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 名前
  吉岡一貴 (よしおか かずたか)


 略歴
  山梨県生まれ
  山梨県立峡北高等学校(現北杜高校)卒
  花田学園 日本柔道整復専門学校卒
  ユニバーサル・カイロプラクティックカレッジ卒

 職歴
  整形外科に8年間勤務
  新宿で整骨院を開業
  ユニバーサル・カイロプラクティックセンターで臨床
  H12年に帰郷し、山梨県甲斐市(旧双葉町)にて、
  よしおかカイロプラクティックを開業
  甲斐市宇津谷に移転し
  名称を『よしおかカイロプラクティック研究所』と改称 現在に至る


 (非常勤)
  H13年〜 ユニバーサル・カイロプラクティックカレッジ元講師(H26年3月退職)
  H18年11月〜H20年5月 静岡県三島市 三島中央病院 非常勤
  H20年6月〜H21年5月 静岡県沼津市 西島病院 非常勤
  H21年6月〜現在 静岡県裾野市 穴吹整形外科クリニック 非常勤(水曜日)


 資格、その他
  柔道整復師
  マニュアルメディスン研究会会員
  日本カイロプラクティック徒手医学会会員(評議員)



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 「僕がカイロプラクターになった理由」

 「カイロプラクターになりたい」、なんて思った事など一度も無い!
 「なってしまった」のである!
 これは人生最大のミステリーである(ミステイクではない…多分)。
 ここではその壮大な謎に迫る!

 (大変長文ですので、お暇な人だけお読みください)



目次


+柔道整復師になる!
+柔道整復師として
+柔道整復師について
+外傷治療の限界
+疑問と不安
+カイロプラクティックなんて・・・
+カイロプラクティック・スクールへ
+カイロプラクティックにはまる!
+整骨院を開業
+頭蓋骨の矯正?
+〜最終章〜  ついにカイロプラクターに・・・
+あとがき


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 柔道整復師になる!

略歴にもある通り、筆者は柔道整復師である。
高校卒業と同時に「花田学園 日本柔道整復専門学校」に入学し、柔道整復師を目指した。しかし、何故このとき柔道整復師を目指したのか、その動機は不明である。
自分で決めた進路であるにもかかわらず動機が不明とはおかしな話であるが、どうもこの時の記憶が曖昧なのだ。
こういった職業を志望する動機として、「昔、酷い怪我を整骨院(接骨院)で治してもらい、大変感謝している。自分もその仕事に憧れて医療の道を志した」といったエピソードを見かけるが、筆者にはその様な経験はない。もちろん整骨院への通院歴はあるのだが、「お世話になりました」というよりも、「毎日通うのは大変だ」「ほっておいても治ったのではないか?」といった否定的な印象が強かったように思う。
では何故?であるが、これはおそらく高校時代の部活動との関係が深い。


高校時代筆者はレスリング部に所属し、インターハイ、国体など、山梨県代表として多くの大会に出場した。
そのレスリング部の先輩が、2年続けて柔道整復師の専門学校に進学していた。その先輩方の話を聞くうちに、治療を受ける「場」としてではなく「職業」としての柔道整復師に興味を持ちはじめた。他にこれといって学びたいものもなかったので、この時点で進路はほぼ決まっていたように思う。
それまで整骨院は知っていても、それを職業とするにはどのような資格が必要なのか、またそれはどうすれば取得出来るのか、全く知らなかったし関心もなかった。それについては、その先輩方を通して初めて知り、そして先輩方がいなければ、それを知ることも(職業として)興味を持つこともなかったと思う。したがって、レスリング部に入らなければ、またその高校を選ばなければ、柔道整復師になることはなかったといえるだろう。


これはまさに「縁」というほかない。
さらにタイミングよく、その2人の当時の研修先だった整形外科で、「夕方からの繁忙期に人手が不足するので、アシスタントを補充したい」という話が有り、その話に、これ幸いとひょいと乗ってしまったのが運命を決定付けたと思われる。
その研修先で夕方に人手が不足するのは、先輩2人が夜間部に通っていた為で、夕方職場を抜ける事がその故であった。かくして、筆者はそれを補う為必然的に、午後から時間が空く昼間部のある日本柔道整復専門学校に行くことが決定したのである。


もう1つ、柔道整復師の道を選んだのには理由がある。
はっきりと覚えているのはこちらの方の理由である。それは、上京し専門学校へ進学する為の条件が整っていたことである。
ごく一般的な家庭にとって、子供を都内に住まわせ、学費と日々の生活費の両方を負担することは容易ではない。筆者の家庭も経済的には決して豊かなほうではなく、ごく普通の中流家庭であった。我が家の台所事情を仔細に把握していたわけではないが、贅沢とは程遠い生活ではあった。幼少の頃から、「家にはおまえを私大へ行かせる余裕は無い。大学に行くなら国立。梨大(山梨大学)へ行け、梨大へ!」と事あるごとに言われていた。


自分で言うのもなんだが、(優等生という程ではないが)成績は悪いほうではなかったし、勉強することを苦痛と感じることも余りなかった。しかし、当然ながら医学部へ行ける程優秀だった訳ではない(中学時代に、少しだけ医師への道を夢見た事は有るが)。そうなると選択肢は限られる。山梨大学か、多少親の負担は増すが県外の国公立大学か、という事になる(私大は選択外だった)。
しかし、これといって勉強したい事があったわけではなかった為、次第に大学進学自体が選択肢から外れるようになった(ちなみに、レスリング部の監督から、レスリングでの大学進学を勧められたが、私大だった為辞退した〔結構強かったんです!〕 )。


さて、前置きが長くなってしまったが、ここで本題に移る。
その進学の為の好条件とは、むろん経済的なものである。
柔道整復師の専門学校は医療系ということもあり、学費は安くはない(両親も楽ではなかったと思う。感謝)。通常なら、これに加えて下宿代、光熱費、食費などの生活費が必要になる。
しかし、その研修させていただくことになる整形外科には寮が有り、家賃光熱費は無料、昼食つきで、そのうえ若干のアルバイト代まで支給される。これだけ揃えば生活面での不安は一切無くなる。こんな好条件はそうそうあるわけではない。しかも、整形外科である。後学のためのこれ以上の環境はない。
さらに、昼間部に行く事が条件にあったが、これも良い条件の1つだった。


当時の柔道整復師の専門学校は夜間部3年制が主体で、昼間部は少なかった(1,2校だったと思う)。当然倍率は厳しかったが(10倍位だった)、そのメリットは2年制だったことである。しかも翌年からは資格制度の変更により3年制に変わる為、我々が2年制最後の学生となった。
つまり、学費が1年分お得なのである。どうしても親の経済的負担が気にかかる親孝行(?)な筆者にとって、これは朗報以外の何者でもない。
このような好条件を前に躊躇する理由は見当たらず、筆者は迷うこともなく柔道整復師を志すことになった。
こうやって改めて振り返ると、やはり「縁」を感じずにはいられない。筆者が柔道整復師になった理由は「縁があったから」という事にしておこう。


ここで親の名誉のために書いておく。
我が家は決して貧しい家庭だったわけではない(父は鉄道員として、その勤めを立派にまっとうした)。
しかしどちらかというと、金銭感覚はシビアな家庭だった。その為、幼い頃から贅沢を知らない筆者は、「ウチって貧乏かもしれない」と勝手に思い込んでいたのである。
しかし今思えば、どうしてもやりたい事があり親もそれを認めてくれたなら、(借金をしてでも)好きな大学へ行かせてくれただろうと思う。
まぁいずれにせよ、大学へ行くつもりなど全く無かったのだが…。

こうして筆者は、カイロプラクターへと続く道への大きな第一歩を踏み出したのである。


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 柔道整復師として


東京での新生活は順調にスタートした。
高校時代の先輩が2人もいたので、初めて親元を離れたにもかかわらず、不安も無く高校生活の延長のような感覚だった。
職場の雰囲気も良く、仕事にもすぐに慣れる事が出来た。しかし唯一、お金の遣り繰りだけは上手くいかず、バイト代を1週間で使い切ってしまい窮地に陥ることもしばしばであったが。


学生生活もそれなりに充実していた。
授業は専門的で新しい知識を次々と詰め込んでいくといった具合だったが、何とかついていくことは出来た。
元々暗記物が得意だった筆者は、試験はほとんど一夜漬けでクリアーしていった。これは今となっては大きな反省点である。一夜漬けの知識など三日もすれば綺麗さっぱり忘れ去ってしまう。やはり理解しながら覚えなければせっかくの苦労も水の泡だと、今、つくづく感じている次第である。
そんなこんなで2年間の学生生活は終了し無事資格を取得して、柔道整復師としての生活が始まった。


当の整形外科は先代が柔道整復師で、院長はそれ(接骨院)を受け継ぐ形で整形外科を開業されている。
院長自身は千葉大学医学部から慈恵医大の整形外科に入局され、整形外科の大家、片山良亮教授の教えを受けた、いわば当時の整形外科の王道を行くような整形外科医であった。
しかしそういった経歴とは裏腹に、院長は実にユニークで粋なお人柄だった。


ここのテーマとは全く関係はないが、院長との思い出を少し書いておきたい。
この院長には本当にかわいがって頂いた。仕事が終わると、「吉岡、行くか」「ハイ、喜んで!」といった具合に、しばしば2人で酒場に繰り出した。
その整形外科は東京の下町に在り、飲みに行くのは駅周辺の飲み屋街の一画にある大衆的な小料理屋というのが相場だった(院長は完全なるビール党で、ビール以外のアルコールを口にしているのを見た事が無い)。むろん行くのはそのような店ばかりではなく、筆者には不釣合いな高級店にお供した事もあった。


しかし、なんとも衝撃的だったのは「オカマバー」である。
その店は飲み屋街の外れの、人通りなどほとんど無いような所に在った。
そこには所謂「ニューハーフ(古い?)」といった、言われなければ女性か男性か分からないような方は1人も見当たらず、装いは派手な女性のそれだが、一見して男性と分かってしまうような方々ばかりが在籍されるお店であった。しかも推測ではあるが平均年齢は高く、「オカマバー」というよりは、オヤジの「女装バー」といった趣で、当然オカマバーなど行った事が無かった筆者は、まさに「別世界」へ足を踏み入れたような衝撃を受けた。
しかし、ああいった方々は独特の感性を持っていて、もてなしが非常に上手い。
厳密には同性ということもあり、女性にはからきし弱い筆者のようなシャイな若者でも、変に緊張することも無く、充分に楽しむ事が出来た(少し不気味だったが)。院長も同様で、そこでは得意の毒舌を交えながら、実にリラックスしていたのを覚えている。
そこの定番メニューは「かまぼこ(オカマぼこ)」と「ギンビス・アスパラ」というお菓子で、今でもそれを見るたびに、あの「オカマバー」を思い出す。


そのようなお付き合いを通じて、職場では決して聞く事が出来ないような院長自身の(医師としての)経験談や人生観などに触れ、筆者は多くのことを学んだ。
なかでも特に印象に残っている言葉がある。
それは「正常が分からなければ、異常は分からない」という言葉である。
これは異常な所見のあるレントゲンばかり見ては喜んでいる筆者に対し、正常なレントゲン像を見極める事の重要性を説かれたときの言葉である。
院長としては、(医師として)当然のことを何気なく言ったに過ぎないのかもしれない。しかし当時の筆者にとってその言葉は目の醒めるような言葉であったし、現在でも深い思い入れのある言葉として胸に残っている。


この一見あたりまえのようである「正常」「異常」という概念は、自然医療を自認するカイロプラクティックにとって特別な意味がある。
ここでそれについて深く論じることは避けるが、それを簡単に言うなら、今まで「異常」と思っていたような事柄(炎症など)も、実は身体の「正常」な反応である、という事になるかと思う。
このような解釈は院長の真意とはかけ離れ飛躍し過ぎなのかもしれないが、筆者の中でこの言葉は大きく広がり、今では当時以上に重みのある言葉となっている。


この院長には何から何まで本当にお世話になった。
「一方ならぬご厚情を賜った」とは、筆者が院長に対する御恩を表す為にある言葉ではないか、と思うほどである。嘘偽り無く「この御恩は一生忘れません。ありがとうございました」と、心の底から言う事が出来る。
このような良き出会いに恵まれたのも、やはり「ご縁」があってのことだろう。


さて、その整形外科は先代が柔道整復師だったこともあり、良い意味で、実に古典的な治療を施す場であった。
普通整形外科といえば、レントゲンを撮り、異常が認められなければ理学療法及び投薬、少し症状が強ければ注射をする、といった治療が標準的なものだろう。
しかしそこは少し変わっていて、余程の痛みか患者自身が望まなければ注射をすることはなかったし、投薬に対しても実に消極的で漫然と出し続けるというようなことは無かった(それらの判断は当然院長自身が行う)。


筆者がお世話になった当初は、多いときで1日300人前後の患者さんが来院された。その為、受付時間終了間際になると待合室は満員電車さながらの様相を呈し、立って待つスペースさえも無いような状態だった。特に夕方からは人手が減るということもあり、「いつになったら帰れるんだろう」とうんざりするほど忙しかった。
そこは、医院(兼自宅)の建て替えと同時に手術室などの外科的な設備を廃し、完全に保存的処置オンリーの整形外科として地域社会に貢献していた(それ以前は椎間板ヘルニアなどのOpeも手掛けていたとの事であるが、残念ながら筆者が院長の華麗なメス捌きを垣間見る機会はなかった)。
そういった点では、まさに柔道整復師が研修する場として、最も相応しい整形外科だといえるだろう。


当然整形外科なので、骨折、脱臼、打撲、捻挫、挫傷といった外傷性の疾患で受診される方は多かった。特に骨折、脱臼に関しては、通常の整骨院(接骨院)ではとても見られないような症例を診る事が出来たし、その数もとても多かった。
(骨片が皮膚から飛び出している)開放性の骨折以外は全て徒手整復を行い、固定も昔ながらの副子固定で、ギプスではなく非伸縮性の包帯を用いていた。この伸縮性のない包帯を巻くのは意外と難しいのだが、お陰で筆者は子供から大人まで、部位を問わずどこでもきちんと固定する事が出来るようになった。


(外科的処置が必要なもの以外の)骨折をはじめとする外傷に関しては、巷で開業しているごく一般的な整骨院の院長に比べて、はるかに多くの経験を有すると筆者は自負している。
まさに、そこは柔道整復師がその能力を存分に発揮する事が出来る数少ない場であった。
これは蛇足だが、柔道整復専門学校(筆者の母校ではない)で脱臼理論の講師を務める先生の所で研修をしている知人が、そこに在職中「脱臼を一度も診た事がない」と言うのを聞いて驚いた。



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 柔道整復師について


ここで「柔道整復師」について少し触れておこう。
「柔道整復師とは何か?」。その問いに対する答えは明確である。
柔道整復師とは、『骨折・脱臼・打撲・捻挫・挫傷』に対する施術(治療)を業(職業)として行っても良い、と国から認められている資格であると言える。診断行為そのものが認められておらず、骨折・脱臼に関しては医師の診断と同意が必要だとか、あくまでも応急処置であるとか、その他法的な制約を上げればきりはないが、大まかに言うと上記の通りである。
つまり柔道整復師とは、上記5つの外傷に対する非観血的な処置のみが許された、非常に範囲の狭い限定的な資格だと言えるだろう。
しかしその歴史は古く、特に骨折の無血整復に関しては、伝統的に受け継がれてきた技と誇りがある。


これは単に筆者の思い込みに過ぎないのかもしれないが、柔道整復師とは本来、外傷、特に骨折の非観血的治療のスペシャリストであり、その分野のみに限定すれば、整形外科医と同等か、またはそれ以上の技術を持つと認められた名誉ある資格である、と言えるのではないだろうか。
しかし現状では「?」である。
読者の方々には、これをふまえた上で以下を読み進めて頂きたいと思う。


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外傷治療の限界


前記の通り、その整形外科には外傷患者が多かった。
その点では非常にやりがいのある職場だったと思う。
柔道整復師は(限定的な)外傷治療の専門家という自負もあったし、その治癒過程に少なからず貢献していると自認することも出来た。


こと外傷の治療に限っては、やはり経験に勝るものはない。いくら知識があっても経験を積まなければ、骨折の整復などとても出来るものではない。
しかし経験を積むことが、全て先への自信に繋がっていく訳ではない。それは同時に自分の限界を知ることでもあった。


そこには経験を積めるだけの条件が整っていた。
スタッフは、整形外科医である院長をはじめ経験豊富な柔道整復師が揃っていたし、術前、術後のレントゲンも自由に撮る事が出来た。この2つの条件があったればこその経験であり、そのどちらが欠けても、筆者がこの貴重な経験を積むことは出来なかったと思う。


一人で対処できる骨折となると、ごく軽度なものに限られる。また、骨折があるかどうかの鑑別を行い、さらに骨折の程度を測る為にはレントゲンが欠かせない。(法規上、柔道整復師にはレントゲン撮影も診断も認められていない)
すなわち、柔道整復師がその知識と技術を十分発揮する為には、これら人手とレントゲン装置が必要不可欠であり、いくら優れた技術があろうとも、これらが無ければ(法規通り)応急処置以上のことなど出来ないと言えるだろう。
つまりは、いくら骨折整復の経験を積もうとも、1人で整骨院を開業したのではそれを生かす機会は殆んどないということになる。
それ以前に、(余程有名な『骨折の名人』がいれば別だが)いまどき「骨折をしたら整骨院へ行く」などと言う珍しい人は余りいないだろう。
これは制度上の問題なのか、あるいは筆者を含め柔道整復師が誇りを失ってしまったからなのか、いずれにしても、当時筆者の周りには、「開業したら骨折の治療を売り物にやっていきたい」と考える仲間は皆無であった。


当然筆者もそのうちの1人で、次第に骨折に対する関心は低くなっていった。それどころか、固定の管理が大変だったり、変形や後遺症を残す可能性を考えると、「なるべく骨折治療はやりたくない」とまで思うようになっていた。
しかし柔道整復師の中には、確かに骨折の徒手整復の「達人」的な先生が存在する。そのような先生方は、限られた条件の中で研鑚を積み、現在の地位を築いてこられたのだろう。そういった意味では筆者は甘いのかもしれない。


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  疑問と不安


さて、その整形外科を受診する患者はむろん外傷患者のみではない。そこには運動器系の異常を中心とした、実に多様な疾患を抱える人々が来院された。
なんと言っても、一日に200〜300人の患者さんが来院するのである。そのうち外傷性のものは大体2〜3割ほどで、残りは誰もが一度は経験するであろう腰痛、関節痛あるいは神経痛など、一般的には慢性疾患に分類されるものが殆んどだった。
そこがいくら歴史ある整形外科医院であるとは言っても、いわゆる町医者である。当時から大病院指向は存在していて、町医者を訪れる患者さんは、整形外科的な疾患の中でも比較的軽度なものが多かったように思う。
それでも筆者が在職していた8年間で、整形外科を受診すべき疾患の殆んどを見たといって良いと思う。その点でも、筆者は大変貴重な経験をさせていただいたと感謝している。


我々は、そこに来院される外傷以外の患者さんに対する施術(治療)も任されていた。
本来柔道整復師の業務は、前記の外傷性の疾患に限られている。しかしながら実際の現場では、外傷以外の疾患で受診される患者さんのケアをも請け負わざるを得ない、というのが実状である。


(現在は不明だが)専門学校の授業カリキュラムは、基礎医学全般と外傷の専門家を養成する為の教育が主で、それ以外の疾患については国家試験対策として、大まかな概論の履修のみにとどまる。


正直なところ、これは意外だった。整骨院への通院歴がある筆者だが、腰痛や成長期に特有の痛みなど、外傷以外での治療も受けていたし、そこへ行けば子供から老人まで、運動器系の痛みに関するありとあらゆる問題を抱えた患者が来院しているように見えた。その経験から、入学前にはそれらも柔道整復師の業務範囲であると思い込んでいて、当然学校では充分な教育を受けられるものと期待していた。
しかし、法規では外傷以外も施術して良い、とは明記されておらず、普通の解釈でいけばそれらを扱うべき資格ではない、と考えられる。筆者がそれを知ったのは、入学からしばらく後になってからである。つまり学校としては、それら外傷以外のものに対しては必要最低限の知識以上のことを教える義務は無く、国家試験にさえ合格すれば万事OKなのである。


従って、学校を卒業し国家試験に合格しても、外傷以外の疾患に関する知識は決して豊富であるとは言えない。本来柔道整復師は、外傷以外の疾患に対しては専門外なのである。筆者自身の勉強不足もあろうが、(卒業時)それらに対しては「素人に毛が生えた程度」の知識しかない。当然治療法などに関する教育は受けていないのだから、知らない。
それを補う為に、専門書を漁ったりセミナーを受講したりするのだが、そもそも整形外科領域の疾患は原因が明確ではないものが多く、治療法が確立されたものは少ない。それらが明確なものはより重症で、当然我々が対応できるようなものではない。
つまりは、腰痛関節痛などの慢性疾患は元々柔道整復師の業務範囲ではない上に、原因不明でこれといった有効な手立てが無いものばかりなのである。当時の筆者の知識では、「治療をしてください」と言われたところで、何をやったら良いのかさっぱり分からない、というのが正直なところだった。実際、温めたほうが良いのか、冷やしたほうが良いのかすら分からないものも少なくは無いのだ。


こうして文章にしてみると何もしていなかったようにも読み取れるが、そこは経験豊富な諸先輩方の温かいご指導のお陰で、一通りの対応はする事が出来た。
まあ、筋骨格系の問題に関して言えば安静が第一で、(固定可能な部位は)とりあえず固定をしておけば症状は治まる事が多いようである。そこはとにかく包帯を使用する機会が多く、まさに「なんでも固定してしまう」という感じだった。当時は「包帯固定など効果があるのか?」と疑問に感じていたが、今思うと、筆者が行っていた施術の中では包帯固定が最も効果的だったように思う。逆に現在は包帯を使うことなど一切無いが、使えばそれなりの効果があると思う事も多々ある。


もちろん、治療にやってきた患者さんを、いきなり包帯で固定して帰してしまうわけではない。その前に、患者さんらに対し、我々は「マッサージ」をすることになっていた。マッサージとは言っても、当然慰安を目的としたものではない。その目的は筋または組織の緊張を取り除き、患部の血行を促し、治癒を促進させる為のもので、急性期と不適応の疾患を除く殆んどの患者さんに対して行っていた。
このように言えば聞こえは良いが、実際にはマッサージが最善の方策だと信じて行っていたわけではなく、「マッサージくらいしか出来なかった」といった方が正しい(マッサージをばかにしているのではありません)。なんと言っても、「治し方」など知らないのだから。


はたして、当時の患者さんの中に、筆者(素人)のマッサージによって「治った」と言える人がどれだけいるだろうか?
確かに、「お陰様で良くなりました」とか「先生のマッサージは効くね〜」などと言われることはあった。筆者も若く、ましてや元レスリング部である。当然体力も腕力も漲るほどあった。治したいと思う気持ちも今と変わらないか、あるいは今以上に持っていたかもしれない。それしか出来る事がない以上、とにかく真剣に(力強く)マッサージに取り組んだ。


筆者は元来まじめな性格(?)で、「やれ」と言われたことは何でも一生懸命にやりつづける方だった。しかし、これには当初から少し戸惑いを感じていた。


外傷のリハビリテーションの一環として行い、組織の硬縮の除去などが目的であればまだ納得がいく。しかしそれ以外の疾患や、症状が固定し、明らかに慢性的な経過をたどっている患者さんに対して行うマッサージは、筆者の目から見て「慰安」と区別がつかなかった。
特に、原因のはっきりしない腰痛症や関節炎などは慢性的な経過をたどりやすい。前述したように、そもそも整形外科領域の疾患は、「原因不明」のものが多い。よってその対処は、「症状を如何に抑えるか」といった対症療法にならざるを得ない。つまり、「治す」のではなく「緩和」が主な目的となる。余りに過激な対症療法や、同じ事の繰り返しは(色々な面で)問題のほうが大きいような気がするが、それ自体は1つの選択肢であり、なんら間違った考え方ではないと思える。
しかし、しかし・・・。


当時筆者は、全ての患者さんに対し一様に「マッサージ」のみを行っていた(それしか出来なかった)。
はたして、マッサージは本当に有効なのだろうか?
患者さんはマッサージで良くなっているのだろうか?
そしてそれは柔道整復師がすべき「治療である」、と言えるのだろうか?
マッサージをしなくても、良くなる人は(勝手に)良くなっているのではないだろうか?
もう少し積極的な治療法はないのだろうか?
・・・・・・。
このような疑問は常に付きまとい、考えは次第に自分自身の「治療家」としての存在意義に向かっていった。


マッサージは本来マッサージ師の仕事であり、柔道整復師とマッサージ師は別の資格である、とか、柔道整復師が慢性疾患の施術を行っても良いのか、といった問題は一先ず置いておく。


前述したように、当時は一人一人の患者さんに対して真剣にマッサージを行っていた。治したいと思う気持ちは強く持っていたし、状態を少しでも良くするためにはどうすれば良いのか検討し、工夫もした。勘違いかもしれないが、患者さんからの信頼も少なからず得られていたと思う。そして不思議と(?)、それで良くなってしまう人が多かったのも事実である。
しかしそれでも、一治療家として釈然としないものを感じていた。


当時筆者が行っていたことは、患者さんが痛いと訴える部位を聞き、多少の解剖学的な関連付けを行いながら、機械的にさすったり揉んだりしていたに過ぎない。従って、患者自身が痛いと訴えつづける限りは、延々とそれを繰り返す事しか出来なかった。
患部が今どのような状態にあり、何が問題で何を治そうとしているのか、その目的自体が明確では無く、ただただ漫然とマッサージを続けていただけなのである。
一生懸命マッサージを行った結果、たとえ良くなったとしても、筆者には何故良くなったのか分からなかった(たぶん自然治癒だろう)。当然良くならない人も多かったが、何故良くなったのかが分からないのに、何故良くならないのかが分かるわけがない。つまり当時は、患者さんの状態を主観的に判断する事が全く出来なかったのである。
痛みの原因が分からない以上、それも致し方ないのかもしれない。
しかし、原因も現在の状態も把握できず、その上効果があるのかないのか術者自身が判断しかねていることを承知の上で、ただひたすらマッサージを続けることに疑問を感じないほうがおかしいだろう。
筆者は自分が信じる事の出来ない治療を、患者に押し付けているような気がしてならなかった。また同時に、自分自身の治療家としての力のなさを日々痛感していた。


それでも患者はやってくる。しかも、後から後から途切れることなく。


「患者さんはマッサージを受けに来ているわけではなく、治療に来ているのだ」
「慰安ではなく治ることを期待して来ているはずだ」
「医療従事者は、それに応える義務がある」
常日頃からこのようなことを考えながら治療にあたっていたのだが、実際には全く違っていた。
理想と現実といったところだろうか。患者さんの中には、治療に来ているのかマッサージに来ているのか分からない人も多かったし、筆者は治しているのかどうか自分では全く確信が持てなかった。
そのうち、「その瞬間だけでも、患者さんが楽になってくれれば良いではないか」と考えることも多くなった。そこは整形外科ということもあり、すこし状態の悪い人は、院長による投薬や注射で対処する事が出来る。筆者は、ただ、マッサージをしていれば、なぜか「先生」と呼ばれ、感謝される(一部の人から)。そして患者は次から次にやってくる。


一生その整形外科でお世話になり続けるのなら、それでも良かったのかもしれない。
とりあえずその中にいる間は、整形外科という看板の庇護の元に、「先生」のような顔をしている事が出来た。しかし一旦その外に出た瞬間から、筆者は「多少医学の知識がある普通の人」になってしまう。それを最も痛感するのは、人から身体のことについて相談された時である。
それ程親しい間柄でなければ、知っていることを分かる範囲で並べ立て、お茶を濁してしまえばそれでいい。しかし、親しい間柄になるとそれだけでは納得せず、「整形外科に勤めているのだから、治せるだろう」と、治すことを期待されてしまう。


これには本当に困った。治せないのだから。しかももう少したちが悪く、「知らない」「分からない」で済ませることは出来ず、「知っているけど治せない」のである。さらに、「治せない」と素直に言うことも出来ない。紛れもない事実ではあるが、それを言ってしまえば、自分を否定することになってしまう。こういう状況は一度や二度ではない。頻繁に有るのだ。


例えば、街を歩いているとき脱臼した人を偶然見かけ、それを颯爽と駆け寄り鮮やかに整復し、常に持ち歩いている包帯をポケットから取り出し迅速かつ華麗に固定し、何事もなかったような顔をしてまた悠然と立ち去る、などという、これぞ柔道整復師の真骨頂 !! というような局面は・・・・・絶対にない!
大抵は腰が痛いだとか、肩こりが酷いだとか、膝が痛いといった慢性的な痛みに関する相談である。当然それを訊く側に、筆者を困らせようという意図がないことは分かっている。逆の立場であれば自分もそうするだろうし、出来ることなら治して欲しいと期待もするだろう。
そう思うと余計につらい。しかも、それが身近であればあるほど、さらにそのつらさは増す。


当時、ごく親しい友人が膝と腰に痛みを抱えていた。何とかして欲しいと言われ、少しは頑張ったものの結局は何も出来ず、そのうち筆者の心情を察してか痛くても我慢して何も言わないようになってしまった。おそらくそれは筆者に対する気遣いだったのだろう。その時は、何も出来ない自分にやるせなさを感じながらも、どこかほっとしたのを覚えている。


またある時は、実家に帰省中、「背中が痛いので、どうしても診て欲しい」と頼まれた。その当人は、翌日ゴルフの約束があるのでどうしても今日中に治したいと、今考えても少々無理な相談だと思うようなことを期待していたようである。しかし当然何も出来ず、何の変化もない状態でお帰り願ったのであるが、問題はその後である。そこの家人が、お礼にと「五千円」も持ってきたのである。本当に何も出来なかったのだ。その時したことなど、五千円どころか百円の価値もない。一応断ったが、どうしても受け取れと言われ、不本意ながらも受け取ってしまった。


これは忘れられないつらい経験である。自分で自分を否定するには、これ以上ない局面に出会ってしまった。
殆んど何も出来なかったに等しい自分は、何に対する対価としてお金を頂いたのだろう? 痛いところを揉んだり擦ったり湿布を貼ったりすることなど、子供にでも出来る。その程度のことを、はなから期待しては来ないだろう。 はたして自分にそんな大金を受け取る資格があるのだろうか? そんな自分が恥ずかしく、深い自己嫌悪に陥ってしまった。


何も出来ないのを自覚しながら、さも一生懸命やっている振りをし、あわよくば(奇跡的に)治ってしまう事を期待していたのかもしれない。
そんな事あるはずがない。解き方を知らない問題を、いくら一生懸命頑張ったところで出来るはずがない。
何も出来ないのなら、それを認めた上で、いっそのこと何もしないほうがまだ潔い。そもそも柔道整復師は外傷以外は専門外なのだから、それも正論だろう。


ところが、そうもいかないのだ。
将来は自分で開業しようと考えていた筆者が馬鹿正直にそれをしてしまっては、整骨院は成り立たない。外傷治療には少々自信が有るとはいっても、外傷で整骨院を受診する人などほんの一握りに過ぎず、それだけでは経営が成り立たないのは目に見えている。そんな制度のことなど知らない市民も、近くに整骨院があれば、腰痛でも肩こりでも、当たり前のようにやってくる(本来それらはお帰りいただくか、自費扱いとしなければならない)。よって柔道整復師である以上、それらを治療する機会は数限りなく訪れる。何も出来ませんでは、自分で自分の首をしめるも同然である。
それら「慢性疾患の治療」という課題をクリア出来る兆しすらなかった筆者は、「このままでは、地元での開業など恥ずかしくてとても出来ない」と、本気で考えていた。


しかしこの時点では、将来カイロプラクターになろうとは、夢にも思っていなかった。


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  カイロプラクティックなんて・・・


このままではダメだと思った。
整骨院では代替療法(西洋医学以外の治療法の総称)を取り入れているところが多いが、おそらく理由は皆同じだろう。筆者もそのうちの1人で「慢性疾患の治療」という課題をクリアする為、様々な治療法を学んだ。
モビリゼ―ション、各種のテーピング療法、AKA、PNF、その他胡散臭い治療法も含め、良さそうなものは何でも取り入れるつもりでいた。セミナーに出席したり、書籍を買いあさったりと、とにかく一刻も早くその難題を克服することだけを考えた(しかし、どれも体得するには至らず、中途半端だったような気がする…)。
しかし不思議とカイロプラクティックを学ぼうとは思わなかった。いやいや、実はちっとも不思議ではない。なにを隠そう、当時筆者は「カイロプラクティック否定派」だったのだから。


話は少し遡る。
柔道整復師の専門学校に在学中から、カイロプラクティックの存在は知っていた。学生時代から、生徒の間でその噂は出ていたので少しは関心があった。しかし講師の先生から、カイロの有効性などに関する話を聞いた事は一度も無かった。当然、学校側としては肯定は出来ないのだろう。
勤めていた整形外科の院長は完全な否定派で、「カイロプラクティック? 何かの宗教か?」といった感じで、一切認めようとはしなかった。
筆者自身カイロの治療を受けた事が無かったし、周りにも具体的な治療方法やその理論体系を知る者がいなかった。当時の筆者にしてみれば、自分より知識も経験も遥かに上回る院長や講師の先生方の見解は、ある種絶対的な影響力を持ち、同級生の聞きかじりの噂話などが入り込む隙はまるで無かった。当時、世間のカイロに対する評価は今以上に低く、危険性を訴えるものが多いように思えた(今もそういったものは多い)。もしかすると当時の筆者は、そういった偏った情報を選んで見ようとしていたのかもしれないが・・・。いずれにしても、当時筆者の中には、「カイロは危険」という認識が刷り込まれていた。


ここで、またまた登場するのが高校の先輩である。
その先輩はレスリング部の先輩であり、結果的にではあるが、柔道整復師の道へと筆者を導いた張本人である。
その先輩は、柔道整復師の専門学校を卒業後カイロプラクティックの学校に進むことを、早々と決めていたらしい。事実その先輩は、卒業と同時にユニバーサル・カイロプラクティックカレッジへと進んだ。
またもや筆者は、その先輩の後を追うようにカイロの道へと進んだのかと思いきや、そうではない。なんと言っても、そのときはまだ、カイロプラクティックは「いんちき療法」だと信じて疑わなかったのだから。


当時の筆者は専門学校を卒業し資格試験に合格したばかりで、自分自身の柔道整復師としての将来像をおぼろげながら描いてはいたが、そこにはカイロプラクティックのカの字も無かった。その頃はまだ将来に対する不安もあまり無く、「このまましっかりと経験を積んでいけば実力は必ずつく。いずれ時期が来たら開業しよう」と、特に根拠も無いのにそう信じていた。カイロの学校へと通学を始めた先輩を見て、「何でわざわざ『いんちき療法』を勉強するために、改めて学校へ行かなければならないのだろう」と、訝しく感じていた。


その先輩がカイロプラクティックの信奉者になるまでに、それ程時間はかからなかったようだ。入学からほんの数ヶ月で、考え方ががらりと変わって行く様子が見て取れた(元々何事にものめりこみやすいタイプではあったが)。
当然ながら、院内でマッサージ以外の治療を自分勝手に行う、といったことは許されない。しかし先輩は、なるべく目立たないような場所を使っては、あれこれとやっていたようである。難しい顔をしながら患者さんの足を引っ張っては首を捻り、それを曲げてはまた首を捻りと、なにやら怪しげなことをやっている先輩を見て「大丈夫だろうか?」と、こちらが首を捻ることもしばしばであった。
患者さん(特にご老人)も、「あの先生は最近変わった」とか「マッサージをしてくれない」といった苦言を、その当人ではなく周りのスタッフ(特に筆者)に打ち明ける事が多くなった。それもそのはずだ。患者さんはカイロを受けたくて来ているわけではなく、熱心なマッサージを期待しているのだから。その様な声とそれまでの思い込みが相まって、ますますカイロプラクティックに対する偏見を深めていく筆者であった。


カイロプラクティックにのめりこんでいく先輩と、それを否定したい筆者。どの世界にも、信じるものと信じないものの間には、見えない大きな壁がある。
カイロプラクティックにのめりこみ、従来のやり方を否定しているように見える先輩を見れば見るほど、筆者はカイロを否定したくなった。カイロを否定的に捉えた話題を目や耳にするたびに、「ほら、やっぱり」と、自分の正当性を確認しているような気分に浸っていた。その頃は、カイロを肯定しようという気などさらさら無く、一方的な否定論にしか目を向けていなかった。先輩は筆者が何を言っても意に介さず平然としていたが、それがまた癪に障り、筆者は少しムキになって否定しようとしていたように思う。
当然正しいカイロプラクティックの知識など、当時は持ち合わせていなかった事は言うまでもない。


正直に言うと、当時の筆者には「カイロプラクティックを見下したい」という気持ちがどこかにあったのだと思う。学校は殆んど形だけの試験で誰でも自由に入れるし、そこを卒業したからといって何か資格を得られることも無い。元々、日本には公的な資格そのものが存在しないのだから、学校へ通う義務はなく、学校へ行かなくても誰でも自由に開業が出来る。それ故、それまで医療とは全く無関係の仕事をしていた人たちが、数日間の講習を受けただけでカイロプラクティックを行っているようなところも少なくない。西洋医学界からは完全な「異端」扱いで、相手にもしてもらえない。そんな、日本では「医療」として認めてもらえないような治療法を習ったところで、実際には何も出来ないだろう、と高を括っていたのだ。


ところが、すでに述べてきたように、何も出来ないのは筆者のほうだった。
それに気付くまで、そう時間はかからなかった。


そんな、先行き不安になる一方の筆者とは対照的に、先輩は確実に自信を深めているように見えた。
その頃になると、筆者のカイロプラクティックに対する見方もだいぶ変わってきてはいたが、どこか意地を張っていたところがあったのだろう、素直に認めることは出来なかった。
「このままではいけない」と思った頃にはすでに、先輩は本格的にカイロを身につけるため、カイロプラクティックを専門に行う治療院へと転職していた。


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  カイロプラクティック・スクールへ

それから数年は、同じような状態が続いた。仕事にはすっかり慣れ、ある程度の仕事は任されるようになった。外傷治療にやりがいを感じていたことから、将来はスポーツ選手の怪我のケアなどを中心とした「トレーナー」的な仕事がしたいと考えた時期もあった。
しかし依然として慢性疾患は苦手で、そんな現状を打開する手掛りさえつかめずにいた。
試してみたい治療法は多々有るものの、その全てを患者さんで試すわけにはいかず、問題のなさそうなものだけ少しずつ行う、という感じだった(結果は歴然)。


その整形外科は基本的には「担当制」ではなく、手のあいた者が順に次の患者さんを診ていくというやり方を取っていた。患者さんの中には思うように良くならない人や少しクセのある人も多くいて、残念ながらそんな患者さんは、治療する側に敬遠される傾向があった。次の順番にそんな患者さんが待っていたりすると、みんななかなか手を止めようとせず、ちょっとした渋滞が出来てしまう事もあった。
筆者は何故か、そういった患者さんの「担当」になることが多かった。一度それが既成事実化してしまうと、それからはもう長いお付き合いになる。それも、院長や周りのスタッフの「筆者に対する信頼の現れ」だと無理やり好意的に受け止め、言葉を飲み込んだ。


だれがやっても、治らないものは治らない。基本的には同じ事をしているのだから。しかしそんな患者さんに限って、真面目に通ってくる。そんな時は患者さんも辛いのだろうが、こっちも辛い。「もうギブアップ」と、何度言いそうになったことか。しかしそう言ってしまったところで、結局は自分自身の力不足を再確認するだけである。
その整形外科には本当にお世話になり感謝していたが、そこにそれ以上いても開業する自信が付くとは思えなかった。


その頃は、カイロに関する書籍も少しは読んでいた。しかし、それまでのいきさつから、今更カイロプラクティックを勉強したいと言うのも少し抵抗があったし、それがベストな選択だとも思わなかった。もうその整形外科を辞める決心はついていたが、その先の方向性は定まっていなかった。1、2年いろいろな所を回って、様々な治療法を実際に見た上で、時間をかけて自分の進むべき方向を定めようと思っていた。取りあえず行く所は決めてあった。


そう決心した矢先に ―本当に突然に― 筆者は結婚することになってしまった(出来ちゃった、では無い)。
まだ若かったし1、2年ぷらぷらするつもりだったのだから、当然結婚する予定など無かった。運命のいたずらか、まさに人生の岐路に立たされた。
結婚を取るか、ぷらぷらを取るか。結局筆者はぷらぷらを諦め、結婚を取ってしまった。
その整形外科を辞めるのも、1年先送りした。


さて、困ってしまった。また計画を練り直さなければならなくなった。
社会人なら、結婚したら家庭を優先し、多少の妥協には目を瞑り、おとなしく安定した道を進むべきなのかもしれない。筆者は柔道整復師の資格を持ち、それなりの経験も積んでいて、開業することに特に支障は無かった。当時のままでも、巷にありふれた並みのレベルの整骨院なら、いつでも開業できる状態にはあったと思っている。ただそれは、自分自身が思い描く治療家像とは、遠くかけ離れていた。


悩んだ末に、筆者は再び学校へ行く決心をした。
「夜間部なら仕事を続けながら通学する事が可能だ。3年ほど集中的に勉強すれば、卒業する頃には治療にも自信が付くだろう。それから開業しよう」、と決めた。


さて、改めて学校へ通うとはいっても、選択肢は少ない。
針灸マッサージかカイロプラクティック位しかない。他にも医療系の学校はいくつかあるが、将来整骨院を開業するときに役立つ技術とは言えない。
鍼灸マッサージとカイロプラクティックの学校の資料をいくつか取り寄せ検討した結果、先ず驚いたのは、鍼灸マッサージの学校の学費があまりにも高額だったことだ。記憶では、たしか400〜500万の間くらいだったと思う。資格の取れる学校(正確には資格試験を受験できる資格)というのは、言葉は悪いが「資格を買う」ような面があると筆者は思っている。そのための対価だと思えばそう高くは無いのかもしれないが、針灸という未知の分野にかける投資としては、少し高額すぎる気がした。実際手持ちの資金的にも、不可能だった。
対するカイロプラクティック・スクールは本当にピンキリで、安いところは20〜30万、高いところでも針灸の半分程度と、比較にならないほど安い。これは決定的だった。
そんな、なんとも現実的な「金銭的理由」により、筆者はかつてあれほど否定しようとしていたカイロプラクティックを選択したのだった(あ〜恥ずかしい)。


さてさて、今度は学校選びである。当時から都内だけでもカイロプラクティック・スクールは驚くほどたくさんあった。また、その形態も様々で、普通の学校同様毎日通学が必要なところから、週一回あるいは月に一度のセミナー形式の(怪しげな)ところまで、まさに選り取り見取り選び放題という感じだった。
本音を言えば、当時はカイロプラクティックに期待はしつつも、あくまでも整骨院内での補助的な治療手段としか考えていなかった為、学費が安く期間が短い学校で充分だろうと思っていた(切羽詰っていたわりには、結構いいかげんだったのだ)。実際、その条件に合う学校(学校といえるか分からないが)は多かったし、各学校の特色や内容の違いも全く分からず、カイロプラクティックと名が付けばどこもさほど違いは無いだろうと思っていた。


一度はそう決めかけたが、思い直した。学費や時間的な面だけを考えれば、それらが安く短いほうが良いに決まっている。しかし、そうではない学校が存在することを考えると、やはりそこには何か大きな違いがあり、学費が安く短期の学校(?)は「それなり」に見えてしまう。


筆者は最終的に、「ユニバーサル・カイロプラクティックカレッジ」を選択した。先輩がそこの卒業生ということも有ったが、一番の決め手は、単純に「テクニックが豊富」だったことである。それぞれのテクニックの、どこがどう違うのかなど、殆んど知らないおバカな筆者だったが、とにかく2年間で全てのテクニックを習得し、その中から自分のスタイルに合ったテクニックを選択しようとの甘い目論見からであった。
ここでも結果的に、また先輩と同じ道を辿ってしまったのである。確か事後報告だったと思うが、それまで散々カイロを否定していたにもかかわらず、ちゃっかりユニバーサル・カイロプラクティックカレッジへ行くと報告した時、厭味の1つも言わず温かくそれを受け入れてくれた先輩に、筆者は感謝している。


カイロプラクティック・スクールにいくことを決めたこの時点でも、将来カイロプラクターになるつもりなど、微塵も無かったのである。


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  カイロプラクティックにはまる!


上京して二度目の学生生活がスタートした。
8年間お世話になった整形外科を退職し、新天地でのスタートとなった。


カイロプラクティックの本質を理解しないまま、どちらかというと腰痛や関節痛などに対する「How to 式」の治療法を求めていた筆者の前に立ちはだかったのは、「カイロプラクティック哲学」という強敵だった。それは、誤った期待を胸に意気揚々と乗り込んでいった筆者を、あざ笑うかのように待ち受け、狙いすましていたかのような強烈なカウンターパンチだった。
さらに、それに続くパンチが次々と急所を突き、ダメージを蓄積する。気付いた時には“かろうじて立っている状態”になっていた。
その「カイロプラクティック哲学」は、筆者がそれまで持っていた西洋医学的な価値観を、完全にひっくり返してしまうような大きな力を持っていた。
しかし、どこか割り切れない部分もあり、「いっそのこと倒れてしまったほうが楽になれる」とは思いつつも、ギリギリの状態で「倒れられないでいる」のだ(未だにそうかもしれない)。


カイロプラクティック哲学を一言で表現するのは難しいが、あえて言うなら(言わずと知れた)「自然治癒力」だろう。医学だ科学だといったところで、所詮分かっていることはほんの一部に過ぎない。(それらを否定するつもりなど毛頭ないが)ヒトは、それらが解明される以前から変わることなく、如何なる状況にも対処する方法を、生まれながらにして “知っている” (Innate intelligence , イネートインテリジェンス)。つまり、極論すれば、余計なことはする必要が無い、ということになるだろう。


それなら、「カイロプラクティックそのものも必要無いではないか」ということにもなるが、もちろんそうではない。では、カイロプラクターの仕事とは何か?というと、それは “サブラクセーション(正常な位置から逸脱した椎骨)の矯正” の一言に尽きる。
つまりカイロプラクターの仕事とは、サブラクセーションの矯正のみであり、痛みや病気を「治す」ことではない。結果的に痛みや病気が治ったとしても、それはカイロプラクターが治したのではなく、本人の持つイネートインテリジェンスによるものであり、カイロプラクターはそれを引き出す手助けをしただけである。


まさしく、「我は包帯(矯正)するのみ、神が癒したもう」という、アンブロワーズ・パレの名言そのものである。整形外科に勤務中も、その意味を理解しているつもりではいた。しかし、その当時は本当に包帯をするだけで、その言葉もどちらかというと自嘲的な意味に捉えがちだった。つまり、本当はやらなくても良いことを、わざわざしているように感じていたのだ。
ところがカイロプラクティックは、サブラクセーションがあるから矯正するのであり、それが無ければ矯正の必要は無い、という明確な理念がある。つまり、痛みや病気があってもサブラクセーションが無ければ、カイロプラクティック的には「健康」であり、カイロプラクターのすべきことはない、とはっきりと主張できる。
柔道整復師として、自己のアイデンティティーをなかなか確立できずにいた筆者が、カイロ哲学に触れ、その単純明快な基本理念に触発されて、次第にカイロプラクティックに魅了されていったのも、ごく自然なことだろう。


カイロプラクティックに付いて少しだけ補足する。カイロプラクティックを大別すると、ストレート系とミキサー系に分けられる。ストレート系とは、純粋にカイロプラクティックのみを追求し、サブラクセーションの矯正以外は行わず、従来の哲学を重視し続ける学派を言う。対するミキサー系は、哲学にはこだわらず、西洋医学的な診断法をより重視し、カイロプラクティック以外の治療法(理学療法、マッサージなど)を積極的に取り入れている学派を言う。
その両者の違いは、学校のカラーとしてはっきりと現れ、筆者の行ったユニバーサル・カイロプラクティックカレッジは、考え方としてはバリバリのストレート系だった(厳密には、一部のテクニックはそれに当てはまらないのかもしれないが、マッサージ等他の手段を、学校としては奨励しないという点において)。


たぶん選択した学校がミキサー系だったら、筆者はカイロプラクターにはなっていなかっただろう。
ミキサー系は症状を重視する傾向が強く、西洋医学的な観点でそれを捉え、カイロプラクティックも「症状改善」の為の1つの手段であると考えているように、筆者には見受けられる。
これは、まさしく筆者がカイロプラクティック哲学に触れる前の、カイロに対する認識そのものである。おそらくミキサー系の学校に進んでいたら、筆者は今ごろ整骨院の院長をしていたことだろう。しかし同時に、自分自身の治療家としての有り方に、依然として疑問を感じつづけていたに違いない。
治療家として、症状を全く無視することが出来ないのは当然であり、患者としてもそれを解消する為に治療を受けていることなど百も承知である。しかし、それに振り回されてしまっては、自分の治療の本質を見失いかねない。結局、いつまでも症状にとらわれ続け、カイロ以外の様々な治療法にも際限なく手を伸ばし、一向に自分のすべき事が見つからずにいたことだろう。


ある意味で「割り切ってしまった」と言えるのかもしれないが、幸いにもそれが出来たのも「カイロプラクティック哲学」があったからこそだろう。


しかし人生とは不思議である。
新しい治療法を求めて、「テクニックが豊富である」と言う理由で選んだ学校だったはずなのに、テクニックではなく「哲学」に魅力を感じ、カイロプラクティックにはまってしまうとは、なんとも皮肉なものだ。


一方テクニックはと言うと、正直なところ最初は戸惑いの連続だった。
筆者が在学中に履修したテクニックは、SOT(CMRT,Cranial),トムソン,AK,ガンステッド,ディバーシファイド,ピアーズ,ターグルリコイルと数多く、講師陣も国内の第一人者がそれぞれ担当し、大変充実していた。
これらを二年間で学ぶわけだが、これが予想以上に厳しかった。一つ一つのテクニックの習得自体が難しいことはいうまでもないが、問題はそれだけではない。それぞれのテクニックごとに治療法が体系付けられてはいるものの、概念に統一感が無く、同じカイロプラクティックのテクニックでありながら、全く別のものを学んでいるような感じなのである。
逆に言えば、それだけ「引き出し」が増えるわけで、知っていて損と言うことはないのだが、毎日違った理論体系で授業がなされる為、当時は混乱の極みだった。
ただ、あれだけの内容を二年間で一気に学べるところは他にはなく、その甲斐あってか、筆者は1つの理論のみにとらわれず、柔軟な思考が可能になったのも事実である。
お陰で、在学中は得手不得手は有ったものの、特定のテクニックに固執することは無かった。


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  整骨院を開業


さて、在学中仕事はどうしていたのかというと、それはもちろんしていた。
とは言うものの、結果的に生活費の殆んどを妻の収入に頼っていた時期も多かった(そのせいで、いまだに頭が上がらない)。


再就職先を、手技療法を中心に治療を行っている治療院で尚且つ出来るだけ収入の良いところに限定し、探すことにした。本来なら、技術の習得を優先し収入は二の次にすべきだろうが、さすがに家庭を持った成人男子が、月5万10万の収入ではちと心細い。
しかし当然ではあるが、その様な(都合の良すぎる)好条件が揃った職場など、そう簡単に見つかるわけが無かった。
整骨院(接骨院)の求人で、時折給料が異常に良いところを見かけるが、何故かどことなく「怪しさ」を感じてしまう。逆に技術の習得を優先させると「それでは生活が…」と言うことになる。最終的には、自宅のある練馬と学校のある池袋の中間に位置し、給料が良く、また院長が「カイロに興味がある」ということで、ある整骨院に就職することにした。
しかし、その院長とは意見が合わず、結局数ヶ月で辞めてしまった。色々な面で余りにも相性が悪すぎたのだと思う。


そこに在職していた数ヶ月間で感じた整骨院に対する印象の全てを、ここに書きたい気持ちでいっぱいだが、やはりそれはやめておこう。
ただ一言、ほんの数ヶ月の間では有ったが、そこに勤めたお陰で、「整骨院開業」に対する執着心がほとんど無くなった、と言えば充分だろう。その点では、「良い経験だった」と言えるのかもしれない。


さて、その後はというと・・…実は整骨院を開業している。
「オイ、オイ、話が違うじゃないか!」と言う声が聞こえてきそうだが、これには理由(言い訳)がある。
件の整骨院を勢いで辞めてしまった筆者が途方にくれていると、カイロを通じて知り合った人から、「何もしていないなら、いっしょに開業しないか?」と声がかかった。その人は、関西ですでに針灸整骨院を経営しており、それを弟子に任せ、カイロプラクティックとオステオパシ―の勉強の為に東京に出てきている最中で、自分が自由に治療の出来る環境を求めていたところだったらしい。そこにちょうど「ただいま失業中」の柔道整復師を見つけ、「声をかけた」ということだろう。つまり、「整骨院開業」とは言っても、殆んど「雇われ店長」と言った状態なのである。
お互いに整骨院にこだわりがあったわけではない。氏(S先生)は、(性格はともかく)非常に勉強熱心で、実力も確かなものが有り、様々な治療法に精通していた。あえて整骨院ではなくとも充分やっていけたはずだと筆者は思っている。それでも、最初は整骨院のほうが無難だろうということで、安全策をとって整骨院を開業する運びとなった。


筆者にとって、そこでの経験が非常に大きな糧となっている。
現在の治療スタイルの基礎は、そこで培われた。カイロプラクティック哲学に傾倒し、「症状は追わず、サブラクセーションを矯正すればそれで良し」と考えていた筆者とは対照的に、S先生は「症状が(その場で)改善しないものは治療では無い」という信念を変える事は無かった。
S先生は、筆者の治療法に関して何かを強制することも、口を出すことも殆んど無かったが、「患者さんが『良くなった』と感じるまでは帰してはいけない」ということはよく言われた。
本人もそこは徹底しており、それに関しては「ごまかし」や「はったり」では無く、手技のみで治そうという信念を強く感じた。実際に、納得いくまで治療をやめようとしなかった。
氏は筆者にとって、手技療法の師匠である。


S先生は、次から次へと新しい治療法を学んできては自分の治療に取り入れ、その効果を実証していった。本当に鮮やかに症状を消し去る手技も少なくなかった。
それを日々目の当たりにしては、筆者の心が動かないわけが無い。もとはと言えば、カイロプラクティックを始めた真の動機はそこにあるのだから。


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   頭蓋骨の矯正?


そこは本当に勉強になった。
学校の授業だけでは決して身につかないような経験を積む事が出来たし、何よりも様々な治療法を学ぶ事が出来た。S先生は、オステオパシ―を中心に、ありとあらゆる治療法を身に付けていった。中でも特に力を入れていたのは 「頭蓋仙骨治療」 である。これはその言葉通り、“頭蓋骨”と仙骨を矯正する治療法である。
当時の筆者には「頭蓋仙骨治療」に関する知識はあまり無かった。
これを御覧の中にも、おそらく「何じゃそりゃ?」という方も少なくないだろう。医療に携わる人でも、それを知っている人などほんのごく一部に過ぎず、それを信じている人となるとさらに少ない。だいたい西洋医学界から見たら、カイロプラクティックでさえもまともに相手にされない事が多いのに、さらに頭蓋骨を矯正するなどと言おうものなら、完全に変人扱いだろう。


かく言う筆者も、最初は全く理解不能だった。
それもそのはずで、解剖学では成人の頭蓋骨は1つの単体として扱われ、顎関節以外には関節などない癒合した1つの骨であり、どこをどう探しても矯正するところなど見当たらないのである。だから、手技療法を用いている治療家の中にも「頭蓋骨矯正だけは信じられない」と言う人は多いのである。


しかし一方で、カイロプラクティックの一部のテクニックおよびオステオパシ―では、頭蓋骨を15種23個の骨の組み合わせであるとし、それぞれの骨が呼吸あるいは水圧変動(脳脊髄液の循環)による規則正しい動きを有する、と捉えている。それぞれの骨の結合部(縫合)は歯車様の形状をなし、すべてが連動しており、1つの骨の動きが阻害されると全体の運動に影響を与える。それが原因で神経活動の低下を招き、身体に悪影響を及ぼす、と考える。しかも、その動きは母胎内ですでに始まっており、肺呼吸以前に見られる呼吸という意味で “第一次呼吸メカニズム” と呼ばれている。
頭の固い筆者も、その理論だけなら何とか理解する事は出来た。しかしながら、「実は、頭蓋骨は動いているんですよ」と言われても、やはり荒唐無稽な話に思えた。
実際に、いくら触っても動きなど感じなかったし、押しても引いても形が変わるようには見えず、どちらかと言うと否定的な目で見ていた。


しかし、当時開業していた整骨院でS先生が主に行っていたのは、まさにその「頭蓋骨治療」だった。筆者には、自分の理解を超えているものに対しては一度疑いの目を向け、どこか粗探しをしようと必死に観察する、といういやらしい習性がある。カイロプラクティック同様、頭蓋骨矯正も何か裏が有るのではないか、と余計な詮索をせずにはいられないのである。
確かに、「何故、それが頭蓋骨の矯正で治ってしまうのだろう?」といった、不思議な現象が起こる。例えば、腰痛の人が頭蓋骨の矯正を受けることで痛みが消えてしまう、といった事がしばしばある。それに対して筆者はあれこれと詮索し、最終的には「寝ていたから良くなったのでは?」という、なんとも低レベルな結論に達するのであった(30分以上仰向けのまま治療していることも多いので)。


間近で見ていても、何をしているのかさっぱり分からない。あまりにも静かで、術者も患者も殆んど動かないので、「2人とも寝ているのではないか?」と思えるほどであった(患者さんは熟睡している事が多い)。それでもお互いに「良くなった」と言うのだから、まったく不思議で仕方がなかった。
ただ触っているだけのように見えるので、筆者もまねをしてみるのだが、当然何の変化も無い。筆者がやってもただの「時間の無駄」なのである。なかなか動きを掴む事が出来なかったので、「筆者にはむいていない」と諦めかけていた。
それでも、そのうち少しずつ分かるようになるのでは無いかと期待しながら、一応続けてはいた。


そして、それはある日突然やってきた。
頭蓋骨の動き(一般的には脳脊髄液の圧力変化)は身体のどこにおいても感じ取る事が可能なのだが、動き自体が非常に小さく、それ故掴みにくい。それまで「なんとなく」感じているような気はしていたものの、確信は持てずにいた。その動きを捕える事とは、「細い糸を切れないように慎重に手繰り寄せながら、最後の最後にようやく手にする事が出来る」くらい繊細で、たゆまぬ努力を続けた者だけが手に出来る、貴重な感覚だと思っていた。しかしそうではなく、今まで全く感じなかった奇妙な動きを「突然」はっきりと感じたのである。
頭蓋骨(脳脊髄液)の動きは、良く「潮の満ち引き」に例えられるが、まさにそのとおりだった。そのときの状況は、今もはっきりと覚えている。


それは、背部の痛みを訴える大学生を治療している時だった。当時筆者は、カイロプラクティック・テクニックの中でもディバーシファイドとAKを主体とした治療を行う事が多かった。その時は、それだけでは一向に変化が出ず、その他のあらゆる事を試してみたのだが全く改善する気配は無かった。
その大学生は、普段はS先生の担当している患者だった。たまたまその日は氏が休みだった為、筆者が変わりに治療をしていたのだ。「いつもの先生なら、治療をすれば必ず痛みが無くなるのに、今日の先生はダメだなぁ」と言う声が、今にも聞こえてきそうな感じだった。


手持ちの札をすべて使い果たし困ってしまった筆者は、仕方なくS先生のまねをして、痛みのある部位に手を乗せた状態で、ただじっとしていた。
さて、見様見まねで手を乗せたはいいが、何もする事は無い。「う〜ん、この手をいつ離そうか」とぼんやりしていると、手に奇妙な動きを感じ始めた。ちょうど右胸郭の後ろ(肝臓あたり)に触れていたので、呼吸による動きだろうかと思ったが、呼吸のリズムとは明らかに違う。今まで感じたことの無い動きだった。とりあえずその動きを見失わないようにしながら、そのゆっくりとした動きに同調し、それを追うことにした。時間にしたら10分弱位だろうか。不規則な動きを繰り返していたその運動が、より大きな規則正しい振幅に変わった。思い切って手を離し、恐る恐る「どうだろう?」と聞いてみると、なんと、「痛くありません」との返事が返ってきた。
その一言を聞いてうれしかったのは確かだが、それでもまだ「偶然治ったのでは無いか」とか、彼の方が「諦めたのではないか」と半信半疑だった。しかし、それまでは何をやっても「まだ痛いです」と言い続けていたのだ。彼は遠慮するようなタイプではない。一先ず、本当に良くなったのだろうと信じることにした。


それからしばらくは、その時感じた動きを探すことに集中した。初めのうちは動きを感じ取れないことも有ったが、次第に誰でも同じようにそれを感じ取る事が出来るようになった。それを続けていくうちに、ただ動きを感じ取れるだけではなく、弱く不規則な動きをより強く規則正しい運動に変える為のコツを、自然と掴んでいた。それと同時に、治療に対する自信も深まっていった。
その頃には、もうすっかり頭蓋仙骨治療の虜になっていた。


頭蓋仙骨治療には多くの利点があるが、その中で治療する側にとっての利点は、患者さんの状態を主観的に判断する事が出来る、という点だろう。すなわち、動きを診る事で、どこに異常があるのか、または、それに対する治療が上手くいったのかどうか、といった判断が、まさしく手にとるように分かるのである。
おそらくどの治療家にとっても、それがもっとも困難な事柄であると思う。それが主観的に判断できなければ、自信を持って治療を行うことなど出来ない。誰もが様々な方法を用いてそれを行ってはいるが、これまた本当に多種多様で、その中の1つの方法を選択した場合には、それを考案した者の考えを盲目的に信じるしかない。「もし、その判断が誤っていたら…」。疑り深い筆者は、いつもそこに不安を感じていた。


頭蓋骨の動きあるいは脳脊髄液の動きが分かる、と言ったところで、そこには科学的な根拠や客観性は無い。しかも感じない人には全く感じることが出来ない。動きを実感できずその理論も理解出来ない(しようとしない)人から見たら、宗教やいんちき気功師と思われても仕方が無いほど怪しげな治療法なのである。
しかし、“主観”という点に関して言えば、これほどはっきりとしたものは無い。自分自身をごまかす事が出来ないほど明確に、感じる。そこにはマニュアルも無ければ公式も無い。自分自身の感覚だけを頼りに、手探りで悪いところを探し、それを治す。良くなったかどうかの判断もまた、その感覚だけが頼りであり、ごまかしが利かない。つまり、自分自身が納得したところで治療が終了するのである。


その感覚をはっきりと感じ取って以降、筆者のなかで、治すべきものをしっかりと認識する事が出来るようになり、治療に対する目的がより明確なものになった。もう以前のように、「何を治したらよいのか分からない」ということは全くなくなった。
もちろん治療効果という点に関しても、それ以前とは比較にならないほど向上した。それまで手も足も出なかったような疼痛疾患や他院では改善しなかったものに対しても、それなりの成果をあげる事が出来るようになった。


今にして思えば、決して「マスターした」などというレベルではなかったが、当時の筆者は「これで何が来ても困ることはない」という確かな手ごたえを感じていた。


すべてはその整骨院を開業し、筆者にそれを教えてくれたS先生のお陰である。そこでは頭蓋仙骨治療以外にも多くのテクニックを学んだ(主にオステオパシ―)。未だに何の恩返しも出来ずにいるが、S先生には本当に感謝している。
しかしその整骨院は、S先生の帰郷に合わせて閉院することになった。


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  〜最終章〜 ついにカイロプラクターに・・…


頭蓋仙骨治療とカイロ・テクニックを併用し、治療に対する自信をより確かなものにしていていた筆者は、気分はすっかりカイロプラクターになっていた。
さらに「もう何が来ても大丈夫」と思っていたため、整骨院をたたんだ後は、「カイロプラクター」として独立することを決めていた。・・・ん、ちょっと待て、いつ決心したんだっけ?


確かカイロプラクティック・スクールに入学した目的は、将来整骨院を開業した際の補助的な手技の一つとしてカイロを取り入れるためであり、決してカイロプラクターになりたいと思って入学したわけではない。それが、カイロ哲学に触れ、テクニックを身に付けていくうちに、徐々にカイロに傾倒していったのは事実である。しかし、整骨院を開業したからといって、カイロプラクティックが行えないというわけでもない。実際にそうしているところはいくらでもある。


では、何故そうしなかったのだろうか?
考えられる理由はいくつかある。


一つは、いうまでもなく、カイロプラクティックの魅力に取り付かれてしまったからだろう。
カイロに魅了されればされるほど、純粋にカイロプラクティックのみを追求し、それを実践していきたいと強く思うようになる。
もともと器用な性格ではないうえに、わりかし一途な方なのである。整骨院との兼業などという、中途半端なことが出来る筈はない。もっとも、カイロにそれ程魅力を感じなかったら、おとなしく整骨院をやっていただろう。しかし、幸か不幸か、筆者はカイロに魅了されてしまったのだ。


もう1つの理由は、整骨院(柔道整復師)自体に魅力を感じなくなってしまったからだろう。
もうすでに述べたとおり、本来柔道整復師は(範囲の限られた)外傷の専門家である。
外傷のみを扱うのであれば、全く問題はない。しかし実際には外傷だけでなく、殆んどの整骨院では腰痛や膝の痛みなどの「慢性疾患」を扱っている。これらに対する治療行為そのものが「違法」であるのかどうかは、正直なところ筆者にも分からない。しかしはっきりしているのは、これら慢性疾患を「健康保険(療養費)」を使い治療することは完全に違法、ということである。
つまり、整骨院の治療で健康保険が使えるのは明らかな外傷に限られ、腰痛や肩こりなどの慢性疾患に対しては保険を使うことは出来ない。したがって、それらの治療は行わないか、もしくは「自費」での治療が原則である。
しかし、一般的な整骨院で、「怪我」ではない「明らかな慢性疾患」の治療を断られることはまずない。さらに、保険を使わずに慢性疾患の治療を行っているところは少ない。
では、どうしているのかというと・・…それはヒ・ミ・ツ。 (まぁ察しはつくだろう)


筆者には、それがどうしても出来ないのだ。
そういう筆者も御多分に漏れず、整骨院を開業していた当時は、一応(柔道整復師だけに通用する)常識の範囲内で健康保険を使用していた。しかし、これがどうにも性に合わない。
これは開業する前から感じていたことだが、整骨院とは、違法すれすれ?のかなりきわどい商売なのである。保険(療養費)請求は、言い方は悪いが単なる体裁を整える作業でしかない。保険者は用紙しか見ないのだから、一通りの体裁さえ整っていれば問題なく請求額がおりてくる。悪用しようと思えば、いくらでも出来る。これは何も整骨院に限った話ではなく、保険証が利用可能な医療機関ではどこも同様なのだが、整骨院は少し事情が違う。通常の解釈では保険適用ではない?ものに、独自の解釈で、無理やり保険を適用させている感が強い。
少々デリケートな問題なのであまり深くは触れたくないが、一言でいうと「良心が咎める」のだ。
健康保険に頼らず自費のみで治療したほうが、何か正々堂々と胸を張っていられる気がする。


もちろん、すべての整骨院に問題があり、カイロプラクティックにはまったく問題がない、と言いたいわけではない。真面目に経営している整骨院もあるだろうし、柔道整復師の制度自体に問題がある、と言えなくも無い。逆にカイロプラクティックに関する問題も決して少なくはない。何れにしても、要は「本人次第」なのであるが…。


しかし筆者には、「自分にしか出来ない治療」というものがあり、それは柔道整復師ではなく、カイロプラクターとして行うべきである、という自惚れに近い自負があった。
またそれが、他のカイロプラクターや柔道整復師に対する「礼儀」でもあるように思えた(筆者など、足元にも及ばないような努力をされている先生方には、かえって失礼かもしれないが)。
そして、それを実行する為には、カイロプラクティックを専業にせざるを得ない。


整骨院を開業中にこれらの気持ちが徐々に固まり、気付いた時には、すっかり「カイロプラクター」になってしまっていた。つまり、意を決してカイロの世界に身を投じたわけでも、悩みに悩んだ末にこの道を選んだわけでもない。自分にとっての(治療家としての)より良い環境を模索しているうちに、自然とカイロプラクターに「なってしまった」のである。


とまぁ、こんな具合で、筆者は現在カイロプラクターとして日々精進しているのである。
「せっかく取った資格(柔道整復師)があるのだから、使わなければもったいないじゃないか。バカだな〜」等と言われることは多い。また、筆者自身「整骨院をやっていれば、生活はもっと楽なんだろうな」とか「自分のわがままで家族には苦労を掛けているよな〜」等と考える事も、たまにはある。
しかし、自分の中で正しいと思える道を進んできた結果である。後悔などしていないし、当然間違ったことをしている、という意識も一切ない。それだけは自信を持って言える。


現在、日本のカイロプラクティック業界は混乱の中になり、今後もそれが収束するようには見えない。この日本において、カイロプラクターという職業は決して安泰ではないのだ。
しかし、今後もカイロプラクターで在りつづけたいと、心から願っている筆者なのである。


おしまい・・・。


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  あとがき


これを書こうと思い立った理由は他でもない、これは患者さんによく訊かれる質問だからである。
余程変わった仕事に見えるのか、(患者さん)「何故この仕事をしようと思ったのですか?」 (筆者)「・・・」という事が良くある。その度に理由をあれこれ思い出そうとするのだが、上手く答えられない。それなら、一度今までの経過を振り返ってみよう、と思ったのがきっかけである。


しかし率直なところ、これが表題の「僕がカイロプラクターになった理由」に相応しい内容かどうかはよく分からない。「せっかく最後まで読んだのに、理由がよくわからない!」等という声も聞こえてきそうである。
確かに、改めて振り返ってみても、理由らしい理由は無いように思える。考えてみると、ここに至るまでに数々のターニングポイントがあったが、その都度「悩んだ」という記憶がほとんどない。決断する前に答えは決まっていて、他に選択肢がないような状態だったように思う。運命と言えばそれまでだが、本当に何かに流されるように、ここまで来てしまったように感じる。それとも、単に忘れっぽいだけかな…。
いずれにしても、これが筆者がカイロプラクターになった経緯である事に間違いはない。

そして、今のところ、カイロプラクターとして楽しい勉強の日々を送っていられることは、筆者にとって幸いなことである。

こんな自称カイロプラクターの、取るに足らない長い長い回顧録にお付き合い頂き、本当にありがとうございました。


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