第三章 郷愁

 朝、起きて食堂に行くと、目を赤くしたカームがやって来ていた。やってきた方向は寝室のある部屋の方からではなく、宿の入り口の方からだった。
 もしかして、昨日は宿に戻らなかったのだろうか。アテナはそんな思いが宿った。
「おはようございます、アテナさん」
 カームは疲れた笑顔でアテナに微笑みかけた。その笑顔はそれなりに収穫があったような顔だった。一晩中調べまわって、何か見つけたのだろうか。
「とりあえず、何か食べましょう。私、お腹がぺこぺこで……」
 そう言ってアテナを食堂に誘導する。セルフサービス式の朝食で、二人は皿を取ってパンやら卵やらハムやら思い思いに自分の好きなものを取っていく。アテナに比べてカームのとっている量は倍くらいある。今まで何度か食事を共にしていたが、男性とはいえアテナとカームは食べる量にそう差は無かった。量が増えていると言う事は、夕べは何も食べていないのかもしれない。
 二人は席に着くと、食事にありつくことにした。
「……あんた、寝てないのかい?」
 流石にアテナが気になってカームに声をかけた。その言葉にカームは苦笑する。
「ええ、調べているのに夢中になっていたら朝になってまして……それで戻ってきたんですよ」
 やはりあの後ずっとあの廃屋にいたままだったらしい。
「何か収穫はあったのかい?」
 アテナの質問にカームはちょっと困ったような顔をした。
「仮説は立ったんですけどね……どうしても確証が取れないんですよ。アテナさん、やっぱり私にあの本を渡していただくわけにはいきませんか?」
「それだけはお断りだね」
 やっぱり本をねだってくるカームにアテナはきっぱりと断った。確かに本があった方がカームにとってはやりやすいのだろうが、呪いがかかっている本なのだ。そう簡単には渡せるものではない。
「それより、あたしの残り時間はあと二日だろう?」
「……ええ、そうなりますね」
 アテナの言葉にカームは重い口調で答える。カームにはそれが辛そうだ。もしかしたら、アテナが死を受け入れる決心をしている以上にカームはそれをいたたまれない気持ちで感じているのかもしれない。
「頼みがあるんだ。あんたじゃないと頼めない」
「私に頼みですか?出来ることなら何でもしますが……」
 頼み、と言われてカームは少し驚いた顔をしたが、すぐに頷いた。それを見て、アテナは昨日から考えていた本題に切り出す。
「あたしをリディルに連れて行って欲しいんだ」
「リディルにですか?何故です?」
 アテナの言葉にカームは合点がいかないような顔でそう尋ね返した。故郷がリディルである事を話したのは、ここに来る馬車の中での雑談の時だけだ。そこまで事細かに覚えている人間はそうは居ないだろう。アテナは説明する事にした。
「前にも話したと思うけど、私の生まれ故郷はリディルなんだ。どうせ死ぬんだったら、故郷に帰って母さんの墓参りをしてから死にたい」
「……!そんな!まだ死ぬとは限らないのに……!」
 アテナの言葉にカームはショックを受けたような顔をして反論した。その語調の強さにアテナは申し訳なく思った。
 彼は不眠不休でアテナのために調べ物をし続けてくれたのだ。それを全面的に否定するような提案なのだから、カームがショックを受けてもおかしくはない。
 だが、この提案を叶えてもらわなければアテナとしても困るのだ。
「……いいかい、あんたが頑張ってくれてるのは分かってる。だけど、死ぬかもしれないんだ、あたしは。だったら、死ぬ場所くらい選ばせて欲しい。リディルは私の故郷だ。死ぬならあの場所で死にたい。あんたはリディルに行った事があるんだろう?あたしを連れて行って欲しい」
 アテナは真剣な顔でそう伝えた。そう、アテナにとっては大事な問題なのだ。カームもその事が分かったのだろう。難しい顔をして考えていた。
「……分かりました。でも条件があります」
「なんだい、その条件ってのは」
「あの廃屋で数冊の本を持っていきたいんです。それまで待ってもらえますか?」
「……ああ、そのくらいなら待つよ。連れて行ってくれるなら、あたしはそれで十分だから」
 カームの提案にアテナはゆっくりと首を縦に振った。その言葉にカームはにっこりと微笑んだ。
 その微笑みにアテナは感じた。彼はまだ、諦めてはいないという事に。

「すいません、遅くなりました」
 カームが廃屋に向かって戻ってきたのは昼過ぎだった。必要な本をかき集めたのだろう。大きな背負い袋が重そうに背中に乗っている。急いできたのだろう、息が荒く、肩で大きく呼吸をしていた。
「いや、いいよ。リディルに連れて行ってもらえるんだろう?」
「はい、アテナさんも準備は良いですか?」
「ああ、こっちは大丈夫さ」
 アテナの返事を聞いて、カームは深呼吸を大きくついた。それから精神統一に入る。そしてゆっくりと呪文を唱え始めた。
 アテナの周囲に光が走り始める。魔法の言葉が円形に並び始めてアテナとカームを包み込む。その文字はどんどんと円を描いて刻まれていく。それはカームが唱えている言葉と呼応しているのが今度はよく分かった。
「……リディルへ!」
 カームの言葉と共に二人は舞い上がり、光に包まれながら一気に空を飛んだ。猛スピードの何かに乗っているかのような勢いで光に包まれたまま走っていく。
 そして、光が消えたかと思うと、アテナは周囲に広がる光景に息を呑んだ。
 一面に黄金色をした麦畑があった。懐かしい光景だった。ずっと子供の頃から見てきた光景だった。
 そう、そこはリディルだった。
 魔法というのはなんと便利なものなのだろうと、アテナは珍しく魔法を肯定的に考えた。いつもだったら文句をつけるところだが、こんなに簡単に移動が出来るなんて素晴らしい。
 本当だったら諦めないといけなかった故郷への帰省が叶ったのだ。
 アテナにとってはこれ以上嬉しい事は無かった。
「ここで間違いないですよね?」
 カームが確認するようにそうアテナに問う。その言葉にアテナは大きく頷いた。
「ああ、ここだよ。あたしの……大切な故郷だ……!」
 そう言うとアテナはカームの事など忘れたかのように、どんどん歩き始める。置いていかれたカームは慌ててその後を追った。
 アテナは夢中になっているようだった。懐かしい、その景色に心が一杯なのだろう。それはカームにも分かる気持ちだったので、何も言わなかった。
「……こっちがね、商店街なんだ。ついでだから付き合ってよ」
 アテナはやっと後ろを振り返って、必死でついてきているカームに声をかけた。自分が笑っている事がアテナにも分かる。帰省がこれほど嬉しいものだとは思わなかった。
 アテナはあぜ道を通り、小麦畑を抜け、民家が立ち並ぶ方へとどんどん足を進めていった。アテナは足が速いので、後ろから追いかけるカームは背中に背負っている本の重さも手伝って、追いかけるのに必死だった。
 必死でアテナの後を追っていくと、彼女の言うとおり商店街に辿り着く。ここにはカームも何度か来た事があり、見覚えのある店が並んでいた。
 アテナは目的の場所があるらしく、後ろのカームにおかまいなしに人ごみの中を突き進んでいく。引き離されてはならないとカームは必死になった。
 しばらく突き進んでいたアテナは、目的の場所に辿り着いたらしく足を止めた。その先には花屋が立っている。
 アテナは花屋にならんでいる花々を物色していた。見事に真っ赤な色をした花もあれば、可憐に静かに咲く白い花もある。可愛らしいピンク色の花もあれば黄色に咲き乱れる花もあった。
 アテナは店の主人に花をいくつか指差して小さな花束を作ってもらった。それを抱えて、アテナはカームににっこりと微笑みかけた。
「んじゃあ、行こうか」
「どこにです?」
「あたしの母親の墓参りさ」
 そう言うとアテナはまた、どんどん進み始める。それに遅れまいとカームは必死で後を付いていった。
 アテナにとっては懐かしい故郷だった。少しずつ、戻るたびに小さな変化を見せてはいるが大きく変わったものは特にない。アテナにとってはよく知った道だ。
 あの花屋で花を買い求めて、よく母親の墓参りに行った。ここに帰ってくる度に、かかさずに行く定番のコースだ。
 あの路地を曲がってまっすぐ行った所に母親の墓もある共同墓地がある。アテナはそこに向かって足を速めていった。

「……母さんがね、死んだのは五年前なんだ」
 母親の墓石に花束をたむけながら、アテナはそうカームに話しかけた。
 なんとなくアテナはカームに身の上話をしたくなっていた。死期が迫っているからだろうか、そういう気分になるのだ。
 アテナの言葉にカームは黙って頷く。その気配を感じながらアテナは視線は母親の墓石に向けたまま、話を続けた。
「あたしの家の家系はね、あんまり長生きしている人が居ないんだよ。いつもみんな原因不明の病気で若くして死んでしまうケースが多くってね。母さんも例外じゃなかった」
 アテナは花束の形を直しながら、言葉を続ける。
「……どうしても治したくてね、あたしは小さいながらいろんな人にかけあって、母さんの病気を診てくれる人を探した。それである時、高名な医療魔法を使えるっていう魔導師に出会った。母さんも診てもらったんだけど、原因がよく分からないって言われてね。家系的にそうだという話をしたら、遺伝病なんじゃないかって言われて。だとしたら、打つ手が無いって言われてさ……とりあえず治療はしてくれたんだけど、やっぱりその魔導師が言ったとおりに母さんは死んでしまった」
 アテナは顔を上げる。カームが心配そうな顔をしてアテナを覗き込んでいた。
「だから、あたし、魔導師って嫌いだった。魔法って嫌いだった。魔法が使えれば何でも出来るみたいな事を言うのに、母さんを助けてくれなかった魔法を好きになんてなれなかった。だってしょうがないだろ?あたしの望みは母さんを助けて欲しい、それだけだったのに、それが叶わなかったんだから」
 そう言ってアテナは一呼吸をついた。一気にまくし立てるように言ったので、それを落ち着けるかのようだった。
「……でも、まさか今度はその大嫌いな魔法によってあたしが死ぬ事になるなんて思いもしなかったよ。運命の皮肉ってでもいうのかね。嫌ってたからバチが当たったのかな」
 そう苦笑してアテナはカームを見た。彼は複雑そうな顔をしていた。アテナはそんな彼に笑いかける。
「あたしもね、知ってはいるんだ。魔法だって万能じゃないくらい。ただ、八つ当たりの場所が欲しかっただけさ。それに魔法のお陰で今、あたしは故郷に帰れたわけだし……」
 そう言って、アテナはくすくすと笑ってカームの肩に手を乗せた。
「それに……あんたには感謝してる。あんたに会って魔導師もそう悪いもんじゃないような気がしてるよ。ありがとね」
「……そんな、私はまだ……何も出来ていないのに」
「そんなことないさ。あたしをここに連れてきてくれた。母さんの墓にお参りする事が出来た。あたしにはそれで十分なんだよ」
 困惑するカームにアテナはそう言って微笑んだ。本当の気持ちだった。カームには感謝していた。一生懸命頑張ってくれている事も、こうしてわがままを聞いてくれた事も、そして今、一番不安で仕方がないときに一緒に居てくれることも。全て感謝していた。
 そんなアテナを見ていたカームは、何か考えているようだった。そして思い出したかのようにアテナの腕をとった。
「アテナさん、諦めるのはまだ早いかもしれません」
「ど、どうしたんだい?」
 カームの唐突な行動にアテナは驚いた顔をした。そんな事には構わず、カームはまくし立てるように言葉を続けた。
「もしかしたら、ここにロヴン様が……私の師匠が居るかもしれません。何か相談に乗ってくれると思うんです!」
 そう強く言うと、カームはアテナの腕を強く引いて、来た道を引き返し始めた。アテナはそれにつられるように引っ張られていくしかなかったのだった。

「おや、カーム君じゃないか。どうしたんだい?」
 幸いな事にロヴンはリディルに居た。カームに引き連れられたアテナは初老の男性に引き合わされる。長い白い髭に白い髪、実際年齢よりも年取って見えるだろうか。いかにも魔導師といった風貌の男性で、貫禄のようなものを感じられた。
「良かった、いらして。実はご相談があるのです」
 そう言うとカームはロヴンに手短にアテナを紹介しながら事の経緯を話し始めた。
 カームに課せられた研究がディズレットの呪いについての調査であった事。
 その呪いの本が盗み出されて騒ぎになった事。
 賞金首になった犯人を捕まえたアテナが呪いを受けてしまった事。
 ディズレットの家に訪ねたこと。
 そしてアテナが本をかたくなに渡してくれない事などを話した。
 一通りの話を聞いてロヴンは苦い顔をしながらアテナとカームを見た。
「……それは困った事態になったものだ」
 ロヴンはカームの方を見やる。
「……それで、呪いを解く方法は見当がつきそうなのか?」
「それが……やはり本を見ない事にはどうしても……」
「本は渡さないからね、絶対」
 やはり最後は本の話になってアテナはかたくなにそれを拒んだ。どうしても渡したくなかった。呪いがカームにかかるのが何よりも嫌だった。……彼を道連れにしてしまうのが何よりも嫌だった。
「なかなか頑固なお嬢さんのようだ」
 ロヴンは苦笑してカームとアテナを見比べた。強硬なアテナにカームは困った顔をしている。対照的な二人だった。
「まあ、いい。今日は二人とも、我が家に泊まりなさい。カーム君の話も、もっと詳しく聞きたいし、多少なりとも私の知識が役に立てば良いからね」
 ロヴンの言葉にカームもアテナも依存はなかった。アテナは家に戻ってもいいとは思っていたのだが、一日くらいは良いだろう。
 二人はロヴンに促されるままに部屋に招待されたのだった。

 アテナが眠りについた頃、カームとロヴンは向かい合って話し合っていた。
「……実際の所、どのくらいまで調査は進んでいるんだい?」
 ロヴンの言葉にカームは机の上に本や書類などの並べて、師匠に見せた。
「ディスレット=ディラに関してはかなりの部分でどういった人間だったか判明しています。大人しい人間だったようですが、一方で狂信的な部分があったそうです」
 そう言って、カームは本の中から古びたノートのようなものを取り出し、それの中身を開いて見せた。
「これがディズレットの日記です。内容からすると、日々、サモナーとしての自分に悩んでいたり、異世界がどのようなものであるかについても頭を悩ませていたようです」
 カームはぺらぺらとページをめくって、ある箇所に来て、そこを指差した。
「この辺りから、日記の語調が変わり始めます。何かを発見した喜びとそれに対する熱狂的なものが感じられます。おそらく、この時期にネクロマンサーの術を編み出したのでしょう。そして、何か死と生の違いについて彼は知ったのだと思われます」
「では、やはり呪いに関しては……」
「おそらく、自らが復活するためにかけられているのだと思います」
 そうカームは確信を持った声で師匠に答えた。ロヴンは難しい顔で、目の前に広げられた資料を見ながら考え込んでいた。
「今までの話を総合すると、いわゆる一般的な解呪の法では解けていないのだな」
「ええ。例外が一件あっただけで、それ以外は皆、死んでいます」
「復活を目的にしているわりには、死なせているな……」
「ええ、それが気にかかるところなのです。一つ、思っていることがあるのですが、それは私が直接呪いを受けなければならないのですよ」
「……それが失敗すると、君もアテナ君も命はないという事になるな」
「ええ。でも、例外が適用されさえすればアテナさんは助かると思うのですが……」
 そこまで言ってカームは困ったような顔をした。
「彼女はどんなに言っても本を私に渡そうとはしないんです」
「君を死なせたくないのだろうな」
 ロヴンは穏やかな口調でそう言った。その言葉にカームも頷く。
「ええ、そうみたいです」
 そう言ってから、カームはロヴンの顔を正面から真っ直ぐに見た。強い意志のこもった顔をしていた。
「……ですが私も彼女を死なせたくは無いのです」
 そして、椅子から立ち上がると師匠に背中を向けて部屋から出て行こうとした。そして、去る前に師匠ににっこりと笑いかけた。
「初めて誰かを心から救いたい。そう思ったんです」

 その日の夜のアテナは珍しく熟睡していた。
 この所の悪夢に悩まされて眠れていなかった疲れと、故郷に戻ってきた安堵感だろうか、深く眠れているのも自分で感じていた。
 こんなに深く眠るのは本当に久しぶりのように思えた。
 これまでの辛い悪夢からの解放感がアテナを満たしていた。
 ……解放感?そう感じてアテナはふと目が覚めた。
 何故、解放感を感じるのだろう。あの引きずり込まれそうな闇はどこへ行ってしまったのか。
 アテナは、はっとなって隠す様にしてしまい込んでいた鞄をひっぱりだした。
 慌てて中身を引っ掻き回す。奥のほうにしまってあったはずだ。
 だが、鞄の中を全部出しても本が見つからなかった。
 どうして、いつの間に。大体、アテナはいつもなら部屋に誰かが入ってきただけで気配を感じて目を覚ます。賞金稼ぎになってからついた習慣だった。
 だが、昨日は全く気がつかないで眠っていた。
 しかし、誰かが部屋に侵入したことには間違いがなかった。
 本が無いのだ。それが何よりの証拠だった。
 まさか……。アテナの脳裏に一人の人物の顔がよぎる。
 アテナは眠っていた就寝着のままで部屋を飛び出した。
「カーム!カームはどこだ!」
 アテナは走りながらカームの名を呼び探した。ばたばたと走りながら部屋中を探し回るアテナの騒ぎにロヴンが目を覚まして現れた。
「……どうしたんだね、アテナ君」
「ロヴンさん!カームは、カームがどこにいるか知りませんか?」
 必死の形相のアテナにロヴンは驚いた顔をした。
「カームなら向こうの部屋で寝ているはずだが……」
「向こうの部屋ですね?」
 そう言うが早いか、アテナはロヴンに言われた部屋に走っていった。部屋に辿り着くとばたんと戸を開けて大きな声で叫んだ。
「カーム!」
 だが、返事は無い。それどころか、部屋には誰も居なかった。
「どうしたんだね、アテナ君」
 ロヴンが心配そうにやって来る。師匠もこの事態に関しては何も知らないらしい。
 アテナはロヴンに掴みかかるように、必死で訴えた。
「本が……あの呪われた本が無いんだ!それにカームも居ない!」
 アテナはじだんだを踏んで悔しげに叫んだ。
「やられた!カームが本を……あたしから本を盗ったんだ!」
 興奮状態にあるアテナをロヴンはなだめようとする。
「落ち着きなさい、アテナ君。本当に本は無かったのかね?カームはたまたま今、居ないだけかもしれないよ?」
「……だけど……!」
 そう、そうかもしれない。見落としたのかもしれない。カームが居ないのも、ここには来た事があるのだから、ちょっと外出しているだけなのかもしれない。
 だが、それはあまりにも出来すぎた偶然じゃないだろうか。
 アテナは自分の寝室に引き返すと鞄をひっくりかえして、一つ一つの荷物を丁寧に確認した。
 やはり無かった。どこにも無かった。あの本が無くなっている。
 カームは?カームはどこに行ったのだろうか?
 アテナから本を奪って逃走したのだろうか。アテナに奪い返されないように。
 だが、本を触ってしまった時点でカームには呪いがかかってしまう。逃げたってしょうがないだろう。
「……やはり、本が無いのかい?」
 ロヴンがやって来て、アテナに声をかけた。アテナはその言葉に力無く頷いた。
「無い……どこを探しても……無いんだ」
 がっくりと肩を落とすアテナにロヴンは近づくと、優しくその肩を叩いた。
「昨日、私はカームと話をしていてね。彼は君をどうしても助けたいと言っていた」
 そう言ってロヴンは部屋の様子を見渡した。
「昨日はよく眠れたのかい?」
「ああ、信じられないくらい眠れた……」
 アテナの言葉にロヴンは納得したように頷いた。
「……ふむ、昨日の彼の様子で私も気がついておくべきだったかもしれないな。おそらく、彼は君にスリープの魔法をかけたのだろう。そして、君が寝ている間に本を見つけ出してどこかに出かけた」
「……だと思う。だけど、どこに?」
「彼は仮説があると言っていたんだね?」
 ロヴンは確認するようにアテナに尋ねる。その言葉にアテナは頷いた。
「ああ、仮説を立証するには本が必要だから渡すように何度も言われてた」
「そうか……そうなると、彼が行った場所はおそらく……」
「おそらく?」
 アテナの問いかけにロヴンは頷いた。
「ディズレット=ディラの屋敷、だろうね」

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