『まほろばの黄昏』
                                   龍崎 美鳥

第一章 追う者達

「……よし、ここから南だね」
 南に向かう道は土がむき出しのでこぼこ道だ。褐色の色をしたそのでこぼこ道は、遠くに見える森までずっと蛇行しながら続いている。あの道を奴は通っていったという情報だ。
 街の南端にある宿屋の窓から、今日進むべき進路を確認していた彼女の髪を風が優しく揺らした。
 彼女の髪は淡い藤色をしていて、光の加減で赤みがかかったり青みがかかったりする不思議な風合いだった。肩まである長さの髪は真っ直ぐに切り揃えられていて、きりっとした印象を与えた。道を確認していくその瞳は大きく金色をしていて、まるで猫の目のようにくるくると動いた。そう、獲物を狙う猫の目、といった感じだ。
 地図と照らし合わせながら場所の確認をする。そして、目的地の場所を実際自分の目で確認すると、彼女はバルコニーから部屋の中へと戻った。そして、どさっとベッドに腰を下ろす。一人用のベッドが彼女を乗せるとセミダブルくらいあるように見える。それは彼女がとても小柄である事を示していた。
 彼女はベッドに乗せていた衣服や生活道具を仕舞っている皮袋から手帳を取り出し、情報の確認を始める。彼女のような仕事では情報ほど大事なものは無い。
「目標がこの街を出たっていうのが昨日の夕方。前の街から追いかけた時は前々日の夕方出たって聞いているからちょっとは近づいているね。昨日の夕方に移動を開始したとなると……どのへんまで今は行ってるんだろうね」
 彼女は自分の地図を広げる。この穀倉地帯であるレーゲン地域の拡大地図だ。
「今居るのが、上質小麦のおかげでパン屋の栄えているディーリア。そして……南に下っていくと」
 彼女は指をまずディーリアに当て、今居る宿屋に移動させる。そして、今バルコニーで確認した道へと移動し、そのまま指を南へと滑らせていく。
「夜も寝ずに移動したっていうんだったら、今なら向こうに見えていたディニカの森かね。森に入られると……ちょっと難しいねえ」
 彼女は顔をしかめる。視界の利かない森で人を探すのは難しい。見つけてさえしまえば、その視界の悪さを利用してこちらが有利に立ち回ることも出来るので、一概に駄目だとも言えないのだが。
「森を抜けると、どこに出るんだっけ?」
 彼女はまた指を滑らす。女性らしい繊細な指というよりは、ごつごつして頑丈な印象の強い指が地図の上を移動し始める。森から抜けると……その先には海が広がっていた。
「……港町ウェルリン。港に出られると本当に消息が掴めなくなっちまうね!」
 彼女は地図を乱暴に畳んだ。何度もそうやって乱暴に扱われている地図は折り目がぼろぼろになり、さらには折り目ではないところにまでぼろぼろになっていた。地図が可哀想だ。そんな事を言われてしまいそうな姿だった。
 彼女はすくっと立ち上がると、乱暴な手つきで地図を鞄に突っ込み、部屋の中をぐるっと見渡す。端々までちゃんと確認を怠らない。
「……よし、忘れ物なし。じゃあ、行きますか!」
 明るい笑顔で笑うと、彼女はぱんっと手を叩き、自分に気合を入れる。獲物を逃がす訳にはいかない。逃がしたとあってはこの名前が廃ってしまう。
「さあ、俊足の雌豹と呼ばれるアテナさんの実力、見せてやりましょうってね!」
 そう言って彼女……アテナは荷物の入った鞄を背中に担ぐと、軽快な足取りでドアを開け、階段を下った。木製の階段は、彼女の動きに合わせて賑やかな音を奏でた。
「それじゃあ、お世話になりました〜!」
 一際元気の良い声でアテナは入り口付近に居た、この宿の女将さんに挨拶して街の中へと駆け出した。
 朝の光の溢れる外の街の風は気持ちが良い。こんな気持ちが良い日は、きっと何でも上手くいくに違いない、アテナはそう感じて、南の森へと続く道を勢い良く走っていった。
「……元気な子だねえ」
 感心したように宿屋の女将が走り去っていった彼女の後姿を見送っていた。そして、女将の近くで彼女を見ている人間が居た。
 漆黒の長い髪を肩のあたりでゆったりと一つにまとめた男性だ。黒い髪に深い青の瞳をしていて、その色だけでは冷たい印象を与えるが、顔つきが穏やかなせいか他人に対して警戒感を抱かせない人間だった。歳は彼女とあまり変わらないくらいだろうか。
「女将さん、彼女、どこに行くのかご存知でしょうか?」
 彼は穏やかな口調でそう尋ねた。おっとり話すその話し方は彼が見た目どおり穏やかな性格であることを伺わせるものだった。彼の問いに対して女将は首を横に振る。
「さてねえ。ただ、昨日はディニカの森の事を聞かれたりはしたけど。あんた、彼女の知り合いかなんかなのかい?」
 逆に尋ねられて、青年は困った顔をしたが、首を横に振った。
「いいえ。ただ、目的が同じみたいなんです」
「へえ……、なんかよく分かんないけど。でも追いかけるなら早い方が良いんじゃないかい?彼女、足速そうだからどんどん先に行っちゃうだろうしね」
 先程見送った彼女の足の速さを思い出して、女将はそう言って苦笑する。目の前にいる青年はどう見ても彼女に追いつけそうな雰囲気ではなかった。
 紺色のローブを身につけ、その上にゆったりとしたマントを羽織っている。風貌だけだと魔法使いか修道士か、どちらにせよ体力勝負の人ではない様子だったからだ。それに対して、先程の彼女は武道着を着込み、手には頑丈な皮の手袋と手甲、足にも足甲と頑丈な靴を履いていて小柄ながらにがっしりとしたその体格は体力系の人間である事を伺わせていた。あまりにも対照的だ。もし立場が逆ならすぐにでも追いつけるのだろうけれど。
 それは青年にも分かっているらしい。彼は苦笑すると、首を横に振る。
「いいえ、私ではすぐに追いつくのは無理ですしね。ここまで追いつけたのが奇跡的ですから。……でもディニカの森ですか。行ってみる事にします」
 青年は頭をぺこりと下げて女将に感謝の言葉を述べた。その丁寧な様子に女将も印象が良かったらしく嬉しそうに笑う。
「ああ、あんたも頑張りなよ」
 その励ましに、青年もにっこりと笑って返した。

 事の始まりはここラインノール王国の第二都市アルージャだった。
 ラインノール王国は魔法大国としてその名を世界に馳せている国であり、魔導関連の研究は他国を上回り、また腕の良い魔導師達も揃っていた。首都であるレジンディアだけでなく、第二都市のアルージャ等、大きな都市では魔導研究所が設けられ、その活動は活発だった。
 だが、アルージャは第二都市らしく、もう一つ違う機能を持っていた。自警だけでは国を護り続けるのはいずれ限界が来ると感じた国王により、様々な指名手配犯に対して賞金をかけるようにした。その賞金をかけたり指名手配犯の逮捕等に力を入れている組織はこのアルージャを主な活動の地としていた。そのため、アルージャには指名手配犯を求めて集まる賞金稼ぎなる者達が多々集まっていた。
ほとんどの賞金稼ぎ達が皆、腕に覚えのあるもの達ばかりなのだ。時に街は犯罪者が居なくても賞金稼ぎ達が集団で現れると、ものものしい雰囲気になる事もあった。
 アテナもその賞金稼ぎと呼ばれる一人だった。多くの賞金稼ぎが一匹狼であるように、彼女もまた一人で行動するタイプだった。
中には自分の腕試しのつもりで賞金稼ぎをしている者も居るが、アテナの場合は日々の生活を潤すためという切羽詰った目的だった。そのため、狙いを定める賞金首は無理に高額である必要は無いのだ。ある程度、自分に相応の相手を見つけ、それを捕まえる。それがアテナのやり方だった。
 その日も、新たな賞金首を見つけるために、アテナは手配書に目を通していた。自分に適当で、なおかつ狡猾に逃げない相手を選んだ方が良い。
それにアテナには今回一つの野望があった。今までの相手とは違うタイプの相手を選んでみたくなったのだ。今まではどちらかといえば相手も武術系であろうと思われるものを選んできた。だが、魔法系の相手とはどういうものなのか、それが気になっていた。
アテナは向上心溢れる性格をしていて、当然今までの相手も自分と同じくらいの実力であろう相手と死闘になったり、頭脳戦を繰り広げたこともある。それを勝ち抜いてきたことが一種の自信に繋がっていた。
 強さの目安となるのは多くの場合、賞金額だ。犯した犯罪の罪に応じて値段が上がる仕組みになっている。外れる場合も稀にあるが、多くの賞金稼ぎにとってはこれしか目安になるものは無いのだ。
(あたしの場合は、六千リルくらいが妥当なんだけど……)
 アテナは貼り付けられた手配書の賞金額を見ていく。今回は大きな犯罪はすぐに捕まったか起こらなかったのだろう、大体が三〜四千代になっている。それ以上はなかなか見つけにくい。あったと思っても八千だったりして今度は歯が立たないものだ。
(しょうがない、今回は小物狙いで行こうか。……まあ、小物でも油断出来ないけどさ)
 半ば諦めながらアテナは残り僅かになった手配書に目を滑らせていく。どれか一つくらいあっても良さそうなものを……。あったとしても、もう誰かが追いかけているのかもしれないから油断は禁物なのだけれど。
そう、賞金稼ぎの場合は犯人自身だけではなくライバルも重要な問題なのだ。この二つが好転に転がった場合、賞金を手にすることが出来る。
「……う〜ん……。あ、あった!」
 もう諦めかけていた頃に標準を当てていた金額を見つける。六千リルの賞金首だ。それを見つけてアテナはその手配書に噛り付く。
「えっと……サモナー?」
 アテナはここで顔をしかめる。サモナー、確か魔法系でそういう職業があると聞いたことはあるが、実際にお目にかかったことはない。賞金稼ぎ仲間でも見かける事もない。何だか分からない職業だ。
とりあえず、それは置いといて次を読み進めることにする。
「容疑は窃盗……窃盗でこんなに高いのか。何を盗んだって言うんだか。……えっと、魔導書を盗んだ疑い?……魔導書ってそんなに凄いモンなのかねえ」
 普通の窃盗罪では賞金に六千がつくことはほとんどない。何か重要なものを盗み出したのか、この犯人が悪名高いのか、それともどちらもそうであるのか。その判断は分からない。しかし、手ごわいという観点から見れば十分手ごわいだろう。
「で、名前は……ホフマン=ディーク。……あたしは知らない名前だけど……魔法系は詳しくないしね。どうするかな……」
 アテナは腕を組んだ。かなり難しい選択だった。見ただけでは……ちょっと関わるのは止めておいた方が良さそうなものだ。全体的に怪しい感じがする。
 だが、アテナの心にはもう一つの思いがひしめいていた。魔法系の相手と戦ってみたいという思いだ。サモナーが何だかよくは分からないが、魔法系である事は確かだ。これはチャンスなのかもしれない。
 そう思うとアテナの心は急に躍った。多少、きな臭いが犯罪者は皆そんなようなものだ。これはチャンスかもしれない。それならすぐさま行動だ。
 アテナは壁に何枚も貼ってあったホフマン=ディークの手配書を一枚外すと、それを服にしまい、手配書の貼ってある部屋から飛び出していった。
 そんな彼女を見ている人物が居た。黒髪の青年だった。彼も彼女の後ろから同じ手配書を難しい顔をしながら見ていた。だが、目の前の女の子が自分の見ていた手配書を引き剥がして行ったのを見て彼は驚いた顔をした。
 剥がして行った人は藤色の髪に金色の瞳をした小柄な女の子だった。彼は彼女の特徴を覚えるとその後を慌てて追っていった。

 アテナは必死で走っていた。街道は土で作られた道。最近は雨が降っていないので道もぬかるんでいることはない。むしろこういう時は土の道の方が足が疲れないのだ。
 ホフマン=ディークを追ってアルージャから北に位置するディーリアまでやって来たが、その足取りは不可思議だった。宿にやっかいになることも多い相手だったが、何故だか夜に行動するのだ。だから宿に泊まるといっても昼前に現れて、そのまま寝て夕方に出て行くという事が繰り返されていた。そのため情報が簡単に手に入るのだ。しかし、こうも簡単に情報が手に入るのだから、追跡者も多いのだろうかと思っていたのだが、不思議な事に未だ出会っていない。これは幸いと言えるだろう。後は、サモナーなる相手の強さがどんなものかにかかっているくらいだ。
(でも、魔法なんだろう?これで魔法系の相手を打ち負かせればあたしにもハクが付くってモンさ。大体、魔法ってのは気に入らないしね)
 アテナはそんな事を考えながら走っていた。もうすぐ森が見える。日の高さは……もうすぐ上がりきる頃だろうか。そろそろ相手の活動停止時間だ。
 森でなら見つけられるかもしれない。アテナは期待に胸を躍らせた。
 自分が旅人なら、野宿するなら森の人目や獣に見つからないような場所に隠れ場をこしらえて休む。相手もそうに違いない。のんびり宿に泊まって、各宿で相手に対して印象付けているあたりで逃走犯らしくない。だから、ここでも普通の旅人同様の事をしている可能性がある。
 となると……考えられる事としては、ディニカの森で遭遇する可能性が相当高いという事である。これは寄り道をしてでも探す価値はあるだろう。それに、もし相手が夜でないと移動できない理由があるのだとしたら昼間である今の方が有利だ。
「よし、見つけてやりましょうか」
 アテナは腕をばしっと叩いて気持ちを引き締める。獲物はすく目の前なのだから。
 見えてきたディニカの森に足を踏み入れたアテナは厳しい顔をした。ディニカの森はもう随分古い森林らしく、木々は皆、空高くに枝を伸ばし葉を広げていた。見上げても多少、木漏れ日があるくらいで眩しさはあまり感じない。むしろ、薄暗い印象があった。昼間の方が有利だと思ったが、薄暗いとなるとそうも行っていられないかもしれない。
 森の中には人が長い年月かけて踏みしめてきた道が蛇行しながら進んでいた。道を踏みしめると、落ち葉が潰されて擦れあう音が聞こえてきた。耳を澄ますと鳥の鳴き声が聞こえる。それに小さな虫の声も聞こえてきた。
 柔らかな木漏れ日、鳥と虫と踏みしめる落ち葉の音しかしない静かな森。何も用事の無い時に来たら森林浴をするには最適な森かもしれない、そう思った。
 木漏れ日が漏れてきているからといっても薄暗いのは確かで、なかなか隠れている場所を見つけるのには至難の業のようだった。一旦、道から外れると迷いそうなほど木々が沢山茂っていて、樹の種類でも見分けがつけばいくらか違うのだろうが、アテナにはそういう知識は欠けていた。どれも同じに見えるようでは奥に踏み込んだら迷うだけだ。
 そうなると道の近くで安全そうな場所、という事になる。こんな昼間に見つからないようにするのだから、森の奥にでも入ったほうがよほど効率が良さそうだ。そうはいかないのが悲しいところだ。
「……でも向こうも私みたいに樹の区別がつかないという可能性も無いわけじゃないし」
 不確かなものに淡い期待をかけてみるのだが、もし迷っても良いと思っているような相手だったら通じない話だ。先に進んでしまうような事にでもなってしまったら、港町の方で待ち伏せでもするしか無いだろう。そちらの方が分かりにくいかもしれないし、逆に夜行動することから目立ってすぐに見つかるかもしれない。その確率は微妙なところだ。
 せめて道から見える範囲で探してみるか。アテナはそう決めて辺りを見回し始めた。
 こういう時、自分が野宿するかどうかを基準にして探した方が良い。多くの場合、皆が同じ所に行き当たるものだからだ。
 獣に見つかり難い事も重要な要素だ。昼間から出歩いている獣は夜に比べて少ないが、居ない訳では決して無い。
 さて、そういう所は見つかるだろうか。おそらく隠れているとしたら森の中ほどから港町に近いところだろう。このルートから考えて、港町に出てから海路を使ってどこかに行こうとしていると考えるのが妥当だからだ。
 歩みを進めながら、アテナは警戒心を忘れないように辺りを探る。気配がするかもしれないからだ。相手が魔法系なら、気配を消すというような事はしないかもしれない。だからこそ余計に神経を研ぎ澄ませた。
 六千リル。これだけあったら、しばらく食べていくには事欠かない。賞金はなんとしてでも手に入れたかった。
 アテナは深緑色の武道着のポケットにしまってあった手配書を広げる。乱暴に突っ込んでいたので、紙はもうしわくちゃになっていた。しわもぐれの紙に書かれているものをアテナは再度読み直す。
『賞金の支払いは、魔道書を取り戻してから始めて支払われる。犯人のみの検挙の場合は減額される。また、魔道書さえ取り戻せば犯人の生死は問わない』
 改めて見てみるとなかなか恐ろしい内容である。犯人の生死よりも魔道書の方が重要らしい。それは怖い事とも言えた。一体、盗まれた魔道書とはどんなものなのだろうか。しかし、明記してはまずいのか魔道書の詳細は一切記されていない。
「……やっぱり怪しげなやつだったかもしれないね」
 改めてアテナはそんな事を思う。そして、もう少し歩いていった先で何かが動く気配を感じた。
 アテナは慌てて辺りを見回す。だが、周りには誰も居ない。しかし、気配は相変わらずあった。どこかに何かが身を潜めているのだ。
 アテナに緊張感が走った。相手が気がついたのかもしれない。
勝負はもう始まっているのだ。負ける訳には絶対にいかない。特に魔法にだけは。
 ガサガサと草を掻き分け、もう突進してくる音が後方から聞こえる。アテナは慌てて後ろへ振り返る。聞こえてくるその音は……人間の移動している音では無かった。
「な……なんなんだい、あれは……!」
 アテナは猛スピードで近づいてくるものを見て我が目を疑った。今まで、モンスターと呼ばれる類の生き物には何回か遭遇しているが……それとは明らかに違っていた。
 身体全体は黒ずみ、頭部や腕、背中にも角のようなものが見えた。体つきは人間よりも一回りほど大きく、その表情は獣より恐ろしい形相だった。そして……何より印象的なのはその目だった。真っ赤な……鮮血を思い起こさせる色。
 見た瞬間、アテナの背筋に悪寒が走った。関わってはいけないものに関わったのだ。反射的にそう感じる。胸に押し寄せてきた恐怖感と嫌悪感を抑えながらアテナはその場を飛びのいた。
その刹那、彼女が立っていた場所にその異形のものは到達し、その大きな爪で辺りを一閃した。彼女が先程まで立っていた場所にあった小さな木々や草が辺りに舞う。
(こいつ……やっぱりあたしを狙ってるんだね)
 アテナは現状を改めて認識する。背筋に寒いものが再び走った。これは……何だか分からないが禍々しい感じがする。まるで……同じ生き物ではないような、そんな感じだ。
 異形のものは狙った獲物が居なかった事に気が付いたのだろう、ゆっくりとその大きな頭を回し始めた。頭にある大きな二本の角は闘牛に用いられる牛の角にも似ているが、それよりもはるかに大きく薄気味悪かった。
(……まともにやりあって勝てるかどうかも分かんないね)
 正体が分からない以上、アテナはどのようにして良いのかが見当がつかない。となると、残された道は一つしかなくなる。
「……ここは口惜しいけど、逃げるっきゃないよね」
 アテナは異形な何かに見付からないようにそっと移動を開始する。まずはあの赤い目に見えない場所に移動しなければ。幸い、あいつは目が正面についてるし、死角は多いはず。それがアテナの計算だ。
 だが、ここは森の中だ。身を隠すには条件は悪くない場所だが……こっそりと移動するには向いていなかった。動くと木や草が服や足に纏わりついて物音を立てる。その音にまずいとアテナが思うと同時に視線を強く感じた。
 振り返らなくとも分かる。あの異形なものに気がつかれたのだ。アテナは急いで走り出す。だが、すぐに相手も走り出した。
「……くっ、森の中を走るってのは……!」
 アテナは苦言を漏らす。普段、森なんて来ない人間が、林道や林床を走りぬけようと思っても足場が悪すぎて思うように走れないのだ。だが、聞こえてくる追跡者の足取りは関係ないらしい。アテナは逃れるように目の前にあった大木の枝にしがみつき、そのまま枝に登った。突然、目の前の目標が上に消えたせいなのか、すぐに行動を変えられないのか、追跡者はアテナの上った木の枝の下を猛スピードで通り抜けていく。
 そこでアテナは目を疑った。あの異形な何かの背中には小さな翼がついていた。この森の走りにくさも翼を使うものであれば容易いかもしれない。
 やっかいな相手だが、通り過ぎていった所を見ると、すぐに状況の判断が出来ないのかもしれない。そういえば先程、アテナが避けたときも目標を探し出すまでに若干の時間がかかっていた。状況判断がすぐに出来ない、もしくは誰かの判断を待っているのだろうか。
 大体、何だってあの異形なものは自分を狙ってきたのだろうか。あれは、明らかにアテナを狙っていた。だが、どうして狙われたのだろうか。
 よくあるのはテリトリーに入った、または獲物だと思われたのかの二つだ。しかし、すぐに判断の出来ない行動からして、どちらかといえば本能に従っているとは考えにくい。となると、それ以外の何かがあるのだろう。
「……待ちなよ、誰かの判断を待ってるとしたら……判断しているのは誰なんだい?」
 アテナはその疑問に辿り着く。まるで自分の意思で動いているようには見えない相手だ。そうなると操られているという風に考えることも出来るのだが、そうならば操っている相手は誰なのだろうか。
 アテナが探していた賞金首はサモナーという聞きなれない職業だった。そして、何故か夜を狙って行動していた。夜こそ彼の本領発揮なのかもしれない。
 だが、必ずしも相手が賞金首とは限らない。本当にテリトリーに入ったのかもしれないし、未知の何かが無いとも言えない。アテナは追いかけているけれど、相手はアテナが追いかけている事を知るはずが無いのだ。
「……分からないけど……逃げるのもちょっと難しそうだしね」
 通り過ぎていった異形のものは、再び見失った目標を探し始めたようだ。体長が二メートルはあるから、ある程度離れていても見える。小柄なアテナから見れば巨大以外の何者でもないのだが。
 だが、あの禍々しい空気。もし、賞金首があれを操っているのだとしたら……そして夜ではなく今は日中なのだから……。賞金首は夜を狙って行動してきたのだから、昼間はあまり得意でないと考えるのが普通だ。
これはもしかしたら自分の方が有利なのかもしれない。そんな考えがアテナに浮かんできた。
 追いかけるならば今だ。今こそ、操っている人間を探し出すのだ。アテナはひらりと飛び上がり、そこからふわりと周囲の様子を探った。異形の生き物がやはりアテナを探しているようだった。だが、上から見ていると、その範囲はそうは広くない事が分かった。
 そうか、アテナはちゃんと相手に捕捉されていないのだ。あえていうならば、あの森に居たあの一瞬だけ。あの時、初めて襲われた時に感づかれただけなのだ。
 アテナは違う事を考え始めていた。よく分からないが、サモナーという職業は何かを召喚するのだ。その召喚の届く範囲で行動を取っている。つまり、本体は違う所に居るって事だ。だからといって、そう広範囲だとは思えない。よほどの使い手で無い限り自分の術が届く範囲など広いわけが無い。。
 だったら、この森に潜んでいるのも同じだろう?つまり、異形なものは見えているし襲われもするけれど、操ってるのは別の人間なのだ。
 つまり、アテナが目指せば良いのは術者を捕まえる事なのだ。
 ここまで、頭の整理がついてきてから、アテナはばきばきと指を鳴らした。ここからが彼女の本格的な行動なのだ。
 アテナは目立つようにふわりと浮かび上がって飛んだ。ふわりと浮かぶ事で、相手の神経を刺激して、動きを見せたところで術者を見つけ出す。基本的といえば基本的だが、やりなれないアテナにはなかなか難間だった、
 アテナはふわりと身体を中に舞わせた。来た、あのまがまがしい生き物が。
 アテナに向かって飛び掛ってこようとしている。ここから自分を捕捉できる範囲は限られている。
 どこだ?どこにいる?
 アテナは異形のものを避けながら森の中を見渡す。どこからか自分の事を見ているはずだ。隠れる事が出来る範囲としては木の上か木の影か……。
 いや、木の上は人間では視界が狭い。下で動いている小柄なアテナを捕らえて正確に操るのは難しいだろう。
 では、木の影か?
 アテナは周囲の木に目をやる。異形のものの攻撃をかわしながらの操作は思いのほかやりにくかった。
 一旦、ここから逃げてみたほうが良いか。アテナは鋭い爪をかわしながら、上方を見る。見れば近くに高い木があった。
 よし、この木にしよう。
 アテナは異形なものに飛び掛ると、その背中の上に乗り、そのまま強く蹴って宙を舞った。舞い上がった身体はそのままくるりと回転して、目標としていた木の枝の上に着地した。
 異形のものはアテナを探してうろうろしている。やはり視界は上には無いようだ。
 となると、やはり木の影か。
 アテナは一つ一つの木をじっくりと見る。何かが動かないかじっとそれを見つめていた。だが、動いたと思って目を動かしても、それはこの騒ぎから逃げる動物や鳥、虫といったものばかりだ。
 アテナは急に不安になった。自分の読みは外れていたのだろうか。本当はあの禍々しい物が自分の意思で動いているのだろうか。
 異形のものは、少しずつアテナの元から離れていく。今度は捜すような様子も無く、まっすぐに動いている。
 もしかしたら、あの先に術者が居るのかもしれない。
 アテナはそう考えるやいなや、すぐに近くの木の枝に飛び移った。ふわりと舞い、次の枝に降りると、ぎしりと枝がしなるが相手は気がついていないようだ。アテナはそのまま次々と飛び移りながら異形のものの後を追っていった。
 しばらくそうして追っていった所、前方に真っ黒い人物の影が見えた。それを捕らえた瞬間、アテナは枝に隠れるようにして身を潜める。
 男だった。真っ黒のマントを羽織っているが、下に着ている服も黒なのだろう。まるで黒い影のように見える。手には何か本のようなものを持っていて、広げている。何をしているのかはアテナには分からない。
 男は異形なものが目の前に来ると、印を結んで何か低い声で呟く。するとその異形のものは、ぐにゃりと気味悪くゆがんだかと思うと、本に吸い込まれるようにして消えていった。
 男は本をたたむと、移動を始める。だが、何か様子が変だった。時々もがき苦しむかのような仕草を見せる。そして、時々立ち止まると、頭を抱えてうなりこんだりもしている。
 何だかよくは分からないが、チャンスとえいばチャンスだった。
 アテナは木から素早く飛び下りると、男の後を走って追う。だが、一度は彼女を追い払おうとしていた男はそれどころではないらしい。苦しむかのように屈んでしまった。
 アテナはその男に向かって思いっきり蹴りを入れた。見事に蹴りが命中して男が吹っ飛ぶ。そして、そのまま近くの木に叩きつけられて、ぐったりと崩れ落ちた。
 何が起きているのか、さっぱり分からないがアテナは、その男の傍に近寄った。男はぴくりとも動かない。アテナが近づいているのにうめき声一つも上げない。
 今までの奇怪な行動もあって、アテナは本格的にこれはおかしいと気付いた。走って男の元に駆け寄り、その身体を揺り動かした。
 男の身体はずっしりと重たく、揺り動かされるがままに力なく動いた。
 身体は温かいが、まさか……。
 アテナは慌てて脈を調べてみる。動いていない。心臓も調べてみたがやはり脈打っていない。目は白目になり驚愕の表情を浮かべていた。
 蹴りどころが悪くて殺してしまったのか?
 アテナは慌てたが、男の身体を揺り動かしても骨が折れたとかそういう感じはしなかった。
 アテナはこの男に蹴りを入れたときの事を思い出す。ぐにゃっと歪んで、まるでものを蹴ったかのようだった。
 ……まさか、さっき苦しんでいる時に死んだのか?
 なんだか分からなくて気味が悪くなって、アテナは男を放り出した。
 一応、手配書を取り出して、嫌々ながらも顔の確認をする。白目をむき、驚愕の表情を浮かべてはいて表情はかなり様変わりしているが、確かに手配書の男のようだった。
 生死は問わない。そう書かれていたのを思い出す。必要なのは盗まれた魔導書。そういえばさっきこの男が使っていた本はなんだったのだろうか。
 アテナは男の持っている荷物を剥ぎ取って漁った。何冊も本が出てくる。そこには見たことも無いような文字が刻まれていた。魔法の用語か何かなのだろうか。その系には疎いアテナにはそれが何の本なのかすら分からない。
 一冊手にとって、中をめくってみた。先程見た異形のものの絵があった。そこにはレッサーデーモンと書かれている。他にも見たことの無い生き物達が描かれていた。先程のものはこの本の中から呼び出されたのだろうか。
 次の本をめくって見る。こちらの方には頭に角の生えた馬、ユニコーンなどが描かれ、先程の本とは明らかに違う神聖さを感じるタイプのものが描かれていた。
 盗まれた魔導書というのはこれの事だろうか。いや、こんなものではない気がする。こんな程度のものだろうか。そう考えてしまうのだ。そこまで大事な魔導書なのだったら、そんなに簡単に扱えるようなものではないだろう。
 アテナは中に入っていた本を一冊一冊手にとってみた。背表紙が崩れかけているもの、表紙が破けかけているものなどあんまり本の状態は良いとは言えない。
 これじゃないんじゃないだろうか。アテナはもう一度、袋の中をあさる。その中に布に包まれた、やはり本くらいの大きさのものがあった。
 アテナはそれを引っ張り出して包みを開ける。中には黒い表紙の本が入っていた。何が書かれているのか読めない。中身を確かめようと表紙に手をかけた。
 その刹那、全身に電撃のようなものが走った。
だが、それは一瞬で終わる。なんだか分からないが、アテナはそのまま本の表紙をめくった。ページをパラパラと開いてみる。読める字もあるが、見たことも無い文字も沢山書かれていた。
 だが、持っていてもこの本は威圧感を感じる。何ともいえない底知れぬ奇妙で忌まわしい感じがする。
「ああっ!」
 後ろから声がした。慌ててアテナが振り返ると、そこには同い年くらいの長い黒髪の青年が立っていた。彼は驚いた顔をしてアテナと倒れている男を交互に見た。そして、アテナの手の中にある本を見て凍りついた顔をした。
「そ……その本に、触ってしまったんですか?」
 突然現れたその青年の言葉に、アテナは顔をしかめた。
この本の事を知っている。先程死んだ男の仲間かもしれない。しかも、狙っているのはこの本だ。つまり、盗まれた魔導書というのはこの本のことなのだろう。
「一足遅かったようだね。残念だけど、この本はあたしがいただくよ。賞金もあたしのものさ」
 そう言ってアテナは立ち上がると、構えた。見るからにひ弱そうな青年だった。一発殴ればあっという間に倒せるだろう。
 だが、構えたアテナに青年は慌てて両手を突き出し頭を横に振って見せた。
「ち、違います!その男の仲間じゃありません!」
「じゃあ、なんなんだい?」
 否定する青年にアテナはぎろっと睨んだ。アテナの睨みは、今までのどんな賞金首でさえたじろぐものだ。その睨みに戸惑うような顔をして青年は必死で首を横に振っている。
「た、確かに私も貴女と同じようにその本を追っていましたけど……私は依頼主の側の人間です」
「依頼主だって?」
「ええ、そこに倒れている男を賞金首にかけた人の近くに居ます」
 そう言って青年は男を見やった。ゆったりとしたベージュ色のローブを纏っている。長い黒髪はゆったりと一つに結ばれ、細くてひょろっとした体格だ。そう、あえていうならどちらかと言えば、追いかけていた男に近いタイプだ。魔導師か何かだろうか。
 今回の賞金は魔導書関連だ。そう考えると、この男が依頼者側の人間だと言うのもおかしくはない。だが、盗んだ相手もその類の人間なのでなんともいえない。しかし、賞金を賭けるくらいなのだから、自分達でも捜査の手を伸ばしていないとも言えない。
「証拠は?あたしには残念だけど、あんたを信用する確証が無い」
 アテナの言葉に、相手の青年は納得したように頷いた。
「そうですね、確かに示すものが何もありません。私の言葉を信じていただくしか、方法はありませんね」
 彼は視線をアテナから彼女の持っている本へと移していく。
「……その本が何であるかも説明しても、理由にもなりませんからね」
 本。そう言われてアテナはこの青年が最初に発した言葉を思い出した。彼はこう言ってはいなかっただろうか。
その本に触ったのか、と。
「そういえば、あんた、この本がどうとか言ってたね。これは何なんだい?」
 アテナはそう言って本を揺さぶってみせる。それを見て、青年はまた青い顔に戻った。
「ああ!だから、それを触っては……ってもう、遅いんですよね……」
 彼は諦めたかのように肩をがっくり落とした。何がそんなに落胆する事なのだろうか。
 青年は顔をあげると、自分の胸に手を当てる。
「先に自己紹介をしておきましょう。私はカーム=ウェルステッド。事情があって、貴女とはしばらくお付き合いしていただく事になるでしょうから」
「なんであたしに付き合わなきゃならないんだい?」
 アテナの反論に彼、カームはにっこりと笑って見せた。
「まずは貴女のお名前を教えてください。お話はそれからしましょう」
 ゆったりと話すその口調に何故だかつられそうになる。何だろう、この男は奇妙に人を引きつける何かがあるようだ。なんとなく、苦手なタイプだ、とアテナは思った。
「あたしはアテナ。アテナ=ディレイン」
「そうですか。アテナさんですね。宜しくお願いします」
「だから、なんで宜しくしなきゃなんないんだい!」
 何なんだ、このカームって男は。
アテナは次第に腹立たしくなってくる。何故だか、彼はアテナに親しげに接してくるのだ。それが不快だった。
「あたしはまだ、あんたを信用していないんだよ!」
 アテナのその言葉に、カームは困った顔をした。何か、説得できる方法を考えているようだ。頭は切れそうな感じがする。アテナはそれがまた嫌に感じた。大の魔導師嫌いなのだ。この男はそれをしっかり持っていて、余計に腹立たしかった。
「……そうですね、貴女は賞金稼ぎで良いんですよね?」
 カームは考えながらアテナにそう聞いてきた。その言葉にアテナは投げやりに返事をする。
「ああ、そうだよ!だから、賞金は渡さないって言ってんだろう!」
「じゃあ、こう言えば信用してくれますでしょうか?」
 そう言ってカームはにっこりと微笑んだ。
「私は賞金には一切興味がありません。賞金さえ受け取れば、貴女は私の話を聞いてくれますか?」
 その言葉にアテナは返事に窮した。確かに、賞金さえ手に入れば、横取りされないのなら話は違ってくる。
だからといってこの男と付き合わなければいけないという理由にはならない。
 だが、気にかかっていた。この男は本を触ったのかと聞いてきた。本についても何かを知っているようだった。あまり深入りすると、抜け出せないような気がしたが、既にその中に足を踏み入れてしまったような気がした。
 そうなるとアテナが出さないといけない返事は一つしかなくなってしまう。
「……分かったよ。聞こうじゃないか」
 その返事にカームは満足そうに頷いた。そして周囲をきょろきょろと見回す。上を見上げて、空が見えている事に満足げな顔をした。
「賞金の引渡しはアルージャになりますよね。では、アルージャにお連れしましょう。あまりもたもたしている暇もありませんから」
「連れてくって……何をする気だい?」
 何だか嫌な感じがした。何をこの男は考えているのだろう。にこにこした面持ちからでは何も読み取れない。これだけ考えている事が読み取れない相手は初めてだった。
「転送魔法でお連れするんです。私もアルージャから来ましたからね」
 そう言うが否や彼はローブの中から、宝玉のついたロッドを取り出した。それを両手で持って顔の目の前に横にして持って構える。
 低い声で聞きなれない言葉が聞こえてきた。アテナには何を言っているのかは分からない。だが、それが魔法の言葉である事だけは確かそうだった。
 アテナの周囲に光が走り始める。見たことも無い言葉が円形に並び始めてアテナとカームを包み込む。その文字はどんどんと円を描いて刻まれていく。それはカームが唱えている言葉と呼応するかのようだった。
「……いざ、アルージャへ!」
 カームの言葉と共に光はアテナもカームも包み込んで、そのまま上空の空へと向かって飛んでいった。
 その光が向かう先は、ラインノール王国の第二都市、アルージャ。

 アテナは呆然としていた。これが魔法というものなのかと思った。
 光に包まれたかと思うと、身体が宙に浮き、そのまま飛ぶかのように、あっという間にアルージャの町並みの中に立っていたのだ。しかも、立っている場所は都合の良い様に、街の自警団の前だ。……おそらく、カームが意図してこの場所に連れてきたのだろう。
 目の前の建物をアテナは改めてじっくり見る。権威を感じさせるそのレンガ造りの建物は確かに今回の仕事を見つけたアルージャの街の騎士団の建物。アルージャには何度も足を運んでいる。間違いなく、それは見知った建物だった。
 さっきまで離れた場所に居たというのに。
 これだから魔法ってのは気に入らないんだよ。アテナは心でそっと悪態をついた。
「さあ、アテナさん。こちらです」
 カームは先立って騎士団の中に向かっていく。その後をアテナは慌ててついていった。何をしようとしているのかは分からないが、どちらにせよ本は自分の手の中にあるのだ。賞金は確実に自分のものになるはずだ。
 カームは颯爽と中を歩いていく。まるでよく知った建物だというかのようだった。アテナもここで何度か賞金首の引渡しをしてはいるが、彼のように堂々とは歩けない。
 彼の言葉をアテナは思い出していた。依頼者側の人間だと。あながちその言葉は嘘ではないのかもしれない。
 カームは賞金引渡しのカウンターの所に向かっていく。そして、その受付に居る男性ににこやかに話しかけた。
「こんにちは、リイルさん。例の件ですけど、この方が魔導書を取り戻してくれました」
 そう言ってカームは手をアテナへと向けた。その穏やかな言葉遣いと仕草にアテナは思わず頭を下げてしまう。
「そうか、片付いたのか。良かったな」
 受付に居るリイルという男はカームとは知り合いのようだ。喜んだ顔をしている。だが、その言葉にカームは苦笑してみせる。
「いえ、完全にとはいかないようですけれど」
 そう言ってから、カームは再びアテナの方に向き直る。
「とにかく、本の確認は私がしましたから、賞金を差し上げてくださいますか?」
「ああ、分かった。六千リルだったな」
 そう言ってリイルは札束を取り出すと、枚数を確認し始める。
「四千、五千、六千っと。よし、これで良いだろう」
「あ、ありがとう」
 アテナは手続きも無しに渡されたお金を訳の分からぬまま受け取る。とりあえず受け取ったお金は持っていた皮袋の財布に全部突っ込んだ。
「ごくろうさん」
 リイルはそう言って、また自分の仕事に戻る。お金を仕舞っているアテナにカームはにこやかに声をかけてきた。
「どうです、アテナさん。少しは私も信用できましたか?」
 その言葉にアテナはどう変事をして良いか困ったが、素直に答える事にした。お金も手に入ったし、一先ずの目的は達成していたからだ。
「あんたが関係者だってのは本当みたいだな」
「ええ、理解してくれて嬉しいです」
 カームはそう微笑むと手を差し出した。
「だから、その本を私に渡してくれませんか?」
 彼は本を欲している。アテナは直感的に感じていた。
賞金よりも何よりも、彼にとってはこの本が何よりも欲しい物なのだ。
 だが、分からない事がある。彼はこの本を触ったのかと青い顔をしてアテナに聞いたし、それが分かると力を落としていた。さらになおかつ、アテナに付き合ってもらわないといけないような事も言っている。
 ……つまり、これは……渡してはいけない。アテナは直感的に感じた。
「ダメだ」
「どうしてですか?お金は受け取ったでしょう?」
 カームは何故拒むのかといった顔で聞いてくる。その追求にアテナは言葉に窮しかけたが、なんとか言葉を紡ぎ反論した。
「ダメだ。この本が何かをまだ聞いていない」
 アテナの態度にカームは困った顔をした。やはり話さないといけないのかという顔だった。
「……分かりました。お話しましょう。でも、ここでは話せません。どこかの部屋を借りましょう」
 そう言うとカームは再びリイルに話しかけて、交渉を始めた。
 何だというのだろう。アテナは不安になって自分がずっと抱きかかえるようにして持っている本を見た。
 見た目は普通の黒い表紙の本にしか見えない。表紙の文字は読めないし、中に書いてある文字もほとんど読む事は出来ないけれど。
 でも、この本には何か秘密があるのだ。
 あの、追いかけていた男が死んだように、何か秘密があるのだ。
 交渉が済んだらしく、カームが再びアテナの元に戻ってくる。
「向こうの奥の部屋が空いているそうです。そこへ向かいましょう」
 カームに先導されるようにしてアテナはその部屋に向かって行った。
 話を聞くのが恐ろしいような気もした。一歩一歩歩く足が重たく感じられる。だが、聞かねばならないのだろう。そうも感じていた。
「ここみたいですね」
 そう言ってカームは突き当たりの部屋の扉を開けた。その部屋は簡素な部屋で、小さな間取りの中に窓が一つと机、それに向かい合うように椅子が二脚ずつ並べてあった。その片側にカームは座ると、反対側にかけるようにとアテナに促した。それに応じてアテナも椅子に腰を下ろした。だが、本は何となく彼の手の届く場所には置いてはいけない気がして、そのままひざの上にのせて、その上に手を置いた。手の届く場所に置いたら奪われそうな気がしたのだ。
 そんなアテナの行動にカームは苦笑した。もしかしたら、やはり手が届くのなら奪おうと考えていたのかもしれない。
「……用心深いですね。ではお話しする事にしましょうか」
 そう言ってカームは両肘を机の上に置いて、両手を握った。話が長くなりそうだ。アテナはそう感じた。
「……その魔導書はネクロマンサーの書と呼ばれています」
「ねくろまんさー?」
 聞きなれない言葉にアテナは問い返した。その言葉は予想がついていたらしく、カームは頷くと、話を続ける。
「……ええ、そうです。ネクロマンサーとは死者を操る魔法です。この書は訳あって、長い間、首都レジンディアの魔導研究所に保管されていました」
「首都にある魔導研究所があっさり盗られたのかい?」
 そのアテナのもっともな言葉にカームは苦笑した。
「ええ。元々、この本は存在自体が隠されていて、一部の人間しか知らないものでした。ところがどこかで話が漏れたのでしょうね。禁忌にして珍しいネクロマンサーの書。当然興味を持つ研究員が現れました。そして、数日前、盗まれたのです」
「つまり内部の犯行という事かい?」
 アテナの言葉にカームは頷いた。その面持ちは真剣そのものだ。
「ええ、そうです。すぐに犯人は分かり、騎士団に手配書を出しました。賞金も賭ければ速く捕まるだろうと、それも行いました。そして、魔導研究所自体も何人か派遣して、行方を追っていました」
 そう言ってからカームは一息ついた。
「貴女に出会ったのはアルージャで手配書の内容をもう一度確認している時でした。目の前で手配書を引き剥がされましてね。内心慌てましたよ」
「……!もしかして、あんた、まさかアルージャからずっとついてきてたんじゃないだろうね!」
 アテナはかっとなって、机を両手でどんっと叩いた。それを見て、カームが慌てて両手を振った。
「い、いえ、まさか。でも、その後、犯人の情報を得て、再度追っていたら貴女にはまた会って……そのうち追い抜かれましたけど」
 最後の方の言葉は小さくなっていく。どうも、手がかりを最初に得ていたのはこの男の方だったらしい。追っている人間が同じであれば、当然通るルートも同じになるし、抜かされたというのはやはり、見た目で感じる体力的な差だろうか。
「……まあ、いいよ。で、続きは?」
 アテナは再度話を促した。カームは再び真剣な顔に戻って、話を続ける。
「ええ、後はあの森で騒ぎが起きていたので向かったら、貴女に出会った訳です」
「大体の話の流れは分かった。で、肝心のこの本については?あんた、あたしに会った時に妙な事を口走ったね。忘れてないよ、あたしは」
 アテナの強い口調に、カームは苦笑いを浮かべる。
「……その本はネクロマンサーの書だと言いましたよね。死者を操るなんて禁忌だとは思いませんか?だから、その本は封印されていたのです。ですが、それだけの理由だけではありませんでした。もう一つ問題がありましてね」
 カームの顔が一層険しくなる。アテナは心臓がどくんどくんと音を立てているのが聞こえていた。どきどきする。胸がばくばくする。これ以上聞いていいのだろうか、そんな戸惑いも生まれた。
「その書を書いた人物はネクロマンサーであった事は確かです。名をディズレット=ディラと言います。彼は、かつて魔導研究所でも高名な魔導師であったそうです。ですが、禁忌の呪文を開発したため追放されました。ですが、彼はその呪術を次の世代にも残すために本を書いていました」
 そう言ってからカームは深いため息をついた。これから先はもっと言い難いらしい。
「……正確には、最初はその目的で書いていたのでしょう。ですが、追放されると決まって彼は仲間達に、この呪術の素晴らしさが分からないのかと叫び、そしてその本を目の前に自殺したのだと聞いています」
「……これの目の前で死んだのかい」
 アテナは思わず膝の上の本に載せていた手に力が入った。
何が素晴らしいのかはアテナにはさっぱり分からないが、その執念だけは伝わってくるようだった。まるで、認められない才能を持ち、認めてくれない世を嘆くかのような。
「……それだけで終わればまだ良かったのですが」
「どういうことだい?」
 カームはより一層、言いづらそうにした。
「……その本は訳あって封じられていたと言いましたよね。その理由は、自殺した事では無いのです。その本を触った者は、皆、死んでいるのですよ。期間はおよそ五日間。その間に死んでいます。……それに今日も、あの犯人は死んでいたでしょう?今日は盗まれて五日目だったのです」
 その言葉にアテナは凍りついた。
 そうか、だから彼はアテナが本を手にしているのを見て「触ったのか?」と聞いたのだ。
だから、彼はまだアテナと付き合わないといけないと言ったのだ。
 ……彼の言う事が本当ならば、あたしは五日後に死ぬ。
 アテナはぞくっとした。つまりこの本は……呪われているのだ。その死んだ魔導師によって呪われ続けているのだ。
「……つまり、あたしの命は後、五日ってわけかい?」
 アテナはやっと出てきたその言葉をカームに告げた。精一杯だったそう言うのが精一杯だった。それ以上の言葉は出てこなかった。
 ぴんとこないものだ。後、五日しか生きていられないなど。
「順当にいけば。ただし例外があります」
 カームはそう言った。例外?アテナは言葉も返せずにその続きを待った。
「過去の例で、その期間内に別の人間がその本に触れた場合、呪いが移行する事があります。この魔導書が封じられた時、封じた魔導師が触る前に彼の奥さんが触ったのだそうです。だから、その魔導師は命がけで、自分でその輪を終わらせたのですが……何故か触っていた奥さんの方は死ななかったのですよ」
 そう言ってからカームはアテナの手を握り締めた。
「その奥さんは魔法とは縁の無い方だったのだそうです。貴女もお見受けした所、格闘家。私がその本を手にすればその呪いからは解き放たれるはずです……!」
「馬鹿かい、あんた!」
 思わずアテナはそう叫んだ。なんという申し出なのだろうか。自分が代わりに呪いを受けると言っているのだ、この男は。まだ、会ってすぐの人間のために。
「それなら、なおさらあんたには渡せないよ!」
「いえ、どちらにせよ私はその本を触る必要があるのです」
 カームはきっぱりとそう言った。ただ、アテナの身を案じてだけの言葉ではないことがアテナにも分かる。
「どういうことだい?」
「その本は……私の研究対象だからです」
「研究対象?」
 呪われた本を?そう言おうとしてアテナは口を噤んだ。何か違う事があるのかもしれない。調べる、それ以外の目的が。
「ええ、その本の内容を解明し、呪いを解く事が私が魔導研究所に入るための条件なのです」
「……ちょっと待て、どういう事なんだい。死ぬかもしれないものなんだろう?」
「ええ、そうですよ」
 事も無げにカームはそう答える。何も無かったのかのようだ。
「だって……失敗したらあんたが死んでしまうんだろう?」
「ええ。田舎出身でちゃんと魔導の勉強をしていない者には厳しい世の中なんですよ。やっとこぎつけた条件がそれだったのです」
 それに、とカームは笑顔になってアテナに微笑みかけた。
「それに……未知の力を知る事は何よりの喜びですから」
 その言葉にアテナはぞくっとするものを感じる。何なんだというのだろう、魔導師という生き物は。死ぬかもしれないものに対して平気で研究するように命じるし、それを受ける相手は未知の力に対する知識欲の方が強いらしい。
 つまり、それは死の恐怖よりも未知なる知識の方が興味深いという事。
 ……だから、魔導師は嫌いなんだ。こうやって力ばかり追いかけるから、一番大事な人の心の事なんて忘れてしまうのだ。
「……やっぱり、あんたには渡さないよ」
 アテナはきっぱりと言い放った。この男にだけは渡してはいけない。アテナの直感はそう告げていた。
 この男は他の人間に比べて知的欲求が高いのだろう。また、何かコンプレックスもあるのかもしれない。だが、彼が死を恐れていないのは確かだった。
 死を恐れない人間がどれほど恐ろしいものなのか、それをアテナは知っている。
 死よりも知識を……なんて怖い事を考えているのだろう。この目の前で微笑んでいる男は。いや、何故微笑んでいられるのだろう、そんな事を考えながら。
「その本を書いた人間については大体の調査もしています。これから中を解読すれば呪いを解く方法だって分かるかもしれません」
 カームはアテナを説得しようと必死のようだった。だが、必死だろうとなんだろうと、この男に本を渡すのは危険だ。何をしでかすやら分からない。
「……燃やそう。この本を燃やせば全ては本当に終わるんじゃないのか?」
 アテナはそう言った。そう、この本さえ無くなれば呪いも消えてしまうに違いない。元凶が無くなれば、呪いも何もなくなってしまうはずだ。
「駄目です。燃やす事は出来ません」
 またしてもカームはそうきっぱりと言い放った。
「本の処分は既に何度も試みられています。火で燃やそうとしたもの、酸で溶かそうとしたもの、色々居ますが、本に危害を加えようとした瞬間に死んでいます。だから、貴女も、その本に手を出さない方がいいんです」
「だったら、私の所でまた封印するわけにはいかないのかい?」
「それは無理です。貴女は魔導師ではない。封印には魔力が必要です。どちらにせよ、一度は誰か魔導師の手に渡らなければなりません」
 アテナは言葉に窮した。言う傍から否定されている。おそらく封印以外にこの本の呪いを解く手段が当時は見つからなかったのだろう。
 それにしても、なんで今になって引っ張り出されてきたというのだろう。カームは自分の研究対象だと言っていたが、そもそも禁忌の魔法であったとしても魔導師にとっては知識の一環でしかないのだろうか。
「だから、私に本を渡してください。何とかしますから」
「嫌だ」
 カームの申し出にアテナは拒否する。それだけは嫌だった。
「何故です?貴女の命が助かるかもしれないし、貴女には何の損も無いはずですよ?」
「……あたしが渡したせいであんたが死んだら後味が悪いんだ。そのくらい分からないのか?自分のせいで人が死ぬかもしれないんだよ?あたしは知らずにこの本を触った。だから、呪いを受けても諦めがつくさ。でも、あんたはそれを知ってて触ろうとしている。だから余計に気に食わない。それであんたに死なれてもあたしは嫌だ」
 そう、自分のせいで死なれるのと同じだった。自分の呪いを移行する事で、例え自分が死を逃れても……この目の前の男が代わりに死んでいくのは気持ちが良い話ではない。
「……優しい人ですね、貴女は。私の身など案じなくても良いのに」
 カームは穏やかな声でそう言った。そう、心から思っているような言葉だった。優しい、そう言われてアテナは妙に照れくさい気持ちになった。そんなつもりがあった訳でもないのに。
「……優しくなんかないさ。あたしの気持ちの問題だ」
 アテナは照れ隠しをするように、ぷいっと顔を背けた。彼の優しい視線が注がれているのを感じる。
「優しいですよ。でも、私も貴女に死んで欲しくはありません」
 カームは静かに、だが強い口調でそう言った。
 アテナはその言葉で気がついた。カームも自分と同じ気持ちなのかもしれない。本来はこの本は彼が手にする予定だった。彼が手にして、呪いを受けるはずだった。それが盗難事件に始まって、犯人が死亡、なおかつ新しい呪いのかかった人間を生み出してしまったのだ。後味が悪いのはカームも同じなのかもしれない。
「……条件がある」
 アテナはそう切り出した。今回の事はもうどうしようもない所まで来ている。いつまでもこうして押し問答をしていても無駄だ。おそらくアテナが呪いで死んだとしても、彼はアテナの死後にこの本を手にしてしまう確率が高い。そうしたら、二人共、無駄に死んでしまうのとの同じだった。
「この本はあんたには渡さない。だけど、協力はしてやろうじゃないか。この本はあんたには見せないし、触れさせない。でも、内容は分かる範囲で話してやっても良い。じゃないとあんたは何が何でもあたしからこの本を盗ろうとするに決まっているからな」
 アテナの提案にカームは少し考え込む仕草をした。あくまで、一人でやろうとしているのだろうか。だが、しばらく考えてから、彼はゆっくりと頷いた。
「良いでしょう、アテナさん。貴女にしばらく私の研究に協力していただきます」
 そう言ってから、カームは自分の持っていた鞄の中からノートと筆記具を取り出した。
「ところで、まず体調の方はどうですか?何か悪い所は?」
「いや、今はこれといって何事もないけれど」
 アテナは困ったように答える。カームの尋問は今からすぐに始まるらしい。確かに呪いが五日というのならば早くしなければいけないのは確かだろう。
 アテナの答えを聞きながらカームはノートにペンを走らせていった。
「じゃあ、その本を触れた時に何か感じたことは?」
 アテナは触れた時の事を思い返していた。確か、何冊も本を漁った後、この本を見つけたのだ。確か、あの時は普通の感覚ではないものが襲ってきたのを思い出す。
「……何かに撃たれたような衝撃があったね。それから酷く気分が悪くなった」
「……なるほど」
 アテナの言葉に頷きながらカームはペンを走らせていく。ノートには素早く書いているというのに綺麗な文字がどんどん書き込まれていっていた。
「……アテナさん、その本の表紙の文字は読めます?」
 カームの問いに、アテナはひざの上に乗せていた本に視線を落とした。何やら見慣れない曲がりくねった文字が書かれている。そういえば、この男がアルージャへ移動させてきた時も同じような形の文字を見たような気がした。
「いや、全く読めない」
「……そうですか。それは困りましたね」
 アテナの答えにカームは困った顔をした。確かに調べるにしても情報を提供するための最初の表紙の文字さえ読めないのなら意味がないだろう。
「……見せていただく訳には?」
「駄目」
 アテナはその申し出だけはかたくなに拒否した。絶対にこの男は本を奪おうとするだろう。それが分かっていたからだ。呪いがかかっているものを他人には渡したくはない。
 それにまだこのカームなる男を信用している訳ではない。
やはり、見せる事にさえ抵抗感を覚えた。さすがにここまで押し問答をしているから盗みはしないかもしれない。
それでも内容に興味を覚えてしまった時は別の話になるだろう。嫌な予感は感じている。この男は知識欲に極端に弱いのだ。興味が先行してしまえば後先を考えていないように見える。一見したら冷静そうに見えるのだが、今までの話しぶりからしても危険だ。
「あたしからも質問して良いかい?あんたの参考にもなるかもしれないし」
「いいですよ。何でしょうか?」
 アテナの問いにカームはにこやかに答える。本当に笑顔を崩さない相手だなとアテナは思った。
「この本はあんたの研究対象だったけど、つい最近までは封じられていた。何でまた持ち出されたんだ?」
「……それに関しては原因が良く分かりません」
 珍しくカームの口調ははっきりとしなかった。戸惑ったような話しぶりだ。
「私はその本の研究を引き受けましたが、本に触ることだけは危険だということで、私はつい最近までその本や著者に関しての調べごとをしていたのです。その最中、盗み出されてしまったんです。何らかで情報が漏れたのかもしれませんが、あるいは……」
 そう言ってからカームは口を噤んだ。言い難そうな素振りだ。だが、アテナは繰り返すように言葉を重ねる。アテナは真実が知りたかった。
「あるいは?」
「……本が呼んだのかもしれません」
 本が人を呼ぶ?そう言われてアテナは、膝の上の魔導書をじっと見た。アテナには当然呼び声は聞こえない。魔導師でもない自分には分からないだけなのか、実際本が人を呼ぶなんて事があるのか、そのどちらともアテナには判断がつかなかった。
 カームは両肘を机に置くと、そのまま組んで体を前のめりにして話し始める。
「盗んだ相手、ホフマンは魔導研究所の召喚術士、サモナーでした。そして、この本を書いた著者であるディズレットも、本職は元々サモナー。悪魔や幻獣を召喚する術士でした。二人の共通点があることもそうなのですが、ホフマンもディズレットも共に抜き出た召喚士だったと聞いています。なので、ホフマンがそれを知って興味を持ったのか……それとも導かれたのか、それは分かりません」
 カームの口調は真剣そのものだった。それがむしろアテナには滑稽に映る。大体、そういった共通点があるにしても、やはり本が人を呼ぶのだろうか?
「その本は呪われていると言いましたよね」
 カームが疑い半分のアテナに気が付き、少し強い口調になってそう言った。そう信じて欲しいといったような訴え方だった。
「……呪いがかかっているということは、そのかけた術者の怨念が乗り移っているのも同じです。ディズレットはこの魔法を素晴らしいものだと言っていた。そしてそれが禁忌と否定されたのをあざ笑うかのように死んでいった。いわば、その本はディズレットの怨念の塊ともいえます」
 カームは書き取っていたノートの前のページをぺらぺらとめくり、それに合わせてファイルされた資料から一人の人物の肖像画を取り出した。その肖像画にカームは指を乗せてトントンと叩いて、アテナの注意を促す。アテナはそれに誘導されるように肖像画を見た。痩せ型ですらりとした頭の切れるような顔をした壮年の男性が描かれている。いわゆる魔導師とはまた違った雰囲気だ。どちらかといえば、闇を背負ったようなそんな暗さを持っている。
「この人物がディズレット=ディラです」
 カームは肖像画の上にのせている指をコツコツと叩く。
「彼は自分の術に絶対的な自信を持っていた。なのにそれが認められなかった。だから、呪いをかけて死ぬようにしむけた……」
 カームは言葉をそこで切り、アテナの顔をじっと見た。
「何故だと思います?彼は自説に自信があったのだから、それを広めたいが故に本を書いたはずでしょう?なのにこの本には呪いがかかっている。手にしたものを死に至らしめる魔法がかかっている。何故?私だったら絶対にそんなことをしないでしょう」
 何故、そう問いかけられてもアテナからしたら困るのだが、カームの言い分は正しいような気がした。確かにおかしい。
 世に知らしめようとして書いた本。その本を広めるのではなく呪いをかけてしまったら、その呪術は決して広まらないだろう。元々は本にするくらいなのだから世に広めたかったのだ。なのに、実際はそれとは反対の方向をいっている。
「……魔導師全体が憎くなったんじゃないのかい?」
 アテナはそう言った。彼は何にせよ迫害を受けたのだ。だったら、周りが信じられなくなっても当然かもしれない。いや、普通はそうなるだろう。
 だが、カームはゆっくりと首を横に振った。
「私も憎んだろうとは思います。ですが、私だったらこのような方法を取るとは思いません」
 彼はまたその言葉を繰り返した。カームにはこの呪いのからくり自体に疑問があるのだろう。アテナはその回答を問いただしてみる。
「じゃあ、あんたならどうするんだい?」
「……力を貯めて、再び復活し、より強力になった呪術で復讐しようと考えるでしょう。そうなったら、まずは本に潜んで沢山の魔力を取り殺して潜伏する。そして、次に術を使うための身体が欲しくなる。だから、私はホフマンは呼ばれたのではないかと思うのです」
 カームの説を聞いていたアテナだが、彼の話には矛盾点があるのには気が付いていた。その矛盾点をアテナは順に指摘する。
「その話にはおかしいところがいくつかかる。まず最初に、過去、呪いを受けなかった人物が居たという事。それが本当の話かどうかは知らないけれど、糧とするなら何でも良いはずだ。より選びしているのが分からない。それに二点目。こっちはもっと重要だ。あんたが言うとおり、ホフマンが呼ばれたならさ……なんで彼は死んだんだい?」
 アテナの指摘にカームは困った顔をした。だが、その表情からするとその矛盾点には気が付いていたのだろう。そこを指摘されてしまったか、という顔である。
「……ええ、だからこれは仮説に過ぎません。だから、私はその本の内容を知りたいのです。内容さえ知れば解決方法が見つかるかもしれません」
「見つからないかもしれないだろう?」
 アテナは畳み掛けるようにしてそう言った。そう、もう一度繰り返す。
「見つからないかもしれないんだろう?あんたはそれに失敗したら死ぬかもしれないんだよ?簡単に出してしまっていい答えなのかい?」
「……中さえ見れば分かる話かもしれないんですけどね。やはり貴女は一筋縄ではいかないようですね」
「ああ、そうかい。ほめ言葉として受け取っておくよ」
 苦笑するカームにアテナはつっぱねるようにそう言い放った。
 本当に油断も隙もないというのはこの事だ。やはりこの男に協力することにはなったけれど、本の管理だけは絶対に厳重にしなければならないだろう。
 がたがたっと窓が風に叩きつけられる音が広がった。その音にカームは気が付いて、飾ってあった時計に目をやった。
「……ああ、もう夕食時ですね。今晩はどうされますか?」
 急に今日の過ごし方の話題に変わったのでアテナは最初は意味が分からずきょとんとしたが、今日は一度お開きになるのだということが分かって、ちょっと胸を撫で下ろした。これ以上話していると、ぴりぴりしてしまいそうだった。
「ここ、アルージャなんだろ?ここの宿屋に泊まってのんびりさせてもらうことにするよ」
「そうですか。私は一度、近くの魔導師ギルドに顔を出してから、今日は休もうと思います。アテナさん、明日は朝、ここの騎士団を目印にして待ち合わせましょう」
「明日はどこに行くっていうんだい?」
 明日の話が出てきてアテナはカウントダウンをされている気持ちになったが、それは隠して返事を返した。カームはその変化に気が付かなかったのだろう、にこやかな顔のままで答えを返してきた。
「ディズレットの生家を訪ねてみようと思います。何か手がかりが見つかるかもしれませんから」
 そう言ってカームは立ち上がると、部屋の扉に先に手をかけた。
「本来ならレディファーストなんでしょうけれど、私が先に出ないと貴女に信用してもらえそうにありませんからね」
 そう笑って彼は先に部屋を出て行った。嫌味なのか、本気なのかあの笑顔では区別が全く付かない。
 やっぱりあの男は苦手かもしれない。関わることにしてしまったものの、アテナは手の中の本を握り締めて、深いため息をついた。
 ……五日限りの命、か。
 まるで死の宣言をされた患者のようだった。アテナは前にもこれに似た言葉を聞いたことがあった。それはアテナではなく、アテナの母に向けられたもの。そして、その言葉通りに母はアテナ一人を残して逝ってしまったのだ。宣告したのは、医療専門の魔導師。それ以来、アテナは魔導師という生き物が嫌いだった。まるで預言者のように人の命の事まで口を出すから。
 それなのに皮肉だ。あまりにも皮肉だ。
 アテナは苦笑した。またしても関わることになってしまったのだ。病気だった母とは違う形の死の宣告を魔導師から受けている。
なんて因果なんだろうと、アテナはふと思った。そして、あの時から嫌いになった魔導師とはどうしてこうも縁が切れないのだろうとも思った。
母は病気を治そうと魔導師にすがった。だが、それは悲劇の結末しか導かなかった。そして今度は呪われた自分を助けようという魔導師が居る。本心は分からない。自分の興味がある範囲だから申し出ただけかもしれない。信用していいのかも分からない。
アテナの事を助けたいと言ったあの魔導師の言葉が本当なのか、それが分かるまでにはまだ時間がかかるとアテナは思った。

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