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去るG.W.の終盤五月五日に、次男(六歳)が怪我をした。 それも私と一緒に遊んでいる最中の出来事である。 私にとっては、「怪我をした」というよりは「怪我をさせてしまった」という心情に近い。 「なぜ一緒にいてそんなことになってしまったのか」と、今、自責の念にかられている。 怪我をさせてしまった、というのは、その事故は不可抗力とはいえ、 私の力が大きく関与しているからである。 完全に私自身の不注意だったと反省している。 あまり思い出したくはないが、怪我をさせてしまった時の状況を書き付ける。 当日は、友人家族数件と共に、とある公園でバーベキューをしていた。 会も終盤に差し掛かり、そろそろお開きという時間になって、 私は次男に連れられて、遊具のある一角へと向かった。 そこで息子が選んだ遊具は、パイプで出来た籠状の乗り物に子供が乗って、 滑車の付いたレールを伝って進む遊具(籠はレールにぶら下がっている)で、 息子が乗って私がそれを後ろから押して遊んでいた。 息子は喜んで、「もっと強く、もっと強く」とせがんだ。 そのほうがスピードが出て面白いからだ。 私も調子に乗って、徐々に押す力を増していった。 楽しく遊んでいたその時、力を入れすぎたのか、滑車が滑らず、 籠は途中で止まって、大きく揺れた。 最初は籠が止まっただけで、他に特別な事は何も起こらなかったと思っていた。 息子の声がしないのが気になって、「どうした?」とたずねた直後、 息子は火がついたように泣き出した。 きっと今の衝撃でどこかにぶつけたんだろうと察し、「どこかぶつけたのか?」 とたずねると、泣きながら「ハナ〜」と息子は答えた。 息子の鼻を見ると、上下の丁度真ん中付近が少し凹み、左に曲がっていた。 それを見た瞬間、全身の血の気が一気に引いた。 「あぁ、息子の鼻が折れてしまった・・・」。 大変なことになってしまったと感じ、急いで息子を遊具から引きずり降ろし、 抱きかかえて元いた場所に戻り、帰り支度を急いで済ませて病院へ向かうことにした。 友人の奥さんが機転をきかせて方々へ連絡をつけ、救急病院を探してくれて、 山梨大学医学部付属病院で受け入れてくれることが分かったので、 そのままそこへ向かうことになった。 (一緒に行った友人達には、すっかり迷惑をかけてしまった。) ずっと泣き続けていた次男は、車に乗る頃には泣き止んで、少し落ち着いていた。 鼻は少し曲がって見えたが、幸い鼻血は出なかった。 病院まで車で40分程かかっただろうか、途中で息子はウトウトし始めた。 頭を打った衝撃で、頭蓋内出血でも起こしているんではないだろうかと、心配になる。 病院に着いた頃には鼻の腫れは強くなっていて、曲がりはよく分からなくなっていた。 休日にもかかわらず、幸運にも耳鼻科医に診ていただくことが出来た。 先生は、「腫れているのでよく分からないな」と言いながらも、 とても丁寧に診察して下さった。 レントゲン上は骨折らしきものは見当たらず、もしかするとヒビ(不全骨折)かも、 というところは有ったようだが、その日は特別処置はなく、 腫れが引いた時点で再度診察し、必要があれば整復しましょうということにして、 五日後の診察の予約を取り、その日は帰宅した。 息子は痛がることは全くなかったものの、腫れのほうはその後次第に増していった。 夕食もしっかり食べ、鼻が腫れている以外は特に問題は無さそうだった。 その晩、息子が寝てから鼻を触ってみると、やはり少し曲がっているように感じた。 鼻骨の骨折については、柔整学校時代整復方法は教わっていたが、 実習をした記憶はなく、その整復が柔整の業務範囲なのかどうかも定かではない。 それに、鼻骨の整復の方法は知っていても、実際に目の当たりにした事はないし、 当然経験もないので、もし折れていても、自分ではどうしようもない。 そのかわり、鼻骨も顔面骨の一部で頭蓋矯正の範疇なので、 息子が寝ている間に軽く触れる程度の矯正は試みた。 矯正後は、なんとなくまっすぐになったような気がする。 と、ここまでが、当日の経緯である。 一時は別人のようになってしまった鼻周囲の腫れも、その後徐々に引いてきた。 鼻骨の矯正は毎日行ったが、やはり最初の状態が残像として頭に残っているためか、 どうしても曲がっているように感じてしまう。 毎日毎日、「このまま鼻が曲がってしまったらどうしよう」という不安に駆られて過ごす。 ネットや書籍等で情報を集めると、これはそれ程心配しなくても良いようであるが、 やはり親としては「万が一」という思いが拭い難く、自分自身の責任も感じているので、 まるで安心は出来ない。 息子の方はどうかというと、これが全く気にしていない様子なのである。 むしろ私を気遣ってか、普段以上におどけて見せたりしている。 「鼻はもう痛くないよ。曲がってもパパが治してくれるんでしょ」 と屈託なく答える姿を見ると、何故か切ない気持ちになる。 「治したい」という一心で、毎日祈るように矯正を試みる。 わが子の事となると、自分の事以上に真剣になれる、これが「親心」なのだろうと思う。 怪我から五日後に、二度目の診察へ妻が連れて行った。 その日も担当医は大変丁寧に診察してくれたようで、 その結果、整復の必要はない、と判断された。 親の目から見るとまだなんとなく曲がって見えていて、 妻はしつこい程「大丈夫でしょうか?」と医師に尋ねたようだが、 担当医は嫌がらずに何度も確認し、仕舞いには隣で診察していた先生に声をかけ、 一緒に確認した上で、「曲がって見えるのは腫れのせい」という結論を出した。 さすがにここまでしていただいたら、信頼するしかない。 良い医師に診ていただいたようだ。 それでも何だか曲がって見えて、もしこのまま曲がってしまったら、なんて思うのは、 もう完全に親心は超えていて、単に心配性なだけなのかもしれない。 大体私は過保護すぎると自覚していたが、今回それを再確認してしまった。 後は腫れが完全に引くのを待つのみだが、ただ待っているのも落ち着かないので、 矯正はしばらく続けようと思う。 親として、出来ることは全てやってあげたいのである(やっぱり過保護だなぁ)。 親心。 わが子のことを案ずるこの感情は、子を持つ親であれば誰もが共感できるはずだ (昨今の事件を見ると、これは人が普遍的に持つ感情では無いのかもしれないが)。 わが子には何の見返りも求めず、ただひたすらその子のことだけを考えて、 愛情を注ぐことが出来る。 さて、人はよく、他人の痛みを分かれ、とか、相手の気持ちになって云々、などと言う。 我々の業界でも、そんな治療家に、といった声をよく聞く。 しかし、どんなに努力しても、他人の痛みを分ってあげることは、多分出来ない。 だから、分かったような顔をするのは、かえって失礼なのではないかとも思う。 病に限らず、同じ苦しみを味わったことが無い人に、その苦しみは共有できない。 私はそう思う。 しかし、親になった私は、子を思う親の気持ちならよく分かる。 いくつになってもこの気持ちは変わらないものだろうと、今は思っている。 人は誰だって生まれてきたからには親がいて、わが子を心配しない親はいない。 その気持ちなら、私には分かる。 きっと、治療というのは、相手の気持ちではなく、 相手の親の気持ちになって行うのが良いのではないかと思う。 今回の出来事を通じて、そんな事を学んだ。 2007.05.12 |
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