第二章 ディズレット

 闇があった。深い、闇があった。
 何も見えない、何も感じられない。何の気配も無い。
 音も、風も、気の流れも……何もかも。何もかもが無かった。
 闇というより無に近いのだろうか。だが、無とは決定的に違うことがあった。
 飲み込まれてしまいそうだった。その闇の中に。
 引き込まれてしまいそうだった。その闇の中に。
 それは恐怖にも似た感覚で……鳥肌が立つような冷たさがあった。
 はっと目が覚める。アテナは見上げた天井を見て、今までの闇が夢であった事を知った。
 だが、あんな夢は見たことが無い。昨日言われた、あの呪いのことなのだろうか。
 呪いだ。あれは呪いなのだ。アテナは初めてそう感じた。
 あの闇はただ事じゃなかった。普通ではなかった。
 星を飲み込んでしまうというブラックホールのようなものだ。
 何かの強い力で、あの深い闇に引きずり込まれてしまいそうだった。
 アテナはベッドから身体を起こして首をゆっくりと横に振った。
 あいつの言った事は全部本当の事なのかもしれない。あの魔導師が言った事は。
 あたしは呪われてしまっていて、もうあれから一日が経っているのだから残された時間は後、四日。それまでに何かしらの手を打たなければ、あの本の呪いで死んでしまうのだ。
 本を触っただけで死ぬのだろうか。その疑問は今も尽きない。
 アテナはベッドから立ち上がり、昨日、死守した本を鞄の中から引っ張り出した。
 黒いその表紙を触るとぞくっとした感覚が襲ってくる。魔法が使えないアテナでもこう感じるのだから魔法が使える者が触ったとしたらどう感じるのだろう。
 あの男は……追いかけていた手配犯……ホフマンといっていただろうか。あの男はどんな気持ちでこの本を持っていたのだろう。
 何故、逃げていたのだろう。どこに行こうとしていたのだろう。
 それに……カームの説が正しいとしたならば、何故彼は死んでしまったのだろう。
 復活するならホフマンは同じサモナーなのだから、適任なのに。
 血が異なると輸血でショックを起こして死ぬというが、同じように波長が合わないと駄目なのだろうか。それなら波長さえ合えば生きていられるのか。助かった者が居たという前例があるというのならば。実は呪いのすり替えではなく、違った理由なのだったら。
 考えていても先に進まない。とにかく、あのカームとかいう男に頼るしかないのだ。あの男にしばらくつきあうしかないのだ。
 彼が何とかしてくれる。そんな甘い考えは持ってはいない。ただ、何とかしてくれる……それを待つのが嫌なだけだ。自分で出来ることがあるのなら、何かしておきたかった。
 死を宣告されて、それまでにやっておきたい事など特別アテナには思い浮かばない。
 ならば、この運命を受け入れて生きていくしかないのだ……。
 アテナは早々に着替えると、カームと落ち合うために鞄に荷物を詰め込む。そして、件の本を手に取る。これはどうするべきだろうか。持って行くべきだろうか。
 あの男の手に、仮に渡ったとすれば危険だ。あの男は死を恐れてなどいない。それよりも知的好奇心の方が上回っている。アテナから見れば危険極まりない男だ。
 だが、人間の心理というものは複雑だ。おかしな事に、自分が持っている方が安全のような気がしてしまう。
 例えばこの本をこの宿屋のどこかに隠すとする。そんな事をしたら誰かが見つけやしないかはらはらするに決まっていた。呪いが拡大するようなものだ。
 アテナは鞄の中から、布を取り出すと本を厳重に包み、鞄の奥に仕舞い込んだ。
 彼に見つからないようにするために。

騎士団の入り口の前にアテナが着くより早くカームは到着していたようだった。長い黒髪をなびかせ、ローブを着ているその姿は魔導師そのもので、きゃしゃであり頼りない。
……正直な事を言えば、この男に自分の運命を託すのは不安だった。
 カームはアテナが来た事に気がつくとにこやかに笑った。
「良かった、来てくれたんですね。来なかったらどうしようかと思っていました」
 その言葉に、アテナは彼も自分と同様に不安を感じていることを知った。
 そうだ。彼も関係者なのだ。ただ、彼には呪いがかかっていないだけだ。
「ディズレットの生家に行くんだろう?どこなんだ?」
 アテナはぶっきらぼうにそう言った。自分でも可愛げがないと思う言い方だった。だが、アテナにはそういう風にしか反応が出来なかった。
 だが、カームはアテナのそのぶっきらぼうな言い方を特に気にしていないようだ。にこやかに笑うその姿からは悪意の欠片も感じられない。
 そう、このカームという男、見た目も雰囲気も好青年といった印象なのだ。穏やかだし、実際口調は丁寧で物腰も柔らかい。男勝りのアテナとは対照的な人物なのだ。
 違いは、昨日から感じている彼の異常なまでの知的好奇心。あれは魔導師特有なのか、カームのみの特性なのかが分からない。でも、異常なのではないかと感じられる発言をしている。それだけは確かだった。
「それが……時間が無いというのに申し訳ないんですが、私も行った事の無い土地でして……ここから歩いて向かわなければなりません」
「歩きでも構わないよ。どのくらいかかるんだい?」
「二日……という所でしょうか。距離としては。ここアルージャから東北東に行った所にあるデイジャという小さな町なんです」
 カームはそう言うと持っていた地図を広げながら、アルージャを指差し、次に指を東北東に滑らせていき、デイジャと書かれた場所を示した。地図の縮尺からしてもアテナの足でも確かに二日はかかりそうな距離だ。
「デイジャは私も言った事が無いね。どんな町なんだい?」
「私の故郷に良く似た農村地帯だと聞いています。特に綿花の栽培で有名で、紡糸工場が立ち並んでいるのだとか。交通は交易が盛んですから、道は良いんですけどね。馬車が使えたら良いのですけれど……私には馬車を雇えるお金が無くて……」
 そう困ったようにカームは肩をすくめて見せた。確かに彼の風貌はどこにでも居るような魔導師っぽい服装をしているが、その布や服の作りは質素なものだ。とてもお金があるようには見えない。
 アテナはため息をついた。彼は肝心な事が頭から抜けているらしい。
「金ならあるよ。昨日、賞金を受け取ってる。それ使えば良いだろう?」
「でも、それはアテナさんのお金ですし……アテナさんの今後に差支えがあるのでは」
「あのね、今後もへったくれも無いだろ。あたしはあんたの話からすれば、後四日しか無いんだよ?金がどうとかいってられるかい」
 アテナは呆れてそう言った。カームはアテナの事を助ける気でいるのだろう。恐らく、最後は自分が呪いを受けるとしても。だから、アテナの今後がどうとか言うのだろう。
「デイジャまでの馬車だね?あたしが頼んでくるよ。そこで待ってな」
 これ以上、何か言うとまたややこしくなりそうだったので、アテナは身を翻して、馬車を手配してくれる、貸し馬車屋に向かって走り始めた。
 後ろでカームが何か言っているのが聞こえるが、聞いてはいられない。
 金で時間が買えるのなら、今はそれに越した事は無いのだから。

「……すいません。何から何までお世話になって……」
 申し訳なさそうにカームがそう言った。
 アルージャからデイジャに向かう馬車の中、アテナと向かい合わせに座っているカームが情けなさそうに縮こまっていた。
 その情けなさそうな姿を見て何だかアテナは気の毒なような気さえしてくる。
 そういえば、そもそもこの研究という名の呪い解読を頼まれたのは、研究所に入るためだとか何だとか言っていたのを思い出す。
 その時、田舎者がなんだとか言っていた。金に困っているのだろうか。
「あんた、出身はどこなんだい?なんか風貌からすると、都会に出てきた奴っぽいけどさ」
 アテナはそう声をかけた。何となく、これから自分の生死を分ける旅にでる仲間であるこの男に興味が沸いた。相手を知っておく事は悪いことではない。
「私はリンネル……首都レジンディアの北の町の生まれです」
「へえ、リンネル?なんか聞いたことがあるね……」
 アテナはその土地の名前に、初めて聞いたような気がしなかった。どこかで聞いた事がある名の通った土地の名だ。だが、そう大きな場所ではなかったような気がする。こうやってはっきり思い出せないのが何よりも証拠だ。
 カームはアテナの言葉にこっくりと頷いた。
「ええ、リンネルはミカンの産地で有名なんです。私の実家もミカンや柑橘を作っている農家なんですよ」
「ああ、なるほど……」
 どこかで聞いた事があると思えば産地の名前か、とアテナは思う。アルージャやラインノール等の大きな都市で買い物をする時に、市場によく書かれている産地名だ。どこかで聞いた事があるような気がしたのはそのせいだったのかとアテナは思った。
「実家が農家って事は……あんたは魔導師に見えるけど、魔法とはあんまり関係が無かったりするのかい?」
 あまり農家と魔法は繋がらない。農村地帯というのはアテナの生まれ故郷もそうだが、あまり文明とはかけ離れている所があって、魔法が使えるものなんて限られていた。
 アテナの質問にカームはにっこりと笑って答える。
「ええ、ご名答です。魔法は私が興味を持って、独学で覚えたんです」
「……なるほどね」
 ああ、だからなのか。と、アテナは思った。
 彼の異様なくらい熱心な知識欲もそこから来ているのだ。
 自分で覚えて、自分で感じて、自分で試してみて。
 だから、彼はこうも熱心にこだわるのだ。この呪いに対して。
「アテナさんは?」
 カームが今度は尋ねてきた。今度は自分が聞かんとした顔だ。
「アテナさんはどこのご出身なんですか?」
 アテナは揺れる馬車の座席に腕を伸ばしながら、答える。
「あたしはアルージャの傍。レディルっていう小さな村」
 リディルという言葉にカームは思った以上の反応を示した。
「リディルの出身なんですか?」
「あ、ああ……そうだけど、それがどうかした?」
 あまりにも過剰な反応にアテナの方がたじろぐ。
 アテナの故郷のリディルは穀倉地帯だ。小麦等が主な特産品の小さな村。魔法に興味がある人間がそこまで過剰な反応を示すのは不思議でならなかった。
「リディル……リディルは私の師事している方の故郷なんですよ。私も一度、お供で行った事があります。のんびりゆったりした所ですよね。私の故郷に似ていて、凄く嬉しかったのを覚えています」
 カームはにこにこしながらそう話す。本当に嬉しそうな顔だった。
 にこにこした優男にしか見えない彼だが……結構苦労をしているのかもしれないとアテナは思うようになってきていた。
 普通、自分の故郷に似ているからといってそこまで喜んだりはしない。離れてみて、長い間経ってみて初めて故郷のありがたさなど分かるものだ。
 どういった事情かは分からないが、おそらくこのカームという男は、故郷を捨て魔法を勉強するために都会に出てきたのだろう。そこで色々苦労したに違いない。そうでなければここまで田舎の話に喜ぶものだろうか。
 馬車はがたがたと揺れながら進んでいるようだった。
 今日はこのままカームと雑談で終わるのかもしれないな、とアテナは思った。
 そうなると、残りは三日。何が出来るのだろう。そんな事が頭に過ぎったが、すぐに頭を横に振った。何もかも否定的に考えなくてもいいはずだ。
「どうしたんですか?何か気に障るようなことでも言いましたか?」
 アテナの様子がおかしい事に気がついて、カームが心配そうにそう言った。
「いや、なんでもないよ。気にしなくていいさ」
 アテナはそう答えながら、窓の外に見える景色を見つめた。
 都市から田園地帯へと進んで行っている。この呪いをかけた人間も、カームのように田舎から出てきた魔導師なのかもしれないなと思った。
 アテナも田舎から出てきたから分かる。都会に夢を持ってやって来た。だが、待っている現実は思い描いたようにはいかない。
 もしかしたら、そんな思いもあるのかもしれないとアテナは思った。

 馬車はがたがたと揺れながらアテナとカームを乗せて、旅路を進んでいた。レンガがひいてあった街道はやがて土がむき出しの道となり、馬車の揺れも酷くなってきていた。
 中に乗っているアテナとカームも、最初の頃は話をしてみたりしていたのだが、道が悪くなってくるとその揺れにだんだんと気分が悪くなってきて、お互いに黙り込んでしまっていた。まあ、黙り込まざるをえないというのが正直な所だろうか。
 馬車は揺れながらも確実に目的地へと運んでくれていっていた。
 日はいつの間にか傾いて、空が茜色に染まっていく。夕暮れだ。
 西日の眩しさに目を細めている頃、御者が到着したと声をかけてくれた。
 目的地のデイジャは本当に綿花の町だった。当たり一面が綿花の畑になっており、遠くに見える建物は紡績工場が立ち並んでいる。綿花と布の町、そういった印象だった。
 綿花畑の向こうには工場以外にも建物が並んでいる。一先ず、アテナとカームはそちらに向かう事にした。今日はもう日暮れだ。宿を取らないとならないだろう。
 夕暮れのオレンジ色に照らされたレンガ道と綿花畑の中をアテナとカームは進んでいった。いかにも田舎町といった素朴なレンガの道と、夕暮れのオレンジ色が重なって、アテナとカームに郷愁を覚えさせた。
 道なりに進んでいくと民家が見え始める。そのまま道なりに歩いていく。ここは布や綿糸の取引が行われる場所。当然宿屋もあるはずだ。宿屋があるとなると繁華街だろうということで、道なりに進んでいけばやがて辿り着ける。
 ゆるやかに曲がりながら、立ち並ぶ民家を抜けて、二人は繁華街にやっと辿り着いた。
「どうします?宿を探すにしても、先に夕食にします?」
 カームがそう問いかけてきた。朝から馬車に揺られて、昼は馬車の上で食べたものの、そろそろお腹も減ってくる時間帯だった。宿を探しても良いが、その宿に食堂があれば楽だが無かった場合は手間がかかる。
「そうだね、先に夕食にしようか。なんかいい店あるといいけど」
 アテナはそう答えると繁華街の中を見渡した。野菜や果物を売る店や魚や肉を売っている店、金物を売っている店など商店は賑わっている。どこからかいい匂いも流れてくる。食堂が近くにあるのだろうか。
「あ、あそこが食堂みたいですよ」
 カームがレンガ造りの一軒の店を指差す。そこから先程のいい匂いが流れてきているようだった。
「じゃあ、入ってみますか」
「そうしましょう」
 アテナとカームは食堂の扉を開ける。中には沢山のテーブルに沢山の人間が座って食事をしていた。よく賑わっている店のようだ。
「はい、いらっしゃい。お二人さん?そこの席をどうぞ」
 店の人が出てきて二人を奥のほうの二人がけのテーブルへと案内した。二人はその席に移動して、荷物を傍らに降ろしながらメニューを手に取る。
「はい、何にします?」
 水を持ってきた店のおばさんが元気のいい声で尋ねてきた。メニューとにらめっこをしていたアテナとカームはメニューの中のものを指差した。
「私はこの今日のお薦めのセットでお願いします」
「あたしは地鶏のあぶり焼きのセットで」
「はい、少々お待ちくださいね」
 注文を終えて、出してもらった水を飲んでお互いに一息つく。やっと一安心したといったところだった。
「ところで……聞こうと思ってたんだけどさ」
「何でしょう?」
 一息ついたところで、アテナはカームに話しかける。目的地に辿り着いた事だし聞いてみたいことがあった。
「あんた、ディズレットの家、どこにあるのか知ってるのかい?」
「いえ、知りません」
 単純明快ですっぱりきっぱりとした返答にアテナはがっくりと肩を落とした。
「知りませんってあんたね……。どうやって探す気なんだよ」
 あきれ果てたといった顔のアテナにカームは平然とした顔をしていた。
「こういった食堂とか、宿屋とかで聞いてみようと思っていたんですよ。地元の人なら知っていると思いますし、人も集まるでしょう?」
「まあ、確かにそうだけどね」
 ディズレットの生家に行ってみたいと強く希望していたカームではあるが、かなりその場任せのようだ。まあ、彼も住所までは調べつくせたりはしなかったのだろう。そこまで簡単に調べ上げているのであれば彼は魔導師よりも探偵の方が向いている。
「はい、お待ちどうさま」
 先程、注文をとりにきたおばさんが二人の前に温かい食事を持ってきて置いた。
「はい、以上になりますね?」
 確認をとるおばさんにカームが声をかける。
「はい。あの、一つ伺いたいことがあるのですが……」
「なんだい?」
 どうやら、まずはお店の人から聞く事にしたらしい。確かに話しかけるのなら今か会計の時くらいがチャンスだ。カームの突然の質問に、おばさんは気にすることなく明るく返事を返す。
「あの、ディラ家ってどこにあるかご存知でしょうか?」
「ディラ?そりゃ、どこのディラの家だい?ここいら一帯にはディラって名の家はいっぱいあるんだけどね」
 いっぱいあると言われてカームもアテナも青くなる。あまりに数が多いと手も足もでなくなる。時間は限られているというのに。
「あの……昔、魔導師だった人の家を訪ねたいと思ってきたんですが……」
「魔導師ねえ。時々そういうのが出るからね……。名前はなんていうんだい?」
 おばさんは考え込むような仕草をして尋ねる。それにカームは必死の表情で答えた。
「ディズレット=ディラというんです」
「ディズレット……ねえ、う〜ん。なんか特徴とか無いのかい?」
「サモナーだったんですけれど」
「サモナーってなんだい?」
「ユニコーンなどの幻獣などを召喚する魔導師のことです」
 カームは何とか手がかりを掴もうとして必死の表情だ。アテナも焦る気持ちはあるが、どうしても冷静な気持ちでこの状態を見守ってしまう。
見つからなかったら見つからなかった時だ。どこかそんな冷めた気持ちがあった。差し迫った死が近づいている人間の心境はこんなものなのだろうか。
「う〜ん、分からないけど……何件かは聞いたことあるような気がするねえ」
「どこか分かりませんか?」
「そうだねえ、店の連中にもちょいと聞いてみてみるよ。料理が冷めちまうから、先にお食べ。また、後で声かけてあげるから」
「あ、ありがとうございます」
 ここの店の人は親切だなとアテナは聞きながら思った。客商売とはいえ、沢山ある家の中の一軒を探し出そうというのは至難の業ともいえるからだ。それでも親切にしてくれるのは人が良いのだろう。カームはいい人間に声をかけたものである。
「じゃあ、冷めないうちにいただきますか」
 アテナはそういうと食事にありついた。カームの方は食べながらも心はここにあらずといった感じだった。
 結構美味しい料理屋に当たったのにな。あの調子じゃ、料理の味なんて分からないんだろうな。
 そう思うと気の毒な気もしたが、カームが気をもむのも分かる気がした。
 実際、捜すにしても自分の足で探さねばならないのである。それに生家に行ったからといって何か分かると決まった訳でもない。
 焦るのは当然か。そう、アテナは思う。だが、今はゆっくりと食事を味わう方が大事だった。後何回、こういった食事にありつけるのだろう。そんな考えが頭を過ぎるからだ。どんな事でも良いから、時間を無駄には使いたくない。
 アテナはカームの事を気にしない事にして、ゆっくりと地鶏の味を味わった。深みのある味で、素材や調理が上手くて、とても美味しくそれだけで満足な気持ちになった。
「お客さん、聞いてきたよ」
 しばらくしてから、先程のおばさんが紙を何枚か手に持って現れた。そして、その紙をカームに見せている。カームはその紙を覗き込んでいた。
「ここと、ここと、ここの三軒が昔から魔導師を時々出している家らしいよ。地図を描いてあるから、これを頼りにすると良いよ」
「ありがとうございます。助かります」
 カームはぺこりとおばさんに頭を下げた。それに対しておばさんはころころと笑って返す。
「いいって、いいって。気にしなくても」
「いえ、本当に助かりました」
 何度も嬉しそうに頭を下げるカームをアテナは見ていた。自分もお礼を言うべきなのだろうか。だが、調べるのはカームだし、やっぱり言わなくてもいい気がする。だが、ぺこぺこと頭を何度も下げているカームを見ていると、何故か自分も礼を言わなければならないような気になるのだ。
 気にしすぎか。
 アテナはそう思って、会計のために財布を出した。
「ご馳走様でした。いくらになるんだい?」
「ああ、地鶏のお客さんは3リルね。お薦めのお客さんは2リルになるよ」
「はい、ご馳走様でした。それにありがとうございます」
 また、カームはぺこりと頭を下げて会計を済ませた。それにおばさんは笑顔で応える。
「はい、まいどありがとうございます。また、いつでもおいで」
 おばさんに見送られて二人は店を後にした。
 宿の場所も聞いておいたので、二人はそちらに向かって足を向ける。
「どうだい、分かりそうかい?」
「ええ、後は、宿屋の方にも聞いてみる事にします」
 アテナの問いに、カームは安心した顔でそう答えた。地図を手に入れたことで少し安心したらしい。確かに手がかりゼロの状態から前進したのだから収穫は大きいだろう。
 アテナはふと荷物の中に仕舞い込んでいる本が気になった。この本を書いた人間はかつてここで暮らしていたのだ。何だか複雑な気持ちになった。
 ここで何か手がかりが得られるのだろうか。それはアテナには全く分からない。分かるとすれば共に来ているカームだけだ。だが、彼は本の内容を知らない。アテナも内容が読めないので分からない。だからといって呪われた本をカームに渡す訳にもいかなかった。
 こんな状態で何か変わるのだろうか。こんな状態で何か変化が起こるのだろうか。
 押しつぶされそうな不安がアテナを襲ってきて、思わず頭をぶんぶんと横に振った。それに驚いてカームが目を丸くする。
「ど、どうされたんですか?」
「あ、いや、何でもないよ」
 まさか不安になったなどとは彼には言えない。言えばきっと本を渡せと言ってくるに決まっているのだ。だから、絶対に彼に弱みは見せられなかった。
 二人は会話も交わす事のないまま、そのまま宿へと向かった。何か言葉を話せば不安が見えてしまうのではないか、そんな気がしたのだ。
 アテナはカームの青い目が苦手だった。あの海のような深い青い目で見られると、心の中が見透かされてしまうような気がするのだ。
 だから、絶対に顔も見られてはならないし、言葉も発してはいけなかった。不安を知られたくはなかった。

 その夜もアテナはうなされていた。
 また、あの闇が襲ってきていた。
 飲み込まれるような深い闇。
 真っ暗で、どんな光さえも飲み込んでしまいそうな深い闇。
 それに取り込まれてしまいそうで、恐怖で目が覚める。
 再び眠りについても、また闇が襲ってくる。
 アテナは何度も目が覚めるはめに陥っていた。
 熟睡できなかった。
 闇は昨日よりもずっと深く、恐ろしかった。
 背中にびっしょりと汗をかく。その恐怖は言葉では表せなかった。
 結局、アテナはろくに眠る事も出来ずに、宿で一晩明かした。

 翌朝、眠たい目をこすりながらアテナは宿のカウンターに向かう。そこにはもうカームが起きてきていた。
「おはようございます。アテナさん」
 笑顔でカームが微笑む。その笑顔はいつもの彼独特の笑顔だけでなく、何か収穫があったような笑顔だった。だが、カームはアテナの様子を見て顔を曇らせた。
「どうしましたか?眠れませんでしたか?」
 そう問われてアテナは慌てて首を横に振った。彼に心配をかけさせてはいけない。
「い、いや、大丈夫だよ。ちょっと寝たりないだけさ」
 そう言い繕う。決して間違いではない。眠り足りないのは事実だからだ。
 カームは心配そうな顔をしたが、アテナの態度にそれ以上は追求してこなかった。そして、昨日、食堂で貰った地図が書かれた紙をアテナに見せた。
 三枚ある地図の中で、一つには赤丸が書かれていて、もう一つには二重の赤丸が書かれている。
「なんだい、この赤丸は。昨日はこんなのなかったけど」
「私がつけたんです。先程、宿屋のご主人とお話して、可能性の高い順にしたんです。まずはこの二重丸の所から行ってみようと思います」
 なるほど、朝早くにカウンターにもう居たのは、宿の主人に話を聞くためだったらしい。アテナも十分に早起きだったはずだが、彼の方こそろくに寝てないのではないだろうか。
「じゃあ、朝食を戴いてから、この場所に行ってみましょう」
 そうカームは笑うと、宿にある小さな食堂へとアテナを誘導する。それにつられるようにアテナはついていった。

 宿の主人に道を聞いた道を歩き、一軒の大きな家の前に辿り着いた。レンガ造りのその家は蔦が巻きつき、古めかしい雰囲気をかもし出していた。何となく近寄りがたい雰囲気の家、そんな印象だった。だが、アテナがそんな事を考えているのも知らないのか、カームは平然とした顔で、その家の扉をノックした。
「すいません、どなたかいらっしゃいませんか?」
「はいはい、なんだい?」
 トントンと叩きながら、カームはそう呼びかける。その呼びかけに応じて中から返事が聞こえてきた。朝からの来客に迷惑そうな声が聞こえてきた。朝っぱらから尋ねてきたのだ。確かに迷惑かもしれない。
 がちゃんと音を立てながら、中から中年の男性がぼさぼさの頭で出てきた。まだ、起きたばかりといった様子だ。
「おはようございます。実は、伺いたいことがあって参りました」
 カームは丁寧におじぎをすると、自分の胸に手をあて、それからアテナに手を向ける。
「私はカーム=ウェルステッドと申します。彼女はアテナ=ディレイン。こちらは魔導師に関わられる家と伺ってきました」
「ああ、確かにうちには時々、魔導師が出ているけどね……それがどうかしたかい?」
 家の主人と思われる中年の男性は怪訝な顔をしながら、カームに尋ねる。だが、人当たりのいい笑顔のカームに悪い気はしていないらしい。アテナも感じるのだが、カームという男、人当たりが非常に良いのだ。第一印象がこれだけいい人間も珍しいだろう。
「私達はディズレット=ディラについて調べているのです。この人物の名前に聞き覚えは無いでしょうか?」
「ディズレット=ディラ?」
 名前を聞いて、主人は考え込む仕草をする。何か引っかかりがあるようなその顔にカームは取り繕うように言葉を続けた。
「サモナーで、昔、レジンディアで自殺をしたんですが……」
 カームのその言葉に、主人はぽんと手を打った。合点がいったらしい。
「ああ、あの偏屈って聞いている奴か……」
「ご存知ですか?」
 いきなり正解を引き当てたカームは目を輝かせた。これなら話が早く進みそうだ。
 主人は思い出すように腕を組んで、首をかしげながら続ける。
「ああ……、うちの傍系で遠い親戚だって聞いているよ。変な死に方をしたから、時々話題にあがるんだ」
「どこに住んでいたか分かりませんか?調べたい事があるんです」
 カームは間髪をいれず、迫るように質問する。その勢いに主人の方は少し驚いたような顔をした。
「ああ、何だか分からんが……奴の家に用があるのか?」
「ええ、どうしても調べたい事があるんです」
 カームの言葉に主人は家から出てくると、綿花畑が広がり小高い丘が見える方に指を指した。
「あっちの方に廃屋があるんだ。昔、そのディズレットって奴が住んでいたって聞いている。だが、見るからに不気味な屋敷でな、誰も近づこうとしないから、廃屋で……今、中がどうなっているのかは分からないぞ」
「はい、それでも構いません。どうもありがとうございました」
 カームは主人にぺこりと頭を下げる。それを見てアテナも慌てて頭を下げた。
 大した事はしてないよと言う主人に何度もぺこぺことカームは頭を下げて礼を言うとアテナと連れ立って、その丘に向かうことにした。

 その廃屋というのは丘についてすぐに分かった。誰が見ても廃屋だと分かるような姿をしていたからだ。
 崩れかけた壁には無数の蔦が巻きつき、窓も扉も何もかも覆ってしまっている。それに、何より雰囲気が不気味だった。そこから流れてくる空気は冷たく、身も心も凍えてしまいそうだった。
「こりゃ、確かに誰も近づかないね。私だって、用がなきゃごめんだ」
「でも、入らないと……って扉を探すのにも一苦労しそうですね」
 アテナの言葉にカームが苦笑した。確かにカームの言うとおりだ。蔦や苔に覆われているこの廃墟は扉がどこにあるのかさえも分からない。
 アテナとカームはまず扉を探す所から始めなければならなかった。
 蔦を取り払いながら扉らしき所を探していく。アテナは力があるので力任せにばんばん蔦を取り払っていくのだが、カームの方はのろのろとしたものだ。それでも普通の人よりは手際が良い。農家の出身だと言っていたから、手伝いでもさせられていたのだろう。しかし、珍しく今回ばかりはアテナの方が役に立ちそうだった。
 アテナは力任せに蔦をどんどん取り払っていく。蔦の中から壁のようなものが見えてくるが、なかなか扉らしきところには行き着かない。家というのは間取りの関係で玄関の位置は大体見当がつくものだが、この家は普通の間取りとは違うらしい。アテナは黙々と蔦を取り払う作業に追われていた。
 一時間は経っただろうか、やっと扉らしき姿が見える。
「カーム、こっちだ!」
 アテナは向こうで蔦を取っているカームに声をかけた。その声にカームは疲れた顔でこちらにやってくる。やっぱり体力勝負ではアテナの方がずっと体力があるようだ。
 アテナはばりばりと蔦をはがして、扉の姿をやっと表に晒した。
 現れた扉は金属製で、錆付いていて劣化が激しかった。身体を当てれば壊れるかもしれない。
「……じゃあ、一つ体当たりでも食らわしてやろうかね」
 アテナはそう言うとぼきぼきと指を鳴らした。そんなアテナを不安そうな顔をしてカームが見ている。それにアテナが気がついた。
「なんだい?私がやるんじゃ不安なのかい?」
 アテナの言葉を聞いて、慌ててカームは首を横に振った。
「い、いえ、とんでもないです!ただ、申し訳ないなと思って……」
「バカだねえ、こういうのは向き不向きがあるんだよ。こういった力仕事は格闘家たる私の方が向いてるんだ。任せておきなって」
 そう言うと、アテナは扉に体当たりを食らわす。どんっと大きな音を立てて扉が揺れた。これなら何度か叩けば崩れそうだ。アテナは続けて扉に向かって体当たりを何度も食らわせた。扉がぐらぐらと揺れ始める。たてつけがさび付いているのだろう。もろくなっているから揺れが激しくなってきた。これなら壊すのは容易だ。
 アテナは思いっきり体当たりを扉に食らわせた。ばんっと大きな音を立てて扉が壊れアテナはその勢いのまま中に倒れこむ。倒れこんだその場に白い埃が大きく舞い上がった。
「ごぼっ、ごほっ」
 アテナは埃にまみれた身体を起こして咳き込んだ。その場に慌ててカームが走りこんできて、立ち込める埃に服の袖を鼻と口に当てた。
「ごぼっ、アテナさん、大丈夫ですか?」
「……何とか、大丈夫ではあるけどね……ごほっ」
 埃を吸わないようにしながらアテナは辺りを見回した。先程、手当たり次第に蔦をはがしたので一部の窓からは光が入って、かろうじて室内は見渡せる。埃が何十年分積もったのだろうか。真っ白になって積もっていた。
「……しかし、凄い埃だね。一回掃除でもした方が良さそうだけど、そんな時間もないしねえ」
「とりあえず窓を開けましょうか。少しは違うはずですから」
 そう言うとカームが窓に近づいていって開ける。室内に風がすーっと流れてくるのを感じた。
 風が入ってきて、アテナは改めて室内を見渡してみた。小さな家という印象を受けるほど、中は乱雑だった。入ってすぐに本棚が所狭しと並んでいて、奥の方に机らしきものが見える。本は本棚に納まりきらないのだろうか、そこら辺一体にも詰まれている。また、調べものをしたのだろう、書類の類も沢山積まれていた。
 アテナはカームが何をここで調べようとしているのか知らない事に気がついた。それに、こんなに一杯ある本の中で必要なものが見つけられるのだろうか。
「……必要そうなものは見つかりそうかい?」
「いえ……これだけ数があるとなると……」
 流石にカームも困惑しているようである。彼が何を探しているのかは知らないが、この中から探し出すのは至難の業だろう。
「……私じゃ手伝えそうに無いから……、なんか街に出て、昼食でも買ってくるよ。あんたはここで探しものをするんだろう?頑張りなよ」
 アテナはそう提案する事にした。どうせ、ここに散らばっているのはアテナには分からないものばかりなのだ。居ても居なくても変わらないだろう。それなら、カームに探しものに専念させて、差し入れでも買いに行けば良い。
 アテナの提案にカームはにっこりと笑って感謝の意を表す。
「ありがとうございます。そうしていただけると助かります」
 そう言うと、カームは早速、本棚の本を見始める。その様子を見て、アテナは埃っぽい屋敷の中から出て行った。

 アテナが街で昼食を買い、また廃墟に戻ってきた時にはカームは何かを見つけたらしく椅子に座って熱心に読んでいた。埃だらけの部屋と窓からだけの明るさでは足りないのだろう。何だか分からないが、白い炎のようなものがカームの近くに浮いていて、辺りを照らしていた。
「なんだい、その変な白い炎みたいなもんは」
 アテナの声がして、驚いたような顔でカームが顔を上げた。アテナが戻ってきた事さえ気がついていなかったらしい。
「アテナさん、おかえりなさい。……これの事ですか?」
 そう言ってカームは自分の近くにぷかぷか浮いている白い物体を示して見せた。それにアテナはこっくりと頷く。
「そう、それ。その変な白いもん」
「これはウィスプですよ」
「ウィスプ?」
 聞きなれない単語にアテナは鸚鵡返しで尋ね返す。その言葉にカームも専門用語である事に気がついて、傍らにあった本を開いてみせる。
 カームが開いた本には、今カームの近くで浮いている白い炎と同じものが描かれている。
「光の精霊なんです。照明代わりにと思って召喚したんですよ」
「召喚?」
「ええ、この世界を支えてくれている精霊を召喚したんです」
「でも、召喚って、サモナーとかいう奴らがするんだろう?」
 アテナが今まで聞いている範囲で理解できる事は、サモナーと呼ばれる人達が何かを召喚するというイメージなのだ。その質問にカームは微笑んだ。
「ええ、私も召喚の本があれば呼ぶことが出来ます。この本は精霊を呼ぶための魔導書なんです。サモナーと呼ばれる人達はこの世界に居るものだけでなくて、違う世界に住んでいるものたちも召喚する事が出来るんですよ」
「本を使って呼ぶのかい?」
 そういえば……アテナが呪いのかかったあの本を触る前に、色々な生き物が描かれていた本が沢山入っていたのを思い出す。そして、戦ったあの異形の生き物の事も思い出した。あれは、あの中の本を使って呼び出されたものなのかと思った。
「ええ、本を使って召喚します。専用の魔導書があるんですよ。もっとも魔導書と、使役するのに匹敵する魔力があれば、サモナーでなくとも召喚は出来るみたいですけどね。私はまだ、この程度が精一杯なんです」
「はあ……そういうもんなのかい」
 アテナからすれば何が良くて何が悪いのかもよく分からない。専門外の話は基本的にそういうものなのだろう。
 アテナは買ってきた差し入れの事を思い出して、カームの傍まで埃を立てないように慎重に歩いて近づいた。食べ物が埃だらけになるのだけは避けたい。
「はい、サンドウィッチ。それと飲み物でアイスコーヒーね。ミルクとシロップも一緒に入れてもらったから」
「ああ、何から何までありがとうございます」
 カームは嬉しそうにアテナから包みを受け取った。傍でふわふわ浮いているウィスプが気味悪く感じられてアテナは逃げるようにそこから離れる。
「じゃあ、私は埃っぽいここで食べるより外にいることにするよ。何か手伝えるような事がもしあったらいつでも呼んでくれればいいから」
 アテナはそう告げると、廃屋の中から出て行った。
 やっぱり外の空気は美味しかった。あの埃っぽい中で調べ物をしているカームの身体が悪くなりそうな感じがして、アテナは苦笑いを浮かべた。
 丘の上を歩きながら、綿花畑が一望できる場所に辿り着いた。あたり一面に広がる綿花畑にアテナは息を呑むと、そのまま腰を下ろし、自分も昼食にありつくことにした。
 サンドウィッチを頬張りながら、綿花畑を見下ろす。今頃、故郷の畑は当たり一面、緑に覆われているのだろうか。そんな事を思った。
 明日で残り二日。カームに導かれるままつられてきたものの、ここで一体何が出来るというのだろうか。
 ここで何か変わるのだろうか。彼は何か見つけられるのだろうか。
 アテナは不安に思う気持ちが隠せなかった。何も見つからなかったら、何も解決しなかったらどうなるのか。
 答えは簡単だ。死ぬだけなのだ。
 アテナは残りのサンドウィッチを頬張ると、一緒に買っていたコーヒーで飲み下した。
 何かしなくてはいけない。私にも出来ることを。
 アテナはしっかりと持ってきていた荷物の中に眠っている本の事を思った。
 あの本はぺらぺらとしか見ていない。何か自分が読めるところは無いのだろうか。
 アテナは鞄の中に仕舞い込んでいた本を取り出し、厳重に包んでいた布を取り外す。中からはあの黒表紙の本が出てきた。
 もう、触ってもあの奇妙な感覚は無い。あれは最初に触った時のみに感じるものなのかもしれない。呪いがかかる瞬間というのはああいうものなのだろうか。
 アテナは表紙をめくってみる。そこには前書きらしきものがあり、続いて目次が並んでいた。
 前書きならば読めそうだ。アテナは読み進める事にした。

 私はこの本を将来の魔術の発展のために書き残そうと思う。
私が見つけたのは死の世界の扉だ。死の世界……誰もが知りたくても知る事が出来なかった、あの世界への扉だ。
私はこの扉を見つけた。私は、死の世界に触れる事が出来た。
この魔術は死者を操る事が出来る魔術だ。
死者を蘇らせる事さえ出来る魔術だ。
私達、人間は常に晒されていた死への恐怖から脱却する事が出来るのだ。
我々は死すら凌駕できる可能性を得たのだ。
諸君、死を恐れてはならない。死は終わりではないのだ。
では、これから私がこの魔術を見つけた経緯とその方法について記していこうと思う。
これは画期的な発見だ。英知を超えたものなのだ。
これが今後の人類の発展に役立つものだと私は信じている。
疑わずにこれを実践してみて欲しい。

 前書きはそれで終わっていた。アテナはそれを読んで、力が抜けていくのを感じていた。これは……相手が悪い。呪いをかけた相手は死すら恐れていない。むしろ、それを征服したかのような書き方だ。自信に溢れた語り口調だった。
自分の死は間逃れないだろう。アテナにはそう覚悟が決まってきていた。
魔導師がどういう生き物なのかは正直な所、よくは分からない。だが、ここまで自信を持って書いているのならば、何かを彼は見つけたのだろう。
自らが死んでも大丈夫な事を彼は知っていたに違いない。
……私が彼なら蘇ろうとするでしょう。
そう言ったカームの言葉を思い出していた。
何故、追っていたあの男が死んでしまったのかは分からない。器に適していなかっただけなのかもしれない。とにかく、ディズレットという男は蘇る方法を知っているのだ。
彼がどういった経緯でそれを知る事になったのかは全く分からない。ただの偶然かもしれない。異世界と交流するサモナーだからこそ知りえたのかもしれない。
だが、このかけられた呪いは解けることが無いようにしか思えなかった。
……なら、残りの時間をどう過ごそうか。アテナはふとそう考えた。
カームに付き合っても終わりが見えているだろう。それなら自分のしたい事をした方が安心して死ねるのではないだろうか。
かすかな可能性にすがるよりも、全てを受け入れて死んでも良いだろう。
じゃあ、何をしようか。アテナは綿花畑を見下ろしながら考えていた。
そうだ、家に戻ろう。実家に帰ろう。アテナはそう思った。
故郷にはもう母は居ないけれど、いや、母だけではない、家族は誰一人として居ないのだけれど。だから、賞金稼ぎなどして生きてきたのだけれど。
……だけど、今、行きたい場所は故郷だった。
今、眼下に広がっているのは綿花畑だけれど、故郷は一面の小麦畑だ。今の季節なら青々と葉が茂っているに違いない。いや、そろそろ黄金色に変わってきて駆り入れ時だろうか。
帰りたい。そう思った。心から郷愁に襲われた。
だが、ここからでは今から馬車を飛ばしても帰れない。デイジャとリディルは方向が全く違っている。
……じゃあ、帰りたくても帰れないか。母さんの墓参りくらいしてから死にたかったけど。
そういえば……アテナの脳裏に馬車での出来事が蘇る。
カームはリディルに行った事があるとは言ってはいなかっただろうか。自分の師匠にあたる人間がリディルの出身でお供に行ったことがあるとかないとか。
カームは一度行った事のある町ならば、魔法を使って移動することが出来る。それもあっという間の短時間で。
……それなら。それならば。戻れるのではないだろうか。故郷に。
アテナは背後にある廃屋を見た。窓から、あのウィスプとかいうものの発する光が零れている。
彼ならば、きっと頼みを聞いてくれるだろう。
それに故郷ならばこの本を隠しこんでしまう事だって安心して出来る。
今から連れて行ってもらおうか。アテナはそう考えたが、やめる事にした。
彼は彼なりに、アテナを助けようと思って必死で手を打ってくれているのだ。それを無碍にする事は出来なかった。
そう、彼はまだ諦めていないのだ。いずれ諦める事になってしまったとしても、まだ彼は諦めては居ないのだ。
深く信じられる、そういった間柄ではない。知り合って数日の浅い付き合いだ。
だが、彼は彼なりに一生懸命アテナのためにやってくれているような気がした。ただ、自分の研究のためだけに必死になっているとは思えないところがあった。
だったら、今日だけは。今日だけは一日彼に付き合ってあげよう。
アテナは廃屋に再び足を向けた。廃屋の中に入るとかび臭い匂いと埃がまた立ち上がる。
机の方ではカームが何冊も本を広げて調べているようだった。声もかけづらいような雰囲気だった。
彼は彼なりに必死なのだ。改めてアテナはそう感じた。
「カーム」
 アテナは声をかける。その声に気がついてカームは振り返った。
「どうしました、アテナさん」
「あたし、先に宿に帰ってるよ。街の中でもぶらついてみる。あんたはあんたでゆっくり調べなよ。私に気を使うことなくさ」
 アテナは用件だけそう告げた。ここに居てもアテナにはする事が何も無かった。
「分かりました」
 カームは頷くと、再び机の上の本に向かった。彼は何か見つけたのかもしれない。それで手一杯なのだろう。何を見つけたのかは分からないけれど、アテナには諦めの気持ちの方が強かった。
「じゃあね」
 そう告げるとアテナは廃屋を後にした。だが、後ろ髪がひかれる思いがして、アテナは振り返る。廃屋からは薄い光が闇の中を照らす小さな光のようにウィスプの光が見えた。

 その日の夜も眠れなかった。
 闇はより一層深くなるようだった。
 引き釣り困れそうな深い闇。這い出る事なんて出来そうにない深い闇。
 うなされて何度もアテナは目を覚ました。
 闇は闇だ。だが、その闇がどんどん深くなっているように感じるのは気のせいなのだろうか。
 深く重たい闇。あの闇はディズレットの言っていた死の世界なのか。
 あれが、死者の世界だというのだろうか。
 だが、あまりにも不気味で生汗をかいてしまうその闇が素晴らしいものだとは思えなかった。
 彼は素晴らしいと書いていた。何が素晴らしいのだろうか。
 あの深い闇には何もない。何もなかった。あれは死者の世界ではない。もっと別のものだ。もっと違う世界のものだ。死後の世界があんな闇であってたまるものか。
 アテナは何度もそう思いながら、横になり、またうなされる。それを繰り返していた。
 熟睡できない事がこれほど辛い事なのか。アテナは身をもってそれを実感していた。

 

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