捕虜収容所で作った

直江津の詩三編の朗読

(八木 弘・上越タイムズ3月30日号「便り」より)


 
「ウィズヘッドバウドダウン
アイマーマーラーストプレア...」

覚真寺の本堂にミューディさんの声が朗々と、屋根を打つあられの音や戸を揺する北風の音にもまして高らかに響き渡る。

Mr. Mudie and Ms. Odake at Kakushin-ji
覚真寺における詩の朗唱

英詩の第一連の朗唱が終わると、大嶽里恵子さんが訳詩の第一連を読む。

「頭を垂れて、最後の祈りを私はつぶやく
この異国の土地に残す人々に
彼等の肉体は虐待と苦労で消耗し尽くし
もはやかぐわしいオーストラリアの空気を吸うことはない」

昨年十二月クリスマスカードに添えられた奥様代筆の手紙には、目も脚も不自由になったのでもうニ度と直江津の地を踏むことはないであろうと書いたミューディさんが、いま半世紀余り前に捕虜収容所で作った詩を朗唱じているのだ。

元捕虜とその家族の訪問団十二人の来越が決まったとき、対訳詩集『碧空のもとで揺れるユーカリの木に』の詩のニ、三編を作者に朗読してもらうことを考え、十九編の中から題名にNAOETSUの文字がある三編を選んでおいた。

一行が直江津に到着した三月二十五日の夜、今回の企画を推進した上越日豪協会のメンバー十数人と内々の晩さん会をもったときは「直江津の五月」をあてた。

ミユーディさんは朗唱に入る前にソネット(十四行詩)の詩形についで簡単に説明する。視力が減退した父のために次女のジェニーさんが最初の一行をささやくと、それを呼び水に詩を暗唱し始める声の力強さは、とても九十三歳のものとば思われない。マイクを使わず広い部屋の隅々にまで響き渡る。

「冬の雪のなごりがはるかな山の斜面に
まだ残っている
しかし春は暖かい日々をもたらし
僕らに明るい希望を与えてくれる」
(訳詩朗読=横関レイ子さん)

二十六日の午前、冒頭に掲げた「直江津収容所で亡ぐなった六十名の将兵に捧げる別離の詩」を朗唱する前に、ミューディさんば、当時の覚真寺の住職藤戸円理さんが親身になって捕虜の世話をした思い出を語る。

「暗い日々にも、彼等の疲れた、しかしひるむことのない眼は
輝く砂地とゆるやかにうねる平原に
やさしい南からの雨がくちづけする小麦畑に
碧空のもとでゆれるユーカリの木に、向けられたのだった」

Poem Read at the Reception
26日のレセプションで読まれるミューディーさんの詩

原詩が三ないし四音節から成る短い行二十行で一連を構成し、全六連百二十行にわたる、この詩集の中でも一番長い詩には、訳者である私自身の格別の思い入れがある。

一つには、父の生まれが黒井のせいもあって、幼時から見慣れた戦前の直江津の港や浜の風景が詠み込まれているからである。

「川を上って来る
強力な小さい
引き船のエンジン音が
聞こえる
中国の石炭や
キラキラ光る塩を
いっぱい積んだ艀のエンジンが止まる...」

さらに、昭和一九年七月から二十年八月まで直江津駅から荒川橋を渡り、収容所のわきを通ってステンレス工場へ勤労動員で通勤した、旧制中学三・四年時代の思い出と重なるからでもある。

「朝早く
通りをとぽとぽと
長い行列が
歩いて行ぐ
少女たちはニ列縦隊で
少年たちもニ列縦隊で
あたりはカランコロンと
下駄の音でやかましい...」

そして、なによりも作者ミューディ中尉が虜囚の宿から敵国の庶民、特に働く女性に注ぐあたたかいまなざしに感動したからである。

「女は働く
至る所で
いつもニ役を
こなしながら
時には重い荷車を
引きずる彼女らは
獅子の心を持った
人間の馬だ...」

この晩は、作者自身の朗唱ではなく、原詩を東京在住の長女リネットさんが、訳詩を田辺よし江さんが朗読した。各連ごとに入れ代わる豪日二人の女性の息がぴったりと合って、いよいよ第四連に入る。りネットさんがにっこりとほほえみ、声のピッチが一段と上がる。

「バットウェンショピング
ドンファショウ
ゴージャスカラードノキモノ」

「けれど、買い物のときには
おめかしをするのだ
目のさめるような
着物を着て」

半世紀以上前に敵国の収容所で作った自作の詩を、その収容所のあった直江津の地でわが子が朗読している---最前列でじっと耳を傾けるミューディさんの胸に去来する思いは、何であったろうか。