宇宙の謎  

宇宙の謎宇宙開発の歴史>糸川英夫



 

日本宇宙開発の父 糸川英夫教授


 日本の宇宙開発というとちょっと前までは、アメリカやロシアに比べて大分遅れたイメージがありましたよね。どうしてなのでしょうか?

 実は、戦争と深い関係があります。日本は第二次世界大戦に敗戦していますね。ですから、軍事転用の恐れのある航空関連の研究開発が禁止されていたんです。

 これが7年ほどの間続きます。そして、ようやく研究が解禁されるのが1952年。

 そんな中でいち早くロケットの研究を開発し始めたのが糸川英夫教授でした。



 糸川英夫教授は1912年の生まれで東京帝国大学を卒業後、中島飛行機に努めていました。中島飛行機といえば、戦時中、全体のおよそ半分もの戦闘機を製造していた会社ですね。そして、戦後は東京大学教授となり、その東京大学にて東京大学生産技術研究所内にAVSA研究班というのを組織しロケットの研究を始めたのです。

 でも、当時は資金不足などで順調ではなかったようです。パナソニックの創業者。松下幸之助にも協力を求めるのですが「そんなの儲からんでしょ。儲かるようになるのは50年も後だ。」と断られたといいます。

 そんな中でも何とかロケットと糸川教授は作り上げます。大きさは23センチメートルほど・・・。まぁ、超小型ロケットですね。これは、後に「ペンシルロケット」と名付けられました。

 ・・・が、空高くロケットを打ちあがたところで、そのロケットを追跡する物がないんですね。見失っちゃうわけです。そこで、当時は水平発射実験を繰り返していくことになります。

 ようやく斜め上方向に打ち上げできるようになるのが1955年。秋田県の道川海岸で発射実験が行われました。

 そして、この実験は見事成功!高度600メートルに到達することとなりました。

 ちなみに小惑星探査機「はやぶさ」が到達した「イトカワ」。このイトカワは糸川英夫教授にちなんで付けられた名前なんですよ。