1996年10月8日の印象

ジェニーの貢献(ジャック・ミューディー)

スピーチ(ジョン・クック)

直江津巡礼(ケビン・ニコル)

直江津への旅(マージョリー・アンダーソン)

成田から直江津へ、そして直江津にて(近藤 芳一)



 
ジェニーの貢献

ジャック・ミューディー
訳:八木 弘


1995年10月、31名のオーストラリア人が平和公園における友好像除幕式に参列するため直江津を訪れることができたのは、ひとえに訪問団の一員ジェニファー(ジェニー)・ウォルシュのたゆまぬ努力と献身的な仕事ぶりによるものでした。私たちが旅行に出発できただけでなく、参加者一人一人が終始予定通り楽しく旅を続けられたのは、ジェニー一人の努力のおかげでした。

下村省一氏(直江津捕虜収容所の平和友好記念像を建てる会実行委員長)がある人に直江津訪問を懇請されましたが、その方はきっぱりとお断りになりました。そのような冒険は、着手するのさえ不可能だという意見でした。そこで私の方にお鉢が回って来たわけですが、私は齢(よわい)88歳で難聴、おまけに脚も弱っており、引き受けるわけにはいきません。そこで、出発までに残された時間はわずか6週間という差し迫った状況にもかかわらず、ジェニーが熱意あふれる協力の気持ちで私に代わって仕事を引き受けてくれたのです。

ジェニーは、直江津へ赴く体力と意志のある元捕虜を探し求めるという膨大な量の仕事に取り掛かりました。今でも日本と関わりのあることには、すべて憎しみを抱いている人々に拒絶されることが何度もありましたが、彼女はくじけませんでした。

以下、ジェニーがしたことを列記します。
---好条件を求めていくつかの航空会社を訪れ、最終的にはJALに落ち着きました。
---司祭が同行するよう取り計らいました。
---彼女が東京のオーストラリア大使へ何度も電話したおかげで、大使は私たちのためにいろいろと尽力してくださいました。--成田で出迎え、ホテルへ見送り、さらに火曜日には直江津収容所でなくなった60名のオーストラリア兵が眠っている保土ヶ谷墓地へのバスを手配し、午前のお茶で歓待し、東京へ戻る車の手配までしてくださいました。
---私たちが持参するたくさんの贈り物を手配しました。
---私たちに同行してキャンベラへ出かけ、連邦政府の復員軍人省大臣の協力と支持を取り付けました。
その結果、一行はすべての手続きを整えてもらったおかげで、空港に集まり、一団になって手配された旅行に出かけさえすればよかったのです。
オーストラリア政府から上越市長への贈り物としてふさわしいものを購入すべく大臣が我々に託した1,000ドルで、田舎の典型的なオーストラリア風景を描いた美しい油絵を求めました。
---彼女は全員に計画の内容を知らせ、それにかかったすべての費用--海外電話料、国内電話料、切手、交通費等の費用は自分で負担し、この企画に寄付したものとして参加者に請求することはしませんでした。

このようにして、ジェニーの6週間に渡る骨の折れる作業と多くの眠れぬ夜を経て、不可能といわれた企画が実現したのです。

ジェニーが私に代わって成し遂げてくれたすばらしい仕事に、私は永久に感謝を捧げたいと思います。私たちが和解と平和の精神に満ち満ちて日本を訪れ、戦争の傷跡をいやすのに貢献し、オーストラリア代表としての役割をりっぱに果たすことができたのは、ひとえに彼女のおかげです。

私たちと行動を共にした司祭ファーザー・ハリー・ヒューズについて一言述べさせてください。一行の大半の人々の気持ちが厳しく張りつめていたときに、彼は力強く私たちを支え、慰めてくれる柱石でした。愛する者がどこで生きていたのか、どこで苦しんだのか、どこに愛する人たちの永久の安らぎの場所があるのか、50年間探し求めた後、この人たちはついに疑問に対する答えを見つけたのです。司祭は私たち皆にとって温かい慰めの源泉でした。そして彼は2回にわたってその場に極めてふさわしい礼拝を捧げて、私たちの国民としての誇りを支えてくれました。一つは直江津の平和公園で、一区画の土地を祝福し、オーストラリアの国土の一片として捧げました。その区画には、日豪二国を象徴する二体の天女が永久に見守る小さな戦没者記念碑が建てられ、300名の捕虜、なかんずく亡くなった60名の魂が眠っているのです。

ハリー神父は、横浜市の近く保土ヶ谷でもう一つのすばらしい貢献をされました。駐日豪大使アシュトン・カルバート博士とジェニーとの打ち合わせで準備されたバスで、私たちは東京から同地へ向かいましたが、ハリー神父は直江津収容所の死亡者が埋葬されている墓地でりっぱな儀式を執行されました。大使と大使館員は午前中我々と行動を共にされ、私たちの旅行の第二の目的地に到着しました。一行はついに愛する家族が眠っている場所を見つけたのです。私たち皆にとって深い感動のひとときであり、それまで抑えていた感情がほとばしるのをこらえることができませんでした。司祭は儀式の思い出となる美しい記念のパンフレットを一人一人に用意しておかれました。そして私たちは、日よけ天幕の下でおいしい午前のお茶をごちそうになりました。

一行全員は、大使並びに館員が示された温情と誠意をとても有り難く思いました。



 
スピーチ

ジョン・クック
訳:近藤 芳一


このスピーチは1998年10月8日、シドニーのレストランにおける上越市長主催昼食会にて行われたものです。

市長様、他のゲストの皆様、妻と私は本日この席へ招待していただき大変嬉しく思います。私たちふたりとも、皆様方のご厚意に感謝いたします。私はジョン・クックと申します。戦時中、私は捕虜として約3年間を直江津捕虜収容所で過ごしました。当時、飢餓や残酷な殴打、不十分な衣服や医療のために60名のオーストラリア捕虜が亡くなり、その中には私の親友達も含まれております。私は直江津を発つとき、大変苦い思い出とともに、二度とこの町には戻らない、と心に決めました。捕虜の死に対して責任ある立場の人たちを私は決して許すことはできませんし、また起こったことを忘れることもできません。「彼らを許し、過去は忘れよう」と言うことは簡単です。しかし、言葉は口から流れるだけで、心はこもっていません。

1995年、ミューディー氏が、平和公園の開園式に出席する直江津訪問団に加わらないか、と言ってきました。私は大変複雑な感情を覚えました。そして、フランク・ホール氏の車椅子を押すと言う名目で参加したのです。しかし、開園式の経験は、私の生涯で最もすばらしい出来事のひとつになりました。あの公園を造るためにどれほどの労力と努力が払われたかを知り、私は感嘆しました。司祭によって清められ、亡くなった人たちに捧げられた碑を見ることができたのは大変素晴らしい経験です。そこで催された慰霊祭は名誉と威厳に満ちていました。私は人生でもっとも感動的な部分としていつもこの2度目の直江津訪問を思い起こしております。

過去数年間、私のふたりの孫が交換留学生として日本へ行きました。また、ふたりの息子家族がシドニーで日本人の交換留学生を受け入れました。妻と私も、直江津と東京からの生徒を3度受け入れました。私たちが反日家でないことがおわかり頂けるでしょう。いつの日か、私たちは旅行者として直江津へ戻り、平和公園を訪れ、市の他の所も探訪したいと思います。

皆様方ご一行が今週、カウラの日本人墓地を訪るにあたり、私たちが1995年の平和公園開園式に参加したときに感じた喜びと満足感を、皆様方ひとり一人に経験していただくことを希望してやみません。
本日、皆様方へお話しさせていただく機会を得たことを大変感謝いたします。



 
直江津巡礼

ケビン・ニコル
訳:近藤 芳一


妻と私が平和記念公園開園式に出席する機会は思いがけなくめぐってきた。私たちが長い間家族ぐるみの付き合いをしているミック・ゴーマンを訪れたときである。

ミックは私の亡き父、ニコル大佐とともに直江津で捕虜の身であった。彼は来たるべき開園式の通知を受け取りはしたが、行くことができずにおり、私たちにどうかと、打診してきた。

私は長い間直江津を訪れたいと切望していたので、すぐさまジャック・ミューディー氏と連絡を取り、必要な計画を立てたのである。

いろいろな意味で直江津訪問は私の夢の実現であった。私は父を連れて日本を再訪したいと願っていたが、父は1989年に亡くなられた。私が退職し、そのような旅ができる立場になる前である。

父は捕虜を虐待した者達を深く憎んではいたが、おしなべて日本人を大いに賞賛していた。開園式に参加した他の元捕虜の方々と同様、私の父も上越の人々の誠実さに心を打たれ、真の和解と恒久平和を確信したことであろう。

直江津を訪れ、開園式に参加したことは私にとってまさに巡礼の旅であった。父が切望していたことを私が代わりに行い、私は父との約束を果たしたと感じたのである。

私の家族も私ともども上越の方々に感謝している。私たちの滞在中に示された友情や親切のみならず、50年以上も前の痛みを癒そうとする真摯な努力に対して。

平和が永久に私たち皆とともにありますように。



 
直江津への旅

マージョリー・アンダーソン
訳:近藤 芳一


私はこれまで亡き父、歩兵大隊長ロバートソン中佐、をいつも思い描いてきました。母は幾度も父を語ることには耐えられません。父を亡くしたことは母にとって、あまりにも大きな損失だったからです。それ故、弟のジョンと私は家族や、友人、そして後に戦友や直江津で捕虜だった方々から父について聞いて育ったのです。

母は生前、フランク・ホール氏と連絡を取り合っていました。ジョンはホール氏やジャック・ミューディー氏、その他の方々と会いました。その機会は、1995年4月、父が所属していた大隊から第二次世界大戦終結後50年を回顧するアンザック・デイ記念昼食会にジョンが招待された時でした。

私たちはその時、フランク・ホール氏が以前、直江津で亡くなった60名のオーストラリア兵を追悼する銘板を携えて彼の地を訪れたこと、また元捕虜収容所跡地に平和記念公園が建設される、という話を聞いたのです。

不思議なことに、私は一時父に対して強い感情を抱いたり夢をみましたが後年、あれはいったい何だったのかと疑問に感じていました。もし公園が本当に建設されるのなら私は開園式に出席し父の遺骨が埋葬されている横浜戦争墓地に詣でたい、と強く願ったのです。ジョンも同様でした。かって、私たちは一度も日本へ行きたいと思ったことはなかったのに。

ジャック・ミューディー氏と彼の娘、ジェニーが不可能といわれていた旅を可能にしました。直江津への旅は私にとっていろいろな意味で大切な経験でした。東京に向かう飛行機の中では父を友人として、また将校として知る人たちと会うことができました。近藤氏は成田空港で私たちを出迎えてくれましたし、オーストラリア大使館職員のおかげで空港内の手続きは順調に進みました。東京での宿は快適で、翌日は日本の田舎や山並みを通り過ぎる楽しい汽車の旅。

上越の方々の寛大さ、温かいもてなしや親切心は素晴らしいもので決して忘れることはできません。平和と和解を望む真摯な態度は明白です。直江津に到着した時、私はどのような感情におそわれるか気掛かりでしたが、(覚真)寺を訪問したときに込み上げた深い悲しみを予期することはできません。その悲しみは私の心の底まで揺り動かしましたが、また癒しの効果もあることに私は気づいたのです。

平和公園での式典もまたたいへん感動的なものでした。私はそこで父の魂を身近に感じ、彼の生きざま、死にざまに敬意を払ったのです。

私は上越の方々が私たちの滞在中に示してくれた友情と、平和を守り私たち両国民の和解に尽くす絶え間ない努力をこれからも常に感謝いたします。



 
成田から直江津へ、そして直江津にて

近藤 芳一
●成田から直江津へ

10月6日。この時期にしては寒い上越とは対照的に、ここ東京は暑い。オーストラリアからの32名の元捕虜、および親族の方々を迎えるため、私は汗をふきふき一路成田に向かった。第二ターミナルでは今回の訪日団の団長、ジャック・ミューディーさんの娘で東京在住のリネットさんと無事会うことができた。リネットさんいわく、
「みんなと会うのがとても楽しみ。エキサイティングだわ」
オーストラリア各地から来られる32名の方々はいったいどんな人たちだろうか。私もおおいに楽しみである。

大使館員の計らいか、オーストラリアからの来客は予定より早く入国審査を終えて出てこられた。みなさん、手に手に大きな荷物を持ち、カートを引いている。車いすのかたはフランク・ホールさんか。あいさつをしたり、握手をしたりで、初対面は緊張のうちに終わった。

成田空港から宿舎の芝パークホテルまでは約2時間の行程である。今回の訪日がはじめてという方が多かったため、車中、リネットさんがあれこれ日本について話された。お金、治安、天候のこと、そして明日向かう直江津について。

ベイブリッジを渡り、東京タワーをぐるりと回るようにしてバスはホテルに到着。ホテルでは大使館員の方も参加して日本で初めてのミーティングをもたれた。

まず、ミューディーさんが一言。
「一地域の住民が素晴らしいものを準備して私たちを待っています。私たちはただ、これに参加するというのではなく、この一部になり、ともにこのイベントを完成させるのだ、という気持ちで明日直江津に向かいましょう。もしその気持ちになることができるなら、私たちは生涯に一度の素晴らしい体験をすることができるでしょう。」
88才という歳を感じさせない、実に力強いよく通る声で話された。

つぎに大使館の方から日本で行動する際の注意が述べられ、最後に神父様が聖書を引用してお話された。時計が午後10時を回った頃、めいめい、日本での第一夜を過ごす部屋へ入られた。

翌朝は少し雲はあるものの晴れ。上野駅に直行する予定を変更し、バスから眺めるだけではあるがリネットさんをガイドにしての東京見物を行った。オーストラリア大使館、増上寺、皇居、銀座通りを経て、予定には少し遅れたものの列車の出発には十分な時間を残して上野駅に到着した。ここで大使館からの通訳、クレアさんと落ち会う。

今回の旅で唯一の問題は上野駅で起こった。事前の打ち合わせでは、改札口で2、3人の駅員が私たちを待ってホームへの移動、荷物の運搬を手伝ってくれるはずであったがだれもいない。改札口の駅員と交渉するが、時間ばかりが過ぎ、らちがあかない。ようやくおっとり刀で駅員と赤帽がやってきて私たちをホームへと先導してくれた。私は発車の時間が気になり、思わず早足になったが、オーストラリアの方はゆったりとしたものである。イギリスのロックシンガーが、「紳士は歩いても、決して走ったりはしない」と歌っていたが、あれはオーストラリア人のことかもしれない。何はともあれ、冷や汗ものであったが全員無事乗車し一路直江津に向かった。

全員無事、列車に乗られれば私の仕事は終わったも同然である。隣りに座ったクレアさんとしばし談笑。そのうち、あちこちから声がかかった。

元捕虜のバーバーさんは、戦時中に働いた工場で親切だった田中さんに会いたい、と言われた。田中はよくある名字なので、これだけで人を捜すのは難しいな、と感じた。

戦時中、捕虜の方々は収容所近くの3つの工場で働いたが、元捕虜のヒルさんは、それらの工場を再訪したい、との希望を述べられた。

また、多くの方々が覚真寺への訪問を希望された。当時の住職、円理さんは、捕虜の遺骨を秘密裏に預かり、来られた捕虜をもてなされた方である。

私はこれらの希望を逐一上越へ伝えた。上越で待つスタッフも前向きに対応してくれたのである。そうこうしている内に、列車は直江津駅に到着した。

●直江津にて

直江津駅での歓迎式後、ホテルで荷を解いた訪日団は、休む間もなく覚真寺を参拝された。その後、夕闇の中ではあったが、バスの窓から戦時中働いた3つの工場を見学し、歓迎会に臨まれた。

翌8日には三つの式典があったが、最初は法務死者追悼碑除幕式であった。オーストラリア訪日団で唯一この式に出席されたミューディーさんは式後、ホテルに向かう車で私に痛ましい話をされた。

冬、戦友が亡くなると残った者はその遺体をそりに横たえ、火葬場まで引いて行かれたそうである。浜風が吹きすさび、雪が降りしきる中、ミューディーさんをはじめ他の人はどんな思いで戦友の遺体が乗るそりを押したのであろうか。それを思うと胸が締め付けられた。

当日2番目の式典、オーストラリア銘板碑除幕式に参加されたヒルさんは、平和記念公園で私を見つけるや歩み寄りこう話された。彼は前日の工場訪問だけでは満足できなかったようである。
「昨夜、パーティーが終わった後、工場へ歩いて行って来たんだ。そして警備員に頼んで工場の中へも入った。今のトイレは新しく清潔になったが、トイレの位置は50年前と変わっていないな。しかし、昨日は少し歩きすぎたかな」
にこやかにこう話してくれたヒルさんは、しかし、いくぶん足をさすりながら奥様とともに式の席へと向かわれた。

田中さんと再会したい、と言うバーバーさんの希望は、取材に来ていた新聞社により報道され、奇跡的に田中さんを探し当てることができた。偶然にも、田中さんはオーストラリア訪日団が宿舎としていた東京のホテル近くに住んでおられ、直江津からの帰途、そこで50年ぶりの感動の再会を果たされたそうである。

平和友好記念像除幕式終了後、ミューディーさんの希望により、旧火葬場への訪問が急遽実現された。現在、火葬場跡地には何もない。建物の基礎だろうか、2、3の大きな石がある以外はただ草が生い茂るだけの荒れ地である。それでも、わざわざバスから降り、その光景をカメラに収めているオーストラリアの方がおられた。火葬場は朽ち果てようとも、その場所にまつわる悲しい想いはいつまでも尽き果てることはないのであろうか。

私にはたいへん感動的で重い体験であった。