よく「個性」だ、といわれます。子供の教育の現場から、日常の衣食住、技術の分野、芸術分野など、ありとあらゆるもの、いたるところで「個性」が叫ばれています。一見確かに「個性」という言葉は気持ちよく響く言葉であり、何か自分が優れた存在であるかのような気分にさせてくれます。
しかしそもそも「個性」とは何なのでしょうか。何か「個性」というものの実態があるのでしょうか。
さらに「個性」の周辺には似たような”怪しげな”言葉がたくさんあり、子供たちや世の人々を誘惑し続けています。例えば、「自己実現」、「アイデンティティ」、「自分探し」・・・。そのために闇雲(やみくも)に行動したり、懸命に金を使ったり、場違いに悩みすぎたり、閉じこもったり、あばれたり、あげくの果てに病気になったりして四苦八苦しながら、「個性」「自己実現」などを探し求めています。あたかもこれらが目的だといわんばかりです。はたしてそうでしょうか。
人間の長い歴史の中では「個性」などはもともと無かったと思います。むしろ規律や倫理、掟、宗教などがそういうありようを禁じていたのです。すべては神の思召(おぼしめ)しと信じそして祈り、部族、民族の規律に従い、行動し、結果がよければ神に感謝し、そうでなければ神に対し反省する、という暮しをしていたのでした。自分の思いや希望などは無かったのでした。そもそも、そんなものは無くても、自分の仕事に精を出し、日々感謝していれば、静かに豊かな生活ができたのでした。
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ところで人間は、生物学的に他の動物と何か違いがあるのでしょうか。
実は人間は、自然界ではかなり特殊な存在であり、相当工夫しないと人間の種そのものが滅びかねないのです。これは最近の地球環境問題や資源問題などとは異なる次元の、より基本的な話です。
高等動物、例えばアフリカの牛の仲間のヌーは、産み落とされると弱々しく立ち上がります。そして、すぐによたよたと歩き出し、母親の乳を飲みに行く場面を、よく映像などで見かけます。まわりにはライオンなどの猛獣がいるので、当然の進化の結果の生態なのかもしれません。しかし純粋に感動すると同時に、なんと人間とは違うのだろうか、と思います。一時間後にはもう走り回っているのです。あの野生の「たくましさ」には、人間は全く対抗できません。
一方人間は、生物学的には、実は「未熟児」で誕生します。これは生物の一般的な進化の過程としては、例外的な存在であるとされます。ですから人間は、歩くまでに1年近くもかかり、言葉を覚えるまでにさらに数年かかり、人間としての物事、諸事一般をおぼえるまでにさらに十数年かかるのです。
この間、親とともにその親が属する人間の集団は、20年近く子供をずっと保護し育てなくてなくてはなりません。他の動物と比較すると、この負担は相当なものです。つまり人間は、自分達の種の保存のために、相当なハンディキャップを持つことになりました。十分に納得させられそして強制力を持つ「きまり」を持つ必要があります。
衛生状態も悪く安全、確実な知識が少ない時代では、先人の経験則や具体的な実績が役立つわけです。例えば、ある毒キノコを最初に食べた人間は気の毒なことになりますが、しかしこれを見た人々は二度とこの毒きのこを食べません。その子孫もこの強烈な体験をしっかり受け継ぎ、食べてはいけないものの一つにくわえるのです。このように各民族が、様々な失敗や経験から、実績がある確実で安全な生活つまりは「種の保存」方法を、各種技術、宗教、倫理、習慣、タブーなど(つまり文化)として設け、子々孫々これらを「規範」として継承してきました。
ここに人間の「文化」の基本があると思います。ですから、この「文化」は、形にならないものも多いのですが、人類維持のための最重要でかつ最も基本的な仕掛けなのです。これから外れるような行動は最悪、”種の絶滅”につながります。
岸田秀は「ものぐさ精神分析」(1977、青土社)のなかで、国家レベルの活動から人間の諸活動を”幻想”であるとしています。すなわち人間が作った全てのシステムや制度(宗教、法律、国家、経済システム・・・)は”幻想”である、とし「共同幻想論」(あるいは「唯幻論」)を提案しています。当然、家族活動や企業活動もこの「共同幻想」という共通認識で成り立っています。
人間の根本原則が「幻想」である、ということは「幻想」の原則や理論を変えれば、世界が変わるということにもなります。
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人間の本来の目的は「種の保存」です。これは他の生物と全く同じです。DNAもそのように機能しています。
人間を含めた色々な生物の各個体(つまり一人一人)は、DNAが乗りこなす「乗り物」といえます。DNAは個体を乗り継いで、どんどん己が望む方向へと突進します。乗り換えの度に、そのDNAは強くなるつまり耐環境特性は通常向上する可能性があります。これを「進化」といいます。乗り継ぎ回数が多いほうが、その機会が多くなりDNAには有利です。ですからDNAと各個体との目的、利益は相反します。人間が何100年も生きないのも、このDNAの企み、戦略といえます。あまり長生きすると、DNAには不利になります。ひいては耐環境特性が弱体化し、種全体が滅びます。また時々DNA同士の組合せの変化が起きます。これが「突然変異」です。その結果、以後の個体は強くなるか一気に滅びに向かうかどうなるかはわかりません。
われわれの先人達は、この目的のためにありとあらゆる幻想を作り出し、文化や技術、習慣、宗教やあらゆるシステム、諸制度が受け継がれてきました。
これらのシステムや諸制度は、その「標準化」にその思想があると思います。この「標準化」により、誰でも日常の生活が安全に、確実に、デフォルト(注1)で行えるのです。
(注1) | デフォルトdefault・・・コンピュータ用語で、予め決まっている機能やそのデータのこと、つまり操作時矛盾が無いよう、事前に準備された、故障を防ぐ仕掛けのこと。 |
例えば、ごく身近な例では、こういうものをこんなふうに料理して食べれば病気にならないとか、この地域のこの季節ではこのような服を着れば安全であるとか、言葉の構造はこのようにすれば色々な活動に役に立つとか、人は人を傷つけてはいけないとか、ほとんど全ての知識や知恵はわれわれの先人のものを受け継いだものなのです。
ここから普遍的な変わらないものとしての制度やシステムが生まれました。人はこれに十分に適応するようにしつけられ、教育され、訓練され、そしてその集団に属していくのです。これは結果として、時には「過剰適応」を生む契機をもたらします。
また、生物一般の原則から外れた人間は、その恨みを晴らすかのごとく、欠けているものを充足するかのように、芸術活動や創造活動を行ってきました。現在では創造活動は人間にとって、不可避な、不可欠な活動であり、いまや逆に人間が「人間」である理由付けにもなっていると思います。企業での研究開発や画家や音楽家などの創作活動は確かに、人間の特長をなすものです。そしてこれらの創造的な活動は、人間の「非適応」的な要素がなければ成立しません。
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人間は他の動物とは違った生物学的な特性があるために、「共同幻想」を作り上げてきました。これにより他の動物と同じように種の保存が可能となったのです。しかし一方、その必然的な結果として、「過剰適応」する特性と、逆に「非適応」な特性部分が同時にできてしまったのです。
この二つの特性は、大きく矛盾しますが、この二つが無ければ、「共同幻想」つまり芸術、技術、法律、倫理、思想などあらゆる仕掛けやシステムは存在しなかったのです。人間の考え方の雛形(ひながた)がここにあるわけで、いろいろな形で人間の考え方や行動原理に影響します。
芭蕉に「不易流行(ふえきりゅうこう)」というものがありますが、これら二つの特性や本質を直感的にあらわしたものではないか、と思います。芭蕉の俳諧の根本原理で、この二つのものは「風雅の誠」で一体化するといいます。
不易:過去から受け継がれ時代と共に変わらない普遍原則
流行:その時代時代で革新され改まる原理
電脳法師には、俳句の真髄はよく分かりませんが、考え方としては、伝統の評価された真実や美(過剰適応)と、自らが直感するに到った真実や美(非適応)とが高い次元(風雅)で融合する、ということでしょうか。
しかし現在のわれわれは、先人達が伝えてくれたものを見失っているような気がします。例えば「過剰適応」と「非適応」とがバランスよく機能していないのです。両方極めて重要なのですが、その使い方に関する考え方がずれてきています。また目的と手段とが入れ替わっている場合もあります。「個性」が目的化されることなどは、そのよい例でしょう。
電脳法師は、「考え方」を使うための”考え方”としての、”上位的な知”とか”総合的な知”というものが、脆弱化(ぜいじゃくか、もろく弱くなること)してきているような気がして仕方ありません。
何かを革新したり変えようとするときは、物事の本質に迫るようなアプローチ法をとらないと、何を見ているのか、何を判断しているのか、何を実践しているのかが分からなくなり、結果は必ずおかしなことになります。電脳法師は、個人的には、特に技術屋はこの認識や世界観をもつことは重要課題の一つである、と考えています。
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子供たちに教える「個性」という言葉ばかりが先行していますが、教えるほうはその本質を理解していないのです。子供たちはたまりません。「個性」だとか、「自分さがし」だとか、まるでたまねぎをむくようなもので、いくらむいてもその芯には何も無いのです。結局は、単にいつも他人と違うことを求めたり、わざと目立つような方法をとったりします。何か他人と同じであることが負い目であるかのような気分になってしまうのです。
あげくの果てに、この結果としてと思われますが、無気力な状態あるいは無力感に襲われた状態に陥り、他と異なることに非常に神経質になります。引きこもってしまいがちなのも、案外このバランスが崩れた結果かもしれません。
皆が携帯電話を持てば自分も持たないと不安になり、大した用もないのに”皆が自分と同じかどうかの確認のために”連絡を取り合います。ファッションも他人と違うことに異常に警戒して、いつも他と同じファッションにしたり、自分達と違うものにはそれだけで排除の対象とします。世の中のトレンド、つまり他の喜ぶところを喜び、他の欲するところを欲するという、やり方でしか世界を見る事しかできないという思考方法となります。おかしな事ですね、どうしてこうなるのでしょう。
この現代において、先人から引き継いだ考え方や仕掛け、システムがなにやら狂い始め、場合によっては、「種の保存」にも影響が出始めるかもしれません。(実際、ある部分には、影響が出始めています。)この過剰適応と非適応の考え方は、第一に教えることが必要です。先人達の深い知恵や知識を再認識すべきでしょう。
最近よく技術の分野で「この特許は俺の発明だから何億円よこせ」という人間がいて、会社に対して裁判を起こし注目を集めますが、どんな特許でもそんな価値は無い、と電脳法師は思います。99.999%以上は先人の努力の賜物であり、0.001%以下がその人間の発想なのです。どうしてそんなに要求するのか。傲慢(ごうまん)になってはいけません。見苦しいとしかいえません。
冒頭で述べた現代の「個性」は、何とも薄っぺらで、頼りなく、惨めに見えるのでしょうか。この特許の例と似ていませんか。われわれの先人が築いてきた考え方やシステムを全く理解することなく「個性」といったところで、それは何の力もありません。自分がかえって虚ろになるだけです。
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先人達の深い知恵、知識から分かることは、先ずは「学ぶ」ことです。「修破離(しゅはり)」が原則です。
先人達が、それこそ命がけで確信するに到った真理(共同幻想)を、つまり人間に必要なデフォルトな知識を、よく「学び」、「修め」ます。なぜこのようなのか、この世界の仕組みを良く学び、自分のものにしてから、それを「破り」ます。つまり応用するのです。そして自らの考えを構築して「離れる」のです。この次元で初めて、本当の「個性」らしきものが現れはじめるのです。
最初から「個性」などはありません。思索、行動、反省などの結果としてその人ににじみ出てくるものなのです。
昔から、修行も学びもしないでチャラチャラしている者は、軽蔑(けいべつ)されました。人に迷惑をかけたり不愉快な思いをさせる行為は非難されました。一方で他の人への思いやりは尊ばれました。今はこのようなことも忘れ去られ、「私が」「おれが」「個性が」と傍若無人です。
「Cogito, ergo sum. (我思うゆえに我在り)」。
近世になって、デカルトが神の座に人間をおいてしまいました。ここからが悲劇の始まりでしょう。神を追放してしまったのだから、自分が神になるしかありません。「選ばれてあることの恍惚と不安、この二つ・・・」と誰かが言っています。
いつもこのコンプレックスがついてまわり、「個性」「自己実現」「アイデンティティ」「自分探し」などとなってしまうのです。そしてそれらが見つからない時は(実際さがして見つかるわけはないのですが)、その反動か、集団への帰属意識が強くなります。皆と同じであることへの引力が非常に強くなって、集団の基準と違う個人に対して非寛容になりハラスメント(いじめ、いやがらせ)や迫害になります。
たとえていえば、人間は神を追放してしまい、自分がその座についてしまったようなものでしょう。だがしかし、その”新参の神”は、その身に合わない分際(ぶんざい)となって、怖(おそ)れ慄(おのの)いているしかないのです。そこで”藁(わら)をもつかむ”思いで、横にいる別な”新参の神”をみて手本とするしかなく、結局みな同じとなってしまう、というようなものでしょう。
先人達が命をかけてあみ出し、伝えつづけた、すばらしい仕掛けを、後生のわれわれは自ら放棄し、そのあげくに悩み苦しんでいる。なんとも愚かしいことですね。
もっとも追放された神がこれを見て、
「これぞ人間の人間たる所以(ゆえん)ぞ、この不届き者め!」
というでしょう。
「個性」は、英語でいうとパーソナリティpersonalityといいますが、その語源はラテン語のペルソナpersona、つまり「仮面」に由来します。「個性」「個性」といったところで、しょせん”仮面”程度のもの、ということでしょうか。”仮面”つまり”仮の”面であるからには、その前提には「真実の顔」があるはずです。その「真実の顔」でもって考え、学び、行動し、その「真実の顔」でもって世界を知ったほうがよほどよいでしょう。
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日本においては「和をもって尊しとなす」と、奈良時代、いやもっと大昔からいわゆる和=全体の調和、つまり「全体最適」の「共同幻想」で最近までやってきました。全体を考え、全体の幸福を願って努力し、その中で自分の役割や仕事をしていました。
ところが昭和20年8月15日の敗戦の日から、”自由”、”平等”、”個性”、”自己実現”と、占領軍の政策および統治で「部分最適」(つまり公より私を優先すること)を目指す「共同幻想」に転換してしまいました。これには占領軍の「特殊な事情」と「戦略」がありました。
しかし”自由”も”個性”も別な「共同幻想」なのであって、その”仕掛けられた幻想”によっては、とんでもないことになります。もしかしたら、われわれはものすごく無謀で、無駄な努力をしたのかもしれません。
そして現代はその「仕掛けられた戦略」が実り、「自分が」「自分探しが」「私が」「個性が」「自己実現が」、"I, my, me, mine" の「部分最適」の時代です。
そして今、いくつか経験したように巨大地震、巨大台風などによる自然災害や都市の巨大化による新しい災害の恐れがあります。このような場合、「部分最適」的な特性の人間の集団で、一体われわれはうまくやれるのだろうか、と思います。いわゆる「弱者」に、極端な犠牲が出る恐れも出てくるでしょう。
「全体最適」より「部分最適」が優先してもろくな事が無いことはすでに60年間も見てきました。われわれの先人達の考え方を改めて見直してもよいのではないでしょうか。
それにしても、われわれに最も合致する「共同幻想」とは何でしょうか。<<Return to Japonism !>>
・・・そして、この「個性」のように・・・