ先駆性、具現性、先見性という特性がある。

2 ならではの特性

2-1 ならでは①【キーワード:危機にしない兵を護るという危機意識】の特性―先駆性

集成論文「降雪積雪の戦術上に及ぼす影響」等に見る一般の危機意識

参謀本部は応募論文21編のうち優等賞3編以外の力作の集成を第7師団今中尉に依頼した。この集成論文は偕行社記事第329号号付録(明治三七年一月)とされ、陸軍の冬季作戦・行動の参考資料として部隊で活用された、指針的性格もあった、であろう。その中で行軍・宿営・戦闘等の実務に重きを置き、危機の見地からの記述としては不時の予防及び危険に遭遇せるときの処置数行があるだけである。行軍に行き詰まっての露営について危機例示をしているが、注意喚起程度である。実はこの処置数行が当時における部隊や一般人の実感覚では大きな懸念であった。「雪中行軍記」(弘前歩兵第31連隊混成中隊223名の明治34219日~24日新城・蟹田・今別・十三湖雪中行軍に同行した東海日報齋藤武男著)によれば深雪道なき新城付近の山地行軍の困難さを語りつつ、もし風雪の日ならば如何到底通過できず山中に露営せざるを得ないであろう、(その方策はあるか否か)。また今別に向かう道で小国より3里の間、人家なし深雪道を没し深渓転落の危険に晒されつつ若し風雲甚だしきに遭い夜行軍となれば如何という運と隣り合わせの素朴な危機感を抱いている。福島大尉の危機意識(雪中露営演習)はここに応えるものであった。

5連隊遭難に見る危機意識

第5連隊遭難は皮肉にも福島大尉の先見性を立証した。児玉陸軍大臣が指名した遭難事故取り調べ委員が指摘した2点(兵に夏服を着せたこと・嚮導を確保しなかったこと)及び橇隊の遅延が天候急変の影響をもろに受けたことについて、福島大尉はすでに2年前の雪中露営演習や1年前の岩木山雪中強行軍の実施報告で戒めの見解を示している。夏服使用について氷点下10度以上の気温では防寒衣を用いずして運動を継続するを得るが宿営等の場合は防寒用被服は実に必要【岩木山実施報告第12被服装具】と述べていて、大隊長の指導で兵に夏服を着用させた決断を露営等の駐止の怖さの配慮を欠く決断と戒めている。嚮導を確保しなかったことについて嚮導なしで吹雪・降雪で目標識別に困り道に迷い、嚮導を懇喩した経験から嚮導の有効性を実感し【岩木山実施報告第2部隊行軍の実況】、未熟地において飛雪中は道路・方向に迷い易く特に夜間は地形識別困難で嚮導特に必要【岩木山実施報告第20研究事項11】と述べていて、嚮導の議をしたが熟地で必要ないとの自信力からこれを不要とした決断を戒めている。橇について橇は随行せず民間の目視結果として大道に頼って往来するが速度遅く道路外は運動できない【岩木山実施報告第19馬匹及び橇】、東北地方においては道路上と雖もわずかに馬・橇を引き得るのみ。輜重の運搬はこれに頼るか或いは人力に頼るほかなし【同研究事項第4】。冬季演習は施行の度を適宜定め天候を選ぶこと緊要なり。何故なら温和な日に施行する演習は他の時機に行う演習と異ならないから【岩木山雪中強行軍実施報告研究事項35】と述べていて、有効性の低い橇を使い、しかも天気の良い日の予行での決断を戒めている。

研究論文に見る危機意識

「明治30年代前半の歩兵連隊雪中行軍」(小関恒雄、医譚第74号別刷)によれば、当時の雪中行軍実施部隊には行軍の留意点がルーチン化されていた。また第5連隊遭難に関しては履物、衛生(防寒)対策に営々実績を積み重ねてもリーダーシップやエスケープ法など危機対策にどれほど意を注いできたか、折角の諸軍医の努力が水泡に帰した感がある、と述べている。このルーチンに止まらず危機にしない、危機になる前に手を打つという点が福島大尉のならではである

福島大尉は危機にしないという考え方を2年前の雪中露営演習時には打ち出し八甲田山で確立した。危険見積もり・危機管理という概念がない時代に普遍化した(ならでは①②)と言える。今でいう危機管理の実務上の先駆者!と言っても差し支えない。

2-2 ならでは②【キーワード:「極意」】の特性―実現性

誰もが未知・手探りであった寒地・寒冷訓練・研究について福島大尉の「極意」は危機にしない領域での目標設定~構想樹立~準備・実施と成功へと全行程を踏み、他者の挑戦と成功への道筋となるはずのものであった。しかし後述の理由で省みられることはなかった。当時の資料で危機に着目した評価を見出すことは難しいが、陸上自衛隊幹部候補生学校の福島大尉の遺品寄贈受に伴う同校資料館福島大尉コーナーオープンのテープカットの際、田浦学校長は遺品は物心両面で実態の伴った準備があれば最悪の環境下でもためらわず決断し、成功を勝ち取れることを示唆する歴史的な証拠。‥」と挨拶された。また私の拙著「拓く」進呈に際し、中央即応集団司令官小林陸将(当時)は地に足をつけては実務(行動で結果を出す:筆者註)において職務を全うするために陸自に特に必要な姿勢でその趣意から「「物事を成功に導く」というのは多くの地道な努力を必要とする行程であり、それは「失敗」から学ぶことは難しく、やはり「いかに成功に導いていったか」という過程から学ぶ必要がある」と読後感を寄せて頂いた。地に足の着いた責務意識を基準とする戦史の見方について陸上自衛隊の将官の言を引用させて頂いた。

2-2-3 ならでは③【キーワード:倍加する危険・困難】の特性―先見性

論文「影響」と「一慮」の倍加する危険困難が最も端的に表れたのは黒溝台会戦の第8師団である。

 

〇日本陸軍は明治378月遼陽、10月沙河の会戦に勝利したが追撃の余力が無く沙河で100kmにわたり対峙、翼側を秋山支隊に護らせ、越年した。第8師団は10月進出し総予備で後方に待機した。125日、露軍105千は秋山支隊を急襲、慌てた総司令部は第8師団を急行させた。26日第8師団は黒溝台を放棄し誘致導入すべく攻撃するが、45倍の敵に包囲され戦線崩壊の危機に直面した。さらに対峙中の2ケ師団が転用され、この2ケ師団で両側を固めた第8師団は28日総攻撃となった。最後まで温存した唯一の総予備第32連隊3大隊(福島中隊を含む2ケ中隊)は最激戦正面投入が予定され福島中隊は戦場に進出した。28日総攻撃に伴い、最後の最後まで温存された福島中隊は砲火集中する最激戦正面に投入され、真っ先に突入した福島大尉は直後に戦死した。残余の中隊はその夜、旅団の夜襲に参加、黒溝台に必死に運良くかじりつき、翌朝福島中隊長の遺言通り黒溝台一番乗りをした。

 

酷寒の中、敵の奇襲を受けおっとり刀の戦闘加入と劣勢と戦術のまずさで至る所戦線崩壊の危機に瀕し、且つ4昼夜の戦闘で不眠・疲労・空腹・負傷者の増加・受傷者の1/3が凍傷患者等危険困難が倍加した。論文「影響」において今冬露軍は必ず攻めてくる油断するな、と警告していたが先見通り露軍は攻めて来たし兆候があったにもかかわらず松川作戦参謀は無視し奇襲を受けた。由比幕僚長は移動に先立ち黒溝台を放棄しての誘致導入策を進言し立見師団長は即断で採用した。この間に生じた第8師団の損害は戦死1201名、負傷3922名、計5123名であった。作戦計画よりも休養計画を重視する等損害の少ない方略という福島大尉の先見の適切さを際立たせる戦況推移であった。論文「一慮」で露軍将官の指揮不適切等敵の弱点に乗じる方略を提起したが、これも先見通り、黒溝台では2820時敵将クロパトキンは不可解な退却命令を発し、29日露軍は離脱完了した。他の会戦でもこの現象は露呈した。

寒地の第8師団でも受傷者の1/3の凍傷患者を出した事実を重く見て、倍加する危険・困難に備えた寒地・寒冷対策をより徹底すべきであった。後退に全く気付かず取り逃がした事実を重く見て、4昼夜連続戦闘で疲労困憊していたとはいえ、後退の兆候を察知し、初動の混乱等に付けいる等敵の弱点を突く方略をみがくべきだった。論文「影響」・「一慮」の先見性は上記を事前に行っておく必要を示唆している。

3 ならではの今日的意味

3-1 ならでは④【不易流行】

先駆性・具現性・先見性は寒地・寒冷対策にならではの危機にしないという科学的・合理的な考え方と兵を護るという兵あってこその軍という地に足をつけた考え方が一体となって加わる新しさが齎した。その新しさは端的にいえば兵の損害を少なく勝つ方略の自得に集約された。また福島大尉はこのならでは寒地・寒冷で型を作れば、暖地でも軍に活かされるという確信を持ってこれら3つが揃うレベルまでに高めたに違いない。しかし次項のように注目されることはなかった。

3-2 節目におけるならではへの注目

遭難直後は注目されず

遭難規模の大きさ・悲惨さに目を奪われ、児玉陸軍大臣は日露戦争必至の状況下での早期収拾、下士官への成り手がいないことへ拍車がかかること・徴兵隊区の変更要望の激化・日露戦争準備の混乱等新たな危機への波及防止を主眼とした。その意を受けた取り調べ委員は不可抗力の天候の急変ということ及び死者をムチ打たないということで関係指揮官の責任の度を判定し具申した。取り調べ委員が報告した事項は責任の所在に触れてはいるが危機にしない点についての掘り下げは見られない。また世間では非難の責任追及や興味本位の報道が過熱した。そのため遭難の真の原因と対策追求は為されず、軍の本来の在り方として喚起すべきであった不可抗力の天候急変をも予測した備えの全軍への呈示・警鐘は為されなかった。この遭難の陰に隠れ、むしろ足を引っ張る立場にあった31連隊・福島大尉の、本来のあるべき姿としての警鐘に値するならでは①②は注目されなかった。

日露戦直前も注目されず

国難日露戦いかに戦うかに関心のすべてが集中し、論文「影響」や「一慮」について、そういう意味で大きく扱われたが福島大尉の真意としてのならでは③の新しさ、その必然としてのならでは①②には、先述の集成論文で述べた程度で、注目されなかった。

日露戦後も注目されず

日露戦争では各会戦は敵より劣勢ながら果敢に攻め包囲・迂回という態勢的には勝利をおさめたが衝力が続かず、要するに攻撃(突撃)精神によってひたすら攻めたが勝ち切れず敵将の過失に助けられた辛勝でその勝ちを政略・外交上に結び付けた勝利であった。黒溝台会戦では奇襲され黒溝台を放棄し敵を誘致導入して撃破するという小手先の戦術によって大苦戦を招いた。この間の兵の犠牲は膨大であった。勝ったことによって戦果・勝因などに目が向き、辛勝という事実や兵の犠牲に目を向けた反省は不十分で、福島大尉のならでは③の新しさは注目されなかった。

 

本来の在り方に立ち戻った節目における全軍への警鍾がなされなかったこともあろうし、雪中露営演習実施報告は偕行社記事と軍事雑誌(市販)の記事になり、八甲田山の「雪中行軍手記」は市販され、懸賞文論文「影響」は優等賞、論文「一慮」は増刊号として偕行社記事となり全国将校に配布されたがその真意をフォローする人が現れなかったこともあろう。要するに時流がならではの兵を護るや科学的合理的考えたという新しさを許容できなかった、というべきであり、彼が戦死したことで彼のならでは未完で過ぎた。

 

3-3 日露戦争での弊の見過ごしとその後への影響

日露戦争での弊

例えば兵の犠牲を省みない極端なものとして以下の二つがある。その1、突撃は精神・白兵・夜戦第一主義となり、劣悪装備・兵站下の寡兵でも戦闘の決をつける唯一の手段とされ、情報軽視・兵站軽視となった。日露戦争の軍事史的研究(岩波書店、大江志乃夫著)によれば、日露戦争は戦闘の勝敗の決するものが格闘戦闘であることを改めて立証した。格闘戦闘における白兵の比重低下の明白な事実が示されているに関わらず日露戦後の日本陸軍は信仰に近いほどの白兵崇拝を強め、白兵主義の原則を確立し、太平洋戦争の敗戦までこの原則を改めようとしなかった、欧米が歩兵火力の主体を小銃から軽機関銃に切り替え、突撃兵器として自動小銃を開発装備するに至った、それに反し日本陸軍は・・と厳しく指弾している。この意は3-1項福島大尉のならでは④【不易流行】で述べた新導入の38式歩兵銃への思いなどで代表される不易流行に通じるものがあり、謙虚に汲むべきであろう。その2、戦術の妙で勝つ方略も戦力の劣勢・兵站の不備を補う意味合いも持ち、情報軽視・兵站軽視となった。例えば黒溝台会戦では敵の奇襲を指摘されながらも、それはないとの油断に乗じられ、放棄し誘致導入という小手先の戦術術策がまねいた最重要拠点黒溝台奪還の戦いとなった。露軍よりも多い戦死者(日本軍戦死1848名、戦傷7249名、合計損傷9324名、露軍戦死641名、戦傷8989名、失踪1113名、合計損傷等11743名)を出した。上記失策を犯し、多大な兵の犠牲を出した満州軍総司令部松川作戦参謀は凱旋報告を海軍秋山真之参謀と共に後日国会(明治38年)で行った。松川大佐も由比中佐も後に大将へと栄進した。多くの兵の犠牲への謙虚な反省が無く、上長が兵を護る義務を尽くさなかった、とみる方が自然であろう。

大東亜戦争での戦例に見る弊

この八甲田山遭難や日露戦争の軍の本来の在り方への反省の無さが次の戦争に兵の犠牲を省みない弊を引きずったという仮説を設けたい。この仮説はならではとの因果関係解明というよりはならではにより広い視点、例えばならではに陸軍の体質・管理・教育訓練或いは陸軍発祥の危機管理学の余地等を研究する材料として着目する意味である。その思いでその後の戦いを見ると、科学・合理性のない作戦や兵が護られていたとは言えない多くの状況に出会う。誰もが米国とは戦うべきでないと思いながらも否と言わず敗戦に至ったこと、ノモンハン、大東亜戦争末期のインパール、ガダルカナル、イラワジ会戦等が兵站・情報・敵・兵の命を軽視する作戦の繰り返しであることが挙げられる。なかでも特に激しく私の心が痛んだ事例として龍陵守備隊長小室中佐の無断撤退と自決がある。

龍陵守備隊長小室中佐の無断撤退と自決

龍陵守備隊はインパール作戦間の援蒋ルート遮断のため設けられた拉孟・騰越・平戞守備隊を支え、敵の反攻撃破の要点保持のため昭和1976日、工兵連隊を主力に歩兵大隊(中)隊、所在部隊、病院(入院患者)をもって応急編成され、重囲に陥ったが56師団独自の解囲まで持ち堪えた。再反攻に際し、又重囲に陥り、562師団で龍陵付近の敵反攻部隊を攻撃した。しかし97日拉孟、914日、騰越が失陥し、914日夕刻中止となった。この間も持ち堪えた。91556師団は平戞救出作戦、2師団は56師団に代わり龍陵南方で持久との命を受け、龍陵守備を命ぜられた。2師団長は龍陵守備隊に依然現陣地(龍陵よりも東方に突出)確保を、主力は左右両翼を龍陵市街地よりも遥か後方に下げた陣地占領を命じた。龍陵守備隊は56師団が去ると再び重囲に陥ることが確実となった。このような時、龍陵守備隊長小室中佐(工兵第56連隊長)は独断で龍陵西方への撤退(転進)命令を下し、非を辻参謀から叱責され916日、自決した(以上「魂は甦る」(土生甚五著)。陣地編成の理由を2師団長は「天国から地獄へ」(自伝、岡崎清三郎、共栄書房)で「龍陵は陣地の前の方に長く突出し、しかも三方は高地上の敵から見下ろされている。普通の戦術なら大変な弱点をなしていて落第である。しかし、この餌で敵を釣るしか持久の方法はない。またこれには相当の陣地も作ってあるし、持てる、と考えたからである。以下略」と書いている。このような戦いを指導した最高統帥は責められてしかるべきだし守備隊長の独断転進(撤退)はあってはならない。一方師団長の統率について前述の陣地編成の考え方に戦術策案の良否は考えても新しく指揮下に入れたばかりで餌となる兵を思う気持ちは感じられない。兵あってこその軍という認識が薄く戦術の妙で任務達成という(教育の)弊がぎりぎりの状況だからこそ最も色濃く表れている感じがする。

 

-4 ならではの今日的意義

特に強調したいのは福島大尉のならではは当時の国難日露戦を見据えた冬季戦研究の成果であるが冬季だけに止まらない深さと新しさがあることである。それは当時のレベルであった寒地・寒冷の技術的な対策に兵を護るという地に足をつけた考え方或いは危機にしないという合理的・科学的な新しい考え方(”新しさ“)が加わったことである。これらは軍の体質に作用する性格のものであり、軍の在り方に関わるものであるが陸軍にはその真意は受け入れられなかった。そのことは八甲田山や日露戦争で生じていた弊の見過ごしとなりやがて痛いしっぺ返しを受けた。大東亜戦争に至る多くの兵の無残や無念はこのことを語っているのではないか。これに従えば、不易流行の視点から、福島大尉のならでは特にその“新しさ“は時代の進展に応じ常に軍の在り方の本質を考究する必要性をまた個々弾に終わらせず全組織として吸収し波及させる必要性等を教示している。敷衍すれば国難日露戦をいかに戦うか心ある人が出現して沸騰するような時には今までにないような、例えば福島大尉のように勝利とその先までも見通した知見を披歴する人が現れるものである。その時にその知見を受け止める組織でなければならない。組織はいかにあるべきか、というテーマも教示している。第5連隊遭難の陰に隠れ軍の在り方が語られてこなかったことも、もうそろそろ、と思う。このテーマは古くて新しい。いつの時代も軍の在り様で正すべきは何かという意識を鮮明に持ち今を考えなければならない。この点に世間も関心を向けて欲しい。

3-5 ならではの発信

福島大尉が生き残って活躍を続け、ならではを発展・発信し続けたとしたら、という思いはある。立見師団長は福島大尉の弘前中隊長以来7年余手元に置き続け彼の後ろ盾、福島大尉が魁という関係で冬季戦の研究を行わせるほどの理解者であった。その死を悼み福島少佐(死後昇任)を弘前で準師団葬で送り、生前(明治40年3月6日没)に福島泰蔵君碑(昭和7年411日建立、新田郡世良田村(現伊勢崎市、天人寺)の碑文を撰文した。碑文には「雪中行軍両次」、「未会傷一人」、「於平生者塾」と福島大尉を讃える思いや第5連隊遭難や黒溝台の苦戦という不覚の思いを滲ませている。そして塾者に続けて「故臨事能栄功也惜哉未見其全功」と記している。このくだりは塾者に未完のならではがあると思って読むと一層深く理解出きる。今年は建碑70周年である。福島大尉は彼と彼のならではを語る人の訪れを待っている。また今年は陸幹候への遺品寄贈10周年(平成24412日)である。この機に、多くの方特に候補生に足を運んで頂き、是非福島大尉のならではの思いの深さ・篤さを感じ取って欲しい、と思う。

 

結び

 今まで何を見出せば、との思いで長年月手探りしてきた。今回漸くその答えにたどり着けた。兵を護る4つのならではは第5連隊遭難に覆われた福島大尉を照らす灯明であり、福島大尉が追求した体質にまで目を配った軍の真の強さという軍の足元を照らす。また読売新聞福岡版(筑後版も、2022.2.25)に陸軍八甲田山遭難再び光というタイトルで県内2研究者として長南政義氏と私並びに「拓く」が紹介された。長南氏の執筆「雑誌歴史群像2月号」で八甲田山雪中行軍についてリーダーシップ・判断力等について新見解を披露されたがその際に「拓く」を重要な研究として着目された由。その関係で私もコロナ禍なので電話取材のみをお受けして「兵を護る」という視点で持論を話させて頂いた。そういう経緯で私についてもその要旨が載せられた次第である。私として本稿は私が話した兵を護る真意及びそのタイトルの「光」の具体化でもある。この拙文が軍の在り方の本道論議の一石になることを願っている。そうなることが未完に終わったならではと福島大尉の真の手向けになると信じる。このならではは武人旅を始めて5年余、今回今までの成果を踏まえ、武人の統べる者として死地に投じる責めの重さと投じられる兵の命の重さを自覚し、自分の命に従って死地に赴く、その兵を護る最善を尽くすべきとする心で八甲田山や黒溝台会戦を見直し、或いは各種の実施報告や論文を改めて読み込んだ、その結果である。福島大尉が何を思いどう行動したかについて、真実を探し続けること、視点を変えること、書く力をつけることで新しい境地が開ける、改めてそう思っている。

(終わり)

福島大尉の心 - 福島大尉から武人の心探求記念館