捕虜収容所/平和記念公園敷地の歴史

POW Camp During the War

英元捕虜、トム・ウェイド氏による戦時中の捕虜収容所(絵:猪俣浩一)
出典:「太平洋に架ける橋」


直江津捕虜収容所を中心とした年表
 出典:「太平洋に架ける橋」
(これは出典年表項目を近藤芳一が選択、加筆したものです。)


西暦
敷地内外の歴史
1941
戦陣訓示達。
日本軍のパールハーバー奇襲攻撃により大平洋戦争始まる。
1942
11月、直江津捕虜収容所開設。
12月10日、オーストラリア軍捕虜300名を直江津捕虜収容所に収容する。その冬、約20名の捕虜が肺炎を患う。
1943
3月31日、陸軍中佐ロバートソン捕虜隊長「髄膜炎」で死亡する。
8月、香港から日本本土へ捕虜の移送始まる。12月10日、その一部が直江津へ移送。
この年の冬から翌年の春にかけて、直江津捕虜収容所では60名のオーストラリア兵捕虜が肺炎で死亡した。
1944
8月5日未明、オーストラリアのカウラ市の捕虜収容所では、1,104名の日本兵捕虜が「戦陣訓」の「生きて虜囚の辱めを受けず」の軍律を守り、集団自決的出撃事件を起こし、看守4名を殺し、231名が死亡した。
カウラの住人、グラハム・アプソープ氏によると、日本兵墓地は、はじめて日本兵が葬られた1944年に開設されたようである。以下、彼のメールを引用する。
「日本兵墓地はいろいろな段階を経てきた。第二次世界大戦直後、オーストラリア帰還兵連盟に属する元兵士が墓の世話を始めたのは1948年頃のことである。20,000名のオーストラリア兵が日本の捕虜として捕らえられ、その内8,000名が虐待・待遇軽視で死亡した。1950年代後半、豪日政府、カウラ市議会を交えた交渉により次のことが決定した。日本兵墓地は改修され、そこにはカウラで亡くなった兵士の遺骨のみならず、大戦中にオーストラリアで亡くなった日本人すべての遺骨を納めること。それらの中には北オーストラリアを空襲し撃ち落とされたパイロットや、インドネシア、トンガ、ニューカレドニア、オーストラリアからの被抑留者も含まれる。」
1945
6月、アメリカ・イギリス・オランダ兵捕虜、約400を直江津捕虜収容所に収容。
8月、原子爆弾が広島、長崎に落とされる。
8月15日、日本が無条件降伏受諾。
捕虜全員の口述書をもとにチズルム大尉が戦犯調査を開始する。
8月28日、B29が飛来し収容所に救援物資の入ったドラム缶を投下、人、家屋に被害が出る。
9月5日、捕虜帰国第1次472名。9月6日、第2次(9/6)224名。
1946
5月3日、極東国際軍事裁判所開廷。
1947
戦犯指名者刑務所へ入所する。
2月3日、直江津軍人関係の極東国際軍事裁判判決下る。絞首刑2名、無期禁固刑3名、35年8か月禁固 刑1名、17年禁固刑1名、2年禁固刑1名(確定)
1948
8月20日、直江津関係、軍属7名の判決下る。絞首刑6名、45年6か月半1名(確定)
12月23日、直江津関係軍人1名法務死。
1949
8月20日、直江津関係軍属4名法務死。
9月3日、直江津関係軍属2名法務死。直江津関係軍人1名法務死。
アメリカ人元捕虜R.B.クラフォード、友人2名と竹田保蔵宅訪問。
1950
軍事裁判終了。
1965
元捕虜バーニー来越。ステンレス工場訪問。関係者と歓談する。
1978
T.M.リー氏より手紙と図書が直江津高校に届く。高校には英語が分かる教師がいるだろう、との思惑による。
1979
オーストラリア、カウラ市に日本庭園、日本文化センター完成。
1980
T.M.リー氏より2回目の手紙と図書が届き、関係者との交流が始まる。
1982
T.M.リー夫妻、上坂冬子の案内で来越、墓参り、収容所跡地訪問、英会話グループと交流する。
1983
元捕虜J・ミユーデイー氏来越。英会話グループと高校生の案内で市内各所訪問する。
小林勉氏が「直江津捕虜収容所」を新潟日報に3回連載する。
1986
上坂冬子著「貝になった男」新潟日報に連載後、文芸春秋社より出版される。
1988
5月19日、直江津捕虜収容所跡地で、カウラ豪日協会主催の慰霊祭が行われ、元捕虜代表F・ホールが記念として「ユーカリの苗木」3本を市役所前庭に植樹、死没者を記念する「銘板」を上越市に託した。この銘板が後年、平和記念公園のオーストラリア側記念碑に埋められる。
1993
7月21日、「記念碑」建立を目的とする7名の発起入会が発足、活動を始める。
8月21日〜22日、発起入会が「よい映画を観る会」の映画会場で趣旨と寄付を訴える。
8月25日、発起入会に上越市から「銘板」のあることが知らされる。
8月26日、発起入会が「銘板」と「オーストラリア捕虜死亡者名簿」を確認。
12月17日、発起入会が趣意書を作り市に「記念碑」建立についての要望書を提出。
1994
1月15日、岡本銕二が「平和友好像」の制作を快諾。
8月15日、カウラ市挙行の死没日本兵50年慰霊祭に「建てる会」2名参加。
8月15日、発起入会を拡大して「直江津捕虜収容所の平和友好記念像を建てる会」(以下「建てる会」と略称)準備委員会を結成し、会則案、役員、実行委員などの組織案をつくる。
8月20日、「建てる会」設立総会開催。
市と上越市町内会長連絡協議会の協力で「町内会募金」ほか各種の募金活動を始める。
11月、直江津小・中・高校文化祭で「建てる会」の資料を展示する。(11月)
12月〜翌年1月、上越市との共催によって市の図書館ギヤラリーで「資料展」を開催する。
1995
2月10日、「戦後50年を迎え平和祈念事業を考える懇談会」が上越市に捕虜収容所を記念する「平和公園 造成」の提言を提出。
3月8日、「建てる会」が友好像台座に2つの「銘板」をはめ込む方針を決定。
3月13日、上坂冬子「正論特集、謝罪・不戦決議を考える」(産経新聞)を発表。
3月15日、「建てる会」が」者会見で「戦犯の銘板」建立は努力中との実情報告を行う。
4月8日、跡地の地主が趣旨に賛同し、土地問題に展望が開ける。
4月27日、第1回遺族会を高陽荘にて開催する。
5月10日、豪日交流基金事務局長ら実情視察に来越。
5月14日、「友好は平和への道」早乙女勝元氏講演会を文化会館にて開催。
オーストラリア、モーニングヘラルド紙(3/29)が「2つの銘板並立」に元捕虜が反対し、「友好像を建てる計画が暗礁に乗り上げる」と報道に関連し、元捕虜F・ホール氏から「銘板並立では記念碑除幕式には出席しない」との書簡が届く。
5月25日、上越市が跡地地主との間で土地売買契約を交わす。
6月14日、「建てる会」は、2つの「銘板碑」を別に建てることに計画を修正。ただちにF・ホール氏に書簡を送り理解を求める。
7月2日、第2回遺族会開催。銘板に氏名を記入をすることの是非について審議、8・15平和友好記念の集い参加を決定。
7月4日、市との話し合いで、市有地に宗教性のある「銘板碑」を建てることの法律上の問題が検討されたが結論に至らず。
7月10日、元捕虜J.ミユーデイー氏が、オーストラリアのテレビ局の取材に同行して来訪。愛と平和のために「和解」を提唱。遺族と握手。この日F・ホール氏からも「記念事業の趣旨を了解し訪日する」との書簡届く。
7月11・25日「豪州側だけの記念碑とは?」という意見、批判が寄せられる。
8月6日、第3回遺族会で法務死者記念碑の碑文「平和の空に8つの星」が決定。
8月12日、市との話し合いでは、2つの追悼碑の建立場所は結論を持ち越す。
8月15日、終戦記念日に「収容所跡地」で遺族も参加して「平和友好記念の集い」を開催する。
8月22日、「建てる会」の公園整備、追悼碑設置などの要望を市と協議。次のとおり決定。
1.跡地を過去(2つの追悼碑)未来(平和友好像)のゾーンに分ける。
2. 2つの「追悼碑」の土地は「建てる会」が買い取る。
3. 平和記念公園は市が造成する。
4. 除幕式・追悼式は「建てる会」が主催する。
8月22日、石塚洋子氏がカウラの「青少年の集い」に参加する。元捕虜に平和記念公園開園式への参加を呼びかける。
オーストラリア大使館より大使ほか4名出席の通知が来る。
9月5日、オーストラリア大使館の公使ら来越する。
9月17日、第4回遺族会開催。除幕式・追悼式の参加について打ち合わせ
10月5日、外務省から出席の通知。
10月8日、2つの追悼式、平和友好像除幕式を挙行する。


「太平洋に架ける橋」について
太平洋に架ける橋
「太平洋に架ける橋--捕虜収容所の悲劇を越えて」

編集・発行:
直江津捕虜収容所の平和友好記念像を建てる会
1996年10月発行
¥1,000

平和公園に至るまでの軌跡、開園式当日、直江津捕虜収容所の悲劇等が掲載されている。
購入ご希望の方はメールにてご連絡ください。


「太平洋に架ける橋--捕虜収容所の悲劇を越えて」
目次より

第一章 悲劇の地が平和公園に
第二章 平和と友好の歩み
第三章 感動の記念式典
第四章 恩讐を越えて
第五章 直江津捕虜収容所をめぐって
第六章 戦争のもたらした悲劇
第七章 早乙女勝元氏の講演
終章


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