八尾市立歴史民俗資料館 河内木綿の部屋(3)
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(3)−1江戸時代の綿作り
(『綿圃要務(めんぽようむ)』より)
<1>綿の種を蒔く



綿は一年生で、
河内では八十八夜ころ(現在の暦で5月初旬ころ)に種を蒔き、
夏祭りころ(新暦7月下旬ころ)に花を咲かせます。
そして、
お盆(新暦8月中旬)のころから、およそ一か月かけて、
木の下の方から順々に綿が吹き、 収穫されました。

以下、江戸時代後期の農学者、大蔵永常があらわした畿内近国の綿作りに関する書物(『綿圃要務』)から、
当時の 綿作りの一年を紹介します。

なお、原本の挿絵は無色ですが、わかりやすいように、色をつけました




<1>綿の種を蒔く





綿の種まきは、八十八夜前後(現在の5月初旬)前後から夏至前(6月中旬)頃、地域やその年の気候をみはからって、蒔かれました。
ただしあまり遅いと、実が少なくて、木ばかり茂ってしまうので、注意が必要です。

種を蒔くとき、麦の作ったあとにするのがよいと考えられていました。地域によって異なりますが、ときには、麦刈り前に、その根元に蒔く場合(図左)もありました。なるべく早く収穫できるようにという工夫です。

また麦を刈り取ったあと、麦の株を残して蒔く場合もあります。あるいは、地ならしして蒔く場合もあります(図右)。





河内国の「半田(はんでん)」


河内国辺にて、田の土をかきあげ、
木綿をつくり、ひくき溝へ稲をつくる。

是を半田といふ


河内地方の中部(八尾周辺)では、水田の中に畑をつくり、綿の種を蒔く方法がありました。
これを、
「半田(はんでん)」あるいは「嶋畑(しまばた)」
などといいます。河内の綿作りの特徴の一つです。


【本文抜粋】

河内国綿作りやう

河内国若江郡八尾・平野辺は其国の中程にて、大坂をはなるること二三里程東に当れり。土地は砂真土にして、所々にしめ土とて、下には堅き土あり。平野辺(大坂より二里東)辺は、是も砂真土にして、所/\左程の深田にはあらざれども、泥がちの湿気の田ありて、半分(はんだ)(半田の図奥にあり)と号して、盤に香を盛たるがごとく、壱畦は田、壱畦は畑にして、土をかき揚げたる方に綿を作り、低き方に稲を作るを、掻揚田(かきあげた)ともいひて、其田の処に水溜れども、畑はよく乾き、殊に田土を揚げたるものなれば土肥て、外の肥し半分入て綿よく出来、水田の稲も一段見事に出来るなり。(以下略)






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