陸上自衛隊幹部候補生A君へ贈る「顧みずの心」
始めに
〇令和4年の新年早々防大出身・陸上自衛隊幹部候補生である顔見知りのA君が来訪した。私(以下K)は大喜びで早速話し始めた。
K:昨年からコロナ禍で激励にも行けないが、幹部になる手応えは?
A:課程も進み、自信も湧いてきました。将来、隊員を死地に投じる重さに耐えられるか等諸々の不安はありますが、3尉任官が待ち遠しいです。
K:隊員を死地に投じる?
A:戴いた「拓く 福島泰蔵大尉正伝」で、福島大尉の八甲田山雪中行軍でのいつ死んでもおかしくない経験に死地を感じこう表現しました。
K:そうか。死地とは本来は戦いの場の話だね。
1 使命達成に至る拠り道
〇私はA君の不安・死地の発言に雲仙普賢岳災害派遣に出動した第4施設大隊の某中隊長・新隊員後期教育の教え子TⅠ尉の顔が浮かんだ。平成3年6月23日発災、命ぜられ17時過ぎ出発し深夜到着した。翌日は第16普通科連隊が出動した。大火砕流の発生と火砕流の頻発で身震いした。道が塞がれ施接中隊が日替わりで出動した。編成は装甲ドーザー*1、装甲車*2、人員は中隊長・小隊長、分隊長以下分隊員10名(中隊長所定)。他中隊が出動し次は我が中隊という前々夜、T1尉は誰を連れて行くか悩んだ。当初は最悪を想定して影響が少ない?ものを選ぼうとしたが、違和感・不安があった。夜明け頃ふと、普段通りだ、このために訓練し、最も信頼する小隊内の先任分隊長以下の同分隊員だと決めた。
K:T1尉は色々な災害派遣に出動したが厳しさが全く違った。初めて自衛隊の任務の厳しさと隊員の命の両方に真剣に向き合ったと語っていたよ。
A:中隊長の言葉がとても重く、私もやがては?と感じ、つい実戦は?に思いが行きます。
K:先ほど君は諸々の不安と言ったが?
A:実戦とそこへ向かう道の見当がつかない不安も大きいです。
K:そうか。目標へ向かい何か拠り道があれば何時ことがあっても自信と余裕が持てるだろう。今日は福島大尉をベースに「顧みずの心」を標(しるべ)とする道を考えよう。
2 事ある場合(平時)の「顧みずの心」
2-1 形式上の意義
A:「顧みずの心」とは?
K:武人として生きようとした福島大尉は任官に当たり野外要務令綱領(最上位教典)の体現を誓う。そこに「死生を顧みず本文を尽くす」という文言がある。これと君が誓った自衛官の服務の宣誓の「ことに臨んでは危険を顧みず」では、本旨に違いがある?
A:身の危険や生き死に関わることは一大障害、これをものともせずに責務を遂行するという基本的心得は同じです。
K:その通り。責務遂行の基本的心得は時代を超えて同じ。この責務を果たすことが尽くすことだ。国の顧みずという言葉に拠り、これを武人の「顧みずの心」と呼ぶ。以下内容上からその中味を考えて行く。ここで武人とは以下の3項に該当する者である。①武(才)を以て国家に仕える者、範囲は律令制の日本国という国家・官制が誕生した奈良時代以降現代まで。②前項に関わらず白村江の戦いや元寇(文永・弘安の役)等「わが国」のために武(才)を以て戦った者。③「顧みずの心」の保有者。「顧みずの心」の内容は部隊行動に現れるのでその構成員である兵と中核の指揮官に注目し、次で明らかにする。
2-2 内容上の意義
K:武人として生き、野外要務令綱領の体現を誓った福島大尉の「顧みずの心」が一番よくわかるのはどこだろう?
A:八甲田山雪中行軍の最後の難所の八甲田山越えだと思います。
〇明治35年1月20~31日、福島大尉以下弘前歩兵第31連隊行軍隊38名(途中1名原隊復帰)は総延長230km余、弘前から反時計回りに二つの山岳難所(十和田山脈と八甲田山)を越えて、青森県を一周する八甲田山雪中行軍を行った。20日弘前屯営を出発し、小国・切明・十和田・宇樽部に舎営して十和田山脈を越え、戸来・三本木・増沢に舎営後27日朝田代へ向け出発、同日夜止むを得ず田代台で最悪の露営をして、八甲田山を越え、29日朝青森に到着(泊)した。23日襲来した大寒波が以降も居座って猛吹雪・深雪下に休みなく続けた田代台行軍と同地での露営及び八甲田山越はいつ死んでもおかしくない難渋行軍であった。30日浪岡泊、31日帰営した。
K:そうだね。大寒波・猛吹雪下に数mの深雪に埋もれた道筋を探して、誤れば崖下への転落・彷徨等が待つ48時間50分の不眠・不食・疲労行軍に最も現れている。全員はひたすら困難な道筋を見つけ倒れずに行き着く(責務)ことだけに「専心」する。福島隊長は隊員を死地に投じる自分の責務と投じられる隊員の命の重さを深く自覚し準備を周到にして全員を無事行き着かせること(責務)に「専心」すると共に寒気・疲労・不眠等の危害から一人も失わない「最善」を尽す。この全員の責務の「専心」及び指揮官の責務の「専心」と兵の命を護る「最善」心が命の危険がある中での平時の「顧みずの心」である。「専心」等は「専心」等の前の具体的意味を表す用語の意を含み或いは特定用語とし用いる。単独で例えば「専心」と使う場合は両方の意を表す。
A:分かりました。先ほどの雲仙普賢岳災害派遣では?
K:第16普通科連隊長以下全員は火砕流の危険の中、身を挺して、生存者救出等(責務)に「専心」し、連隊長は毅然と生存者救出等を命じ陣頭に立った。これに先立ち火砕流発生の観測・連絡網を構成し、火砕流が発生すれば直ちに下流の捜索現場へ警報を発し、隊員を安全な場所に避難させる予行・訓練を徹底して隊員の命を守る「最善」も尽くした。
A:となると同じですね。
3 ことある場合(実戦時)の「顧みずの心」
3-1 実戦に向かう「兵を護る」
K:そうだよ。これで自衛官も武人だ。ただ八甲田山も雲仙普賢岳も普段の演習等に比べて、格段に厳しいが、実戦の厳しさは全く違う。
〇日本陸軍は明治37年8月遼陽、10月沙河の会戦に勝利したが追撃の余力が無く沙河で100kmにわたり対峙、翼側を秋山支隊に護らせ、越年した。第8師団は10月進出し総予備で後方に待機した。1月25日、露軍10万5千は秋山支隊を急襲、慌てた総司令部は第8師団を急行させた。26日第8師団は黒溝台を放棄し誘致導入すべく攻撃するが、4~5倍の敵に包囲され戦線崩壊の危機に直面した。さらに対峙中の2ケ師団が転用され、この2ケ師団で両側を固めた第8師団は28日総攻撃となった。最後まで温存した唯一の総予備第32連隊3大隊(福島中隊を含む2ケ中隊)は最激戦正面投入が予定され福島中隊は戦場に進出した。
K:弘前歩兵第31連隊中隊長着任(明治31年12月)以来冬季対策を在寒地師団の責任と自覚し師団・暖国部隊の先頭に立って、日清戦争で兵が貧弱な装備等で凍傷等にかかり、小部隊指揮官である下士の能力不足で兵が無益に損耗する状況を体験し、これらの改善が上長(上に立ち責任あるもの)の義務と痛感し、兵あってこその部隊、その兵を護るに精魂を傾けた。彼の兵を護るには三つのレベルがある。敵火・災害・寒気等の直接的危害から命を守る(直接-レベルⅠ)。次いで装備・行動基準の不備等危害に繋がる事態を防ぎ命を守る(間接-レベルⅡ)。そして練度を高め、装備改善等・(後述する)適切な作戦・戦法等で 余力を保持し対応力を高める兵を護る(高次-レベルⅢ)である。
K:以下「兵を護る」上長の義務をどのように果たしたかを八甲田山雪中行軍を中心に見る。田代台で行軍に行き詰まり最悪の露営、大寒波襲来という予想外、前述の悪条件下の48時間50分の不眠行軍が意味する(後に論文で)倍加する危険・困難と表現する3つの「困難事態」に陥った。福島大尉は行動・衛生上及び難所等の危険見積を行い防寒装具・方法・行動標準等の対処(レベルⅠ・Ⅱ)を基調としつつ上記の「困難事態」を予測し準備を周到にした。
1つ、最悪困難事態
雪中行軍に行き詰まっての露営に不安を持った福島大尉は明治33年2月、露営演習で覆いより側塀方式・現地の雪だけで露営施設構築という成案を得た。田代台での露営を最悪と予測し、この先行成案を元に、増澤~田代間に民間人の嚮導7人の確保、食料の増加携行等起きないかもしれない万一に本気で備えた。7人の嚮導は台上で吹雪の10時間余、冬季の恒風・北風を高所に登り体で受け大きく道を誤らなかった。露営間次を見据えて、猛烈な寒気の下12℃より下がるか否かを冷静に実測し、民間人嚮導に宿営予定の長内文次郎宅を捜索させ空き家を見つけた。
2つ、予想外困難事態
実戦で予想外を無くすとの信念で厳しい場を求めた。露営演習での吹雪・零下12度℃(採暖許可)、明治34年2月の岩木山雪中強行軍での吹雪・零下8℃・積雪数mの経験を標準尺度とし、余裕をもって処した。
3つ、倍加危険・困難事態
5つの難所のうちの最後の八甲田山(危険・困難が倍加する)を大山場として、村落の位置を起点に行程を決め、舎営で休養し既難所(での倍加危険・困難)に馴致しつつ、嚮導が見つけた空き家での採暖・温食休養に力を得て、余力を保持し(初期レベルⅢ)、予想外やさらなる危険・困難に備えた。
纏め
三つの困難が連続し、最後に大山場を迎える状況の特性で指揮官は当面を全うしつつ次への手を打つ要がある。決め手を最悪の先行成案、予想外の標準尺度、最後の倍加危険・困難の余力の保持とし、これで生じる余裕を次へ活かす「極意」を得た。
「論文」等に見る兵を護る
偕行社懸賞論文「降雪積雪の戦術上に及ぼす影響」(明治36年4月提出、優等賞)と要請された論文「露国に対する冬期作戦上の一慮」(明治37年6月頃提出、以下「一慮」)で主に倍加する危険・困難とその克捷に焦点を当て、レベル1・Ⅱを深堀し、前者では最良案よりも損害の少ない方を選ぶ主眼で冬季寒国では作戦計画よりも休養方略を重視すべき、後者では将官の指揮不適切等の弱点に乗ずべきと余力を保持するレベルⅢを提起した。また八甲田山で見習士官や下士候補生を鍛え、意の如く動ける中隊を錬成して対応力を高めるレベルⅢを実践した。
K:福島大尉は対露戦の勝利のため精魂を傾けあらゆるレベルで兵を護る「最善」を尽くした。この「最善」は戦いに備えた強い部隊錬成(責務)の「専心」と大部が重なった。これが実戦へ向けた「顧みずの心」である。
K:福島大尉の兵を護るには「ならでは」が四つある。一つは「困難事態」を正面に据えて考究し、これは部隊も兵も混乱し危機を招くと一大警鐘を発した。二つは「困難事態」対処の「極意」を示し、すべてが指揮官の責めという重さを強調した。三つは兵を護るレベルⅢについて八甲田山の48時間50分の不眠行軍を「論文」で倍加する危険・困難事態と発展させ兵力を節用し予想外に備え即ち無理な戦いを避けここぞで勝つ画期的な提起をした。四つは自らの体を張り脳漿を絞った実学を上記三つを始めとする不易流行に役立たせる気概に溢れていた。
A:福島大尉のような人材が今も必要ですね。
K:その通り!ここで私見を一つだけ。今年は福島泰蔵君碑(群馬県伊勢崎市境の天人寺、昭和7年4月11日建立)建碑90周年である。この碑の撰文者立見師団長は福島大尉を「塾者」と評した。この「塾者」にこの拙文で気づいた福島大尉の「ならでは」が含意され、この気づきは第5連隊遭難に隠れた福島大尉を照らす灯、陸軍の足元を照らす警鐘と感じる。
A:実戦で隊員を死地に投じる際の心境で何か参考になるものは?
何ものにも真に「愧じない」心境
K:対峙中に論文「一慮」が偕行社臨時増刊号(明治37年11月)に掲載され全軍将校に配布された。弘前中隊長以来兵を護る最善を尽くした福島大尉は思い遺すことの無い心境に至った。また、激戦を前に皆とは生きるも死ぬも一緒だ。当中隊が黒溝台一番乗りを果たす。共に護国の鬼となろう。生死は時の運、屍は自分も含め乗り越えろと大激奮のなかにも、自他の生死達観の心境に至った。これら二つの心境のように福島大尉は何ものにも真に「愧じない」心境にあった。
A:この「愧じない」への道は隊員を死地に投じる重い日を念頭に、普段から隊員を護る日々を悔いなく積み重ねることですね。
K: その通り。
3-2 実戦―何としても黒溝台一番乗りを
〇28日総攻撃に伴い、最後の最後まで温存された福島中隊は砲火集中する最激戦正面に投入され、真っ先に突入した福島大尉は直後に戦死した。残余の中隊はその夜、旅団の夜襲に参加、黒溝台に必死に運良くかじりつき、翌朝福島中隊長の遺言通り黒溝台一番乗りした。
K:黒溝台に一番乗りし奪還の先頭に立つ、これを中隊の大使命とし、福島大尉は後を信じ、先頭で突っ込んだ。福島大尉亡き後の中隊は当夜の20時敵司令官クロパトキンが出した不可解な退却命令で生じた混乱(福島大尉指摘の弱点)を衝く形で黒溝台にかじりつき、翌朝露軍の夜間離脱完了に気づき同地に真っ先に進出した。全員は猛砲火で命が危うい状況をものともせず大使命達成に「専心」する。指揮官はこの日に備え兵を死地に投じる自分の責務と投じられる命の重さを深く自覚し、「愧じない心」で実戦に臨み、戦況打開に自ら「専心」し兵を護る精一杯の「最善」を尽す。護れなかった屍を前に、使命の重さを噛み締め、心から悼み、次は死者を出さないと真摯に誓う。以上の全員の責務の「専心」及び指揮官の責務の「専心」と兵の命を護る「最善」が避けられない命の危険の中での実戦の「顧みずの心」である。
無私の心
K:この鍵は全員は私よりも公、指揮官はこれに加えて兵の命を重んじる無私の心にある。
A:指揮官の無私の心とは?
K:大使命達成に「専心」するのみと命を投げ出す姿は指揮官の究極の無私である。これと彼の「兵を護る」無私の心は残る者を震い立たせた。指揮官は悲惨過酷な戦場で重圧を受け終始適切に決断し或いは変化に気づき決断する余裕や柔軟さを常に持たねばならない。黒溝台にかじり着いた中隊は敵の逆襲等に必死に備えたが敵の夜間離脱を察知しこれに乗じる好機も眼前にあった。このため指揮官はその都度、本質の為すべきに集中し無心に向き合って、無私の心で結論を得なければならない。
A:指揮官の無私の心!肝に銘じます。
終わりに
K:私は武人を志す福島大尉の心象旅をし、彼が連隊の軍旗祭(明治32年)祭文(連隊長訓示)で奈良時代を陸軍・軍旗の起源としたことを武人の始まりと着想した。また武人福島大尉から「顧みずの心」を着想して、彼を心と系譜の武人旅の起点及びべースと位置づけ、これを深める途中だ。何か一つでも参考になれば嬉しいね。
A:とんでもない。私の不安の標(しるべ)・拠り道としたい「顧みずの心」に出会えました。これからもご指導をお願いします。
K:そうか!兵あってこその部隊、その兵を護るが武人の「顧みずの心」の出発点!鍵は無私の心だ!今日は本当に有難う!
(終わり)