地球の裏側へのレース
技術革新が、意欲が、そして幸運が、デ ハビランド DH-88 コメットとそのパイロットたちにマックロバートソン杯の栄冠をもたらした
- レーン ウォレス

午前 4 時、冷たい夜明け前の風が荒涼とした駐機場を切り裂き、汚れた上着とジーンズに身を包んだ私たちは寒さに身を震わせています。ここ 1 週間、ほとんど睡眠を取ることもできず、まともな食事もとっていません。クルーたちの足取りは重く、目の周りにはくまができ、疲労の色がしだいに濃くなってきました。ここネバダの人々はきっと今ごろ、暖かくて柔らかいベッドに横たわって、幸せな眠りの中にいることでしょう。それを想像すると、私たちだけがなぜ今、寒さに震えながら、思いどおりにならないことへのいらだちや、機械の故障、そして疲労と戦っているのだろう、と思わずにはいられません。こんなにつらい思いが、いったい何の役に立つというのでしょう。その理由は目の前にあります。強大なパワーを持つ、流線型のブルーとシルバーのこのレース機のためです。最高にスリムで高速なこの飛行機であれば、ここリノで開催される全米エア レース選手権で勝利を収めることが十分に可能なのです。ただしそのためには、間際に見つかったエンジンの問題をレース開始前までに解決し、さらに、レースのゴール ラインを越えるまでエンジンが持ちこたえてくれなければなりません。

私は、スポットライトに照らされている、予選開始の 4 日前に起きた着陸時の事故でひどく損傷した機体を見つめながら首を横に振ります。「まともじゃない」と 1 人つぶやきながら。

毎日 20 時間の作業を 4 日間続けて、どうにか機体の修理が終わりました。そして、リノへ向かおうとタキシングしているときに、尾輪が脱落してしまったのです。2 人の整備士が機体後部を持ち上げて空の燃料容器に載せ、尾輪をワイヤーでつり下げて固定しただけで、レースに間に合わせました。レース会場に到着すると、記者が「この機体で勝つ見込みはあるのかい」と質問してきました。すると、この機体の修理を続けてきたパイロットが、油で汚れた手で額の汗をぬぐい、確信したような笑みと共に首を振りながらこう言ったのです。「なんだって? それが俺たちの使命なんだ。尾輪をぶら下げたままで勝ってやるさ」

これがエア レースの本質です。

確かに、まともではないでしょう。しかし、レースとは "慎重さ" とは程遠い世界です。2 頭立ての馬車を駆り、コロシアムを疾走するローマ人、苦しみに耐えながら 42.195 km を走り通すオリンピックのマラソン ランナー、インディ 500 マイルレースで壁に沿って疾走するレーシング ドライバー、そして名声と栄誉のために空中で競い合うパイロットのことを想像してみてください。どのようなレースでも、その本質は変わりません。レースのパイロットであろうがクルーであろうが、勝利や栄光を目指す者にとって、栄誉という魅力の前ではどんな心配事も消えてしまいます。尾輪をぶら下げたまま、十分な飛行テストもできず、エンジンも完璧な状態ではない。睡眠は足りず、機体の揺れが激しく計器も読み取れない。しかし、どんな問題があったとしても彼らを止めることはできないでしょう。エンジンが動き続ける限り、"慎重" などという言葉は空に投げ捨て、スロットルを全開にしてフル スピードで飛び立っていくのです。

"全力を出し切って最初に到着したものが勝利するエア レース、その魅力に多くの参加者が取りつかれ..."

1934 年にロンドンからオーストラリア南海岸までを競い合う史上最大規模の長距離航空機レース、マックロバートソン国際エア レースで勝利を収めたデ ハビランド DH-88 コメット。そのレプリカ機の周りを歩きながら、私はリノで迎えた寒い朝のことを思い浮かべていました。弾丸のような形の機首を持ち、これで空に浮いていられるのかと疑うほど薄いカミソリのような翼を両側に広げ、翼から、空力的なデザインのドロップ タンクのような 2 基の流線型のエンジン ポッドを下げた、優美な赤い機体。私がリノで使用した青とシルバーのレース機の原型がこの 1934 年の機体なのです。サラブレッドと呼ぶにふさわしいセクシーな外観とスピードを備える、じゃじゃ馬のようなこの機体は、ゴール ラインを越える前にトラブルが起きる危険性も高かったでしょう。

コメットは、実はあるレースのために特別に製作されました。オーストラリアと他の英連邦諸国を空路で結び、通商や定期便としての利用を促進したいと考えたオーストラリア人ビジネスマンの発案による、マックロバートソン レースです。イングランドとオーストラリア間の飛行が可能であることは、既にパイロットたちによって証明されていました。スミス兄弟がヴィッカース ヴィミーで 1919 年に早くもこの飛行を実現していたからです。しかし、1919 年から 1934 年までの間、この空路に挑戦した勇敢な開拓者はほんの一握りで、長距離旅客便への道はまだ開かれていませんでした。全力を出し切って最初に到着したものが勝利するエア レース、その魅力に多くの参加者が取りつかれ、世界中の熱い注目を集めました。そして、来るべき "地球の裏側への" 空路を切り開くきっかけとなったのです。

1934 年当時、世界規模のエア レースのほとんどは米国で開催されていました。毎年行われるベンディックス大陸横断レースから、周回制のパイロン レースであるトンプソン杯など、それらのレースから、設計の進化と高性能なエンジンの開発に貢献しただけでなく、民衆の新しいヒーローであるパイロットが誕生しました。しかし、ベンディックス大陸横断レースでさえ、飛行する距離は 2,500 マイルに満たないものでした。イングランドからオーストラリアへのスピードレースともなれば、 11,000 マイルの行程を、3 つの大陸を横断し、天候の予測もつかず、航法装置もなしで、数箇所の飛行場があるだけの状態で飛行しなりません。控えめに言っても無謀な計画です。しかし、それがパイロットや航空機メーカーを、そして世界中の人々をもとりこにする理由だったのです。これは、かつて開催されたどんなイベントも及ばない、一生に一度あるかないかというチャンスでした。勝者は、賞金として与えられた 10,000 オーストラリア ポンドよりはるかに多くのものを得たはずです。

オランダの新興航空会社 KLM は同社の飛行機と航行技術が長距離飛行に十分耐えうることを実証し、アジアおよびオーストラリアへのルートに必要とされていた、地上支援拠点ネットワークの基盤作りに着手するためにダグラス DC-2 でレースにエントリーしました。また、H.J. ハインツという企業は、このレースに参加したボーイング 247 旅客機のスポンサーとなり、社名と自社食製品の認知度向上を図りました。そして、ジェフリー デ ハビランドは、このレースをデ ハビランド社の飛行機を世に売り出す絶好の機会と捉えたのです。

コメットは、格納式着陸装置、フラップ、可変ピッチ プロペラを装備した最初の英国製飛行機であり..."

レースの開催が報じられると、英国のいくつかの航空機メーカーが、レース専用の新型航空機の製作を検討し始めました。しかし、これに本気で取り組もうとするメーカーはなく、米国のボーイング社やダグラス社の輸送機、あるいはロッキード社製のヴェガと対等に勝負することのできる英国製の飛行機はどこにも見当たりませんでした。ジェフリー デ ハビランドは「英国はただ指をくわえてこのレースが開催されるのを見ているわけにはいかない」と宣言し、このレース専用の飛行機を開発するよう技術者たちに命じたのです。

こうして、DH-88 コメットが完成しますが、この飛行機には数々の注目すべき点がありました。まず、この機体 (3 機を作成) が設計、製作、初飛行を 10 か月で完了させたことです。また、格納式着陸装置、フラップ、可変ピッチ プロペラを装備した最初の英国製飛行機であり、当時としては革新的な装備だったといえます。エンジンと着陸装置以外はすべて木製です。内側から固定されている片持式翼をできるだけ薄くするために、燃料タンクはすべて胴体に収納し、大部分をコックピットの前方に配置しています。そのため、操縦席は胴体の後方に追いやられ、前方の視界がほとんど遮られることになりました。ただでさえ視界が悪い上に、離着陸時は機首上げの姿勢になり、2 つのエンジン ポッドにも邪魔されてしまい、本来ならわずかながらも視界に入るはずの滑走路さえも見えなくなってしまいました。しかし、幸運にも当時は空港といってもまだ広大な野原がほとんどだったので、着陸地点が多少ずれても問題はありませんでした。


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グロブナー ハウス ホテル重役リー エドワーズによる、"グロブナー ハウス" DH-88 コメットの命名式

デ ハビランド社は、コメットの性能を少なくとも時速 200 マイル以上の飛行速度、2,600 マイル以上の航続距離になると見込んでいました。しかし、この速度を実現するために、デ ハビランドの新しい 6 気筒ジプシー エンジンに改良を加え、馬力を上げなくてはなりませんでした。デ ハビランドの技術者たちは、シリンダ ヘッドとバルブを変更し、エンジンの圧縮比を上げ、185 馬力から 223 馬力に上げることに成功したのです。この変更によりコメットの最高時速は 230 マイルに向上したものの、馬力を上げることにより無理な負担をエンジンに強いることになり、オーバーヒートやその他の問題が浮上しました。そして、それらはすべて、マックロバートソン レースの最中にパイロットたちが発見したのです。

燃料を大量に積んだ機体を離陸させ、なおかつ、上空で最高速を引き出すため、コメットの設計者たちは、レース機に新たな技術を搭載する必要性を感じていました。その答えが、低速時と高速時にプロペラピッチを調整するためのギアを装備した、可変ピッチ プロペラです。最終的にコメットに採用されたのは、1 回の飛行につき 1 度だけ低速から高速へと調整できる、フランス製のプロペラでした。より高性能な米国製のプロペラもありましたが、技術者たちはそれでは重すぎると判断したのです。

コメットの設計者たちは、機体の重量をできるだけ軽くすることに苦心しました。なぜなら、コメットの最大出力は 445 馬力しかなかったからです。コメットのライバル機である DC-2 は双発エンジン機で、両翼に 710 馬力のエンジンを搭載していました。低い馬力でより高速に飛行できるように、コメットには空気抵抗が少ない流線型のデザインが採用され、さらに機体をできるだけ軽くする必要があったのです。

他のレース機にも言えることですが、コメットの高速流線型のデザインは、操縦特性に若干マイナスの影響を与えました。翼下のスプリット フラップを使用しても、アプローチ速度は時速 95 マイルです。また、コメットの楕円形の翼端形状は、抗力の減少には貢献するものの、急激な翼端失速を起こしやすくなりました。その結果、着陸の直前に一方の翼が下がって左右どちらかに横転しそうになったり、着陸後に左右方向へひどいヨーイングを起こしたりすることがあります。デ ハビランドのテスト パイロットをもってしても、このような機体の挙動を封じ込めるのは至難の業だったのです。特に暴れたコメットをなんとか飛行場に着陸させたあるテスト パイロットは、本来の位置ではないところに停止した機体をそのままにして降り立つなり、こう言い放ちました。「あんな風に設計したやつらが、自分で取りに来い」

"勝利を飾ったコメットのレプリカ機を目の前にして、パイロットとクルーの熱意と無鉄砲さ、それらを思うと首を振らずにはいられません。"

デ ハビランド社の当初の計画では、マックロバートソン レースのために、3 機のコメットをすべてレースの 1 か月前には完成させることになっていました。しかし、製作には予定よりも大幅に時間がかかり、最後に勝利を飾ることになる真紅の "グロブナー ハウス" コメットの初飛行は、レース開始のわずか 11 日前でした。実際のところ、デ ハビランドの技術者たちはレース前夜まで燃料系統と滑油系統に最後の改良を施していたのです。

勝利を飾ったコメットのレプリカ機を目の前にして、パイロットとクルーの熱意と無鉄砲さ、それらを思うと首を振らずにはいられません。この飛行機には、高度な改良が施されたエンジンと、数々の斬新な技術が詰め込まれていたものの、それらは何の実績もないものでした。本来であれば、クルーたちはあらゆるテスト プログラムを経て、すべての問題を解決してから、コメットを 11,000 マイルの全力をかけた争いに送り出したはずです。しかし、レースの開始日は決定している上、マックロバートソン レースは一回限りのレースだったからです。"次" はないのです。そのため、パイロットの C.W.A. スコットとトム ブラックは、合計 7 回の着陸試験を含む 3 時間半の飛行を終えただけで、すぐにキャノピーを閉じ、エンジンを始動して、オーストラリアに向けて飛び立ったのです。

当初は 64 機がレースにエントリーしましたが、すべてがスタート ラインに揃ったわけではありません。結局は 20 機が 1934 年 10 月 20 日、イングランドのミルデンホール飛行場を離陸しました。レースは 787 マイルから 2,530 マイルの 6 つの区間に分かれていました。飛行ルートには、いくつものバックアップ チェック ポイントが設置されました。マルセイユ、ローマ、アテネ、アレッポ、バグダッド、カラチ、アラーハーバード、カルカッタ、バンコク、シンガポール、ダーウィン、チャールビルです。これらを経由して、レースのゴールであるオーストラリアのメルボルンに向かいます。


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レースに向けて: "グロブナー ハウス" での偉大な飛行に臨むチャールズ スコットとトム ブラックの 2 人のパイロット

パイロットたちのレース戦術は飛行機ごとに異なりました。コメットのパイロットは、イソップ童話に登場するうさぎのように、レース専用機を目いっぱい高速に飛行し、なるべく休まないように飛行するつもりでした。これに対し、KLM DC-2 のクルーは、亀のようにより慎重な方法を選択しました。KLM の目的は長距離旅客便の信頼性を広めることだったので、DC-2 は予備の燃料タンクを積むような改造を行わず、通常の出力設定で飛行したのです。DC-2 の実績ある設計と慎重な方針は、ダグラス製の旅客機で機械的なトラブルが起きる可能性が、暴れ馬のようなコメットよりも圧倒的に少ないことを意味していました。

スコットとブラックは、最初の必須中継地点であるバグダッドまで一気に飛行しようと考えていました。しかし、トルコ上空では悪天候にみまわれ、シリア上空に差しかかるころには既に夜でした。燃料も残り少なくなり、彼らは自分たちがどこにいるのか、まったくわからなくなっていました。そして、レースからは脱落してしまったかのように思われたのです。しかし、突然、スコットは眼下に飛行場を発見しました。それは、キルクークにある英国空軍の緊急用滑走路だったのです。

「助かったぞ!」スコットは、眼下に見えるものが何であるかに気付き、大喜びでブラックに叫びました。「俺たちはツイてる!」

2 人が着陸して給油を行い、再び離陸してバグダッドに到着したときは、他の 2 機のコメットのうちの 1 機が出発したばかりでした。次に彼らはアラーハーバードに着陸して給油を受け、わずか 47 分後にはシンガポールを目指して再び飛び立っていきました。この時点で、他のコメットにはメカニカル トラブルが発生していましたが、スコットとブラックは首位を維持していました。しかし、疲労の色の濃い彼らは、このレースの最も困難な 2 区間を迎えようとしていました。気象情報によると、シンガポールまでの区間の天候はきわめて悪い状態で、スコットはそれをブラックに伝えることさえためらいました。そして、DC-2 は彼らの数時間遅れまで迫ってきたのです。コースから外れたり、メカニカル トラブルが 1 つでも発生すれば、DC-2 に追い抜かれてしまうことは確実です。

コメットは、パイロットが交代で操縦できるよう、コックピットの前部座席と後部座席の両方に操縦装置を備えていました。しかし、シンガポールまでの天候がひどかったため、機体の姿勢を維持してコースを外れないようにするために、スコットとブラックは 2 人同時に操縦桿を握り締めなければなりませんでした。シンガポールに到着したとき、疲れ切っていたスコットは、機体を風下に向けて着陸させてしまいました。それは、着陸に難のあるコメットにとって大惨事を招きかねないことです。しかし、2 人のパイロットはまたしても幸運に恵まれました。無事着陸に成功し、わずか 1 時間 11 分後にはオーストラリアのダーウィンに向けて離陸することができたのです。

シンガポールからダーウィンまでは、スコットが最も恐れた区間です。スコットはオーストラリアまでの記録飛行でここを飛行したことがあり、その際にティモール海と呼ばれるシンガポールとダーウィンの間に 900 マイルに渡って広がる海域で、水面のすぐ下を何匹ものサメが獲物を探してうろうろしているのを目の当たりにしたのです。スコットは、この区間への思いをこう述べています。「ティモール海だけは嫌だ。あそこでエンジンに何かあったら、パイロットも機体も一巻の終わりだ」


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DH-88 コメットは、ロスコー ターナーのボーイング 247 (手前) や KLM の DC-2 と激しい競争を繰り広げました。

その瞬間、スコットとブラックはアドレナリンが全身を駆け巡る感覚を覚えました。想像してみてください。暗闇の中、雲の下の高度わずか 1,000 フィートを飛行中、ティモール海を半分ほど横断したところで、左エンジンの油圧がゼロになってしまったのです。コメットのエンジンに施された改良の "つけ" がここで回ってきてしいました。ブラックはエンジンのスロットルを戻し、状態の良い方のエンジンでダーウィンを目指しました。しかし、ダーウィンで整備士たちがエンジンをチェックしたところ、どこに問題があるかを発見できなかったのです。判断が迫られた瞬間でした。オランダの DC-2 が、わずか 8 時間後方にまで迫ってきています。エンジンを分解点検すれば、それは首位から、そしておそらくレース自体からも脱落してしまうことを意味します。

スコットとブラックは、またしてもリスクを省みず、左エンジンの出力を下げ、片方のエンジンだけで残りの飛行を続けたのです。決して賢明な方法ではなかったと、本人たちも認めるに違いありません。しかし、本当に賢明なパイロットは、最初からこのような機体でレースに参加するはずもありません。彼らはすでにオーストラリアまで来ていて、勝利を目前にしています。明日はないのです。

またしても彼らの幸運は続きます。一方のエンジンがなんとか持ちこたえたのです。2 人のパイロットは極度に疲労しており、交代で操縦したとしてもそれぞれ 10 分以上続けて飛行することができない状態でした。眠気を覚ますためにタバコに火を点けて一服し、窓から投げ捨てては、またタバコに手を伸ばすということを繰り返していました。スコットはこの周辺を何度も飛行した経験があったにもかかわらず、もうろうとした意識のあまり、チャールビルに向かう途中で針路を見失ってしまうというハプニングもありました。しかし、何とかチャールビルにつながる鉄道線路を見つけてたどり、リスクを伴う離陸をもう 1 回行って、ぼろぼろになりながらも、ついに 1 基のエンジンでメルボルンに 1 位で到着したのです。イングランドのミルデンホールの飛行場を出発してから 70 時間 54 分 18 秒後のことでした。

マックロバートソン レースは、長距離旅客便の可能性と採算性という点で、各国政府と航空機メーカーから大きな注目を集めていました。しかし、飛行についてたずねられたスコットは、「見事とも言えるくらい、本当にひどい体験だった」と答えました。どの部分が最悪だったのかを聞かれても、「全部だ」と答えるだけでした。

スコットとブラックはたいへんな重労働を強いられ、極度の不安を体験しましたが、自分たちが実は幸運でもあったことを理解していました。「我々の忠実な右エンジンほど厳しいテストをこなしたエンジンは、そうはないはずだ」ブラックは言いました。「心臓が、エンジンの音に合わせて鼓動するのを感じたよ」

しかし、スコットとブラックがこのレースで直面した不安や危険、困難を事前に想像できなかったからといって、甘かったとは決して思いません。2 人とも実に経験豊かなパイロットだったのです。スコットは英国空軍での飛行経験もあり、ブラックは東アフリカの厳しい自然の中で、初の民間航空サービスを始めていました。イングランドから北米へ、初の東から西への単独横断飛行を実現した有名な女性パイロットである、ベリル マーカムに操縦を教えたのもブラックです。

"コメットが何よりもセクシーで、美しいシルエットの最も高性能の長距離レース機だったからこそ、スコットとブラックは挑んだのです。"

ではなぜ、パイロットとしての経験が豊富なスコットとブラックは、実績もないレース機で地球を半周するような、不快で大きな危険をはらむ冒険に自ら挑んだのでしょうか。その一部の理由は、その当時の飛行機に対する不安定な状況にあると考えられます。1930 年代初頭にパイロットになるためには、正当な報酬を得るために進んでリスクを受けて立つような、ある種の度胸のようなものが必要でした。当時の飛行は、まだ安全で待遇のよい仕事ではなかったのです。パイロットの生活は苦しく、大きなレースで勝利を収めることによる報酬と賞賛だけが金銭的な安定を得るための道であり、他に方法はなかったに違いありません。

それでも、スコットとブラックをかき立てた強い衝動は、外的なものではなく、内面からこみ上げてくる何かだったと私は考えます。冒険家や探検家、レース パイロットたちは少なからず、挑戦、限界への到達、達成感、そして勝利といったものへの単純で抑えきれない欲求によって突き動かされているように思えるのです。挑戦を決断させるものが何であるかは、合理性のある論理や分析でも割り出すことはできません。それは、山を制するために山に挑むのと同様の、燃えるような欲求です。1 位になること、誰よりも速いこと、そして誰よりも優れていること、ただそれだけなのです。コメットが何よりもセクシーで、美しいシルエットの、最も高性能な長距離レース機だったからこそ、スコットとブラックは挑んだのです。また、オーストラリアへのレースという途方もない企画自体も、彼らの興味をかき立てないはずはありません。そして、挑戦という魅力が、賞金や名声といったものよりも強く彼らを惹きつけたことでしょう。

そのような "挑戦" に胸を躍らせる人々は、それが初めから無謀なレースであっても、そこに他人に説明することのできない、内面からこみ上げる何かを覚えます。大西洋横断飛行を成し遂げたベリル マーカムは、危険を冒して挑戦する理由をたずねられて、「それが性分なの。船乗りが航海に出ずにはいられないように、パイロットは飛ばずにはいられないのよ」と答えました。まったくそのとおりでしょう。マックロバートソン レースの挑戦をなぜ引き受けたのかとスコットとブラックにたずねたら、1923 年にジョージ マロリーがなぜエベレストに登るのかと問われた時と同じように答えたかもしれません。マロリーはこの挑戦で夢半ばにして命を落としましたが、彼はこう言ったのです。「そこに、山があるからだ」

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