否定の仕方がオーソドックス(非科学的!)なので、ちょっと紹介しておきましょう。
内容は、以前も私がそうだったので、とてもよくわかります。
科学的とはどういう意味か (幻冬舎新書)
出版社:幻冬舎 発売日:2011/06/19 価格:798円
たぶん、多くの皆さん(特に理系の皆さん)には、常識以前の常識なのではないでしょうか?
要するに、一言で言えば、科学を宗教のように信じろ!ということです。
え〜〜!!いう声が聞こえそうですが、これは事実です。
極論すれば、非科学的なことは、信じるのはおろか、一切タッチしてはいけません。
逆の言い方もできます。
信じたり、勉強していいのは、科学的なことだけです。
もっとも、「遊び程度」なら非科学的なことをするのは、ある程度許容されています。
では、実際に検証してみましょう。
第2章に「科学的というのはどういう方法か?」では、その典型的な論理が語られています。
自分は非科学的なことは信じない、と胸を張っている人でも、家を建てるときには地鎮祭をする。身内で不幸があれば、大金を払って戒名付けてもらう。(p69)まぁ、これはそのとおりでしょう。しかし、次にはこう続きます。
血液型で性格や相性がわかるとか、葬式を友引にしてはいけないとか、いったい誰が言い出したことだろう。(p70)この文章は意味が分かりません。
森さんが調べられないはずがありません。が、彼はその結果を書こうとはしていないのです。というよりは、たぶん、その必要がないと考えているのでしょう。
次には、奇妙なことに、
そういう[非科学的な]ものに支配されている人を非難するつもりはない。「従っていれば損はない」「そのルールを破ると周囲から文句を言われる」という協調性が、これらが持続している原動力である。…とあります。
ただ、それらが根拠のない非科学的なものであることを知っているかどうかは大きい。もし知らずにいたら、少し問題だと思う。疑問に思わないことは、非科学的な生き方である。そういう生き方は、損得で考えれば、明らかに損だ。(p70-71)
この文章が、なぜ奇妙かというと、「血液型」や「友引」の知識がないのに、非科学的と断定はできないからはずだからです。
科学的に否定するというなら、「血液型」や「友引」の内容はカクカクシカジカであるという定義があり、そのコレコレの部分が科学的に間違っているから信じない、ということでなければいけません(当然!)。
が、しかし、「血液型」はともかく、ほとんどの人には「友引」はどういう方法で決まるのか、といった知識はないでしょう。少なくとも、私の周囲の人はそうです。
となると、「友引」の定義がサッパリわからないのに、「非科学的」と決めつけるのは(明らかに!)科学的ではありません。
おかしくありませんか?
やっぱりおかしいですよね?
で、なるほどということで、仮に、森さんに、「友引」を調べたらこんなことがわかって、なるほど非学的ですねぇ、と言ったらどういう反応をするでしょうか?
この本には書いてありませんが、たぶんこうなるでしょう。
なぜ、「友引」なんて非科学的なことを調べたんだ。非科学的なことを調べると本当に非科学的になっちゃうぞ!と…(笑)。そんなことは調べちゃダメなんだ、とまず間違いなく叱られることでしょう(苦笑)。
実は、「血液型」では、そんな論理構成になっています。
血液型で性格や相性がわかるとか、葬式を友引にしてはいけないとか、いったい誰が言い出したことだろう。(p70)しかし、別なページには、これとは矛盾する(?)文章があります。
血液型については、ある程度の科学的説明が(真偽のほどはともかく)各所でなされている。A型の人は生活習慣に関わるある病気にかかりやすかった、だから慎重な性格の人が生き残った。これが、A型には慎重な人が多い理由だ、というような説である。でも、いずれにしても、せいぜいが、「慎重」とか「真面目」といったファジイな性質の単なる統計である。「アメリカ人は陽気だ」というのと同じレベルである。(p177)これは明らかに間違いです。
例えば、その筋では有名なCloningerの性格理論では、Harm
Avoidance(損害回避傾向=慎重さ)という項目があります。確かに、A型の人はHarm
Avoidanceのスコアが高い傾向があるので、「ファジイな性質」ではありません。
こんなことは、心理学者に聞くまでもなく、ちょっとググればわかる話です。
[興味深いのは、どうやら「統計的に有意な差がある」ことは認めざるを得ない、と考えているフシがあることです。もちろん、明確には書いていないのですが…。]
事実を知らないだけではなく、間違った知識で判断するのは、どう考えても科学的ではありません。
が、しかし、森さんに、この事実を指摘しても、彼が持論を変えるはずがありません。
というのは、彼は、日本的な「科学」の理解、言い換えれば科学を朱子学的に理解しているからです。
続きは、こちらをどうぞ!
「血液型人間学批判」の朱子学的理解
[http://abofan.blog.so-net.ne.jp/2011-02-24]
余談ですが、「友引」なんて非科学的なことを調べると、なぜ叱られるでしょう? それは、その人が「非科学」には霊がいて、その非科学の霊(?)が調べた人に取り付くからダメ(非科学的な人間になる?)というのが、一番合理的・科学的な説明です。
#内容は、非科学そのものですが、こう考えるしか合理的な説明ができません。
別な言葉で言うと、「非科学」は汚れている。汚れたものを研究すると、その人が汚れるからイケナイということにもなります。
というのは、欧米では、「非科学」を研究するのに、そこまでのタブーはないからです。もっとも、全然ないわけではなく、あくまで程度の問題ですが…。
非科学を徹底的にやっつけるには、非科学自体を徹底的に研究しなければならないはずです。汚れているから研究しないのなら、それは科学的とはいえないでしょう。
残念ながら、この本には、その回答はないようです…。(*_*)
参考のために、ヨハネの福音書 第20章からの抜粋です。
十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれているトマスは、イエスがこられたとき、彼らと一緒にいなかった。これに対して、朱子学ではこうなっています。いや、正しくは山本七平さんの本ですが…(山本七平ライブラリー1 『空気の研究』 空気の思想史――自著を語る 文芸春秋 H9.4 350ページ)。
ほかの弟子たちが、彼に「わたしたちは主にお目にかかった」と言うと、トマスは彼らに言った、「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」。
八日ののち、イエスの弟子たちはまた家の内におり、トマスも一緒にいた。戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って「安かれ」と言われた。
それからトマスに言われた、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。
トマスはイエスに答えて言った、「わが主よ、わが神よ」。
イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。
『論語』の子路篇に出てくる話に、「葉公、孔子に語りて曰く、吾が党に躬(み)を直(なおう)する者有り。その父、羊を攘(ぬす)みて、子これを証(あらわせ)り。孔子曰く、吾が党の直き者は是に異なり。父は子の為に隠し、子は父の為に隠す。直きことその中に在りと」――葉公[注:中国の王様])は、父が羊を盗んだことをその子供が証言したといって褒める、それに対して孔子は、父が羊を盗めば、子供はそれを隠すのが正直というものだ、と応える。念のため、キリスト教が正しくて、論語が間違っているということではありません。