アインシュタインといえば、1905年に発表した特殊相対性理論、また1915年〜1916年に発表した一般相対性理論で有名ですね。
1921年には42歳でノーベル物理学賞も受賞しているすごい人です。
しかし、そのアインシュタインも3歳ごろまでほとんど言葉を話せず、小学生に入学しても教師からアインシュタインの知能は遅れているのではないか?と心配されたといわれています。
では、このアインシュタインの生涯について少し見ていきましょう。
アインシュタインが生まれたのは1879年。ドイツ南部のウルムという町で電気会社を経営するユダヤ人の家に生まれました。生まれたばかりのアインシュタインは、頭がいびつで角ばっていたといいます。その後、それは直ったものの、3歳ごろまでほとんど言葉を話すことができなかったため、両親はひどく心配したそうです。
小学校に入学したアインシュタイン。しかし、彼は嫌いな科目はまったく勉強せず、興味のあることだけに集中する子だったため、丸暗記を強要される授業などでは質問に答えないことも多く、教師らは彼の知能が遅れているのではないかと心配したといいます。
高校生になってからも、その姿勢は変わらずギリシア語の勉強は完全無視。大学時代もフランス語や化学や生物は不合格となっています。暗記科目が本当に大嫌いだったようですね。
そんな彼が世界を変える論文を発表するのが1905年、アインシュタイン26歳の時でした。「特殊相対性理論」「光量子仮説」「ブラウン運動」に関する論文を発表します。
当時のアインシュタインはスイスの特許局で働いてしました。大学教授とかではなくお役所勤めです。1日のノルマを午前中に済ませて午後はこっそり物理や数学の本を読みふけっていたといいます。まぁ、社会人としては失格ですね。しかし、そのお役所の寛大さが天才を育む良い環境となっていたんですね。
まず、発表したのが「光粒子仮説」。これは、当時は「波」だと考えられていた光の正体が、本当は「粒」なんじゃないの?という研究です。まぁ、この辺りは後でじっくり説明しますが、当時は光は「波」であると考えるのが普通だったんですね。これを光は小さな粒であるということを「光電効果」を例にあげて説明したんです。
光電効果っていうのは、金属に赤外線という波長の長い光を当てても何も起きないのに紫外線という波長の短い光をあてると金属から電子が飛び出すという現象ですが、これは光が波であるとすると説明できないんです。ですから、光の正体は粒であり波長の短い光は粒1つに対するエネルギーが波長の長い光より大きいのだという説を唱えて光の正体を説明したんですね。
>光の正体は波なのか粒なのか?
さて、1905年の3月に発表されたのが「光粒子仮説」「光粒子論」ともいいますね。そして4月に発表したんが「ブラウン運動」の研究論文です。
これは、イギリスの植物学者ブラウンが発見した「水面に花粉を落とすと、花粉が勝手にジグザグの運動をする」という発見をなんでだろう?と研究したんですね。当時から分子という小さな物質が存在することは予想されていましたが、アインシュタインは、花粉が水の分子に不規則にあたるのでこのような現象が起こるのではないか?だったら、花粉の大きさとそのジグザグの動きから水の分子の大きさが割り出せるはず!と研究し分子の実在を証明することになるんです。この論文でアインシュタインは博士号を得ています。
そして、1905年に発表されたのが特殊相対性理論ですね。速く動くと時間の進みが遅くなるとか長さが縮むとか重くなるとか、まぁ、ちょっと常識から外れすぎていて理解が難しい理論です。
この相対性理論は、じっくり少しづつ説明していきます。
>アインシュタインの相対性理論
28歳の時には「固体の比熱の量子論」を発表。37歳の時に「一般相対性理論」を発表し時間と空間の概念を覆しました。
1919年の5月。アインシュタインの相対性理論が本当に正しいのかどうかを実験するためイギリスの天文学者であるエディントンはアフリカのギニアに向かいました。皆既日食により、アインシュタインの理論が本当かどうかを見極めようとしたんです。
当時の相対性理論はすでに認められてはいましたが、難解であり、証明するための実験もほとんど行われてこなかったので一般の人たちには半信半疑だったんです。
アインシュタイン曰く、太陽の近くに見える星は、太陽の重力によって光の進路が曲げられるため、本当の位置からは少しずれて見えるはずだ!これを実験するには太陽が見えている日中に観測しなければなりませんが、太陽がまぶしすぎて観測できません。ですから、日食の時を狙ったんですね。結果、星は確かにずれて観測され、ずれている角度も一般相対性理論の方程式で計算されたものと一致したことから世界中でその実験が伝えられアインシュタインは有名人となっていきます。
42歳で彼の業績は認められノーベル物理学賞を受賞します。受賞の名目は「光電効果の法則の発見」。相対性理論ではなかったんですね。
なんで相対性理論ではなかったのか?いろいろな理由はあるようですが、ノーベル賞は「人類に大きな利用価値をもたらすような物理学の発見」というのが受賞の条件であり、光速に近い世界でないと意味のなさない相対性理論では人類の利用価値をもたらすことはない。という意見があったようですし、当時のドイツ人がユダヤ人に対してよいイメージをもっておらずアインシュタインの代名詞である相対性理論による授与はドイツ人に対して面倒なことになると考えた人たちがいたという噂もあります。
何にしても遂にノーベル賞まで受賞したアインシュタイン。ですが、1933年、54歳の時、ドイツのナチスによるユダヤ人迫害から逃れるためにアメリカに亡命することになります。
1939年にアメリカ大統領フランクリン・ローズヴェルトに原子力の兵器利用の可能性を伝える手紙にアインシュタインもサインしました。
その後、1945年にアメリカによる広島、長崎への原爆投下されます。これを知ったアインシュタインは「Oh!Weh!」「なんと悲しい!」と叫んだといいます。
当時は、ドイツも原爆の開発を完成させるかもしれないという危機感がありましたからね。アインシュタインは、それならばアメリカもドイツより先に原爆の開発を急いだ方がいいと考え手紙にサインをしたのです。ですが、広島、長崎に原爆が投下されたのは、ドイツが降伏した後の話。
実際、アインシュタインらはドイツが降伏することがほぼ確定となった時点で原爆投下の中止を求める手紙に再びサインをしています。しかし、それが読まれる前にローズヴェルト大統領は亡くなってしまっていたんです。
その後、アインシュタインは核兵器の廃絶や科学技術の平和的利用を訴えた「ラッセル・アインシュタイン宣言」に署名。その1週間後の1955年4月18日。76歳の時に心臓病により永い眠りに就くことになりました。
生前の希望により、公の葬儀は行わず、12人だけのひっそりとした葬儀だったようです。遺灰は近くのデラウェア川に流されました。
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