新しい旅「自衛官と心ある日本人が「共に立つ」」へ

     ~福島大尉旅・武人旅の20年余を区切る

                                   川道亮介

始めに

 私は退官後明治351月に八甲田山雪中行軍を成功させた弘前歩兵第31連隊の行軍隊長であった福島大尉の旅、そして彼が武人として生きようとした生き様に惹かれ、彼を起点として、自衛官に繋がる武人旅を続けてきた。漸く旅は区切りを迎え、気が付くともう20年余となる。この間に私を支配していたのは好奇心とワクワク感と自分ならではへのこだわり(以下3要素)、であった。それらの言いなりに動いた私には、当初、本当に為したいことは霧の中にあり、次第に明らかになった。それは福島大尉を究めること及び武人の系譜とそれをつなぐ「顧みずの心」を思考すること、の二つであった。これらは旅の山場で、いくつもの喜びや高揚感を得たハイライトがあった。しかし山場・ハイライトをいうなら、3つ目の山場「国民の負託に応えた自衛隊」考(稿)、思いがけない着稿にも関わらず貴重な気づきを得た、を加えなければならない。

 また、多くの方から何故福島大尉旅、武人旅かと問われたが、答えないまま今に至っている。併せて、この答え、20年余を貫いたもの、を探したい。

私は今年満80歳になる。いつあの世に逝っても可笑しくない。この機に旅を総括し、特に遺したいこととその周辺及び今後の関わり等について区切りをつけておきたい。

併せて拙文を心ある人のために供したい。

 

1、福島大尉を究めたいーこれが福島大尉だ

1-1 出だしの動機

危機管理を学ぶため、私は平成149月青森取材旅行により資料を収集した。青森県立図書館で入手した「雪中行軍手記」を読み、福島大尉は雪中行軍に当たり万一の最悪、行軍に行き詰まっての雪中露営、を考え周到に備えていた。そこに感動し、「福島大尉に学ぶ危機管理」(修親、平成155月号)を投稿した。ただ周到な福島大尉でも手抜かりがあり、未曽有の大寒波という予想外もあった。でも成功した、それは何故?が頭を離れなかった。

-2 福島大尉を究めたいーこれが福島大尉だ

 前記疑問解明のため、4年余の休止を経て、206月、2度目の青森取材旅行、展望が無い中3要素に支配されて、を思い立った。ここで思いがけない間山元喜氏との出会いがあり、福島國治氏・栗原貞夫氏・斎藤昌男氏他の遺族・親族方とのご縁が開けた。特に長崎県諫早市在住の直孫倉永幸泰氏を紹介され、彼が門外不出で福島大尉直筆の「雪中行軍実施報告」等を保有されていることを承知し、以後短期間に8回にわたり北九州から訪問した。おかげで数年来の疑問解明と同時に福島大尉の人生全般に興味が広がり、これらを踏まえ、「八甲田山雪中行軍における予想外を訪ねて」シリーズ(修親、平成2111月号~同222月号)を投稿した。この記事で遺族・親族の皆様方との交流が深まり、また幹候校も注目し、同校への遺族の遺品寄贈(平成244月)となった。これに私自身が刺激をうけ、いつしか、この資料を深く読み解いてこれが福島大尉だ、という私ならではを究めたいと思うようになった。それに向かって非常の困難・実行力・リーダーシップ・ことを為す・沈黙・もののふのこころ等の切り口で、ブログによる思い巡らし旅をした。最後は第4木曜日の読書会から声がかかり、そこで「困難を極めた男」という切り口で、発表・討議した。その後その困難は自らが信じることを断行する性向ゆえに齎されたと気づき、「自らが信じることを断行する男」・「野外要務令綱領の死生を顧みず本文を尽くすを体現した男」、これこそこれが福島大尉だという確信に至り、「拓く 福島泰蔵大尉正伝」を自費出版した(平成2910月)。この間に福島大尉像が次第に出来上がってゆくことにならではの喜びや高揚感を得た。

 

2、福島大尉を起点として自衛官へと「顧みずの心」で繋がる武人の系譜

2-1 武人旅の始まり

 軍人としてよりも武人と生きようとした福島大尉に惹かれた私は「拓く 福島泰蔵大尉正伝」出版と並行して、いつの間にか武人旅に軸足を移し、武人旅「福島泰蔵大尉に学ぶ武人の心―連綿と続く「顧みずの心」」を投稿(偕行、令和元年11月~令和22月)した。

私は何故軍人よりも武人として生きようとしたかについて考究した。薩長閥中心・士族偏重の将校採用制度・下士官の不人気という軍の“不条理”を体感した福島大尉は、これを超えその大元である君国(大君の国)に尽くす永遠への思いが強かった、と結論付けた。

2-2 武人の系譜に連なる武人と自衛官

武人福島大尉の「顧みずの心」

専心と最善心の両立

武人福島大尉の心の在り様について問題意識を持った私は「野外要務令綱領特に死生を顧みず本分を尽くす、を体現した男」を表す最もふさわしい場面として、八甲田雪中行軍の最後の難所八甲田山越えがまず浮かんだ。大寒波・吹雪・深(埋)雪下に道筋を失わぬよう、誤ればがけ下への転落・彷徨等の危険と隣り合わせ、の48時間50分の不眠・不食・疲労行軍に最も濃ゆく現れていた、からである。隊長以下全員はただただ困難な道筋を見つけ、行き着くことだけに専心した、指揮官福島大尉は隊員を死地に投じる自分の責務の重さ、投じられる隊員の命の重さを深く自覚して責務達成(全員を行き着かせること)に専心すると共に一人も失わない(兵の命を守る)ため、最善を尽くした。任務と兵の命との関係性について八甲田雪中行軍において専心と最善心は両立した、といえる。

福島大尉の根底の精神

ここまでは従前の通りの見解であるが、本稿を書くに当たり、大事な点に気づいた。それはこの根底に指揮官・福島大尉は戦いを使命とする軍において、実戦の任務・命令の達成は最優先であるが、その大義にかりて兵の命が軽んじられることがあってはならない。如何なるばあいでも兵の命を守るための最善を尽くすべきは当然と(地に足をつけて)考えていた。何故なら指揮官は絶対である任務達成のため責務として自分の命令で兵を死地に投じなければならないのでその重み、投じられる兵の命の重みを深く自覚し、勝つため、兵の命を守るための最善を尽くさねばならない義務がある、と考えていたからである。実戦任務達成の厳しさ・絶対性が強調され、兵の命が軽く扱われている現実を経験した福島大尉は厳しい実戦任務だからこそ、兵の命を守る最善を尽くさねばならないと痛感した。例えば日清戦争・大平台の戦闘で多くの兵が傷ついたが、収容が追いつかず雪の上に放置され、多数の凍傷患者をだした。この時小隊長として現場のただなかに居た福島中尉は兵を守ることは上長の義務と痛感し、地に足の着いた使命感を持つに至った。じご国難日露戦争に備え、勝つためはもちろん、兵の命を守るための冬季戦・行動研究に本気で取り組んだ。前人未到の八甲田山雪中行軍はその一環である。日露戦争・黒溝台会戦では、「黒溝台一番乗りは当中隊がやる。大使命を果たすため、みんなは護国の鬼になってくれ、自分が死んだら小隊長、小隊長が死んだら次の者、と次々に次の者が指揮をとれ、倒れたものは乗り越えて進め、傷つき動けないものは進め、進めと叫んでくれ。誰でもよい黒溝台に立ったものはこの旗を立ててくれ」と訓示し、真っ先に突入して戦死。福島大尉は黒溝台一番乗りしか念頭になかった、であろう。その胸中は「今まで露軍に勝つため、隊員の命を守るための冬季戦・行動研究に最善を尽くしてきた。これはすべての兵士に無駄に命を落とさせず、冬季の戦技と身を護るすべを身につけさせて、今日のこの決戦で大使命を果たさせるためだ。指揮官としてやるべきを尽くした。最早思い残すことはない。任務達成に中隊全員で専心するのみ。」であったろう。この訓示には、任務達成への熱情と部下への真愛があふれ、何度読んでも涙する。

この場合の福島大尉の根本精神は指揮官として絶対(必ず死という厳しい)の任務に向き合うには勝つため・兵の命を守るための最善を尽くし切って最早思い残すことはないという域に至ることであった。

再び専心と最善心の両立へ

話を雪中行軍・専心と最善心の両立に戻す。このケースは、行軍間の人命損傷は行軍の死命を制するので無事生還させるべく最善を尽くすという、指揮官として責務への専心と兵の命を守る最善を両立させられる任務・状況にあった

纏め

福島大尉の黒溝台会戦・八甲田山雪中行軍における使命感の特徴を纏めると、中隊長以下全員は任務に専心。指揮官としては実戦(黒溝台会戦)での絶対の責務を果たすことに専心すべき、この際、いかなる場合でも兵の命を守るための最善を、思い残すことがないまでに、尽くべきことを根底におき、(実戦以外(八甲田山雪中行軍等)では)専心と最善心を両立させること、である。以上は彼が体現を誓った野外要務令綱領の「死生を顧みず本文を尽くす」の「顧みずの心」の発露であった。

この気づきは武人の本質であるその心について、武人の心を「顧みず」という野外要務令綱領に使われている用語という形式上並びに心の発露の実態上から判断するカギ視点の発見である。武人旅の最大の発見であり、福島大尉によって発見したので福島大尉を起点とする。以後登場人物についてこの鍵視点を適用し、両方を備えた者、或いは用語使用の例はなくても後者を備えた者であれば、福島大尉を起点とする武人と称することにする。

尚、指揮官の根底精神の気づきは従来の解釈を広げるエポックとなるものである。

また彼は明治32年の軍旗祭祭文(連隊長式辞)で陸軍と軍旗の起源を文武天皇の御代に置いている。その御代とは律令制の中央集権国家が出来、遣唐使に「日本」と称させ、大伴家持が深くかかわったと言われる日本固有の和歌集・万葉集に収録される草莽の歌が歌はれた頃である。この時代は武をつかさどる部民から国家に直接使える武人となった時代で古代にも現代にも通じるものがある。

武人大伴家持の「顧みずの心」

ここ(この時代)で日本最古の武門の後裔であり、公卿の名門後継者であり、歌人である大伴家持と万葉集で歌われた応詔歌・「海行かば」(海行かば水漬く屍山行かば草生す屍大君の屁にこそ死なめ顧みはせず」が登場する。この歌は「陸奥国に出金を賀す詔書」で聖武天皇が瑞兆を喜び、大伴氏の大君に仕える言立て(志)の言い伝え「海行かば水漬く屍山行かば草生す屍大君の屁にこそ死なめのどにはしなじ」について申され、身内の兵と申されたことに大感激した家持が詔に応えて大君の言葉を繰り返しつつさらにその志を強調した歌である。私は大伴の祖の子孫への言い伝えであるからには、武の実行者としての意識として海行かば水漬く屍山行かば草生す屍には二つの実感が込められている、と解釈する。即ち、武人大伴は大君へ【敬神宗祖の念】で尽くす精神と共に武人の尽くし方の言立て(志)を言い伝えているはずである。それを伝える場として、戦い終わり屍を前にして氏長が一族で誓っている象徴的な場面を考えてみよう。そこで一つは水漬く屍・草生す屍となるような厳しい戦いに従軍することが大伴の役割であり、この役割を果たすことを誓う。二つは水漬く屍・草生す屍のような惨めな戦死者を前にして統べる者(指揮官)は兵を死地に投じる責任の重さや投じられる兵の命の重さを深く自覚し次は無念の死者等を出さぬよう誓う。従って歌意はいかなる厳しい戦い(という役割)であっても大伴はこれに専心し、その際、(大伴の統べる者として)惨めな死者等を出さないよう最善を尽くす、そのために大君のおそばで命を失うこともいとわない。【顧みはせじは役割を果たすことにかかる】。歌中の「海行かば水漬く屍山行かば草生す屍」は大君に尽くす志としての大伴の役割を果たす二つの誓いを内包する言葉、武人として読み解いた、であった。二つの誓いを内包する言葉という気付きは従来の解釈を広げるエポックとなるものである。これこそが武人大伴の「顧みずの心」である。前述の鍵視点に照らせば、形式上、実態上の両方において、福島大尉を起点とする武人の系譜に連なる。

 

応召歌の「海行かば」の武人としての解釈は文学の世界では未だ目にしたことが無いものであり、保田與重郎氏に学ぶところから出発して、元自衛官の感性が福島旅・武人旅で磨かれたならではのもの、と感じた。以上によって応詔歌は鎮魂歌でも戦意高揚歌でもない、ことは自明である。

他にもこの系譜に繋がる人物には栗林中将・加藤清正・坂の上刈田麻呂・田村麻呂親子・大伴弟麻呂・島津忠良(日新斎)・島津義弘等がいる。また上記系譜の武人の心の源流として天孫降臨にも神武東征にも大君に従った我が国最古の武門大伴の祖の尽くす心【敬神宗祖】がある。

 

 自衛官の「顧みずの心」

 自衛官は任官に際し「事に臨んでは危険を顧みず、身を以て責務の完遂に務め、以て国民の負託に応える」という服務の宣誓を行う。任官時の誓いを一生かけて実践する心がけを磨き使命感にまで高めている。その結果、自衛官はことある場合に、危険を顧みず、責務を果たすことに専心し、指揮官は、福島大尉と同じように、任務・命令は絶対であり、そこにおいて、よりよい任務の達成や隊員の命を守るために最善を尽くすことを当然(前提)とする地に足のついた考えを元に、雲仙普賢岳の噴火災害時に出動した第16普通科連隊長や東日本大震災の放水冷却隊長はわが身の危険を顧みず、挺身し、よりよく任務を達成し、一人も損しなかった。これらの例で指揮官は専心と最善を両立させた。そして実戦、まだ経験していないが、においては如何なる任務を与えられようと、隊員の命を守ることに最善を尽くすであろうことは自衛隊の取り組みと実績から、確信に近く、言えるところである。

 全員は専心。指揮官は如何なる任務が与えられようと、隊員の命を守るために最善を尽くし(実戦以外では)専心と最善心を両立させるという考えと行動は服務の宣誓にいう「顧みずの心」であり、形式上及び心の発露の実態上福島大尉起点の武人の系譜に連なる。この意義について、「顧みずの心」で繋がる武人の心には今に受け継ぎ、後世に残すべき系譜としての連綿性がある、と理解している。時間の経過につれ、このことの重み、例えばどう発信するか等、が私にのしかかっている。

武人として生きようとした福島大尉を辿っているうち思いがけなく、今の自衛官にまで「顧みずの心」で繋がる武人の系譜を発見した。また何度もフィードバックしている間に気づき、軌道修正したことも多い。特に「顧みずの心」の根底とする精神についての気づき(福島大尉の顧みずの心」項で既述)は不明を恥じるが、これもスパイラル探求のお陰、福島大尉と武人の真実にまた近づけた、という喜び・高揚感に優るものはない。

2-3 ホームページ「福島大尉から武人の心探求記念館」(以下HP)の開設と拡張

福島大尉旅・武人旅は大きな区切りを迎えたと考えた私はHPを開設(令和2年3月)し、福島大尉の心、武人の心、日本人の武の心という三つのコーナーを設け、それぞれの継承を図った。その後、当記念館は3つの心について理解を深めた先に、何を目指すのか、という疑問が生じ、HP(記念館)に希・「(ことある場合に、自衛官と心ある日本人がともに立つ際に)「地に足をつけた顧みずの心が日本の標準たれ」コーナーを増設した。これにより、前記三つの心に立脚する自衛官と共に立つ日本人の心との相関を明らかにした。このことで今までの過去旅主から現実の防衛に向き合うステージを新たに開けたことになった。

3 全くの偶然「国民の負託に応えた自衛隊」考(稿)から新しい旅の着想へ

3-1「国民の負託に応えた自衛隊」考(稿)で得た二つのもの

薦められ、オーラル・ヒストリ-「中尾時久」を回読した。同氏の防衛という重荷とその制約に向き合う姿に触発され、そこから制約は未知という考えのもと、陸上自衛隊が未知(制約を含む)に向き合った5つの事例(①雲仙普賢岳災害派遣・②カンボジアPKO派遣活動・③阪神淡路大震災災害派遣・④イラク人道復興支援活動・⑤東日本大震災災害派遣)を考察し、一気に「国民の負託に応えた自衛隊」を書きあげHPに投稿した(R3.11)。その内容は同稿に譲るが、そこで図らずも得たものが2つあった。1つ目は5つの未知のスパイラルを乗り越えさせたものを明らかにしたが、その中に、隊員及び指揮官の「顧みずの心」があり、これは連綿と続く武人の心を受け継ぐものであり、後世に伝えるべき心である。この重さを再確信した。2つ目は自衛官の強い使命感、これは「顧みずの心」を指す、の発揮に心ある国民が感動し、相互の感応があった(この条後述)。この感応に私はきらりと光るものを感じた。このキラリをこれからの日本防衛における「自衛官と心ある日本人が共にたつ」光明にすべき、と気づき、武人旅から新しい旅に軸足を移そうと思い立った。

3-2 新しい旅「自衛官と心ある日本人が共に立つ」へ

上記のきらりと光った事例とは

雲仙普賢岳災害派遣感謝の夕べでの長崎県知事の挨拶「人命は地球よりも重いと言われる昨今に、その命よりも重いものがあることを自衛官は行動で示した。それは使命感であった」及び東日本大震災の原発災害当初の水素爆発現場にいた中央特殊防護隊(長)への学習院女子大学畠山ゼミの皆さんからの手紙「発災後すぐにどれぐらいの危険があるかわからない中で原発へ向かい、任務に従事された隊員の使命感の強さに大変感動致しました。」に現れている。すなわち隊員の強い使命感=「顧みずの心」に心ある日本人が感動し、相互に感応した事実のことである。

日本防衛の足元―国民挙げて立ち向かわねばならない最悪事態想定の逼迫

急速に国力を増大させた中国と相対的に力を低下させた米国の対立は激化し民主主義国家群と専制国家群の連合も強化され、西にウクライナ、東に南シナ海・台湾と米ロ、米中対立の火種が鮮明にあり、日本周辺でいつ紛争が起こっても可笑しくない状況にある。加えて脅威を増した周辺国に囲まれて、国土防衛に任じる陸上自衛隊の足元は極めて脆弱といわざるを得ない。その根本は日本は憲法上及び陸自・予備の不足という制約に縛られ、平和憲法という(理念の)美名に縛られ、現実の周辺国の脅威を直視しないまま、陸上に関しては圧倒的に少ない正面兵力と縦深兵力という歪みを放置してきた。この歪みは今の防衛環境では極めて危うい。まずは改正と増員を大いに急ぐべし、である。ここまでは、とても大きな、前座である。

本題はここからである。台湾・ウクライナ情勢が緊迫し一触即発の際に、東日本大震災級の大災害が起こり、その機に乗じた尖閣等の日本侵攻があり得る環境に我が国は置かれている。我が国の大災害を周辺国が好機と思っても可笑しくない状況に陥る恐れは高い。災害時の侵攻という考えられない考えたくない事態である。加えてサイバー・宇宙等未知の戦いの要素はさらに深くかつ大になる。これは最悪である。最悪に備えるのが防衛の本旨であり、これを日本の最悪と考えるべきである。現状では隙だらけ、自衛隊だけでは到底無理であり、国民挙げて立ち向かわねばならない。この気運を作ることに「共に立つ」(提唱の)意義がある。また災害は突然起き平素の備えがそのまま対処力となる。現実の防衛の実力や改善されない問題(憲法改正や自衛隊や予備の圧倒的不足等)の深刻さを知る、から始めるという意味でこの問題提起に意味がある、と考える。

 

あるべき「共に立つ」姿

そこで。従来、「国民と共に」の意識は愛され・理解される域であった。これを「共に立つ」域へと変えなければならない。海空優先の政治優先が長く続いたせいもあり実体論に入らずなんとなく据え置かれてきた感のある陸上に関してであるが、自衛隊だけで国を守る意識、からの脱皮である。そして自衛官はいかなる時も「顧みずの心」を発揮して、心ある日本人との感応をますます拡充し、今迫っているかもしれない最悪の大きな国難に国民挙げて立ち向かう知恵と力を生み出す等の気運醸成に努めなければならない。

「共に立つ」を実効あるものにするため、「顧みずの心」を服務の宣誓という自衛官だけの所有物から心ある国民との共有物【自衛官の使命感とこれへの共鳴】へと意識を変え、危険極まりない災害派遣現場での隊員の安全確保施策を国民の避難や保護に活かす(註)等共に立つ裾野を広げる視野からの取り組みが必要である。感応をますます拡充する核には自衛官の「顧みずの心」があり、心ある日本人の「標準」となるよう、自衛官は矜持をもって心を磨き続けなければならない。この際、共に立つ日本人のポテンシャルを高めるため自衛隊の教える力の還元(註)が求められる。心ある日本人を結集する核には予備自衛官・即応予備自衛官がいるが新たに民に足を置く「予備自衛官補」(後述)が加わっている。特にこれからの「予備自衛官補」を大きく育てなければならない。

註:詳しくは「国民の負託に応えた自衛隊」稿参照

「共に立つ」ための課題と働きかけ

しかし、これからの戦い方は宇宙戦、IT戦・サイバー戦、ロボット・無人機・ドローン大量使用戦、コロナ禍に触発されたCBR戦等が絡み、未知が深刻化する。足元をみると、憲法上の制約や自衛隊並びに予備が圧倒的不足という制約は改善に長年月を要す。特に少子高齢化は勢力確保上の実現の可能性に疑念を与え、相当分の機能代替策創造の要求は高い。忌戦・嫌軍に偏った平和主義或いは国や国防への無関心が蔓延して国民挙げて・共に立つ機運が国民の中に当たり前になっているとは言い難い。また事ある場合に自衛隊と共に立つ日本人は、予備自以外には、組織されず、その予備自は自衛官経験者が前提であり微弱である。民間人を採用する方途、現在予備自衛官補から予備自・即応予備自へのルートが開けたところである。従って、解決すべき課題、伸ばすべきは山ほどある。これら課題やあるべきを発信し、国民意識の啓発と防衛体制の改善向上に、微力であるが、資したい、と思う。これが今明らかになった武人旅に区切りをつけた私の次の主題である。「国民の負託に応えた自衛隊」稿での気づきが図らずもこれからの旅への着想に繋がった。

福島大尉旅や武人旅は過去旅を主とし、自衛官を思う旅であった。この区切りで、図らずもではあるが、今そしてこれからの本当に大事な「共に立つ」というテーマを見つけ、今の自衛官に思いを寄せる舞台が整った、と高揚した気分である。

4 20年余を貫いたもの

思い当たったものは以下の三つである。

4-1 福島大尉旅・武人旅の奥深さと探求旅の面白さに嵌った

 本稿でも新しい発見・気づきがあった。①福島大尉の「顧みずの心」にその根底にある精神を加えたこと、鍵視点として武人像を考える基準を明確にしたこと。②大伴家持の海行かばの「海行かば水漬く屍山行かば草生す屍」は武人としての二つの役割を果たす一族の誓いを込めた言葉という解釈を加えたこと、③「国民の負託に応えた自衛隊」稿で災害派遣中の自衛官の顧みずの心と心ある国民の感応があった。これにきらりと光るものを感じ、これを光明として「共に立つ」思考を着想したことなどである。①②は従来からよりフィットするものを手探りし、③は福島旅・武人旅の次を手探りした結果である。これらは従来の解釈を広げ、或いは従来の旅から軸足を移すエポックとなるものである。この発見・気づきは福島大尉旅・武人旅始めて以来繰り返されている私を支配している3要素に動かされ、見つけた実現したいものの探求によって成果を得るというサイクルの一駒である。これは私が二つの旅の奥深さや探求旅の面白さに嵌った証しである。この奥深さや面白さの探求を今後も生きていること、元気であること、自分らしくあること、自衛隊と共にあることのバロメーターとしたい。そして、これだと発信した自分の責任を本当に果たすためのフィードバックは生きてる限り続けなければならない、ただし楽しみながら。だから、旅に区切りはあっても、終わりはない。

4-2 ならではのこだわり

幹部学校指揮幕僚課程学生の時、山ほどの課題が出たが、苦にならなかった。よい評価や早く終わらせて遊びたい気持ちよりも兎に角考えること思いめぐらすことが好きで自分の策案は他人とは違う視点・発想がある、と気づき、そのならではを大事にしたい、と言う思いが強かった。ポストが上がるにつれ、そのポストで自分ならではを見つけ挑戦した。この習性は退官後の務めでもそして今回の旅でも続き、そのためにしなくてよい苦労を随分したが、ならではの発想や成果の場合は大いに気分が高揚し、そのたびにもっとこの気分を味わいたい、と思った。 

4-3 心は自衛隊と共に

若い頃に幹部になる矜持や覚悟が足りなかった、という反省やジャーどうすればよかったかという思いを福島大尉を追いながら、追体験している自分に何度も気づいた。また心の中で常に自衛隊へのエールやフィードバックを考えていた自分もいた。最初は単なる個人の興味本位であったが、知見が形を表すと自衛隊に役立てないか、例えば冊子(本)の寄贈、講話、福島大尉の遺品の幹候校への寄贈の仲立ちなどを考え行った自分がいた。また福島大尉が軍人ではなく武人として生きようとした“不条理”感に大共鳴した元自川道もいた。

そして福島大尉旅、武人旅という過去旅をつづけながらいつかは今の自衛官を主役にしたいと思い続けていた。「国民の負託に応えた自衛隊」稿での“キラリ”の気づきはこのことをはっきり私に気づかせてくれた。

 

 

終わりに

 思いがけず着手した「国民の負託に応えた自衛隊」稿を書き終わり、「顧みずの心」の重みの再確信によって、手探り感一杯の“探求”に区切りをつけた開放感に浸ったが、まだ何か残滓感があった。それは何か、と自問し、作稿中に見出したキラリにこだわっている自分に気が付いた。同時にこれは次へを“探求“している自分だ、と気づいた。そこで「顧みずの心」と心ある国民の感応をこれからの光明として「共に立つ」思考の世界へ、軸足を移そう、に行き着いた。そこで主タイトルのサブタイトルにこの主題を加え、思いを鮮明にした。これもまた私の20年余の旅を象徴する3要素に支配された思いがけない展開である。拙文が後に続く心ある人になにがしかでも参考になれば幸甚である。

希:顧みずの心が日本人の武の心の標準たれ