帰り道の思い出





小学生時代、学校からの帰り道は、私にとってちょっとした冒険のようなものだった。
徒歩で2〜30分の道中、四季折々の遊びを交え、道草しながら帰宅するのが、
小学生時代の楽しみの一つだったように思う。
帰りの道順一つとっても、その日の気分次第で変えながら、時に遠回りをしたり、
時に最短距離の畦道を通ったりと、いつも違う道を通って帰ったものである。


春は田んぼや水路を覗き込み、ザリガニやおたまじゃくしを捕まえながら、
夏には林の中を通って、カブトムシやクワガタを探し、たまに出くわす蛇を
つついたりしながら(何度か夕立に「追いかけられた」経験もある)、
秋には時々ブドウを盗み食いしながら(ゴメン)、
冬には校庭の池の氷を蹴飛ばしながら(厚さが3〜4cmになり、
家まで蹴り続けても解けることはなかった)と、とにかく何かしながら帰るのが楽しかった。


「こわいおじさん」などというものも居たには居たが、それは「怒るおじさん」の事で、
わざわざそのおじさんを怒らせて楽しんでいるような輩もいたりした。


時には、怖い体験をした事もある。
通学路を少し外れたところに、夏になると昆虫の宝庫となる林が有り、
夏以外でも、林というものは子供の好奇心を刺激するもので、
ついつい入り込みたくなる。
少し遠回りになるが、その魅力的な林を通って帰宅する事が時々あった。
いつも通り林の中を歩いていると、一本の木が目に留まり、
どことなく不自然に感じながら近づくと、幹に打ち付けられた「ワラ人形」の姿が・・・。
おぉ〜コワ、今思い出しても恐ろしい。
当然、しばらくそこには近づけなかった。
そんな思い出いっぱいの林も、今はもうない。


親ものんびりしたもので、「早く帰ってきなさい」なんて言われた覚えはあまり無い
(それなりに心配してはいたのだろうが)。
なので、家に帰らずに、直接友達の家へ遊びに行ってしまうこともあった。
とにかく、私にとっては、下校の時間も貴重な「遊びの時間」であり、
そして「学びの時間」だった。
よくイタズラもしたし、ケンカもした。
今思えば反省すべきところも多々ある。
しかしこうした経験は、人格形成に少なからぬ影響があるはずだし、
文科省で制定される学習指導要領とは別の、大切な教育になるはずである。


季節を肌で感じられるような自由な経験が、子供の好奇心を満たし、
情緒を豊かにし、情景を脳裏に刻む他に変えがたい教育となるはずだ。
「価値観」なども、少年期の経験とは無関係ではないだろう。
そして、都会では不可能なこの「田舎」ならではの経験は、
情報からは決して得られない「生きた知識」となるものと思う。
当然ながら、都会には都会でしか出来ない経験があり、
それらが子供の成長にしっかりと関与するはずである。
しかも、それは小学生時代にしか出来ない貴重な経験ではないだろうか。


このような経験の蓄積が人格を形成する一つの要素となるならば、
その異なる経験の集積が社会という「場」の形成に幾ばくかの影響力を持ち、
社会を成熟させる重要な智慧につながるのではなかろうか。
さらには、こうした経験があるからこそ、ふるさとは忘れがたいものとして心に刻まれ、
子供達にもそれを受け継いで欲しいと思う気持ちが生まれるのではないだろうか。
その延長線上に、「愛国心」というものは自然と育まれるものでないかとも思うのだが、
どうだろうか?




今、子供達から、その貴重な「帰り道」が奪われようとしている。


近年相次ぐ、子供達を狙った凶悪犯罪の増加に伴い、登下校時の子供を
犯罪者から守ろうという意識の高まりから、各地で防犯パトロールや
登下校に大人が付き添うといった取り組みが進んでいる。
最近の事件は、都市部よりも地方の方が多くなっている点も気にかかる。
民家の途切れる「死角」が、地方には多いことも理由の一つのようだ
(しかしそういう場所が子供にとって「大人から隠れる死角」でもあったわけだが)。
私が小学生の時には、地元では事件などめったに起こらなかったものであるが、
最近地元紙でも、県内の事件の報道が目立つようになった。


つい最近も、市内で小学一年生の女児が狙われる事件があったばかりである。
今回は幸いにも、被害児童の適切な行動によって未遂に終わったが、
これほど身近で事件が起こっては、対岸の火事などと言っていられる状況ではない。
(危うく難を逃れたのは、私の長男が通う小学校の児童だった)


このまま子供を狙う犯罪が増加の一途をたどった場合、子供の学校への「送迎」が
各家庭に義務付けられる日が来るかもしれない。
少なくとも、保護者の監視の下に下校せざるを得ない状況は出来つつある。
これが一時的な措置に終わり、いずれまた、登下校時に犯罪に巻き込まれる心配などない
時代が来ることを願うが、現に海外では、子供の送迎は当然の「親の義務」という国も
少なくないようであり、日本も今後そうなる可能性は高いようにも思える。
そうなれば確実に、「帰り道の思い出」など、語られることはなくなってしまうだろう。


たとえ子供を狙った犯罪がなくなったとしても、環境が当時とは全く変わってしまった。
山梨でさえ、私の家の周りでは、以前は豊富にあったはずの緑が今はすっかり減って、
当時の地形を思い出せないところも多い。
確かに便利になった面は否定できないが、当時が暮らしにくかったという印象も余りない。
むしろ、子供達の遊び場が減った事を考えると、今の方が生活はしにくいようにさえ思う。
何を持って「豊か」とするかは意見の分かれるところだろうが、
地域格差をなくし、画一化することだけが「豊かになる」ということではないと思う。
都会には都会の、田舎には田舎の豊かさがあり、それらを同じ尺度で測ろうとしてはいけない。
「豊かさ」は、誰かに押し付けられるものではないし、よそと比較するものでもない。
しかし個人的には、このあたりは以前の方が豊かだったように思う。
いまさら当時のような環境に戻すことは出来ないのかも知れないが・・・。


今の小学生は、どんな「帰り道の思い出」を胸に、大人になるのだろうか。
机の上の勉強で、「愛国心」や「郷土愛」などは育つものなのだろうか。
そのような教育だけで、自分なりの豊かさの基準を自分の中に持てるようになるのだろうか。
子供たちを、もっと自由に外で遊ばせるためには、何をしたら良いのだろう。
無い知恵を絞って、じっくり考えてみたい。


                                              2006.06.02