Subject: [jasj-ml2:0343]元直江津捕虜孫からのメール(英文長文)
Date: Sat, 14 Jul 2001 16:52:20
皆さん、こんにちは。近藤です。
4月のヘレン同様、元直江津捕虜のお孫さん、アダムからメールがありました。ヘレンと同様の立場ですが、彼はアボリジニー。収容所だけでもたいへんな経験であるにもかかわらず、生還したお祖父さんにはアボリジニーであるが故の苦労もあったようです。
直江津には彼のお祖父さんとその兄も一緒に収容されていました。残念ながらお兄さんはロバートソン中佐に次いで2番目に亡くなられました。工場で事故に遭い、悲惨な最期でした。
石塚さん一行が8月2日、ロッド宅で開くパーティーにはジャック・ミューディーさん、ジョン・クックさん、ボス・バーバーさんら元捕虜ははじめ、その家族も参加されます。私は彼とのメール交換を通して、すでにアダムをミューディーさんやロッドと同様、私達の「身内」であるような気がしてきました。それで、彼に8/2のパーティーに参加するように進めたのですが、ハッキリとは書いてありませんが、彼は乗り気ではないような感じ。強制するわけではないので、それはそれでよいのですが、これを契機にぜひ、彼とも私達がロッドやマージョリー、ジェニファーやヘレンと同様に接していけたらば、と切望しています。
以下、アダムと私のメール添付します。私は彼のメールに感動しました。アダムが出したメールに私が返信した、ただそれだけのことを聞いて彼のおばあさんは泣き出したそうです。何故?とずっと考えてしまいました。こんな些細な交流でも感激してくれる人がいる、というのはうれしい限りです。「ささやかな交流」されどそれにできること、それにしかできないこともあるのです。では。
日時:2001年7月10日
ヨシへ、
メールを受け取り、大変嬉しく、感激しました。私のおばあさんも同じように感激しました。彼女は元気で日本語も少し話します。おじいさんから習ったのでしょうが、あまりうまくはありません。
まず、ヨシ、心からの招待をありがとうございます。
土曜日に3時間かけてシドニーからキャンベラへ車を走らせ、戦争記念館を訪ねました。叔父のジョージ(ジョージ・ヘンリー・ビール)は正しくリストに記載されていました。しかし、私が買った本「直江津捕虜収容所看守裁判」には、おじいさんのフレッドが収容所で死亡したことになっています。同じ間違いはガネダー記念館にもあります。カネダーは二人の兄弟の出身地でカウラからそう遠くはありません。
ヨシ、私が考えるに、二人がアボリジニー兵であったことがこの取り違えの元ではないでしょうか。ここオーストラリアでは1951年に初めて、先住民兵士が認知されたのです。新兵徴募の対象はヨーロッパ系白人でした。晩年、おじいさんは収容所での話をたくさんしてくれましたが、今日に至るまで何一つ記録として残ってはいません。今、こうして収容所の問題を調べているのは私自身が子供を持ったときのためです。私は大叔父さんやおじいさんを大変誇りに思います。戦争を戦ったという理由だけではなく、主にそれ以外の生活上の問題−−アボリジニーであること、(その事実を)受け入れていたこと、そして晩年20年間にわたって悪化した健康−−と常に戦っていたからなのです。
ヨシ、あなたのメールアドレスはホームページで知りましたが、今に至るまで日本に平和記念公園があることを知りませんでした。私たち家族はそのような最新情報を常に見聞きすることをほとんどしなかったからです。おじいさんは収容所に関して豊富な知識を持っていましたが、もはやその話を聞くことはできません。恨みを抱くことはありませんでしたが、兄が亡くなったことはおじいさんのそれ以降の人生に大きな影響を与えました。こう言い切れるのは、おじいさんは私を生後4日目から育ててくれたからです。私は現在29才でシドニーの郊外、ドゥーンサイドと言うところに住んでいます。そこからさほど遠くないセント・メアリーズと言う場所におばあさんはいます。あなたと連絡が取れたと言ったら、彼女は泣き出しました。
ヨシ、あなたからメールをもらい大変嬉しく思います。いつかきっと会いましょう。もっと早く日本と連絡を取るべきだったと後悔しています。おじいさんが生きているときにすべきだったと。おじいさんは1992年8月16日に亡くなりました。ヨシ、家族と私自身のために、あなた方が成された業績に感謝します。この偉業は私と同じ境遇の人々が持つ悲しみの隙間を埋めてくれるでしょう。そして、いつか私の子供達もそれによって恩恵を受けるのです。ちょうど私がそうであったように。
次の機会まで
あなたの友人、アダム・ビール
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