『空中庭園』 龍崎美鳥 プロローグ 「お母さんのバカ〜!どうして起してくれなかったのよ〜!」 そう叫びながら少女が自宅の2階から必死の形相で駆け下りてくる。淡い黄砂の色をした長い髪は、もともとふわふわしているのが祟ってボサボサにからまってしまっている。服装はちゃんと着替えているので違和感を感じる姿だ。 そのまま洗面所に駆け込むと、少女は冷たい水で顔をバジャバジャと洗い、傍にあったタオルをひっつかみ水滴をぬぐう。 鏡にはボサボサ頭に大地の色の瞳をした少女が映っている。それを見て少女は深々とため息をついた。 「ああ……また今日も頭ボサボサ〜」 くしゃくしゃの髪を少女は近くのブラシを取りせっせと梳かす。どうにもこの髪は朝になるとひどい事になっている。おそらく、寝相が悪いのも祟っているのだろうけれども。 しかしながら、ただでさえ寝坊しているのにこの髪のせいで余計に時間がとられるのは明白だった。 「あら〜、お母さんはちゃんと起したわよ〜?起きなかったのはあなたじゃない」 台所にいるらしい母親の声が聞こえてくる。 ……言われてみれば起されたような気がする。目覚まし時計も鳴っていたような気もする。 でも起きられなかったのは確かだ。……もうこれで何回目だろう。数えるのも嫌なくらいある。どうしてこんなに寝起きが悪いのだろうか……。 髪を梳かし終わり、濃い茶色のリボンで髪を二つに分けて、それぞれ二ヶ所で結ぶ。髪がふわふわしているために二ヶ所で止めないと邪魔になってしまうからだ。 「さて、ご飯食べて行きますか」 鏡で髪がきちんとなっているかを確認すると、そのまま台所に向かった。 「朝ご飯……というよりお昼ご飯だね」 窓から差し込む高い日差しに少女は深いため息をつく。 「いくら起しても起きないからよ?エイミー、スープを温めたから食べていきなさいね」 少女をそのまま年をとらせたような母親が、テーブルの上に温かな野菜のスープの入った皿を置いた。 綺麗なテーブルクロスに手入れの行き届いた花が飾られた食卓には母親の細やかな性格がうかがえた。食器も品がよくてセンスの良さが分かる。 エイミーと呼ばれた少女は椅子に座り、一緒に置かれているパンと共にスープを頬張った。これが朝昼の食事になるので、きちんと食べないと後が持たない。 「そういえばエイミー、聞いた?お隣のルーク君の事」 「ルーク?ううん、知らない」 スープを頬張りながら、母の言葉にエイミーは首を振る。 「あら、知らないの?結構、有名みたいなのに。あなたってそういう情報にはうといわね」 「う〜……、いいじゃない。全然違うんだもの〜」 母は食器を洗う手を止め、呆れた顔で娘の顔を見る。そんな母に娘は少しふくれた顔を見せた。 エイミーはどうも自分の関心外の事には興味が無いらしく、ほとんど知らないのが常なので母はいつものことながらどうしても呆れてしまわざるをえない。 「まあ、いいわ。教えてあげる。ルーク君、この間あった剣術大会で優勝したんだって。何でも優勝候補だった王国屈指の騎士にも勝ったんだっていうからすごいわよね」 「……へえ〜」 「……へえ〜ってあなたねえ。幼馴染の名誉でしょう?もう少し喜んであげたらどうなの?」 あまりにも気の無い返事に母はさらに呆れた顔をする。エイミーはそれに構わず食事を終えると席を立った。 「……私、そういう暴力的なこと嫌いだもの。それに……もうルークとはずっと会っていないし……幼馴染って言われてもね。なんかもうピンとこないよ」 そう言うとエイミーは荷物の詰まった皮の鞄を手にとり玄関へと向かった。 「それはあなたがいっつも朝起きないからでしょう?お母さんはしょっちゅう会っているわよ?」 後ろから母の声が聞こえる。……もっともだ。 確かに早起きをしていれば顔くらいは合わせそうなものだ。 「わかったわよ!じゃあ行ってきます!」 バツが悪くなったエイミーは逃げ出すようにして高い日差しの中に駆けて行った。 そんな娘の後姿を、母は呆れ顔で見送ったのだった。 「おはよ〜、今日も重役出勤ね」 到着早々、同僚にそう声をかけられエイミーは苦笑いで応える。 「ナーラ、おはよう〜。……代わりに夜やるもん〜」 そう言ってエイミーは自分の机に鞄を置くとロッカーから白衣を取り出し身を包む。そして慌てて隣にある部屋に飛び込んだ。 「……本当にエイミーは朝に弱いわよね〜。うちの班は、はっきりした時間決まっていないから良かったわよね」 ナーラと呼ばれた紫の髪のエイミーと同世代の女性は笑いながらエイミーに近づく。 彼女は紫の瞳を持ち、背も高くスレンダーな体系で、知的な表情からはいかにも出来る女性といった感じだ。子供っぽい感じのするエイミーとは、とても同い年には思えない。 彼女に構う事無く、エイミーは一定温度に保ち暗黒を作っている機材から液体の入ったガラス瓶を取り出して、見入っている。ガラスの中の液体は緑色に濁り、どろどろとして……見た目にも気持ちの良い感じではない。 「あ〜、駄目だ〜。失敗してる〜。生成過程で何か間違ったのかな〜」 中身を見て、エイミーはがっかりして肩を落とす。本当は違うものに変わるはずだったらしい。 「あら、やっぱり駄目だった?」 「やっぱり駄目だった?って……ナーラは失敗すると思っていたわけ?」 ナーラの言葉にエイミーは少し恨めしげに見た。だが、ナーラは少しからかうような顔でエイミーに返す。 「…だって、主成分のリラリラの葉を入れすぎているように思ったもの。あの葉って入れすぎると抽出とか反応がひどく悪くなるじゃない。いくら効能高めたいからって……ちょっとやりすぎかな〜って密かに思ってた」 「だって〜、リラリラの葉って穏やかに効く鎮痛剤で副作用もほとんどないけど……持続時間が短いじゃない。せめてもう少し時間を長くしたかったのよ。……副成分の方にアレンジ加えてみようかな〜」 深いため息をつきながら、悔しそうにエイミーは緑の濁った液体を見つめた。期待していただけに失望感は大きい。 「はいはい。頑張ってね。失敗は成功の素っていうから何か見つかるわよ。だけどその前にこれに目を通しておいてね」 慰めているのかからかっているのか分からないような口調でナーラは笑いながらエイミーに書類を手渡した。 「なに?……これもしかして全部?」 手渡された書類に一通り目を通してからエイミーは蒼白になる。書類には何やら色々な薬草の名前が記載されている。 「そう、全部。とりあえず、この薬草に合いそうなのを班長がピックアップしてくれたから試してみなさいって。でも、レイス班長がやってくれたんだから、やる気はでるでしょう?頑張ってね」 「……新たな見通しは出来たけど……これ全部かあ……。……これと班長とは天秤にかけ難いな〜……」 笑顔で返されてエイミーは深々とため息をつく。書類に書かれているだけでもかなりの数だ。これらの濃度を変えたりして試すとなると…かなりかかりそうな事は確かだ。 ここの研究班の班長であるレイスは魔法だけでなく武術にも長け、文武両道のエリート人間で知られている。まだ若年でありながらも研究班を持っているあたりからもその優秀さの証だった。そして、そんな優秀なレイスはエイミーの憧れの人である。 ……だが、憧れの人と関わっていてもこの量には百年の恋だって冷めてしまいそうだ。 「あら、落ち込んじゃったわね。お茶入れてあげるから、それ飲んでまた頑張りましょう」 ナーラはそう笑うと机や書類や本が溢れている部屋に戻っていった。 エイミーはその後姿を見送りながら恨めしげに再びガラス瓶を見つめた。 「これが成功だったら苦労しないのに……。やっぱり新薬の開発は難しいな…」 深々とため息をつくと、エイミーはナーラの後を追った。 「ありがとう。美味しい…」 ナーラの淹れてくれた紅茶を飲みながらエイミーは次の実験計画に頭を悩ませていた。 紅茶の横には資料やノートがどっさりと広がっていて、黒ペンと色ペンを使い分けながら、試験する試薬の絞込みを検討をする。これがまた骨が折れるのだ。ここの絞込みに失敗すると、また最初からのやり直しが待っている。 ……まあ、失敗は成功の元。試験する事には全てに意義があるのだが……早めに光明を見たいのは実験者としての悲願でもある。 「そういえば、エイミーって……ラミアン通りに住んでいたわよね?」 ナーラも同じく紅茶を飲みながらエイミーに話し掛ける。必死のエイミーと違い、くつろいで休息を楽しんでいた。 かけられた言葉にエイミーは半ば生返事で軽く頷く。エイミーとしてはのんびりと話している場合ではない。 だが、ナーラはその素っ気の無い反応に嬉しそうに目を輝かした。 「ねえねえ、じゃあこの間の剣術大会で優勝したルークさんに会った事ある?」 「……ルークなら隣に住んでるけど……もう何年も話してないかも。滅多に見かけないし」 「……ちょっと……お隣なんでしょう?それなのに話してないってどういう事よ」 エイミーの返答にナーラは怪訝な顔で見る。当然といえば当然の反応だ。 ナーラの表情に気がついて、エイミーは資料から目を離し、バツの悪そうな顔をした。 そういう表情をされるのは分かってはいるが……あまり面白くは無い。 「……だって、ルークは朝早いし帰るのも早いけど…私は朝も遅ければ夜も遅いし……見かけても話すとかそういう時間もないのよね」 「……あんたが夜行性だからでしょう」 「……ナーラもお母さんと同じ事を言うね〜」 呆れ顔のナーラにエイミーは苦笑いを浮かべる。少し前の母とのやり取りのようだ。 時間が合わないという事も確かにあるのだが、エイミーがルークと疎遠になったのは他にも理由があった。 小さい頃は仲が良くて、よく遊んだものだがいつからか状況が変わった。 ルークが剣術に長けている事が見出され、彼の存在が周囲の注目を集めるようになった。それに応えるようにルークはどんどん強くなっていき稽古に費やす時間が増え、会う事も少なくなった。 それに加えてエイミーはあまり剣術とか武術的なことが好きではなく、あまり興味が無かった為、ルークはどんどん遠い存在無いなり、年頃もあって余計に疎遠になった。 そしてもう一つ、疎遠になった理由があった。 ルークが周りからの注目を集め、有名な人になった。 急に置いていかれた気がした。世界が変わってしまっていた。エイミーの手には届かない人間になってしまっていた。 それが、エイミーに彼との距離をおかせていた。 そしてエイミーは今、魔法薬の勉強をしている。魔法学校に通い、魔術を学びながら研究室で薬研究に勤しんでいるのだ。 エイミーの住む世界も変わっていた。それがまた距離を生んだ。 幼なじみなのは確かだ。だけど、もう違う世界の人だった。きっともう話すこともほとんど無いだろう。そんな程度の関係なのだ。 その話をすると大抵の人には不思議がられるが仕方が無かった。少なくともエイミー達はそうなのだから。 「……まあ、いいわ。それはそれで。ところでエイミーにお願いがあるんだけど……」 「なあに?何かあるの?」 ナーラは笑顔でエイミーに微笑みかける。 「今の紅茶で全部きれちゃった。買出しに行って来てくれる?私、これから実験があって手が離せないし……どうせエイミーは計画書から練り直しでしょう?はい、お財布」 そのにこやかな笑顔にエイミーは先程受けた精神的ダメージを再度受ける。 そう、また最初からやり直しなのだ。しかも、今度は膨大な計画付き。……気が遠くなりそうだった。 「……どうせ、練り直しよ!……いいわよ、私が行って来るから」 エイミーは紅茶を飲み干すと、がたっと席を立った。 頭に来るのは確かだが、いい気分転換になるかもしれない。ナーラも気を使ってくれたのだろうか? エイミーは、にこやかに笑うナーラから財布を受け取る。そして、コートを羽織り、研究室を後にした。 それを笑顔で見送りながらナーラはクスクスと笑う。 「……今度の合同の仕事を知ったらエイミーってばさぞかし驚くでしょうね。ふふ、今から楽しみだわ」 未来のエイミーの反応を思うとナーラは笑わずにはいられなかった。 「昼すぎに買い物に行くなんてすごい久しぶりかも。……私、本当に夜行性」 昼の賑わった商店街を物珍しげにエイミーは見渡しながら歩いていた。 夜とは違う人の流れにエイミーは改めて自分の夜型生活を思い知らされる。 空を仰ぐ。 青い空だ。吸い込まれそうになるくらい澄んだ青。 その青い空の上に点のように浮かんでいるものが見える。 空中庭園。 その浮かんでいる点はそう呼ばれていた。詳しい事はあまり分からない。 城なのだという話もある。街なのだという話もある。 かつては人が住んでいたのだと、王国があったのだとも言われている。 何故、それが浮いているのかも分からない。 今の魔法科学では、あの空高い場所には行けないのだ。 当然、逆にあのように何かを空に浮かばせる技術も無い。 遥かなる昔からある、古代からの遺産とも言われている。 だからあそこに何があるのか分からない。 しかし、ずっとそれは月の様に回っていた。 見上げると大抵空の上に浮いていた。そして、見えない日はがっかりとさせられる。 ふと、エイミーは思い出す。小さかった頃、ルークの祖母に聞いた話を。 あの空中庭園にはお城があるのだと。そこには世にも美しい庭園と城があるのだと。 かつては国として栄え、その城には王様とお姫様が住んでいたのだと。 その話を聞いて、小さな頃のエイミーは空中庭園に憧れた。 いつか行くのだと憧れた。そしてその城をこの目で見るのだと。 「……私がおばあちゃんくらいになったら……あそこに行ける様になるのかなあ?」 まだ、諦めがついたわけではない。 だが、魔法の世界に踏み入って、まだまだである事を肌で感じるようになってから、そこにたどり着く事がまだまだ先であることを思い知らされたのだ。 国はここだけではない。 エイミーたちの住むアイラル王国は、他の国とは違って小さな島にある小さな国家だ。 小さいが故に他の大陸にある国々とは長い間に渡って交流がなく孤立していた。 しかし、孤立していたが故に、アイラル王国は特に魔法文化が独自の特色を持ち、エイミーが学んでいる魔法薬の研究も世界でトップレベルだった。 小さい国だが魔法文化では他国の先進を行くアイラル王国である。他国の情報は少ないが、今の段階でこの国にあの空中庭園に行ける者はいない。そうなると他国にいる可能性もほとんどなかった。 あの空中庭園に行く事は夢のまた夢だった。 それでも、空を見上げて空中庭園を見ると、やる気と元気が沸いてきた。 いつか行きたいと願う気持ちが、やる気を起させるのだ。 元気になって、うきうきと歩みを進める。 今日は空中庭園を見られたのだから、運が良い。心が軽くなった。 良い気分転換になっていた。 行きつけの紅茶専門店に行き、ここは買い物に来た特権で自分のお気に入りの紅茶を何種類か買い込んだ。 好きなものが買えたので、ホクホクしながら研究室への帰路についている時だった。 「あれ?エイミー?エイミーじゃないか?」 聞き覚えがあるような無いような声にエイミーは振り返る。 そこには背の高い黒髪の青年が立っていた。長い漆黒の髪を後ろで結び、人懐っこい感じのする顔には意志の強そうな赤い瞳が光っている。 その姿にはエイミーにも見覚えがあった。 「……もしかしてルーク?」 おそるおそる尋ねるエイミーに青年は苦笑いを浮かべる。こういう反応をされるのは少し予想がついていたらしい。 「……もしかして……って言い方はどうかと思うけど……まあ久しぶりだもんな。……久しぶりといえば……エイミー……縮んだ?」 「……ルークの背が伸びたんでしょう!」 あまりにも失礼なもの言いにエイミーはふくれた顔をする。 ……確かに昔よりはるかに差がついてしまった。小さい頃はあまり変わらない位だった事もあるのだが……今では頭二つ分は違うだろうか。縮んで見えても仕方が無いかもしれない。 「あ……悪い。そうかもな。俺、随分伸びたし……」 バツが悪そうな顔をして、すまなさそうにルークが謝る。 ……どうやら本気で縮んだように思ったらしい。 これにはエイミーも呆れるを通り越して思わず笑ってしまった。 「くくっ、あはははははははは!やだ、ルークってば、そういう所は変わってないのね」 「……笑わなくたっていいだろ……」 ころころと楽しそうに笑うエイミーにルークは不機嫌そうな顔になる。 「……まあいいや。そういや、来週は世話になるから宜しくな」 「……はい?」 ルークの言葉にエイミーは目が点になる。 エイミーの反応にルークも驚いた表情になった。 「なに?聞いてないのか?」 「聞いてないって何?何なの?」 エイミーの方は必死の表情になる。何だかとっても嫌な予感がした。 「今度の魔物討伐に、騎士団だけじゃ対応できないから、お前のいる研究班に応援頼む事になったんだよ。班長のレイス先輩から聞いていないのか?」 ルークの言葉にエイミーは真っ白になる。 班長には最近会っていない。理由はエイミーが単に夜型生活をしているせいなのだが…そんな話があったなんてナーラからも聞いていない。普段は何か特別な事があったら、彼女から伝わってくるはずなのだが、この話は聞いていなかった。 先刻のナーラとのやりとりを思い出す。 突然でてきたルークの話題。ナーラは知っていたのかもしれない。 だったらあの時に教えてくれても良かったのに。 だけど……うちの研究班に限って……。その思いが頭をかすめる。 そもそも争いとか討伐とかそういうのが嫌いなエイミーは、マジックギルドに入るにも、自分が興味ある事に加えて一番争いには無縁そうな魔法薬研究の班に加わったという経緯がある。 ……それなのに……それなのに……これが事実だとしたら。 「……私の平和な日常を返して〜〜〜〜〜」 エイミーは力なくその場にうずくまる。身も心も疲れ果てた感じだ。 心の洗濯もどこへやら。もう暗い気持ちにまで落ち込んだ。 「……いや、そこまで言わなくてもいいと思うんだけど。サポート頼んだだけだし」 あまりにも嫌そうなエイミーに、困り果てた顔でルークが何とかフォローしようと声をかける。だが、エイミーは力無く沈んだままだ。 「……とにかく詳しくはレイス先輩に聞いておいて欲しいな。当日の朝は迎えに行くよ。それじゃあ、俺はそろそろ行かないといけないから、またな」 ルークはどうしてよいのか分からずオロオロしていたのだが、時間がないらしくそう言い残すと、足早にエイミーの元から去っていった。 人ごみに見えなくなっていくルークの後姿を見守りながら、エイミーはもう一度空を見上げた。空には空中庭園が変わらず浮かんでいる。 だけど今はそれを見ても元気が出なかった。 「私の平和な日常が…日常が〜〜〜〜」 エイミーの悲しい声が空にこだましたのだった。 「そういえば、エイミーには話してなかったなあ……」 金色の短い髪に、鋭い感じのする灰色の瞳、年齢はエイミーよりは7〜8歳は上だろうか、穏やかで落ち着いた物腰の青年は温かな紅茶を飲みながらにこやかにそう言った。 「話してなかったなあ、じゃないですよ班長〜〜〜〜」 エイミーは半泣きの顔で訴える。 ルークと別れてから重たい足取りで研究室に帰った後、部屋で実験の準備に取り掛かっていたナーラを問いただした所、やはりナーラは知っていた。しかもナーラは先にルークとエイミーが出会ってしまった事を残念そうにしていた。どうやら、エイミーの驚く顔を見たかったらしい。エイミーからしてみれば、酷い話だ。 そして今は、その後から少しして現れた元凶を問いただしている最中だった。 こうなると憧れの人とかそういうのは一切関係が無くなる。いや、むしろ憧れの人だったからこういう事を招いたのだろう。 「まあ、気にするな。薬草の採取のついでにって話なんだ。 魔物がでるって所だし、騎士団の護衛付きで安全だしね。いい話だと思うよ」 「……ついででいいなんて……なにをするんですか〜?」 のん気な口調でにこにこと話すレイス班長に、相変わらず半泣きの顔のまま、とても疑い深そうな目でエイミーは食らいつく。 あまり良い話で得をした記憶は無い。しかも騎士団が関わっている。もっと嫌な感じがした。 必死なエイミーにレイスはちょっと困った顔で説明を始めた。ここまで、嫌がられるとは思ってもみなかったらしい。説得の必要を感じたようだ。 「それがな……魔力が感じられる人間が必要なんだそうだ。隣町との間に山があるだろう?ほら、よく薬草採取に行くヴィンラン山。あそこでね、奇妙な事が起こるんだそうだ」 指を立てながら、レイスは面白そうな顔をしながら続ける。 「ある時は、木々が広範囲にすっかりなくなっていたと思えば翌日には何事も無かったように戻っていたり、グリズリーや魔物が見たことも無いような傷を負って死んでいたり、湖が突然できたり、人が攫われて戻ってきたら記憶が無かったり、とかね」 「……随分、奇妙な話ですね。まるで何かがいるかのような……」 傍で一緒に聞いていたナーラが考え込む仕草をする。 エイミーもそれには同意見だった。木々がなくなったり戻ったり湖が現れたり…は良く分からないのだが、見たことも無いような傷や記憶の無い誘拐事件は何か得体の知れないものの存在を感じさせた。 その言葉にレイスも頷く。やはり同意見らしい。 「そう、奇妙なんだよ。しかも得体も知れないしね。だから周りも事を重く見て、騎士団が解決に乗り出したんだが手がかりがなくてね。調査した結果、分かった唯一の事がその事件のあった周辺に独特の奇妙な魔力の波動が残っているっていう事だったんだ。しかし、かなり微弱らしくてね、騎士団の連中だと判断しかねるらしい。彼らは基本的に魔法には縁が薄いからね。ならば普段から魔法に関わっている人間ならわかるんじゃないかって事になってね。俺達の班はよくヴィンラン山に薬草を採りに行くからね、知識も買われて要請があったんだよ」 「要は、私たちは騎士団と共に行動して薬草の採取をしながら、怪事件に遭遇した時はその魔力の主の調査に協力するって事ですね」 レイスの言葉に続けてナーラが要約する。自分たちの役回りが一番分かりやすい表現だ。 「さすがナーラ、その通り。そんなに心配する事なんてないんだから安心して良いよ。なんたって騎士団が一緒なんだ。いざという時は彼等にまかせれば良いさ」 ナーラのまとめにレイスはニッコリと頷いて、エイミーに安全だと確認するように笑ってみせる。 話の内容は何やら良く分からない感じで気味が悪いのだが、レイスもナーラもいたって普通で、エイミーもやっと少しは安心感がでてきた。あまり危険性が薄い事が伺えたからだ。 だが、ナーラが思い出したかのように口を挟む。 「……でも私、来週は研修に行きますから無理ですよ?」 「実は俺も忙しくてね、キャンプまでは行くんだけど現場までには行けそうに無いんだ」 レイスも普通の表情でそう続ける。 エイミーの思考が止まった。……つまり、この二人が普通の顔をしているのは、自分にはあまり関係ないからであって……。 ナーラとレイスの瞳がエイミーの方ににっこりと微笑みかけ、声を揃えてこう言った。 「そんな訳だから、エイミー、宜しく頼むね」 にこにこと微笑む二人にエイミーはまた半べそ顔になる。 嫌な予感は完全に的中していた。 へたへたと力無く座り込むと、こう囁くように呟いた。 「……私の平和な日常を返して……」 |